武士道の第一歩

 

 人には皆、調和や平和を愛する優しい大和心があり、また発展や進歩を求める勇ましき大和魂があります。

 「人には皆、大和心、大和魂がある」、それはすなわち、「人には皆、侍精神があり、誰もが皆、武士道を歩んで行ける」、ということに他なりません。

 

 しかし現代において武士道を歩む者は少なく、そのために時代はますます混沌としております。

 

 もちろん時には厳しい言葉を発し、激しい行動を起こすことも大切ではあります。

 しかしながら、我々が考えるべきことは、他の人々の心をよくよく深く理解し、その人に心に届く言葉を発し、その人の魂を揺さぶる行動を起こすことに他なりません。

 なぜならそれが“真の優しさ”であるからです。

 

 “真の優しさ”とは、強さと勇ましさをその中に包含するものであります。

 なぜなら弱者が、強者に対して、ただ怯えることは“優しさ”ではないからです。

 たとえば、周囲の言いになり、自分の意見を何も言えないことは“優しさ”ではありません。

 もし、他の人々のために、何も激しい行動も出来ぬのならば、それは「義をせざるは勇無き也」を地で行くものに他なりません。

 

 このように“真の優しさ”とは、強さと勇ましさをその中に包含するものなのです。

 

 しかして強き者が、ただ自らの強さを猛り、己の勇ましさに驕って、弱き立場にある方々、苦しき立場にある方々に対して、慈愛の心を向けず、手助けせんとしないのならば、そこにまた義の心はなく、それは人間としてしての“真の強さ”ではないのです。

 己の腕力、金銭力、権力を誇りながら、しかしその胸の内に慈愛の心無くば、その者は、ただの弱者に過ぎないのです。

 “盛者必衰の理”から考えるのならば、驕れる者は久しからず、ただ春の夜の夢の如きもの、猛き者も終には滅び、ひとへに風の前の塵に同じものであります。

 

 “真に強き者”こそ、“真に優しき者”なのであります。

 

 よって武士道とは、優しき道であり、また少しも易しくはない道です。

 なぜなら武士道とは、優しき道であり、優れたる者にならんとする厳しき道だからです。

 

 “優”という漢字が、「優しさ」とも、「優れる」とも読むように、真に優れたる者とは、真に優しきものであり、真に優しき者とは、常に真に強くならんと精進する者のために、武士道という道は他に優しく、己には厳しい道なのです。

 

 しかし未だかつて、一人で強き者など、ただの一人もいないのです。

 どんなに猛き武者であっても、大軍勢に勝利したことなどないのです。

 三国志最強の呂布が、曹操に討たれたように、豪傑は英雄に勝てないのです。

 塚原卜伝、上泉信綱、宮本武蔵といった名だたる“天下無双の武者”であっても、残念ながら“天下無双の国士”には勝てないのです。

 無双の武者より、無双の国士にこそ、“真の強さ”があるのです。

 なぜなら国士には、国や民を治めんとする“真の優しさ”があるからです。

 

 しかして、またその国士無双の弱さをご覧なさい。

 二十九歳で斬首に遭った吉田松陰が、いかに強く、国士無双でありながらも、いかに弱かったことか。

 彼は己は信念を貫き通し、そして果てました。

 しかし彼の弟子たちは江戸幕府を倒し、明治の元勲となりました。

 彼自身は国士無双でありならが、いかに悲しき死を迎えたことか。

 

 吉田松陰は強かった。

 しかし弱かった。

 しかし国士無双であった。

 この矛盾を理解できねば、この矛盾を透過できねば、“真の強さ”など永遠に分からないのです。

 「腕力、金銭力、権力に“強さ”がある」と誤解し続ける者は、永遠に“真の強さ”が分からず、ひとへに風の前の塵に同じなのです。

 

 “真の強さ”が分からなければ、“盛者必衰の理”も分からないのです。

 “真の強さ”が分からなければ、“真の優しさ”も分からないのです。

 

 だから武士道とは、“真の強さ”の道であり、それは“真の優しさ”の道であり、それは優れたる者に成らんとする易しくはない厳しき道なのです。

 

 ご覧なさい。ソクラテスを。

 世界的に有名であるがゆえに、「国士無双」という言葉さえ当てはまらない偉大なる強き聖人をご覧なさい。

 彼がいかに強く、いかに勇ましく、そして優しく、しかして毒杯を煽って死した彼が、いかに弱かったことかをご覧なさい。

 彼を死罪に追いやった者は多かれども、しかしその者たちの名は誰もが知らず、しかし彼の名は世界の人々が知っている。

 果たして真に強き者は、死に追いやった者たちか、それとも死に追いやられたソクラテスか、どちらに真の強さがあったのか、この答えが分からなければ、“真の強さ”など永遠に分かりません。

 イエスの顔面を打ち、唾を吐き、釘で手を打ちこみ、十字架にかけた者たちの名は誰も知られども、しかしイエスの名は世界が知っており、どちらが真の強き存在なのか、その答えが分からなければ、“真の強さ”も分かりません。

 

 吉田松陰の名は多くの人が知れども、彼を斬首した者の名はあまり知られておらず、真に強き者とは、時代を超えていくのです。

 

 ゆえに武士道とは、時代を超えんと努力精進をしていく、優しくも易しくない厳しき道なのです。

 武士道とは、他に優しくも、己に厳しい道なのです。

 

 そして真に強き者というのは、孤独の中で独り強くとも、けっして一人ではないのです。

 真に強き者は独りであって一人ではないのです。

 

 「独りであって一人ではない」、この意味が分からなければ、人間は真に強くはなれません。

 

 真に強き者は真に優しき者であるがゆえに、たとえどんなに孤独であっても、必ず理解してくれる仲間が現れるのです。

 キリスト教会は、「地球を中心に他の天体が回っている」という天動説を唱えつつも、ガリレオ・ガリレイは「地球こそ太陽の周りを回っている」という地動説を唱えたために、牢獄につながれようとも、信念を曲げることなく、「それでも地球は回っている」と主張しました。

 およそ現代人の中で、どれだけが彼の主張を受け入れているか、どれだけ時間を空間を超えて、彼の仲間がいることか、たしかに彼は孤独を感じ、独りであったでしょうが、彼はけっして一人ではなく、多くの仲間がるののです。

 真に強く者は、独りであって一人ではなく、仲間がいるのです。

 だから、未だかつて、一人で強き者など一人もいないわけです。

 真に強き者とは、たとえ独りであっても、土地を超え、時代を超えて、必ず仲間がいるのです。

 真に強き者には、時空を越えた仲間が必ずいるのです。

 

 だから言うのです。

 「武士道を行くとは易しくない」と。

 なぜなら武士道とは、仲間を作る道だからです。

 武士道とは、同志に出会い、友情を深める道だからです。

 武士道こそ最強の道だからです。

 

 人には皆、調和や平和を愛する優しい大和心があり、また発展や進歩を求める勇ましき大和魂があります。

 人には皆、侍精神があり、誰もが皆、武士道を歩んで行けます。

 しかし現代において武士道を歩む者少なく、よって時代はますます混沌としております。

 その責任を自らに問うて、真に優しく成らんと精進していくしかない、それが現代における武士道の第一歩でしょう。

 

 何かのご参考にしてくだされば、幸いです。