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2025年3月の記事 3件

<菊地成孔の日記 令和7年 3月23日>

1990年代がやってきた時、僕は、その他大勢と大して変わらなかった。すなわちこういう感じだ。「香港の返還、ソヴェート連邦の崩壊、ソマリア内戦の激化、合衆国のブラックマンデーは恐慌こそ起こさなかったが、日本のバブル経済も長く続くわけがない、不安要因はいくらもある。でも、まあ、なんとかなるだろう世界は」。   カルチャーは、僕好みのギラギラに歌舞いた80年代が飽きられ、もの凄い速度で、随分と洒落た感じになって行き、「渋谷系」と呼ばれるようになったが、全く嫌ではなかった。一般的な「90年代を代表する映画」はほとんど見ていないが、「グッドフェローズ」や「レザボア・ドッグス」みたいな、物凄く洒落ていてパワーもあるマフィア映画が出てきた事には舞い上がるほどだった。「パルプフィクション」はタランティーノの最高傑作だと今でも思っている(次がグラインドハウス)。   僕は80年代いっぱい、天職だったヒモ暮らしをしていたが、90年代に入ると、スタジオミュージシャンとしての仕事がいきなり激増して(ブラックミュージックが歌謡界のチャートに入ってきて、ファンキーなブラスセクションとかサックスソロの需要が特需ぐらい跳ね上がったのだ。デフジャムジャパンが出来ても「当然」という感じだったのを覚えている)、ヒモではいられなくなったが、楽しかった。世界はなんとかなるだろ。90年にオウム真理教が衆院選に出馬したのは、憂慮の一つにカウントされなかったどころか、当時「笑える<ネタ>」に過ぎなかった。国民全員が油断し、楽観していた。   スタジオミュージシャンズワーキングの対局に位置する、山下洋輔、大友良英という、偉大で、かつ、売るほど可愛げのあるビッグボスに雇われた兵隊(バンドメンバーのこと)ミッションとして世界中を回り始めたのも90年代だ。   今のスマホ持ちの100倍は日常を録画していた(馬鹿でかいハイエイトを担いで)、当時の僕の動画は、実はヤマダ電機で全てDVDに焼いてもらったままで、DVD-R400枚ぐらいある。あれを全て具にみたら、どんな恐ろしいことが起こるかわかったもんじゃないのだけれど、少なくとも僕が初めて楽旅で欧州に行ったのは、1993年(「ウゴウゴ・ルーガ」が始まった年)の6月13日、つまり、僕の30歳の誕生日は、ベルギーのアントワープで迎えたのだった。  

<菊地成孔の日記 令和7年 3月3日>

 いきなり寒くなった日の朝にみのもんたの訃報を聞きながらオスカーの同時中継を待っているのだが今日も徹夜だ。みのもんたは我が国で最後のアメリカ人型タレントである。もういなくなった。日本人がアメリカのエンターテイナーの素振りに憧れる必要性が払底してしまったのである。    友人が梅沢富美男に高田純次というのも大変素晴らしい。酒が好きでスケベで働き者。こんな世の中にみのが生きている必要はないから、すごく良かったと思っている。訃報を聞いて自宅にガキ2人の泥棒が入ったという事実も、新宿アルタと共に亡くなったことも本当に素晴らしい。どちらも重要な報道だ。みのは報道に殉じた。    ハッシュタグミートゥーの遥か前、みのは生放送中に局アナの腰抱いたりケツ触ったりしてセクハラだと言われたが、局アナ共に否定した(マイメン梅沢富美男の番組で)局アナは否定しながら楽しそうに笑っていた。本当に腰を抱かれていたのに。みのの最大の発明に、おもいっきりテレビの観客の婆さんたちを「お嬢さん」と呼ぶことで、毒蝮の「ババア」と好対照だった。みのに「お嬢さん」と呼ばれた妙齢の女性たちは、一生、みのを心の恋人にするのである。  

ビュロ菊だより

「ポップ・アナリーゼ」の公開授業(動画)、エッセイ(グルメと映画)、日記「菊地成孔の一週間」など、さまざまなコンテンツがアップロードされる「ビュロ菊だより」は、不定期更新です。

著者イメージ

菊地成孔

音楽家/文筆家/音楽講師 ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。

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