手垢にまみれた「放送禁止」という言葉を使うだけにとどまらず、「専門」とまで銘打って開設した「モダンフリークスTV」。
8月14日放送の生放送『進捗ナイト』で死体写真家の釣崎清隆が言った、
「放送禁止っつったって、できるんだよ!」
という言葉がまさに芯を食っているのだが、その正体の大半は商業的価値のもとに判断される自主規制なのだ。
残虐行為に新たな地平すら与えかねない現在進行形のメキシコの麻薬戦争を報道しない理由など、本来あるはずがない。しかし放送者たちは自らが見たくない=商品価値がないという理由を「子供に悪影響を及ぼしかねない」という言葉で表現するのだ。
ということで「モダンフリークスTV」では放送禁止の名の下に弾き出された表現者たちを専門にピックアップしてゆくのだが、発信責任者である筆者がいったい放送禁止をなんと心得るか。そのくらい書いておかねば、ということで今回の第1号である。
当たり前にも程があるという話だが、かつて、芸能はテレビの外にあった。
撮影所に陣取った銀幕スターたちはテレビドラマに出る同業者たちを見下し、大衆演芸場の芸人たちはテレビ出演を「芸が荒れる」と忌み嫌った。
ちょうど演芸場とテレビの過渡期に活躍し、テレビ芸人の走りでもある上岡龍太郎はテレビの《いい加減さ》を見極めて転身を図った数少ない演芸小屋発のブラウン管スターであり、勝新太郎は映画のような革新的な映像の作り込みをテレビドラマに持ち込み、その黄金時代を築いた役者である。
彼らのような、いわゆる《大人ウケ》する演者が、テレビからいなくなったのはいつ頃からだろうか。誤解を恐れずにいうならば、減収と自主規制に苛まれた現在の地上波テレビに、大人が見るべきスターは存在しない。では彼らはどこにいるかといえば、テレビの外に棲息しているのである。《放送禁止》の存在としてーー。
ところで、最近よく耳にする《放送禁止》という言葉だが、そのフレーズ自体が耳慣れてきているという現状ははそのまま、現在のテレビ放送のカバーする範囲の狭さと言っていいだろう。
しかし実際のところ《放送禁止》の概念は、酷く曖昧である。敢えて文字にするなら「放送しちゃダメそうなもの」といった程度か。以前は幼児の男性器はテレビでオンエアされていたが女性器にはモザイクがかかっていたことと、最近では男性器にまでモザイクがかかっていることに、法的なガイドラインなどない。
つまり、自主規制である。
例えば、昭和三十年代の国民的人気番組だった『てなもんや三度笠』に白木みのるが出演できても、現在も精力的な活動をしている世界一小さなマジシャンことマメ山田がテレビで活躍したという話は聞いたことがない。
恐らく身長はほぼ同等、では芸の力量差かといえば、そうでもなさそうだ。なぜなら、現在もマメ山田は多くの映画、舞台ではその希有な個性で引く手あまたなのだ。
当然のことだが、《小人症》と呼ばれる人々は今も昔も存在する。しかし、現在のテレビの中には存在しないのと同義だ。
地上波テレビの自主規制のひとつの原因として、2000年辺りから顕著なのが、インターネットによる映像のアーカイブ化である。YouTubeに代表される動画投稿サイトは、制作者、放送局にとって裁判所と化している。
かつては一部のマニアたちが録画していただけのお宝映像がほぼ恒久的に共有化され、かつてのように「放送=垂れ流し」というわけにはいかなくなったのだ。そうなれば、制作者たちが萎縮するのは自明の理である。
しかし、それにしてもこの自主規制の嵐の前では、新たな才能を囲い込むことなど不可能に近い。
昨年の秋頃、テレビでも見かける増谷キートンという芸人が韓国のテレビでフィギュアスケートの浅田真央のモノマネをした結果、YouTube経由で日本にもその映像が紹介され、《反日芸人》の烙印の元にネット上で激しい断罪が起きた。いわゆる、《ネトウヨ》ネット上の右翼による《炎上》である。
ネタの内容は浅田の歪んだ瞬間の顔をスローリプレイでモノマネするという、まぁ挑発的なものではあるが、これでご本人の怒りを買うくらいなら、岩崎宏美にヒット曲『シンデレラ・ハネムーン』を歌えなくさせたと言われるコロッケのモノマネなど、いくら命があっても足りなかっただろう。
問題は、圧倒的な技術とくだらなさで、ご本人たちにも認めさせることができたコロッケに対し、増谷にはそのチャンスの欠片も与えられなかったことだ。
かつてコロッケにそれを許した放送メディア、社会は今はもう存在しない。
芸の表面を、単純な感情に結びつける輩が発言力を持ってしまった現ネット社会の狭小さを丸出しにしたエピソードである。
そして、その後を受け、さらなる炎上をみせたのが地下芸人の殿方充である。
YouTubeにアップロードされた、「一見して天皇を感じさせる風貌、言葉遣いの人物のスピーチ」という恰好の攻撃対象を見つけたネトウヨが、先の増谷キートンの時と同様か、それ以上の《炎上》となって殿方をネット上で吊し上げた。
それはネット上での糾弾に留まらず、殿方が定期出演していたお笑いライブへの抗議デモにまで発展した(9月29日開催予定だった『苦肉祭』は右翼団体「在特会」による抗議活動のために中止)。
ちなみに、実在の著名人を匂わせるキャラクターと完全にアウトな下ネタという組み合わせは、殿方充が十年以上にもわたって続けてきた芸風である。
殿方は、自分の笑いのためには誰だって使うし、そのテーマ選びにこれといった主義主張はないのが、ファンにはわかる。さらにいえば、ファンであっても笑うのをためらわれるほどのえげつなさこそが、殿方のネタの真骨頂でなのある。
そして、そんな笑うことすら躊躇われるような笑いは、テレビの専売特許だった時代もある。
立川談志、ビートたけしの両巨星は言うに及ばず、タモリの暗黒面など、今見ても相当な理解力を要する。しかし今の地上波は、「これは笑っていい」「ここが笑うところ」と、テロップ付きで丁寧に検品された笑いばかりだ。
他方、《放送禁止》には別の被害者たちも存在する。
ビートたけしとその弟子たち、さらには稲川淳二らによって1990年代に全盛期を築いた『体を張った笑い』である。
その過剰で危険な演出は、コスト面・安全面の両面から、お茶の間から姿を消しつつある。ダチョウ倶楽部・出川哲朗の細々とした専売特許になってからもう十年以上は経つだろう。
しかし、テレビとは全く関係のないところでその血脈は流れ続けている。
かつてはテレビで体を張ってきた芸人の代表格=電撃ネットワークは、今ではライブ中心の活動を送っているが、そのリーダー南部虎弾をして「アイツには敵わない」と言わしめたのが、世界唯一の虫喰い芸人こと佐々木孫悟空である。
あらゆる昆虫を生体のまま喰らう21世紀のNG無し芸人が(先日の生中継『佐々木孫悟空スペシャル!!』では生きたセミを丸呑みした!)、その道のトップであることに異論を挟む者などいないだろう。
そして同時に、彼がテレビに出られると思う者もまた、いないだろう。
現に、数年前に深夜帯に出た際は大部分が“消し”の入ったものとなっていた。確かに、生きた虫をそのまま囓り食べる様はテレビどころか、お笑いの範疇を明らかにはみ出している。どんな血でもNGといわれる現在の状況では、生き血を滴らせて海中生物を食べる男など必要があるはずもない。
さらに難解な例を挙げれば、宗教という無条件の《放送禁止》を覆そうとしているのが、元氣安という役者・芸人である。彼は笑いの宗教による世界平和を本気で目論む「おいおい教教祖」として、変態的でトホホな儀式をところ構わず行なっている。ご丁寧に、バンド活動までして熱心な布教活動に勤めているのだが、世界的に見ても明らかなタブーである「宗教」を笑いに適用し、今後テレビで活躍するなどという可能性はあるのだろうか。近年の急激な減収に悩む民法メディアは、ラジオ、テレビともに創価学会などの宗教関連企業の広告を採用し始め、自ら作った不文律をあっさりと覆しつつあるとはいえ、変態教祖をテレビで拝見できる日はさすがに遠そうではあるが……無いとはいいきりたくはないものである。
というわけで、長々と説明してきたが、「モダンフリークスTV」は、放送禁止で終わらせるにはあまりに惜しいパフォーマーたちを紹介するのが主旨の放送局である。《放送禁止》の枠など、時代とともに無責任な変化をみせる一時的なラベルでしかない。もはや、教育装置としてのテレビの時代は幕を閉じただろう。
見方によっては、自主規制全盛の今こそ、マイナー・メジャーの概念を取り払い、真に素晴らしい才能を自らで探す好機なのである。
テレビという《放送可能》の箱にこだわり続け、いま本当に見るべき才能を逃す愚を冒すことないよう、重ね重ね注意してほしい。
そして、本メルマガでは今回説明したような地下芸人系の記事もメインコンテンツのひとつである。一口に地下芸人といっても目的や手段はあまりにも異なる彼らであるが、個人的には、誰も発信しないにしてはおもしろすぎる人種であると確信しているので、せめてここでは豊かすぎるスペースをとって紹介してゆく。
福田光睦(Modern Freaks Inc.)
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