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記事 24件
  • 才能も、能力も、意欲すらもない空っぽの自分を肯定できるか?(2664文字)

    2013-07-19 21:14  
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     『少年サンデー』で田部イエロウの新連載が始まっています。『ハヤテのごとく!』が例によって女装している一方で、『アラタカンガタリ』が性転換ネタやっているのが気になったりもしますが(可愛い)、新連載の話!
     タイトルは『バードメン』。第1話、第2話の連続掲載です。しかし、その2話と使っても話はほとんど進んでいません。ひたすら主人公の日常の倦怠感が綴られるばかり。
     ちょっと『DEATH NOTE』の冒頭で夜神月が平凡な生活に退屈していたことを思い起こさせますが、『バードメン』の描写ははるかに執拗です。丸々2話を使っていかに主人公の人生に希望がないかを描くだけ。
     ある意味では何ひとつおもしろいことが起こらない漫画なのですが、しかしその描写はきわめてリアルで胸に迫るものがあります。
     はてしなく続く日常の退屈。どこまで行っても出口のない日々への失望。それはほかならない「自分自身」への絶望といってもいいでしょう。
     まあ、ずいぶんと色々な娯楽があふれる昨今ですが、おおもとの「自分」がどうにもならないことには何も変わらないでしょう。
     これはたとえ異世界から女の子が降ってきても変わらない絶望なのだと思います。すべての根源となる「自分自身」に見切りをつけてしまっていることが問題なのですから、
     何ひとつ才能もない、能力もない、意欲もない空っぽの自分。「きっと何者にもなれない」空洞の存在。それに気づいてしまった時点で、人生はどうしようもなく灰色になっていきます。
     すべての行動の根幹をなすモチベーションの欠落。そもそも特にほしいものもないんですよね。これといった欲望も動機もない。何かしたいとか、こうなりたいという野心がないのです。
     あるいはそれは広い世界を知らないからで、知ったならもっと何かがほしくなるのかもしれないけれど、その広い世界を知るためには行動が必要で、そして行動するための気力がない。
     止まった車輪のむなしさ。倦怠感ばかりが募っていきます。正体不明のピングドラムを探す気にもなれない。結局のところ、車輪をこぐ意欲そのものが壊れているのだから、社会や家族のせいにしたところで無意味。何ひとつどうにかなるはずもありません。
     もし自分に何か「才能」があったら。そうでなくても特別な「能力」があったなら。この閉塞した生き方も変わってくるのだろうか。そんな埒もない考えに浸っている時点で、「才能」や「能力」とは縁がないということなのでしょう。
     その一方で、この世界を目いっぱいに楽しんでいる(ように見える)人々も存在します。自分とかれらの違いは何なのか? 考えずにいられません。
     やはり、何かしらの「才能」や「天性」の差なのか? それとももっと根本的なところで原因があるのか? 「人格」や「性格」の話なのだろうか? どこまで考えても堂々巡り。
     おそらく必要なのは、「何でもいいから行動してみること」。しかし、そのための「初めの一歩」を踏み出す勇気もなく、だから日常は何も変わらないまま続いていきます。
     そしてしだいしだいに灰色の世界は暗黒へと変わり、退屈ではあるが平穏だったはずの世界は苦痛に満ちた場所へと変化していくのです。どうすればこの暗い世界を突破できるのか?
     その答えのひとつがたとえば漫画『自殺島』にあります。つまり、生きることに必死にならざるをえない場所に叩きこまれれば、もはや「何のために生きるのか?」などという贅沢な悩みに夢中になる余裕はなくなる。
     必然、「生き甲斐」を見つけたのと同じ状態になる。原始のバトルロイヤルのなかでは、無条件に生きることを選べない者は、ただ死んでいくばかりなのです。
     
  • 歴史の大河に消えた微妙な傑作を取り上げよう! 輪廻転生のドラマ、『久遠の絆』を語る。(2063文字)

    2013-07-17 21:07  
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     世の中には傑作、名作、といわれる作品がたくさんあります。それはいわゆるサブカルチャーの世界だけに限っても、実に枚挙にいとまがありません。
     もちろん、ほんとうの傑作は数少ないといえばそうかもしれませんが、そうはいっても、よほど偏屈になるのでなければ、短い一生の間では消費し尽くせないほどのマスターピースが存在していることに変わりはありません。
     しかし! あたりまえですが、傑作未満の「まあそれなりにおもしろい」「案外けっこう悪くない」という作品は、その数倍、数十倍に及ぶことでしょう。そういう作品は、強烈な天才を感じさせないために、歴史の闇に落ちていく宿命にあります。
     どう考えても歴史に記録するほどのバリューはないのだからあたりまえなのですが、でも、ぼくはそういう微妙作品が大好きなのだ! というか、微妙作品のなかでも大好きなものがたくさんあるのだ!
     だから、ぼくは語りたい。傑作の域にとどかなかったものの、十分におもしろく、かつ、個人的になんとなく好きでならない微妙の星たちを。
     さて、そういうわけで、これから自分的にはおもしろいと思うんだけれどなんとなく忘れ去られてしまったなあ、という作品を語って行きたいと思います。
     もし気分が乗ったらシリーズ化するかもw その前にこの第一回を書き終えないといけないわけで、さて、どの作品を選ぶことにしようかな。
     かつてぼくの本棚にはそれはそれは微妙な作品(ひかわ玲子の『三剣物語』とか、冴木忍の『メルヴィ&カシム』とか)が並んでいたものですが、いまではほとんど捨ててしまいました。
     ひとは過去とともには未来へ歩んでいけないものなのです。さめざめ(ほんとはただスペースが足りなくなっただけです)。
     で、何を語ろうか迷うところだけれど、ぼく的にマスターピース級に大好きな『久遠の絆』にすることにしましょう! 最近、18禁のPC版が出たもようですが、ぼくが取り上げるのはあくまで大昔のプレイステーション版、及びプレイステーション2版です。
     PC版は未プレイだけれど、ストーリーが大幅に書き換えられているらしいので、別ものとして扱わないといけないようなのです。
     プレイステーションから18禁に写った作品というと、『御神楽少女探偵団』(これも微妙……)などが思い浮かぶところですが、その種の作品は必然的に「エロいらないだろ、エロ」という評価を得ることが多いよう。
     『久遠の絆』のPC版は怖くて手を出せずにいるのだけれど、いつかやってみようかなあ。
     
  • TYPE-MOONは『Fate』を乗り越えられるのか?(2128文字)

    2013-07-17 20:26  
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     TYPE-MOONの『Fate/stay night』がみたびアニメ化するようだ。制作は2006年放送のテレビシリーズ、及び2010年に公開された劇場版アニメ『UNLIMITED BLADE WORKS』を手がけたスタジオディーンに代わり、劇場版『空の境界』などを扱ったufotableが引きうける。
     ネットではいままで映像化されていない『Fate』第三のルート、『Heaven's Feel(桜ルート)』が取り上げられるのではないかともっぱらの噂だ。いままた同じ物語を繰り返すとも思われないから、妥当な推測と思われる。
     いままで『Fate』シリーズは上記の二作品のほか、『Fate/stay night』の前日譚にあたる『Fate/Zero』がアニメ化されている。
     また、番外編(というかなんというか)の『Fate/kaleid liner プリズマ・イリヤ』も現在、アニメ版が放送中である。出せばあたる人気シリーズとしかいいようがない。
     しかし、『Fate/stay night』が発売されたのはすでに2004年のこと。すでに9年も前なのである。おそらく新アニメは2014年の放映になるだろうから、そこから考えると10年前ということになる。
     そして、この9年間、TYPE-MOONはひたすら『Fate』の派生系を出しつづけることに終始していた印象がある。
     もちろん、高い評価を得た『魔法使いの夜』はある。しかし、ボリューム的に見ても、あの作品を『Fate』に匹敵するものとみなすことはむずかしい。
     過去9年の間、TYPE-MOONは結局、『Fate』と同等か、それ以上の質と量の作品を発表することができなかったといっていいと思う。
     たしかにそのあいだ『Fate』の枝葉は豊かに茂っていった。なかでも『Zero』は、質的に『Fate』を上回る力作だったかもしれない。
     どこまでが虚淵玄個人の才腕で、どこからがTYPE-MOOMの助言によるものなのか、それはわからない。しかし、とにかくあの作品は広い意味での「二次創作」の最高峰を見せてくれた。
     闇黒の大河のような壮絶無比な物語は、『Fate』を補完し、その世界をさらにひろげるという意味でも、重要な成果だといえるだろう。少なくとも並大抵の二次創作とはあまりに次元が違う出来であることはたしかである。
     あるいは、「魔法少女もの」という色物的設定で発表された『プリズマ☆イリヤ』にしても、意外にそのクオリティは低くない。ぼくはまだアニメは見ていないが(録画はしてある)、漫画版は実に楽しく、面白く見ることができる安心、安定の仕上がりである。
     『Fate』の世界を作った二次創作ものとしては、十分な出来といえるだろう。
     しかし。やはり、多くのユーザーは『月姫』、『Fate』に量的に比肩する第三の作品を待望しているのではないだろうか。
     
  • ついに新連載! 田中芳樹&荒川弘の『アルスラーン戦記』とはどんな物語なのか。(2013文字)

    2013-07-16 18:55  
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     先日、荒川弘の『アルスラーン戦記』が始まった。いうまでもなく原作は田中芳樹の人気小説だ。
     荒川弘と田中芳樹。まったく個性は異なるが、それぞれ現代を代表するベストセラー作家といっていいふたりである。この新連載に期待は高まる。いや、こんどこそ完結するといいですね。
     『アルスラーン戦記』の始まりはなんと1986年にまでさかのぼる。いまから実に27年前のことである。『グイン・サーガ』より後、『ロードス島戦記』よりも前で、世間に異世界ファンタジーというジャンルがまだ根付いていなかった時代の話だ。
     田中はこの前に『銀河英雄伝説』を大ヒットさせ、その輝かしい経歴の全盛期にあった。そこで同じスペースオペラを続けるのではなく、まったくの異世界を舞台にした戦記ものに手を出すあたりがこの作家の個性だろう。
     物語の主人公は長大な〈大陸公路〉の要衝、パルス国の王太子アルスラーン。物語が始まった時点で14歳のかれは、侵略者ルシタニア軍によるパルスの滅亡と王都エクバターナの陥落という事態にあい、しだいにその秘められた才能を開花させていく。
     そして荒川弘による漫画版は原作のさらに3年前から始まる。王子アルスラーン、わずか11歳。当然、初陣も経験していない。いまはきゃしゃで頼りないだけの少年であるに過ぎない。
     その時点ではこの少年がのちの〈解放王〉にまで成長しようとは、だれも想像だにしないだろう。しかも、アルスラーンの才能とは、武芸でも、知略でもない。比類ない武芸や知略の持ち主たちを率い、統合してゆく「王」の器量。それがアルスラーンの天才なのである。
     原作を読んでいるとわかるのだが、このオリジナルエピソードの第一話に、荒川は数々の伏線を盛り込んでいる。のちの十六翼将の筆頭である〈戦士のなかの戦士〉ダリューンや、〈双刀将軍〉キシュワードはすでに顔をみせているし、アトロパテネの会戦においてパルスを裏切ることになるカーラーンの顔もすでに出ている。
     そして、アルスラーンをひっぱりまわすルシタニア人のの少年だが――これはつまり、そういうことだよね? くわしいことは語らないが、これも原作を読んでいるひとならピンとくるはずである。こういうところは、荒川さんはほんとうにうまい。
     原作の一ファンとしては、これから先の展開はほんとうに気になる。もちろん、大筋の展開はすでに知っているわけだが、おそらく荒川はそこに幾多のオリジナル要素を付け加えてくるだろう。
     凡庸な描き手なら、そのオリジナルの追加によって原作の魅力を台無しにしてしまうこともあるかもしれない(『創竜伝』の漫画版はそれに近いものがあった)。
     しかし、描くは天下の荒川弘である。そんな心配は微塵もない。どうか、『アルスラーン戦記』という素材を、この上もなく美味に調理してほしいものだと思う。おそらく田中芳樹そのひとも、そういう展開を望んでいることだろう。
     
  • 「アニメを好きではないアニメファン」とは何者か。仮面オタクの実像を考える。(3278文字)

    2013-07-16 17:47  
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     自分も同類だからそう思うのかもしれないが、オタクとはつくづく幸せな人種だと思う。
     この場合、「オタク」とは何かしらの熱烈な趣味を持っているひとというほどの意味。なんであれ好きなものがあるひとは幸福だ。その主観を通じて、世界にふれた実感を得られる。
     それがチェスであれ、紙飛行機であれ、ライトノベルであれ、同じこと。ひとつの「好き」から、好奇心の旅はどこまでも続いていく。
     多くのオタクたちが「リア充」にあこがれ、うらやんでやまないことは事実である。しかし、ほんとうにリア充的な生き方だけが幸せなのだろうか。
     ぼくには、なんであれ夢中になれるほど好きなものがあって、それに熱中して日々を過ごせるオタクの生き方も十分に幸福なものに思える。むしろ、かれらこそがほんとうに恵まれた人種なのではないだろうか。
     
     仮に「リアル」が不遇だとしても、空想の世界で羽をのばすことができるなら、一概に不幸とはいえないと思うのだ。
     こう書くと、すぐさまつよい反論が返ってくることが予想される。オタクは不幸で、可哀想で、恵まれない人種なのだ、なぜならオタクはいまだに高い社会的評価を得られないからだ、女の子にもモテないし世間からは後ろ指を刺される、そんなオタクのどこが幸せなのか、と。
     だが、ぼくにいわせれば、そもそも社会的評価を必要とするようなひとはたいしてその趣味を好きではないのだ。ほんとうに好きなら、世間がなんと非難しようと、自分の愛を貫くことができるはずだ。
     もちろん、よく知りもしないひとからああだこうだといわれることは不快である。余計なお世話だと思う。とはいえ、それはどうでもいいノイズ。それで「好き」という指標が揺らぐわけではない。
     ほんとうに好きなものがあるひとは、その対象から無限の快楽をひき出すことができる。だから、傍目には不遇でも、かれは十分に幸福だし、満たされているのだ。
     そういう幸せなオタクのひとつの典型をみせてくれる漫画がある。はるな檸檬『ZUCCA×ZUCA』である(http://www.moae.jp/comic/zuccazuca)。
     この作品のなかでは幾人かの宝塚ファンの女性たちの、どうみても幸福としか形容しようがない日常生活が描かれている。
     彼女たちの人生はほぼ宝塚に占領されており、ほとんどそれ以外の要素を必要としていない。素敵な恋人だの、充実した仕事だのは、宝塚という趣味の付属物であるにすぎないようだ。
     ここにおいて、趣味は完全に趣味であることを超えている。それは人生そのものであり、自分をいまより高いところへ連れて行ってくれる道標なのだ。
     たかが演劇、と思うひともいるかもしれない。そういうひとは、残念だが、趣味がもたらす歓びを理解できないひとたちである。ほんとうに熱烈に何かを愛しているひとは、決して他人の趣味につばを吐いたりしない。
     ぼくもそういった人間のひとりだ。ひとはくだらない遊びに夢中になって、人生を踏み外した哀れな男と思うかもしれないが、ぼくはいま、十分すぎるほど幸せである。
     しかし、一方でたしかにまるで幸福にはみえないオタクもいる。しょっちゅうまわりに愚痴と悪口ばかりいっているような人々のことだ。
     そういうひとは大抵、自分の趣味を自分で貶める。自分もたくさんアニメをみているくせに、ひとがアニメに夢中になる姿をみてあざけり笑ったりする。
     ぼくは以前からふしぎだった。そこまで熱心になれる趣味があって、その上、何が不足だというのか。オタクとは幸せな人種だというぼくの前提が間違えていたのだろうか。もちろん、どんなディープなオタクも私生活では色々あるに違いないけれど、基本的にオタクはその趣味から大きな歓びを得られるはずなのに。
     しかし、最近になってようやく気づいた。たぶんそういうひとはオタクを名乗り、自分でもオタクだと思っていても、たいしてその趣味を好きではないのではないかと。
     あるいは、かれはその分野(たとえば深夜アニメ、たとえばソーシャルゲーム)について、でたらめに深い知識を持っているかもしれない。
     いまでは膨大になりすぎてとても追いかけられそうにないテレビアニメを片っ端から見ているとか、そういう人種であるとも考えられる。だが、だれよりもアニメをたくさん見ているのに、実は少しもアニメを好きではないというひともありえる。
     こういうひとたちはたしかに幸せではないかもしれない。これらの人々はそもそもぼくがいう「オタク」ではない。べつだん知識とか技術の問題ではなく、その心理において違うと思う。
     あえていうなら、かれらは「仮面オタク」である。オタクでもないのにオタクとしてふるまっているひとたち。たいして好きでもないのに好きなふりをしている人々。
     そんな人間がありえるのかと思われるかもしれないが、ありえるのだ。ありえるとしか考えられないのである。それでは、かれらはなぜ、それほど好きでもない趣味と労力に時間を費やすのか。
     ここから先は想像になるのだが、それはつまり「何も好きなことがない」という状況に耐えられないからではないだろうか。
     かれらにしても、ほかに何か好きなことがあれば、当然、そちらに時間を使うだろう。
     しかし、そもそも何ひとつ好きなものがないひともいる。そういうひとは、大半が何か飛び抜けた個性を持っているわけでもないので、自分の殻を打ち破ることがむずかしい。
     ひとから蔑まれもしないかわり、さほど興味を持たれることもない、そういうポジションを抜け出すことは簡単ではないのだ。
     だが、そんな「何も好きなものがないひとたち」でも、アニメを見ることくらいはできる。それを本心から楽しむことはむずかしいにしても、とりあえず見て、ああだこうだとネットで雑談に興じることくらいはできる。
     それだけでたぶん、何らかのコミュニティに所属できた気分にはなれるだろう。つまり、かれは「居場所」を得ることができたのだ。
     それだけなら、何も悪い話ではない。べつに深い愛情と関心がなければアニメを見てはいけないなどというルールはない。とはいえ、やはり好きでもないものを好きだと思い込んでいるわけだから、自然、どこかに歪みは出てくるはずだ。
     それが、おそらくはとめどなくあふれだす愚痴や悪口なのではないだろうか。ひと口に愚痴といい、悪口といっても、ある程度はふつうのことである。
     何ひとつ愚痴をいわないひとのほうがめずらしいこともたしかだろう。悪口にしても同じこと。好きだからこそ批判したくなるという心理もある。
     が、それが一定のラインを超えているようだと、やはり「仮面オタク」のサインということが考えられる。なんであれ好きなものがあるひと、つまりオタクの日常は、その好きなものによって充足している。
     仕事が辛いとか恋人と別れたといった不幸が払拭されるわけではないにしろ、好きなものがあるということは豊かなことだ。それは『ZUCCA×ZUCA』の宝塚ファンたちを見ていればわかる。
     しかし、そもそも好きなものがないひとは、一見、オタクであるように見ても、本質的なところでその充足を知らない。だからかれらは必然、攻撃的になり、立場の違う人間をののしってやまない。そういうことなのではないだろうか、といまは思う。
     
  • 有名人にだけはなりたくない。(2044文字)

    2013-07-16 15:52  
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    (この記事は著者さんにお願いし期間限定で無料公開させていただいております:ブロマガ編集部)


     有名人について考えたことがあるだろうか。何十冊も著書があったり、しょっちゅうテレビで顔を見せたりしているひとたちのことだ。Twitterでひとこと呟いただけで、たちまち何千もの人々が反応する現代の特権階級。
     かれらはぼくたち一般人の手がとどかない高みに住んでいて、その高さそのものに守られている。だれもがあこがれてやまない新世紀の神々だ。
     しかし、ほんとうにそうだろうか。有名人とはそれほど良いものなのだろうか。ぼくは時々、かれらを可哀想に思うことがある。
     インターネットが発達し、ソーシャルメディアが普及したいま、かれらの高さは昔ほど絶対的なものではなくなった。いまではどんな無名人も有名人を嘲り、ののしることができるのだ。
     わずか10年ほどで世界のルールは書き換わってしまったわけだ。こういう時代において有名人であることは、昔ほど良いことには思えない。
     いま、すべての有名人は視線の牢獄のなかに住んでいる。その一挙手一投足を監視され、判定され、批判される。それが有名人が抱える宿命なのだ。
     かれらはたったひとことの失言で大罪人のように石を投げられる。おそらくは有名人であることそのものが罪だとみなされているのかもしれない。
     かれらにできることは、せいぜい品行方正にし、スキャンダルに飢えた群衆にネタを提供しないよう気をつけることくらい。そしてそれもほとんどの場合、うまくいかない。
     なぜならひとはそこまで完璧ではありえないものだからだ。たくさんの有名人が些細な失敗をとがめたてられて栄光の座から滑落していった。そういう光景を見るたびに、ぼくは心から思ったものだ。有名人にだけはなりたくないな、と。
     こう書くといまにも「心配しなくてもどうせなれやしねえよ」という罵声が飛んできそうだが、そんなことは百も承知の上で、あえていおう。もし何かの奇跡が起こり、有名人になるチャンスが得られたとしても、ぼくはそれに飛び乗りたくはない。
     いま、有名人であることはあまりにも対価が大きすぎる。たしかに得るものはあるかもしれないが、失うもののほうがはるかに大きいように思えてならない。
     もちろん、何らかの成功の結果として、いわば副産物として有名人になることは、ひとつの必然として甘受しなければならないかもしれない。
     しかし、積極的に「有名人になること」を目ざすつもりはまったくないし、もし何かの偶然で有名になってしまったとしたら、ひどい災難だと思うだろう。
     
  • その夏、少年は「博士」と出逢う。映画『真夏の方程式』の忘れがたい名場面。(1871文字)

    2013-07-14 23:39  
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     ども。海燕です。あいかわらず暑い日々が続いていますね、と書きたいところですが、嘘をつくことは良くないので、あえて申し上げましょう。
     涼しい! 涼しいぞ、新潟市! 新潟市マジ勝ち組! きょうもほとんど冷房を使う必要がなかったものね。いやー、熊谷とか甲府に住んでいるひとたちは可哀想に。さぞ暑かろう。ぼくは皆さんの分まで涼やかな夏を楽しみます。楽しいサマーバケーション!
     ――あまり書くと石が飛んできそうなのでこれくらいにしておきましょう。ごほん。非常に涼しいのでギラギラした陽の光が恋しくなり、ガリレオシリーズの新作『真夏の方程式』など観て来ました。
     『真夏の方程式』は東野圭吾原作のミステリ映画の第二弾。天才物理学者〈ガリレオ〉を主人公にした物語です。原作はここのところの東野圭吾ブームを受けて100万部を突破している模様。すごい人気としかいいようががありません。
     じっさい、この映画も原作の出来のよさをほうふつとさせるなかなかの佳作でした。まあ何しろミステリなのでネタバレ的なことはほとんど書くことができないのですが、ひとつの殺人事件を巡って、過去と現在が交錯し、ひとつの謎が暴かれ、そして事件が抱える秘密が解き明かされるという筋立て。
     その事件も複雑に錯綜していながらなおかつわかりづらくならない絶妙な出来なのですが、実は今回は事件そのものに主眼はありません。
     何しろだれが犯人なのかは映画中盤で湯川によって指摘されてしまうし、特に斬新なトリックも存在しないのです。「犯人あて(フーダニット)」を目あてに見に来たひとにとっては肩透かしでしょう。そういう意味では前作『容疑者Xの献身』のほうが優れている。
     本作の主眼は「夏」と「少年」と「博士」の三題噺にあります。透きとおった陽ざしが美しい海をあざやかに照らしだす田舎町、少年は博士と出逢い、少しだけ大人の世界を垣間見て、成長する。
     かれが覗き込んだ大人の世界とは、暗く、残酷で、悲愴でもあるが、しかし、かれがつまらないと思い込んでいたものに対し熱烈な好奇心をもって探求しつづける者もいる、そういう世界。
     少年はその夏、科学が持つ無限の可能性を見、また人間が抱える無窮の残酷を見たのです、とまあ、そういうセンチメンタルなところに面白みがある映画といえると思います。
     この映画にだれもが忘れがたい名場面として挙げるシーンがあるとすれば、それは事件とは直接関係ない、少年と湯川の実験のくだりでしょう。
     
  • 『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』の恋に閉じていかないネットワーク。(1817文字)

    2013-07-12 23:02  
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     暑い日が続いていますね。ぼくが住んでいる新潟市はふしぎとそれほど暑くなりませんが、県内でも35度を超えているところもあるようです。
     ぼくは涼やかに冷房が効いた部屋にとじこもり、『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』を読み返したりしています。何度読んでもおもしろいし、読みやすい。特に文章がこなれてくる後半は恐ろしいほどのリーダビリティ。絶妙です。
     思うに、読みやすい文章を書くコツとは、普通に書くことです。奇をてらうことなくあたりまえに書かれた文章がいちばん読みやすい。
     ただ、この「普通」が案外むずかしく、ぼくはまだ体得できていません。シンプルで飾りけない文章を書けて初めてその先に進める気がします。ただやっぱり華麗なアクロバットを決めてみたい気持ちもあるんだけれどね。
     まあ、それはべつの話。『俺妹』のことを続けましょう。読み返してみて、あらためて『俺妹』の最大の魅力は人間関係の広さと豊かさにあると感じました。関係が恋愛に閉じていかないのです。
     もちろん、最終的には物語は京介と桐乃にフォーカスしていくのだけれど、それでもほかのキャラクターが排除されることはありません。沙織や黒猫たちは最後まで物語にかかわってきます。
     そもそもこの物語は桐乃の友達さがしの話として始まりました。それが多角関係ラブコメディに変わっていくのは物語後半のことに過ぎず、それまでは延々と彼女の友達関係のエピソードを展開しています。
     これが後半になっても活きている感はある。桐乃と黒猫、あやせは恋愛関係を巡ってのライバルには違いないんだけれど、同時に親友同士でもあって、結末に至るまでその友情が壊れることはない。その点が興味深い。
     「恋愛か、友情か」という二択選択は少女漫画などで腐るほどあったテーマであるわけですが、この場合は恋愛が無条件に至上の価値を持っているわけではなく、友情も少なくとも同等の価値を見出されているように見えます。
     だから黒猫は京介に恋愛感情を抱いてはいるんだけれど、そのことで桐乃を傷つけることはいやで、そのためにあえて京介と別れることを選ぶわけです。
     これそのものはよくある展開ですが、単に「友情を選んで身をひく」というだけの描写にとどまっていないところがおもしろい。黒猫はあくまで京介と関係を築くことを望んでいて、ただその前に桐乃と京介の関係を解決しなければならないと考えているんですね。
     この聡明さ。黒猫△。
     
  • 夢は広がる! なんちゃってノマドワーカープロジェクト。(2149文字)

    2013-07-07 21:52  
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     先にも書いた通り、先月後半、ぼくは半月間にわたって山梨県の友人の家に滞在していました。滞在というと聞こえはいいけれど、ようは押しかけて住み込んでいたわけです。
     かってにやって来たぼくを2週間以上ものあいだ住まわせてくれたてれびん(@terebinn)には心から感謝したいと思います。ありがとう、ありがとう。
     まあ、てれびんが借りている家は一軒家で、部屋が余ってはいたのですが、それにしてもよく半月も居ついたものだと思います。自分の図々しさが恐ろしい。
     山梨に行く前は「ブログ更新はどこでもできる! 時代はノマドワーカー!」というつもりだったのですが、結果的にはあまり仕事はしませんでしたね。
     ひたすら温泉に入り食って寝るばかり。食事はほぼすべて外食でしたから、なかなかお金がかかりました。いやー、贅沢したなー。
     山梨県といえば、富士山? ほうとう? というくらいのイメージしかなかったのですが、なかなか良いところでした。甲府駅から都心まで電車で3000円で行けるところもいい。食べ物もなかなか美味しいし、また行ってもいいと思いました。
     もちろん、ここでいう食べ物が美味しいとは東京や京都の名店のような味がある!という意味ではありませんが、旅には旅情というものがある。何を食べても美味しく感じるものです。
     あと、なんといっても山梨は物価が安い! 東京はおろか新潟と比べても破壊的な安さで、暮らしやすいところだなあ、と思いましたね。まあ、これも以前に書きました。
     一応、ぼくとしては今回の「旅」はなんちゃってノマドワーカーとしての第一歩と位置づけたいと考えています。日本中どこへ行っても住める! 仕事ができる! というのがなんちゃってノマドワーカーの理念。
     じっさい、一定の収入があって、場所を問わない仕事があれば、それくらいは実現できる世の中だと思うんですよね。
     ぼくの場合、収入的にブロマガの利益だけで暮らしていける域にはまだまだ遠いのだけれど、理想としては毎月、違う街で暮らしつづけたりしてみたい!
     
  • 若き日の天才の肖像。「第四の攻殻機動隊」はいかに草薙素子の過去を描いたか。(1968文字)

    2013-07-06 22:25  
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     先日、アニメ『攻殻機動隊ARISE』の最新話を観ました。
     1話およそ1時間弱のエピソード全4話から構成されるという変則的な構成の映画。第2話の上映が待ち望まれる『コードギアス 亡国のアキト』とほぼ同じ上映方法ですね。最近はこういう変わった形のアニメ映画が増えました。
     当然というか、地元新潟では上映していないので、東京で観るつもりだったのですが、なんとプレイステーションストアでダウンロード可能で、自宅にいながらにして普通に観れてしまうということがわかったので、行くのをやめました。
     地方在住の人間にとってはこういうシステムはありがたいけれど、劇場へ行こうという意欲は削がれるなあ。
     さて、そういうわけで、『ARISE』。原作漫画、押井守監督による映画版、神山健治監督によるテレビシリーズに続く「第四の攻殻機動隊」ということになるわけですが、じっさいの出来はどうだったのか?
     まあ、ぼくの評価は「それなりにそれなり」というところかなあ。今回、物語はいままでの『攻殻機動隊』よりも時間軸を過去にさかのぼり、「攻殻機動隊」公安九課設立までのエピソードを描いていく模様です。
     第1話はハードボイルドミステリ風の描写になっていて、いまだ仲間ではない草薙素子、バトー、トグサらが個別に活動する様子が描かれます。
     いまはある軍務機関に勤める素子は、なぞの死を遂げた軍人の秘密を巡る事件を解決に導くことができるのか? サスペンスフルな物語が展開します。
     ただ、過去の『攻殻』を知っていると、どうしてもそれと比べてしまうことは否めません。そういう視点で見るとやはり画面に映像的な新味がないことが気にかかる。
     この点では、やはり押井守による『GOHST IN THE SHELL』は絶品であったといえるでしょう。
     神山健治による『STAND ALONE COMPLEX』はある意味では映像的に押井版を超克することはあきらめ、よりぼくたちの日常と地続きの『攻殻』世界を生み出しました。それは『攻殻』世界の間口を広くすることに成功したといえます。
     そして『ARISE』はそんな『S.A.C.』の映像表現を踏襲しているように見えます。露骨に現代日本風の街並みがそこかしこに見え、『S.A.C.』以上に「地続き感」を出しています。
     しかし、すでに『S.A.C.』から10年以上が経っているにもかかわらず、新しい映像的なチャレンジが特に見あたらないことはやはり残念です。