田畑 佑樹さん のコメント
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今、ふと気がつくと「極道の妻たち」の、最初の4作(岩下志麻から3作で一回りし、岩下志麻がカムバックするまで)の事に異様に興味が出て、やっぱり五社英雄の1作目はヤバくて、もう予告編からフォントの出し方がものすげ、、、、、「あ」と言って再生を止めた所だ。疲労が抜けきっていない。とするのが最適説ではないかと思う。なんでこんな事をしているのだろうか。検索画面は、岩下志麻の極妻が10作目まで製作され、それが V シネの先駆となった、高島礼子ヒロインの「 video 版」移行して5作製作された。とあるままだ。夏目雅子が「テレビ版」の主演だとばかり思っていたが、そういうものは存在せず、それは「鬼龍院花子の生涯」で、なななな何と、こっちのが先で、どっちかというと「極妻」の元ネタなのであった。五社英雄だし。しかし家田荘子、今、返還しようとしたら「言えた倉庫」と出て、そのまま検索したら AI が「言えた倉庫」は、日本語
ご返信をいただきありがとうございます。音楽理論の実践的な動画を数えきれないほど上げておられる菊地さんの、感覚的な部分についてお聞かせいただけるのはとても貴重かつ面白いです。
LΛMPLIGHTさんの存在は菊地さんによる某バズ投稿の流れで初めて知りまして、その存在自体に大変驚かされました。私はあの動画1本だけ観たにすぎませんが、あの微分世界作品にふれて一番感銘を受けたのは、「徹頭徹尾、すべてが理解できるように作られている(ようである)こと」でした。
非音楽家側のリスナーに移入すると、LΛMPLIGHTさんの作品内に高値を付けたがる要素はまず「創作言語」だろうと思います。20世紀末までの感性からすると、「創作言語」を行うタイプの者といえば統合失調の20世紀的症例(言うなれば、ドゥルーズ=ガタリがたかったタイプの人たち)か、それとはうってかわって『スター・トレック』シリーズの異星語的にポップな「ファンたちが実際に使えるように作り込みましたよ」のタイプ、これら2種類に分けられるように思います。が、LΛMPLIGHTさん作品の「創作言語」はそれらいずれでもなく、ものすごく良心的に作られた、エゴの無いモノのように感じられました。なおかつその良心的な作りが、微分音や動画デザインなど全ての要素に共通していることに、まさにこういうのが2020年代で重要な作品だと感嘆させられました。菊地さんがご指摘の “涼しさ” を纏った感覚も、私の印象と共通した何かを察してのことと愚考します。
それはトールキン的な、「あの人ってここまで自分の世界を作り込んだんだぜすごいよな」の方向に回収される20世紀までの作家主義でも、かといってオープンソース的な tech geek の反転したノブレスオブリージュ感とも違う、「全要素がものすごく緻密に作られていて、それらを理解するためのマニュアルも揃っていて、誰でも利用できる」感がLΛMPLIGHTさんの作品にはあり、これによって21世紀前半までの「天才作家のポテンツ信仰」を(結果的にというか、構造的に)脱臼させうることが最も得難く・新しいように思わされました。実際、LΛMPLIGHTさんの作品にふれて「そうかすごいなあ天才ですね(なんだよ畜生、全然理解できねえぞ。凄いのはわかるけどなんかこっちが見下された気がするクソッ)」的なポテンツ折られ反応(それがつまり21世紀前半までの典型例、ということですが)を示しているリスナーは殆どいないのではないでしょうか。同様に、「オクターヴの16分割なんてまだまだ甘いよトルコ音楽なんか30分割以上あるんだぞ」的なポテンツ由来のヘイトが発生する余地すらも殆ど無いように感じられるのは、繰り返しの表現になりますが、作品の構造自体が良心的で、誰にでも開かれているからだと思います。
前段落の内容によって、LΛMPLIGHTさんのようなタイプの作品は、現状のポップ至上価値である「推せるか/推せないか」の2分法によるのとも違う、全く別様な作品受容のかたちを実現させられるのかもしれないと、なによりも私はその点に2020年代的な凄さを感じました。それは一言で表現すると「交易」の感覚で、誰かが作ったものを自陣/他陣の区別なく使って豊かな反応を及ぼすという、これ自体は20世紀的な理想ですが現在までまともに達成されていなかったように思われる状態がいよいよ可能になるのでは、と思います。これは同様に、菊地さんが『コロンボ研究』上巻42pで“本書の最終目的は〔中略〕あらゆる全てのジャンルと交易を結ぶ事にある” と宣言しておられた「ポテンツの再整理、それによる新しい価値の交通」の試みと共鳴するものであると思います。
……と、この結論は本来なら『コロンボ研究』感想の脈絡で述べられるべきでしたが、菊地さんが中国ツアーを終えられてコロナ感染やXでのバズりやその直後の因縁つけられなど、最近のトピックがあまりにも目白押しで(笑) 書くべきタイミングを見失っていた感想をこうして混ぜさせていただきました。
X上で菊地さんにAI関連の因縁をつけていた多くのアカウントには、「音楽制作上の問題について言及しているのに音楽制作の現場について何も知らない」・「音楽の話をしているはずの者がそもそも日常的に音楽を聴いていない(映画やアニメやマンガには相当触れているのかもしれないが)」など、(イン)ポテンツ由来の自己拘束感覚をこじらせた者の特徴が共通して見られました。それは同時に「常に文句を言いたいようだが、何かを解決する能力は完全に失ってしまった(あるとしてもそれは国家主導による法制度頼みで、ピュアなファシズム構成要素として動員されている)」人の姿とも言え、こんな悲しいことがあるだろうかと思う一方で、菊地さんやLΛMPLIGHTさんのように次の時代の「交易」のために自作を捧げている人々も確かに存在し、ああ、やっと21世紀のローリングトゥエンティーズが来たのだなあと実感する次第です。21世紀のポップ調性離脱は、平均律を父権として斬首したがるタイプの20世紀的無調とも違う、別の非戦感覚を当たり前に備えたものになるのかもしれませんね。
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