菊地成孔さん のコメント
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やっと何とか声が出るようになってきたので(それでも長く話すと喉が焼けて咽せ、大量の痰が飛び出してくるのだが、なんか昔って爺さんとかみんなそうだったような気もする笑)、人と会ったり話したりする仕事復帰したのだが、3 / 11の記憶に浸る間もなく、まずは NHK エンタープライズに行って「泉京香は黙らない」の監督と音楽に関する最終打ち合わせ、その後、とうとう改装を終えて再稼働したパークハイアットのピークカフェに行って、情報公開できない件について打ち合わせ、そしてその後、美學校の、初年度の最後の授業に行く、という、我ながらキツい仕事始めとなったけれども、まあ、結局、僕は人と話すのが好きなのである。
「泉京香」は、言うまでもなく「岸辺露伴」のスピンオフで、オリジナル脚本である。僕はステッフィングに関してまで知る由もないが(というか、何にも知る由がないが。ただひたすら、出来上がった画面に音楽を付けているだけ)、今回、かなりの最強チームだった「露伴組」から、監督と脚本という、映画の骨子だろそれ。という2人がベンチに入り、2人組の新人監督(男性)が登板となった。
この、一連のことは、偶然とかではなく、端的に当たり前のことなんですが、当たり前のことが当たり前にならぬよう、集団的な欲望や合理化が働いていると思います。それはおそらく勉学を、体育や修行のようなものとすり替えているのではないかと思いますし、自負心マゾヒズムは元々この国の手強いやつですから、圧倒的に勝ち組なわけですね。あの、「学び」っていう言葉もそれに加担してます笑。「学びがあった」とか言って笑。情報と生理が噛み合うまでの時間が構造的に必要で、合ったら、まるで啓示でも受けたか、発狂したかぐらいの触発性が感じられる。というだけの話を。何日か薬飲んで寝てれば症状が治った、という程度の話を。と思いますね。
一方で、習うより慣れろとか、外国語の学習に一番良いのは、外国人と恋人になれ、とか、昔読んだ本が、今読むとさらに深く読めますよ、といった、教育の本質であるような話は、何かちょっとワイルドな笑、在野の笑、野の知、みたいなことにしたいわけで笑、一体何をそんなに、教育にSMを持ち込んだり、いわゆるアカデミズムの伽藍みたいなもんを音楽教育に持ち込みたいのか、まあまあキリスト教の罪の意識が、とか、西洋における「鍛錬」が、とか何とか、手垢に塗れた説明概念はいくらでも出てくるでしょうけれども、何れにせよ間違いないのは、生徒と教師がグルーヴしないと、文化的な倒錯は維持できない。ということです。僕は生徒に厳しくできないので、生徒が自負心で自然に潰れてしまう事に際して、「あのねえわかるわけないんだよ。わかんないのが正しいわけ、今この空間で、分かってんのオレ1人だと思うよ笑。それが寂しいと思うようなのが学校の先生やってるからおかしな事になるんだよね笑」と言うようにしています。
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