【特撮】鏡には歪んだ自分の姿が映っている ~肆~
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【特撮】鏡には歪んだ自分の姿が映っている ~肆~

2018-04-01 23:44

    ~壱(ビルド)~

    http://ch.nicovideo.jp/cafe_ratte_notlatte/blomaga/ar1462475

    ~弐(オーブ)~

    http://ch.nicovideo.jp/cafe_ratte_notlatte/blomaga/ar1462805

    ~参(クウガ)~

    http://ch.nicovideo.jp/cafe_ratte_notlatte/blomaga/ar1462862


    自らの存在意義を決定づけるものはなにか

    (ウルトラマンジード)


     「闇堕ち」「暴走」したヒーローが光を取り戻す例をいくつか挙げたわけだが、そうなってもおかしくないのにあえてそうはならなかった例を挙げてみる。

     ウルトラマンジードは地球に住む青年、朝倉リクが変身するウルトラマンである。彼が抱える闇は先天的なもので、いわくあのウルトラマンベリアルの遺伝子を受け継ぐ…という点である。間接的ではあるものの父と息子の関係であり、容姿も非常に似たものになっている。そのせいで初登場時からしばらくは周囲の人々からベリアルと半ば同一視され、迫害…とまではいかないもののあまりいい印象を持たれていなかった。父親のベリアルもまた、息子と対面した時には彼を悪の道へ引きずり込もうとした(実際には吸収して自らの力にしてしまおうと思ったわけだが…)。

     彼は、なぜ生まれ持った闇を退けることができたのだろうか。

     闇へと一直線へ進むレールから逃れる決め手となるのは、出自や性質、環境ではなく、自身の「選択」に他ならない。

     リクは幼少期のヒーローショーで出会った「ドンシャイン」というヒーローに感銘を受け、自らもヒーローを志した。ドンシャインの姿はリクの精神に大きく影響を与え続け、決め台詞や変身時の名乗りなどもこれを意識したものとなっている。たとえ「ベリアルの息子」と蔑まれようとも、「自らヒーローになる」と決心し、選択したことが彼自身の心のよりどころの一つともなっていた。

     彼の心が初めて揺らぐのはその「選択」を否定されたときだった。自らの意思でウルトラマンになったと思い込んでいた彼だったが、実はすべてベリアルと彼の腹心である伏井手ケイの計略に乗せられてのことだった、と判明した時である。

     「選択」を否定される、ということは「意思」を否定されるということに等しい。そしてそれに基づいたそれまでの自身の行動を否定される、ということになる。逆に返せば、それほどまでに「ひとつの選択が与えるその人物の方向性への影響」は強いということでもある。

     もはや特撮ですらないが、かのハリー・ポッターを類例として挙げよう。彼は宿敵であるヴォルデモートが持つ魔法的特徴の多くを備えているがゆえに周囲から疎まれることもあり(それ故に唯一対抗できる存在とされたのだが)、魔法学校ホグワーツへの入学試験ともいえる「組分け帽子」の儀においても、悪名高いスリザリンの寮へ組み入れられようとしていた。最終的に彼が友人たちと同じグリフィンドールの寮へ組分けをされた決定打はただ一つ、彼が「スリザリンの寮を拒否した」ことだけである。たった一つの選択が、のちに続く道を大きく分けたのである。

     ウルトラマンジード、朝倉リクは周囲の仲間たちや、名付け親に背中を押され再びヒーローとして立ち上がる。先達であるウルトラマンゼロは彼に言う。「親父がどんな存在であろうと、お前はお前だ。自分の人生を生きろ。自分の道は自分で決めなきゃならない。道に迷ったら、仲間のことを思い出せ。過ごした時間を、夢を、自分がなぜここにいるのかを。」 

    父親であるベリアルと彼を決定的に分けたのは、やはり彼の選択、決心、覚悟であった。「この身体が、あなたから作られたものでも、…この魂は、僕のものだ!」「変えてみせる!僕の運命は、僕が決める!」覚悟を決め悪に立ち向かう彼を、ベリアルの息子と非難する者はすでにいなかった。


    終わりに


     戦後、日本の高度経済成長期に誕生した仮面ライダーやウルトラマンといった特撮番組において、ヒーローの敵は外部にしか存在しなかった。

     ヒーロー自身は自らの正義をゆるぎなく信じ貫き、周囲の人々は一丸となって巨悪に立ち向かう、といったコンセプトの作品が多い。

     荒廃した国土の再生や経済的な立ち直りを目指すべく、また公害問題など人類全体の問題に立ち向かうべく、困難に立ち向かう確固たる存在が求められた結果だったのだろうか。

     時は過ぎて現代、社会問題は人類全体の課題から、アイデンティティの確立や自己実現など個人個人の問題まで踏み込んだものに拡大してきた。

     ヒーローの姿もそれに応じて変化を遂げてきており、困難に立ち向かう理想の姿としてのヒーローから、目線を同じくした等身大のヒーローが多くなってきた。ヒーロー自身が自らの在り方に悩み、苦しみ、それを乗り越えていく姿勢が人々の共感を得るようになってきた。

     「暴走フォーム」や「闇堕ち形態」と呼ばれる姿は、正にヒーローが自身の問題に直面し苦しみもがいている姿そのものである。それそのものが真の姿ではなく、そこから脱却し、自分自身の本当の姿を確立していく過程にこそ、これらの物語のカタルシスが見出せるのだ。

     ヒーローを応援する子供達がいつの日か困難に直面した時、彼ら・彼女らはヒーローの背中を思い出し、「闇を抱いて光となる」ことができるであろうか。


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