確かにインターフォンのベルがドアの向こうで鳴り響いた筈だが、何の反応もない。少し待って、もう一度スイッチを押すと、ようやく物音がして、
『はい』
と、紛れもない父の声がスピーカーから流れ出す。
「優だけど」
優がそう名乗ると、相手は明らかに動揺した声で、
『何の用だ?』
「話があって来たんだ。開けてくれない?」
優の声は怒りと緊張で震えている。
『一人で来たのか?』
そこで優は僕を振り返ったので、目配せをする。
「悟君と一緒に来た」
『そうか。……お父さんは出られない。用件があるなら、そこで言ってくれ』
父親は僕を警戒しているからそういう言葉になったのだろう。優一人だったら、開けていたのかもしれない。それは間違いなく、優を見くびっているからだ。舐めくさっているからだ。
優もそれを察したのか、若干興奮して、
「なんで開けられないんだよ! それくらいしたっていいだろ!」
インターフォンに向かって叫ぶが、スピーカーからは、プツリと通話の切れる音が帰って来るだけだった。
「こんなに情けないとは思わなかった」
何度インターフォンを鳴らしても通話をしようとしない父に、優はそうため息をもらす。まさか会うことまで拒否されるとは想定しなかったらしく、動揺が見て取れた。
「どうして話も出来ないんだ? 何か理由があるなら、ちゃんと言えばいいのに」
「本人も、後ろめたいのはわかっているんだろう」
思いの外に意気消沈をしている優を見ながら、これならもう暴力を振るうこともなさそうだと、内心で安堵のため息をつきつつ僕は言った。
「昔はあんなじゃなかったのに」
優がもう一度ため息をつき、僕も、かつての強く自信にあふれていた父親を思い出した。
夜遅く、いつまでもこんなところで二人で突っ立って居ても仕方がない。引き上げようか、と、僕が提案しかけたところで携帯電話がなった。相手は、母親である。
『いま、お父さんのところに行っているの?』
「そうだけど、どうして知ってるの?」
『さっき、お父さんから電話があってね。悟と優が家に押しかけてきたけど、お前がやらせたのかって、お母さんに言ってきたの』
「は?」
『お母さんが指図をして、けしかけたんじゃないかって。どうしてそんなこと言うんだろう? そんなことするわけないし、二人とも、言ったって言うことを聞く子供じゃないのにねえ』
「ふざけやがって、馬鹿にしてやがる」
僕は目眩がするほどに腹が立った。
優は、彼なりに父親への強い愛憎があって、そしてその結果としてここにやって来たのだ。殺す殺すと言ってたけれども、やはり本人の口から、言い訳なり説明なりを聞きたかったというのが本当のところなのだろう。今回の一連の出来事のなかでも、まだ父親に期待する部分があって、それにすがろうとしたんじゃないか。
なのに、その対話を避けた上に、母親の操り人形になっていると、どうしてそんなことが言えるのだろう? どうして、そんなに自然に相手の人間性を無視出来るのだろう?
人を愚弄するにもほどがある。それじゃ、いくらなんでも優が可哀想だ。こいつは、僕と違って、今までずっと父親のことが好きだったというのに。
『それでね、すぐに帰るように言えって言うの。じゃないと、警察を呼ぶって。ねえ、乱暴なことはしないで、すぐに……』
僕は母親の言葉を最後まで待たずに通話を切ると、父親の部屋のドアに向き直った。
「おい、出ろよ! このクズ野郎! ふざけんじゃねえぞ! ほら、出ろよ! ……近所のみなさぁん、聞いてくださぁい! この103号室に住む篠塚さんはね、仕事もせずに遊び回って、人の奥さんと浮気をして、家を飛び出てここに住んでるんですよぉ! 気をつけてくださぁい! ろくでもないクズ野郎ですから!」
その時僕が脳裏に思い描いていたのは、映画やドラマに出て来る、借金とりのチンピラである。あのいかにも醜悪で安っぽい態度を参考にしながら、ドアをガンガンと蹴り、叫んでいると、音は深夜の鉄筋コンクリートに反響した。こんな振る舞いをするのは初めてで、一回やって見たかったので、楽しかった。
そうした僕の行動はよほど派手派手しいものになってしまったらしく、優はすっかり驚いて、きょろきょろと付近の様子をうかがっている。
確かに自分でもあまりにも突拍子もない行動だとは思うが、止めに来た僕がこんな暴力的な行動をしているのもどうかとは思うが、これは性分なのだ。
「おい、やめろ。警察を呼ぶぞ」
暫くそうやっていると、部屋のなかで怯えた亀のように息を殺しているのに耐えかねたのか、父親がドア越しにそう訴えかけて来る。
「言いたいことがあるなら、面と向かって言えよ。息子と直接話す勇気もないなら、黙ってろ」
そう返すと黙ってしまったので、その後も何度か叫び、ドアを蹴った。そして、父親はともかく、付近の住人の通報もあるかもしれないので、頃合いを見てその場所を後にした。
自分の部屋に帰ると、疲れていたが自分のサイトを更新してから、寝た。やっぱりサイトに文章を書くのはこの世で一番楽しい。父親のアパートのドアを蹴るよりも楽しい。
翌日、何事もなく店は営業を開始する。
開店前に、崇が警察と共にやって来て、今日の二十一時に警察が元同級生である暴力団員を逮捕する作戦を実行するとの報告があった。
崇が相手を店の前に呼び出し、やって来たところを、待機していた機動隊が飛び出して捕まえるという算段になっているらしい。相手は、今回のことが起こる前からさまざまな問題を起こしていた要注意人物であるから、今回こそ逮捕したいとのこと。
ハマチの刺身を作ったり、手羽先を焼いたり、ゲソの唐揚げを作りながら、僕はそわそわとその時を待った。そして二十一時になると、厨房を亮介と、もう一人のアルバイトに任せて、裏口から外に出る。
非常階段を昇り、屋上に立って見下ろせば、夜の道ばたに一人で立って煙草を吸っている崇の姿が見える。表情まではわからないが、その佇まいからは緊張がうかがえる。
僕も煙草に火をつけて、その時を待った。
道の向こうから車のヘッドライトが近づいてくると、崇は煙草をアスファルトに捨て、足でもみ消した。それが、例の暴力団員の乗る車だったらしい。崇の目の前で停まると、ドアが開き、わらわらと黒い人影が降車する。思ったよりも多い人数だ。機動隊はどこで飛び出すのだろう? もう出たほうがいいんじゃないか? 人影の一つが崇の方に手をかけようと腕を伸ばし、崇が後ずさったところで、待機していた白バイや警察官が一斉に飛び出した。
そこで包囲して取り押さえるつもりだったのだろう。しかし、警察の思惑通りには行かず、暴力団員たちは思いの外に機敏な動作で車に乗り込むと、Uターンして道を戻ってゆく。パトカーの赤いテールランプが、それを追いかける。
あいつら、取り逃しやがったぞ! あんな格好つけて作戦なんかを練って、沢山人員を用意したのに、情けのないことだなあ。
崇はがっくりとうなだれて、その落胆がシルエットだけなのによくわかる。
僕は一頻り笑ってから厨房に戻り、殺到したオーダーにてんてこ舞いになっていた亮介たちを助けた。そして、二十二時も半を過ぎたころには一段落がつき、僕らは客席から見えない場所に隠れつつ煙草を吸った。
「今日も、あの女の人来なかったですねえ。もう二度と来ないかも知れませんよ」
と、亮介が嬉しそうに言う。
「そうかもね。知ったこっちゃねえや」
僕はそう答えて、顔を顰めた。
了
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