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あなたは作家向き? それとも評論家向き? 人間が抱えるパーソナリティの落差を見る。(1975文字)
2013-08-27 20:3553pt
ひとには色々な個性があり、才能があり、能力がある。
いま地上に生きている数十億人の人々は、すべて異なるパーソナリティーの持ち主であって、代替可能な存在などありはしないのだ。
しかし、そうは云っても比較的よく似た性格はあるもので、そういうものはグループに分けて分類することが可能であるかもしれない。
ぼくが思いついた性格分類に「作家向きの性格」と、「評論家向きの性格」というものがある。両者はまったく異なる資質を要求されると考えているわけだ。
もちろん、両者を兼ね備えているひともいるが、きわめて少ない。
ふつう、小説が書けるひとは評論できないし、評論に向いているひとは作品を生み出せないものなのだ。優れた作家が褒めている作品がおもしろいとは限らないのである。
スティーヴン・キングあたりを見ているとよくわかるのだが、天才的な作家が必ずしも有能な本のソムリエではないということ。
ついつい「スティーヴン・キング絶賛!」とか書かれてある帯を見ると騙されて読んでしまうんですけれどね……。
それでは、両者の差はどこにあり、どんな条件で決まっているのか。ぼくはそれは、「ナルシシズムから生まれる思考のオリジナリティ」で決まってくるのだと思う。
つまり、作家になるような人間は、他者の思考の影響度が相対的に低い、オリジナルな発想を持っているものなのではないか。
いい換えるなら、自分のなかでナルシスティックに反芻しつづけたオリジナルな思考だけが、小説なり漫画なり彫刻なり映画なり――という形で、世にでることができる。
付記するなら、ぼくにはこの「オリジナルな思考」の能力がない。だから、ぼくは小説を書くことができないのである。
これは才能がないとかいう以前の問題で、そもそも向いていないのである。
つまりはぼくは作家向きか評論家向きかといえば、あきらかに後者の人間なのである。いや、作家には向いていないだけ、ということもできるが。
ぼくにはオリジナルな思考はない。なぜかといって、すぐ周囲に影響されるからだ。
ひとがオリジナリティを保つためには、ある程度、周囲の影響をシャットダウンできることが必要だ。
これがぼくにはできない。ぼくはものすごく周囲の環境に影響される。ある意味では、確固たる自我を持っていないわけである。
だから、長いあいだぼくを観察しているひとは、その時その時によって云っていることが違うことがわかると思う(笑)。
よしあしでは -
「グレートネス・ギャップ」――天才と凡人を分かつ条件とは。(2075文字)
2013-08-27 18:2253pt
勝木光『ベイビーステップ』がひとつのターニングポイントを迎えています。
熾烈を極めた全日本ジュニアが終わり、主人公のエーちゃんはベスト4、ヒロインのなっちゃんは優勝という成果が出たのです。
「優勝できなければテニスをやめる」と両親に約束していたエーちゃんは、これで人生の岐路に立つことになったわけで、いったいかれがこの先、どんな決断を下すことになるのか、実に見ものです。
かれの性格からして、簡単に約束を反故にするとは考えがたい。また、両親もそんなことは赦さないでしょう。
しかし、だからといってここで完全にテニスをやめてしまうとも思えない。
つまり、エーちゃんはここで初めて「理」に逆らう決断をしなければならないはずで、それがどのような描きになるのか、楽しみでなりません。
まあ、ちゃんと受験勉強をして大学へ行ってそこでテニスを続けるという選択もないことはありませんが、さすがにないんじゃないかなあ。
エーちゃんならもちろん受験でも成功するだろうけれど、ここでそういうブランクを置く展開はね、ちょっと考えづらいですよね。
いずれにしろ、先の展開がとても楽しみです。赤松健さんも『ネギま!』以来の新連載を開始するそうですし、『マガジン』はちょっと楽しみになって来ました。わくわくわくわく。
それにしても、高校生でテニスを始めて、卒業する前にはベスト4、エーちゃんの成績は一般的な常識で見れば圧巻です。
エーちゃんはもちろん優勝を目指してがんばったわけだけれど、ベスト4でも十分に凄まじい成績と云えるでしょう。
何しろかれのライバルたちは子供の頃から延々とテニスをやって来たひとたちばかりであるわけですから、常識で考えれば追いつけるはずがない。
それをエーちゃんは追いついてしまっている。「漫画だから」といえばそれまでではありますが、かれは決して一足飛びに進歩してはいません。
地道な練習と成長をくりかえし、「ベイビーステップ(赤ん坊の歩幅)」で進みつづけることによってここまでたどり着いたのです。
その努力は脅威的としか云いようがありません。じっさい、エーちゃんが敗れた準決勝の対戦相手、神田はエーちゃんのことを「天才」と称しています。
自身、十分に才能に恵まれているはずの神田の目から見ても、エーちゃんは天才としか云いようがない成果を出しているわけです。
それにしても「天才」とは何でしょう? ただ単に少し才能に恵まれただけのひとを「天才」とは呼びません。
それは、周囲に冠絶する圧倒的な -
「3.11以降のオタク文化は激変する」という言説はいったい何だったのだろうか?(2061文字)
2013-08-27 17:4253pt
ぼくはよく思うのですが、「もっともらしい」ことと「もっともな」ことは違います。
もっともらしいことのすべてがもっともなだけではなく、また、もっともであるにもかかわらず少しももっともらしくないことも存在する。
つまり、いくらそれらしく響いても、まるで事実を表していない言葉というものはたくさんあるのです。
いかにももっともらしいだけの空虚な言葉たち。そういう言葉に惑わされないようにしたいものです。
何が云いたいかというと、ですね。震災を契機にオタク文化は激変すると語った評論家が何人もいたわけですが、いや、まったく変わりませんでしたね!ということなんですよ。
かれらの論旨は、簡単にまとめるなら「東日本大震災と原発事故という大事件を機に日本は貧しくなり、オタク文化を展開することは説得力をなくすに違いない」ということだったと思います。
しかし、前の記事でも書いたように、現実にゆるい萌え系の作品はちっとも減っていない。むしろ増えているかもしれない。
ようするにこの「震災をきっかけにしてオタク作品は劇的に変わる」という意見は、あきらかな間違いだったことがわかった、というわけです。
もちろん、まだ言い訳の余地はある。いや、いまはまだ変化のプロセスなのであり、これから変わっていくのだ、という云い方はできるでしょう。
ですが、震災から2年半が過ぎている以上、これから変化が訪れるとしても、それは「震災をきっかけにした変化」とは云えないでしょう。
震災とは関係なく、時が経つことによって変化しました、というだけのことなのだと思います。
いうまでもなく、長期的に見れば、どんな文化も、表現も変化していきます。
しかし、少なくとも「震災以前」「震災以後」でくくれるような巨大な差異は、オタク文化にはほとんど見られないのではないでしょうか(いわゆる「女性向け」はどうなのかわかりませんが)。
認めましょう。「震災によるオタク文化の劇的な変化」はもっともらしい幻想に過ぎず、じっさいにはそういうことは起こらなかったのだということを。
あるいはすでにオタク文化は震災前とはまるで違うものに変化している、と強弁するひともいるかもしれない。
しかし、ぼくの目にはよりゆるくなっているようにしか見えない。だって、じっさいやっていることと云えば、「やまのてせんげーむ!」ですよ(前記事参照)。
いったいこの表現のどこに「震災の爪痕」を -
ハイストレス社会の特効薬! 萌え4コマのまったりしあわせな世界。(2202文字)
2013-08-27 17:0253pt
きのうから三本続けてブロマガの記事を書いてしまった。いいかげんゆるオタ記事を書くことにしよう。
このブログの読者さんがどういう記事を求めて読んでいるのか、正確なところはわからないわけですが、まあ「ゆるオタ残念教養講座」というくらいですから、何かしらオタクな記事を求めておいでの方が多いでしょう(そういえば昔、「オタッキー」とかいうくだらない形容詞があったけれど、死語になったなあ)。
そういうひとにあまり自意識炸裂☆な記事ばかりおとどけするのもさしさわりがある気がします。
だから、きょうは「これぞゆるオタ!」という萌え4コマ漫画の話でもしようと思います。
というか、さっきまで漫画喫茶にこもって『ゆゆ式』と『きんいろモザイク』を読んできたので、その話をしたいというだけなんですけれど。
万が一、知らないがいたひとのために一応解説しておくと、萌え4コマとは! 萌える4コマ漫画のことです。そのままですね。
おそらく、以下のような共通した特徴があると思われます。
1.かわいい女の子が登場する4コマ漫画である。
2.ストーリー性は薄く、日常の風景が執拗に描写される。
3.男性キャラクターは出てこない場合が多い。
4.登場する女の子同士で百合的な関係にある場合が多い。
まあ、この条件をすべて満たしていたら、それは萌え4コマの王道をゆく作品であると云っていいでしょう。
ちなみにこのジャンルの開祖は天才あずまきよひこのヒット作『あずまんが大王』であると思われます。
さかのぼればもっと前にもあるかもしれないけれど、『あずまんが大王』がこのジャンルにとってひとつのブレイクスルーであったことは間違いないでしょう。
以降、『らき☆すた』や『けいおん!』といった秀作に恵まれつつ、このジャンルは漫画界に確固たる地位を築き上げて定着し、いまに至っています。
そのあいだ進歩も変化もほとんどしていないように見えるのだけれど、まあそれらの漫画がオタ業界に与えた影響は巨大なものがありました。
というのも、これらの作品は続々アニメ化されて、「日常系」と呼ばれる一群の作品を形づくることになったからです。
ゼロ年代以降、なんだかそういうアニメばかりヒットしているような気がします。
少なくともやたら同じパターンのゆるゆるアニメを見かけることはたしか。
そのうち最大のヒットとなったのはいうまでもなく『けいおん!』でしょうが、それ以外にもいくつか秀作は誕生しています。
で、ぼくとしてはこういう作品が大量に出てくる背景はものすごくよく理解できると思うのですね。
やっぱり一般的な物語に付きまとう「物語性」を忌避していったら最終的に -
ランキングひと桁順位に思うこと。(2120文字)
2013-08-27 16:2653pt
ブロマガ週間ランキング有料部門、9位になりました!
上はGACKTとかホリエモンとか声優百貨店とか。今後、ブロマガ八部衆と名づけて一方的にライバル視することにしようそうしよう。
ここまでランキングの上位に入るのは実に数カ月ぶりなわけですが、その理由は単純で、数ヶ月ぶりにまともに更新しているからです。ただそれだけのことです。
逆に云えば、まじめに書きさえすればこれくらいの順位には入ってくるということですね。
ブロマガの企画がスタートしてから1年が過ぎ、おそらく当初の数倍の書き手が参入してきていると思うのですが、そのなかでのひと桁順位はそれなりに価値がある気がします。
まあ、記事の質というよりは量で取っている順位という気はするけれど、べつにかまわない。
ぼくとしては結果が出ればそれでいいのであって、べつだん、自分の文章能力にそれほどの幻想は抱いていません。
まあ、何だかんだ云って結果が出るということはいいものです。世の中、口先に結果が伴うひとはそれほど多くはないわけですからね……。
もちろん、たぶん数字だけが出ていても「そんなのたいしたことないよ」というひとはいることでしょう。
ぼくもそう思います。まったくたいしたことがない。1年間やって会員がわずか数百人というのは、まったく自慢できる数字じゃないと思いますね。
ぼくの感覚では3000人くらいいたら少しは自慢してもいいかな、という感じです。
とはいえ、現実にぼくの文章にお金を出すだけのバリューがあると判断しているひとが一定数いるからこそ、こういう結果が出ているわけです。
そこは素直に認めて、感謝したいと思います。ありがとう、ありがとう。
皆さんが振り込んでくれたお金は、ぼくが『ゆるゆり』とか『きんいろモザイク』とか『ぷちます』とか『ゆゆ式』を読む資金に化けています。
あとでまた記事を書くけれど、萌え4コマっていいよね。癒やされる。
まあでも、ひと桁の順位が出てうれしいかというとそうでもないのは、頭のどこかで「これくらいできてあたりまえ」だと思っているからでしょう。
たぶん、ぼくは1位を取らないとうれしいとは思わないでしょう。というか、1位を取ってもそれが継続できないとうれしいとは思わないかもしれない。
よくうちの母に「お前は自分ができることは偶然で、できないことは自分のせいだと考える」と云われるのですが、たしかにそういう側面はあるかもしれません。
自分の実力に自信があるわけではまったくないのですが、ある程度結果が出ても「これくらいはあたりまえ」と思っているところはあるんですよね。
そういう意味では、ほんとうに傲慢な性格なのかもしれません。イヤな奴です。
ところで、もう少し人気が出たらどうにかこうにかツテをたどって -
安西先生、ランキング首位を取りたいです。(1465文字)
2013-08-26 21:2153pt
きょう、わが「ゆるオタ残念教養講座」はブロマガ週間ランキングの第11位に入っています。
良いような悪いような微妙な順位ではありますが、上には10人しかいない一方、下にはおそらく100人以上(もっと?)がいるわけなので、そこそこ偉いなあという気もします。
首位以外は全部同じだぜ!というマッチョな気分もなくはありませんが、一応は嬉しいかな。
長期的な成果を考えれば、一回だけ首位を取るより延々とこのくらいの順位を維持するほうが意味があるんでしょうね。
しかし、個人的にはそれでもなお、一回でいいから首位を取ってみたいと思います。やっぱり何だかんだ云ってもナンバー1は違うと思うんですよ。
いままでこのランキングでは3位にまで上がったことがありますが、3位じゃね。中途半端ですよね。どうしてもトップを取りたいです安西先生。
ただ、その一度だけ3位になれたときも、我ながらどうなってんだというくらい調子が良かった時だから、もう同じことを再現することは無理かも。
そもそもどんどんライバルが参入してきて競争が激化しているわけだし、その全員がぼくより有名ですからね。どうすればいいんだっていう気もします。
もっとも、その一方では「不可能でもないんじゃないか?」という気分があることも事実。
まあ、トップクラスを維持することはほぼ不可能と云っていいだろうけれど、一回だけ、何かの棚ボタでそれを手に入れることならできるんじゃないか。
ぼくは昔、mixiの漢字クイズを散々やりこんだあげく、数十万人のなかで4位くらいにまで上り詰めてしまったことがあるのですが(笑)、あのとき首位を取れなかった悔しさを晴らしたいですね。
たぶん月100万PVくらい行けばどこかの時点で首位が取れるんじゃないかなーという皮算用はあります。
すさまじく効率が悪い方法ではありますが、とにかくアクセスを増やしてそのなかから会員になってくれるひとを求めることがいちばん現実味があるんじゃないかな。
もちろん、記事のレベルが低ければいくらアクセスを集めてもすぐに退会されてしまうわけで、良い記事を書きつづけることは前提です。
極論を書いて炎上させてアクセスだけ集めてマネタイズするというやり方は、有料メルマガではおそらく通用しません。結局、それで退会されるリスクのほうが大きいからです。
有料メルマガはみんな退会することが面倒だから惰性で買いつづけてくれるものだ、という話があるにはありますが、端的に云って、あれはウソだと思う。
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ブロマガを使って大金を稼ぐためにはどうすればいいのか?(2118文字)
2013-08-26 15:0353pt
答え――ひたすらまじめに更新しつづけること。
いや、まんざらはぐらかしているわけでもなく、まじめに更新しつづけていれば会員は増えていくものなのだなあ、と実感するきょうこの頃です。
じっさい、ひんぱんな更新を再開した今月の後半は会員数は微増しつづけています。それも後になるほど増えるスピードが増している感じ。
しばらく甥っ子が滞在していたおかげで連続更新もままならない時期が続いていましたから、これがもっと続けて書いていたらもっと増えていたかもしれません。
まあ、しょせん皮算用というか、机上の空論ではありますけれどね。
開設以来1年が過ぎたいま現在どのくらいの数字まで行っているかというと、実はたいしたことはありません。
何しろ良いときは良いのですが、悪いときは悪い。これはすべてぼくのむらのある性格に原因があります。
これも空論ですが、1年間、毎日きちんとまじめに更新していたら、たぶんいまの倍くらいの数字にはなっていたはずなのです。
いちばん増えたときは1日に平均して10人くらい増えていましたからね。
そのくらいのスピードでずつ増えていくと1年で会員4000人、年収1000万円に達する計算なのですが、当然というか、そこまでのスピードは普段はなかなか望めません。
その半分でもむずかしい。会員1000人でギリギリの生活なら営めるくらいの収入になるので、そこらへんが当面の目標です。
この数字はじっさい、まじめに更新しつづけさえすれば近日中に到達すると思います。
で、2000人で平均的なサラリーマンの年収程度、3000人でそこそこ高給取りというところでしょうか。
10000人まで行けば大企業の幹部並みの収入が手に入るはずですが、たぶんぼくの人生でそこまで行くことはないでしょう。
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『ヴィンランド・サガ』、トルフィンの無抵抗宣言はかれを無残な死に追いやるしかない。(1960文字)
2013-08-26 11:2553pt
以下、今月号の『ヴィンランド・サガ』のネタバレを含みます。ご注意。
さて、今月号の『アフタヌーン』における『ヴィンランド・サガ』では、ついに大いなる夢に目覚めた主人公トルフィンが一方的に殴られつづけるも、無抵抗で耐え、周囲の男たちから「本物の戦士」として認められるという展開が描かれます。
先月号で見たときから予想していましたが、やっぱりそういう展開になるんだなあ、という感じですね。
でも、これ、無理があるんじゃないか、という思いをどうしてもぬぐい去ることができません。
いや、いくらなんでも100発も殴られつづけたら死ぬか倒れるかするでしょう。
いくらトルフィンに殴られる技術があると云っても、限界がある。100発続けて殴られてもまだ意識を残しているって、それはもうある種の怪物ですよ。
これまできわめて盛り上がっていただけに、急に物語のリアリティがなくなってしまった印象は消せません。
ただ、これはもう、必然だと思うんですよね。トルフィンは「もうこれ以上だれひとり傷つけない」「自分には敵などひとりもいない」と誓ったわけで、つまりあらゆる攻撃方法を自ら封印したことになる。
となると、ひたすら無抵抗で殴られつづけるしか採れる手段がない。
その上でなお、「本物の戦士」の力を示すためには100発とか続けて殴られることに耐えられることを示すよりほかない。
まあ、ロジカルにできている展開ではあります。
でも、やっぱりこれは無理ですよね。どう考えても無理でしょう。こんなやり方を続けていたら、どこかで殺されて終わるはず。
ガンジーの非暴力運動が意味を持ちえたのはそれが20世紀だったからで、あの時代に非暴力を貫こうとしたらだれかにあっさり殺されておしまい、ではないでしょうか。
このトルフィンの気高い理想と無力な行動の落差は『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』の葉山が、だれも傷つけない解決方法しか採れないためにじっさいには何もできないことと似ています。
もちろん、このトルフィンの態度は戦争を起こし、人々を殺しながらも理想を実現させていこうとするクヌート王の姿勢と対比されています。
それは『プラネテス』で、ハチマキとウェルナー・ロックスミスが対比されていたのと同じことでしょう。
どうやら幸村誠さんはこのような形で「理想」と「現実」を対比させる作家であるようです。
しかしはやはりぼくはこの描写に無理を感じてしまうのです。「愛しあうことだけはやめられないんだ」というハチマキの宣言がいかにも空虚に響いたように、トルフィンの行動にはどうしようもなく痛々しさがある。
いや、無理でしょ、これ。これが通るのだったらだれも苦労はしないわけで、通らないから暴力が必要になってくるわけです。
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『ガッチャマンクラウズ』のはじめちゃんはゼロ年代ヒーローを超克する「正しい」主人公。(2351文字)
2013-08-26 10:4553pt
いま話題の中心にして人気沸騰中の『ガッチャマンクラウズ』が日テレオンデマンドにて無料配信されています。
http://vod.ntv.co.jp/program/GATCHAMAN_Crowds/
どこが話題で人気なんだというひともいるでしょうが、少なくともぼくのまわりでは絶賛の嵐、マストの作品として認識されていますね。
なんとあの敷居さんまで冬眠から目覚めて記事を書くという異常事態(http://d.hatena.ne.jp/sikii_j/20130825/p1)。
ひさびさにまわりのほぼ全員でひとつの作品をリアルタイムに追いかけてああでもないこうでもないと語りあう喜びを満喫しています。作品完結の前に気づいて良かった!
この作品の文脈についてくわしいことは以下に以前に書いたのでそちらを読んでください(http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar322009)。
この記事を書いたあと、最新の第7話を見たのですが、やっぱり凄いとしか云いようがない。
なかでも印象的だったのはやっぱり主人公のはじめちゃんの行動。
特にあっさりケータイを切ってしまうところは「おお、こうやって大衆からの無限責任追及を回避するのか!」と感動してしまいました。これについてはまた別立てで記事にしたいと思います。
しかし、この一の瀬はじめというキャラクターのおもしろさはやはり文脈を押さえていないとわかりづらいところがあるかもしれない。
一部ではアホの子扱いされていたくらいですからね。さすがに物語がここまで来た時点では彼女の凄さに気づいていないひとはいないと思うけれど――いるのかなあ。
少し前にLDさんのブログで、いま、「間違えた道のまま突っ走っている」キャラクターが流行っているという話がありました。
『Fate/Zero』の衛宮切嗣や『めだかボックス』の球磨川禊、そして『コードギアス』のルルーシュ・ヴィ・ブリタニア。かれらは一様に不可能とも思える高い理想をかかげ、それに向かって邁進していくも、望んだ結果を得られません。
さて、その彼らの共通項ですが……僕なりの言葉で語ると「何か理屈倒れになっちゃっている所?」みたいな話になってくるのですが、もう少し違う角度で詰めると……「自己主張を貫くために、気がつくと“世界全部”を敵に回して、勝ち目が極めて薄い戦いに追い込まれている」とでも言いましょうか?
もう一つは「弱い自分を護り隠すために、極めて強いペルソナ(心的仮面)をかぶっているが、けっこう要所々で、その弱い自分が、やや、ダダモレになっている」所ですね。おそらく、このキャラ毎にある、ある種の二面性というか、そのギャップの部分にしびれて人気が出ているんじゃないかと想像します。
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/2a6a975e995c8d8e63a56b484f9ed001
はじめちゃんはこういった「間違えた方向に全力疾走」系の主人公と対極にある「正しい」女の子なのです!
LDさんはその種の「正しい」キャラクターを「王」と名づけているらしい。少々長くなりますが、その部分についても上記記事から引用させてもらいましょう。
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ブラックホールに愛を注ぎつづけるお仕事。(1229文字)
2013-08-25 23:0453pt
私事で恐縮ですが、1週間ほどわが家に滞在していた甥っ子が帰って行きました。
正確には4歳の甥っ子と0歳の姪っ子を連れた妹が帰っていったのですが、ぼくとしては甥っ子が帰ったという印象がつよい。
それというのも、この1週間、ぼくはひたすらこの子と遊んでいたからです。
それはそれは我ながら健気なほどこの子に付き合って『パズドラ』をやったり、『マリオカート』をやったり、『キョウリュウジャー』のプラモデルを組み立てたりしていました。
プラモの組み立てなんて、ぼくが人生でいちばん苦手な類のことなのに!
お金も使いました。『マリオカート』なんて、ほぼ甥っ子のためだけに買って来たようなものですからね。
ある意味では有料読者の皆さまからいただいたお金で甥っ子におもちゃを買ってやったとも云えるわけで、ほんとうにありがたい話です。
おそらくぼくがいなければ、ほかに遊び相手がいない甥っ子は退屈して「うちに帰りたい」と云い出していたことでしょう。
そう考えると自分の仕事は果たした気がします。いやー、よくがんばった>オレ。
やっぱり自分がかわいがってもらって育ったという自覚があるので、子供もかわいがって育てないといけないと感じるのでしょう。
子供というものはブラックホールめいたところがあって、いくらこっちがお金や愛情をそそいでも、めったにそれを返してくれることはありません。
しかし、ぼくとしては、それでも愛情を注いであげたいと思うのですね。
自分自身が周囲の愛情によって生きてきたわけですから、ぼくもなるべくその「バトンリレー」を続けていかないと感じる。
こういうところは、ぼくはほんとうにウェットな人間だと思います。
それにしてもこの1週間、プライベートもプライバシーもないような生活でした。
何しろ奴はこちらが寝ていても、「おじさん、マリオのびゅーんと走るやつ(『マリオカート』のこと)やろう」と云ってぼくの部屋に入って来る。
そうするとぼくはいそいそとかれのために3DSを起動してマリオやらルイージやら、ピーチ姫やら、ドンキーコングを操って走りつづけるわけです。
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