その日、崇は結局来なかった。彼がいないとやり繰りは難しいのだが、幸いいつもに比べてオーダーは少なく、亮介と二人でも仕事はこなすことが出来た。
営業が終わり、暗くなった店内で母親と差し向かって酒を飲む。席上では離婚を踏まえたこれからの予定について話し、そして、弟達の話となった。
崇は末っ子だけれどもしっかりしているから、今後もなんとかなるだろう。しかし、次男の優はどうするのか。家庭内がごちゃごちゃとしてから、部屋にひきこもってほとんど出て来ようともしない。
そんなに深刻な話かな、と、むしろせいせいした気持ちでいる僕などにはちっともピンとこないのだが、父親の仕事を手伝ったりして、幼い頃から父親に近かった彼は、僕などには想像もつかないような苦悩があるのかもしれない。
「まあ、自分で何か考えるでしょ。俺達だって、他人のことをあれこれ考えているような状況じゃない。それより、今日崇は、欠勤の連絡をする時、何て言ってたの?」
「それが、また変なことに巻き込まれたらしいのよ」
と母親は顔を曇らせる。
聞くと、子供の頃にからかっていた相手が暴力団員になって、脅されているのだと言う。
「だから友達の家に泊まるんだって。警察に相談してなんとかしてもらうそうだけれど、待ち構えてるかもしれないから、しばらくは家に帰れないって言ってる」
「それはまた大事だね」
「まったく、いやになっちゃう」
「因果応報だから、仕方ないんじゃないの。でも、そういう話って、現実にあるもんだね」
僕が笑うと、母親はため息をつく。
しかし、よく考えて見れば他人ごとではない。
家に帰れないということは、店にも顔を出すことは出来ないということだ。それはすなわち、厨房での僕の負担が増えるということを意味するのだ。そういうわけで、翌日は本来休みであったのだけれども、急遽出勤することとなった。
一日をかけてサイトの文章を考える予定だったので、調子が狂ってしまう。実際のところ、毎日のくだらぬあれこれよりもインターネットの文章の世界の方が、僕にとってはリアリティがあるのだ。なのにこうして忙殺されてしまうのは不本意だ。作業をしながらもインターネットのことばかり考えて、そうして一日の仕事を終えた。
崇はいつまで帰って来ないのだろう? これが続く限り僕は毎日休みなく出勤することになる。自分の時間が持てないというのは苦痛だ。警察と相談して、相手の暴力団員を捕まえる算段を練っているらしいが、それを実行するのはいつなのだろうか。
崇と連絡をとらなければと思いつつ、疲労で重い足取りを実家に向けると、駐車場のところで車に乗り込もうとしている優を見つけた。
普段部屋に引きこもっている優を、家の外で見かけるのは久しぶりである。
「どこか行くの?」
と声をかけると、
「悟君? 仕事終わったの?」
「うん。こんな時間にどこへ行こうっていうんだよ」
僕は顔にたかる藪蚊を追い払いながら言った。駐車場は雑草が生い茂り、こうして暑い季節になると小さな羽虫が大量に発生する。
「あいつをぶっ殺しに行く」
「え」
「携帯にかけてきて、書類を届けろって、住所を教えて来たんだ。ふざけやがって。殺してやる」
「あ、ちょっと待って。着替えてくるから。それなら、おれも行くから」
優が殺すと言っているのは、間違いなく父親のことだ。冗談など言わないこの次男の言葉であるから、本気でそのつもりなのだろう。家を出て、僕や母親に隠している住所を、この優にだけこっそり伝えたのは、父親に優を見くびる気持ちがあったからに違いない。そして今後も優を都合よく利用してやろうというつもりがあるに違いない。優もそれを感じて、激怒しているようだ。
僕は仕事着の作務衣をTシャツとデニムパンツに着替えて来ると、優が運転席に座る車に乗り込んだ。
今僕は優の気持ちに同調するような態度を取っているけれども、もちろん彼のように怒っているのではなく、その殺害を止めるのが目的である。そして、出来れば暴力沙汰にもしたくない。なんとか上手く間に入って、彼が父親に手をあげないで会話が出来るように済ませたかった。
助手席に座って、シートベルトをつけようとすると、手に硬いものが触れた。引っ張り出してみると、それは家に置いてあったはずの木刀である。僕は苦い顔をして、もとの場所に戻す。
優は車を発進させる。父のアパートまで、十五分ほどだと言う。
優は、僕や崇とは見た目も性格も全く違って、同じ血をひいた兄弟とは思えない、というよりもむしろ同じ人種とは思えない。背はさほど高くはなかったが、幼いころから本格的に柔道に取り組んでいたために骨格や筋肉が発達し、横幅と厚みは僕らにはないものがあった。体を鍛えるのには、特有のこだわりがあるようで、今回の件があって部屋に引きこもるようになったあとも、そこで腕立てや腹筋、バーベル運動などでトレーニングをしていたらしい。そして、僕や崇が、男にしてはぺらぺらとよく喋るのに比べて、彼は言葉がなめらかに出てこず、行動の方が先に立つ。
車に乗ってからも、あまり喋らず、前方を鋭い目つきで睨み付けるようにしながら運転をしている。僕はその頑なになった気持ちをほぐすようなつもりで、冗談を交えつつ話しかけていた。
僕らの家庭が、いまこうして破綻の危機を迎えているのは、父親の行動による。
元々は、小さいながらも自分で事業を行い、不動産屋やら飲食店やらを経営し、まっとうな人生を歩んでいたように思う。朝から晩まで勤勉に働いて、家はけして貧しくはなかった。それが、バブルの崩壊あたりから歯車が少しずつ狂いはじめたようだ。経済的にも、彼の精神的にも。それは資産家だった母方の祖父が死に、その遺産がいくらか入ってくることで、決定的なものとなる。
事業をすべて放棄して遊び惚け、人妻との不倫に狂い、それが露見すると家から飛び出て姿を消し、そして今日の状況へとあいなった。
元々父親への情が薄かった僕は、人間というものはこうやって変貌するものなのだなあと、意外なような面白いような気分であったが、生真面目な優には耐えられなかったのだろう。そのたまりにたまった鬱積が、今日ついに爆発しようとしているようだった。
優が言ったより早く、十分ほどでそのアパートに到着する。そのアパートは新しくも古くもなく、階段の前にはアニメのキャラクターがプリントされた三輪車などが置いてある。いかにも平和的な建物であり、あの父親が隠れ住むには不似合いな印象だった。
優は裏の駐車場に車を停めると、そのまますぐに建物には行かず、端に停めてあった一台のバイクの前で立ち止まる。
「これ、あいつが買ったバイクだよ」
見るのは初めてであったが、話は聞いている。年甲斐もなくバイクを新車で購入し、気分良さそうに乗り回している、と、崇も母親も憎々しげに言っていた。
僕はバイクには詳しくないのでよくわからなかったが、確かに、その大きめのアメリカンバイクは、まっとうな大人が乗るには派手なようにも思う。
「こんなものに乗りやがって」
優は吐き捨てるように言うと、ハンドルのあたりに手をかけた。何をするのかと思えば、どうも素手で破壊を試みているようで、さすがの彼の膂力でもハンドルをもぎり取ることは出来なかったが、かわりにいくつかの金属パーツを引きちぎって、路上に投げ捨てる。その時怪我をしてしまったらしく、血みどろになった手を、ゴシゴシと自分のTシャツにこすりつけた。
我が弟ながら恐ろしいやつであるなあと、ぽかんとしている僕を尻目に、
「こっちだよ」
優はアパートに向かって歩き始める。
そして彼が案内したのは、103号室の、ドアの前であった。
確かに表札には、父親の、つまり僕らの名字が油性ペンで書き込まれている。
優は緊張した面持ちで、ごくりと唾を飲み込んでから、血に濡れた人差し指でインターフォンを押した。
第3回に続く
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