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田畑 佑樹さん のコメント

『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最期の7日間』、10年ほど前に観ていたはずなのですが、例によって全く内容を覚えていなかったので(笑)、先程まで観直していました。「ああ、この時点で『マルホランド・ドライヴ』の原型あったんだな」などの感想以前に、ラストにかけていきなりケネス・アンガー風味(とくに『花火』と『快楽殿の創造』)が強くなりすぎることに新鮮かつ大きな衝撃を受けました。
 リンチの訃報を受けた時に、「そういえば、アンガーの作品からゲイ要素を抜いたような映像が出回り始めたのはリンチ以降だったな」と思いつつも書く機会はなかったのですが、『ローラ・パーマー最期の7日間』を観直してまさにそのことを想起しました。リンチ作品が「悪い(とされた)女の子が屠られる」タイプのテーマに傾いていった契機がこの辺りで、私などは端的に「ゲイ無しアンガーみたい」と思うわけですが、菊地さんがご指摘の「最後のレクイエムだけ劇伴ではなく規制曲(クラシック)」というのは、かろうじてアンガー(および、彼が偏愛していた「黄金期」のハリウッド作品)的要素が原型をとどめているようにも思われます。
 
「黄金期のMGMミュージカルとリンチ映画に共通する音響的特徴」について私なりの貧しい教養で考えたところ、「映画用に作られたわけではない既成音源のまんま使い」が技術的なポイントになるのかな? と思いましたが、、『ローラ・パーマー最期の7日間』エンドロールに入っているクレジットだけでは、あのレクイエムが規制盤からの引用(ゴダール的?)なのか/新規に用名して録らせたものなのか までは解りませんでした。
 また、映画音響における統合失調性とは、「主観的に流れているだけなはずの “場面のテーマソング” が世界に溶け混んでしまい・そこに音源内のノイズまでもが含まれている状態」を指すのかな? と思い、その「主観の音楽が世界と同期しているがゆえの不調和=失調」の脈絡から菊地さんが仰っていることを理解すべきかとも考えましたが、やはり確信が持てません。私自身が黄金期のMGMミュージカルについて殆ど何も知らないためだと思いますが、ただ、MGMミュージカルの象徴としてフレッド・アステアとジーン・ケリーという「ゲイモテする細身のダンサー」が存在していたこと、『ローラ・パーマー最期の7日間』でもフレッドとジンジャー・ロジャースの名前が直接言及されること、あとマドンナの『ヴォーグ(1990年)』でも前記の3者はゲイアイコンとしてシャウトアウトされていたこと、などが 黄金期のMGM→アンガー→リンチ の線でなにか直接の意味を持つかもしれないように思われています。
No.1
2ヶ月前
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 ボブ・ディランの伝記映画(有名な自伝を元に映画化した。という意味ではない。オリジナル)「名もなき者」を試写会で見てきた。別に不快になったり、退屈したりとか、いわゆる20世紀的なネガティヴは何もない。    すっかり21世紀ハリウッドの標準装備となった「ある時代の再現性」もガッツリで、映画は60年、ハンチントン病で入院した伝説のフォークシンガー、ウディガスリーの入院見舞いに、ピート・シーガーもいる前にディランが訪れるところから始まり、65年、伝説のモンタレー・フォークフェスティヴァルで「エレキを持って、観客から命の危険を感じるほどの大ブーイングを食らう」ところで終わる。もう、 AI 老眼な僕だが、 AI によって60年~65年のアメリカが再現されているとしか思えないものすごい精密度による再現だ。    ただ、これほど志の低い伝記映画を僕は見たことがない。呆気に取られた。アコギな商売というのは、こう言うのを指すためにある言葉だ。    この映画の価値は、「ティモシー・シャラメという、当代切ってのグランクリュの美青年が、ボブ・ディランという、風采上がらないギリギリの、異形の天才をやれるかね? やったらどうなる?」というゲスい興味、そのたった一点しかない。それ以外は、ただ、映画の時間分のシーンがくっついているだけだ。ジョーン・バエズもジョニー・キャッシュも、アルバート・グロスマンも大変良い。でも、良いだけで、映画の中で、ほとんど機能しない。  
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