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        <title><![CDATA[弱いなら弱いままで。]]></title>
        <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga</link>
        <description><![CDATA[愛のオタクライター海燕が楽しいサブカル生活を提案するブログ。／1記事2000文字前後、ひと月数十本更新で月額わずか300円＋税！]]></description>
        <language>ja</language>
            <item>
                <title><![CDATA[【FP試験挑戦日記】アラフィフのオタクライター、約10日間でファイナンシャル・プランナー試験に挑む（①）]]></title>
                <description><![CDATA[<p>　このnoteを継続して読んでおられる方は、「また何かいいだしたな」と思うかもしれませんが、今月25日にファイナンシャル・プランナー3級試験を受けることにしました。
　本気です。すでに受験料も払ってしまっています。数千円とはいえ、いつもプアなぼくとしては決して小さな金額ではないので、確実に受かりたいと思っています。がんばるぞ、おー。
　それはともかく、なぜとうとつにFPとかいい出したのか？
　じつはとうとつではないんです。ずっと前から考えていたんです。ライターとして活動は続けるにしても、もう少し広い分野で書けるようになりたいものだな、と。
　そこでFPですよ。FPを2級まで取れば、マネーに関しての最低限の知識が手に入ります（ほんとうに最低限ではあるだろうけれど）。
　たとえばこのnoteなどでも書けることがずいぶん増えると思うのです。
　もちろん、日本には膨大な数のFP合格者がいるわけであり、この資格を取ったからといって劇的に状況が改善することはありえません。でも、どうせなら何か行動してみたほうが良いだろうと。
　で、FPは3級をジャンプして2級から取ることは（基本的には）できないので、3級にチャレンジしてみようと思ったしだいです。
　合格のためには学科、実技の2科目で正解率60%を取る必要がありますが、試験まであと11日にちしかないんですよね。いくらかんたんといわれる試験でも、この日付けで取れるかなあ。
　まあ、さっき模試をやってみたら正解率68・3%まで行ったので、一応、学科のほうは合格圏内まで行ったように感じられますが……。
　あとは実技かな。それに、あくまで「確実に」取ることが必要なんですよね。
　残り11日弱のあいだに学科、実技ともに正解率70%代くらいはコンスタントに出せるようにしたいものです。
　そもそもぼく、ペーパーテストの類が極度に苦手でほとんど合格したことがないんだけれどね……。苦手というか、継続して勉強する能力に欠けているというか。
　ちなみに、あえて直近の今月末の試験に挑むのは、来月の試験が（なぜか）丸々1か月休みだからです。
　もし、この試験に合格したら4月末あたりにFP2級の試験を受けたいと思います。それで合格したら、まあ、マネーライターの端くれの土くれくらいは名乗れるようになるのではないかと。
　もちろん、純粋にマネー分野で勝負しても話にならないから、何らかのエンタメやカルチャーと組み合わせて記事を書くことになるかとは思いますが。乞うご期待、です。
　あ、FP2級が取れたらついでに簿記3級、簿記2級も取っておくつもりです。何かの役に立たないとも限らないし。
　さて、どこまで目論見通りにいくか、また挫折して投げ出してしまうことになるか。いずれにせよサイは投げられたのだ。今後の海燕さんの暗躍をお楽しみに。
　</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2228082</link>
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                <pubDate>Sat, 14 Feb 2026 17:43:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><p>　このnoteを継続して読んでおられる方は、「また何かいいだしたな」と思うかもしれませんが、今月25日にファイナンシャル・プランナー3級試験を受けることにしました。</p>
<p>　本気です。すでに受験料も払ってしまっています。数千円とはいえ、いつもプアなぼくとしては決して小さな金額ではないので、確実に受かりたいと思っています。がんばるぞ、おー。</p>
<p>　それはともかく、なぜとうとつにFPとかいい出したのか？</p>
<p>　じつはとうとつではないんです。ずっと前から考えていたんです。ライターとして活動は続けるにしても、もう少し広い分野で書けるようになりたいものだな、と。</p>
<p>　そこでFPですよ。FPを2級まで取れば、マネーに関しての最低限の知識が手に入ります（ほんとうに最低限ではあるだろうけれど）。</p>
<p>　たとえばこのnoteなどでも書けることがずいぶん増えると思うのです。</p>
<p>　もちろん、日本には膨大な数のFP合格者がいるわけであり、この資格を取ったからといって劇的に状況が改善することはありえません。でも、どうせなら何か行動してみたほうが良いだろうと。</p>
<p>　で、FPは3級をジャンプして2級から取ることは（基本的には）できないので、3級にチャレンジしてみようと思ったしだいです。</p>
<p>　合格のためには学科、実技の2科目で正解率60%を取る必要がありますが、試験まであと11日にちしかないんですよね。いくらかんたんといわれる試験でも、この日付けで取れるかなあ。</p>
<p>　まあ、さっき模試をやってみたら正解率68・3%まで行ったので、一応、学科のほうは合格圏内まで行ったように感じられますが……。</p>
<p>　あとは実技かな。それに、あくまで「確実に」取ることが必要なんですよね。</p>
<p>　残り11日弱のあいだに学科、実技ともに正解率70%代くらいはコンスタントに出せるようにしたいものです。</p>
<p>　そもそもぼく、ペーパーテストの類が極度に苦手でほとんど合格したことがないんだけれどね……。苦手というか、継続して勉強する能力に欠けているというか。</p>
<p>　ちなみに、あえて直近の今月末の試験に挑むのは、来月の試験が（なぜか）丸々1か月休みだからです。</p>
<p>　もし、この試験に合格したら4月末あたりにFP2級の試験を受けたいと思います。それで合格したら、まあ、マネーライターの端くれの土くれくらいは名乗れるようになるのではないかと。</p>
<p>　もちろん、純粋にマネー分野で勝負しても話にならないから、何らかのエンタメやカルチャーと組み合わせて記事を書くことになるかとは思いますが。乞うご期待、です。</p>
<p>　あ、FP2級が取れたらついでに簿記3級、簿記2級も取っておくつもりです。何かの役に立たないとも限らないし。</p>
<p>　さて、どこまで目論見通りにいくか、また挫折して投げ出してしまうことになるか。いずれにせよサイは投げられたのだ。今後の海燕さんの暗躍をお楽しみに。</p>
　
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2228082">続きを読む</a>
                        </p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[『葬送のフリーレン』と『星霜の心理士』で考える「哀しみを哀しみ切る作法」]]></title>
                <description><![CDATA[<p>・この記事を書いたひと

海燕：ジャンル横断エンタメライター。主にマンガ・アニメ・ゲーム・映画を題材に、読者が感じる違和感や評価の分かれ目を言葉にする記事を執筆。最近の仕事は『このマンガがすごい！2025』CLAMP特集、ITmedia「ねとらぼ」連載、マルハン東日本「ヲトナ基地」連載など。お仕事のご依頼はメールアドレス〈kaien2990@gmail.com〉まで。

・『星霜の心理士』という異世界マンガの新境地
　数日前、話題のマンガ『星霜の心理士』の第二巻が出版されたので、さっそく買って読んでみた。
　素晴らしい。
　第一巻も良かったが、第二巻の面白さはそれを上回る。
　物語の舞台は、ある意味ではありふれたファンタジーの世界だ。その世界では、およそ一千年にわたって〈魔王〉や〈魔族〉との果てしない戦いが続いている。
　何十代にもわたって新たな「勇者」が選ばれ、仲間たちとともに魔族と戦い、そして道半ばで斃れる。そういったことが延々とくり返されているのだ。
　そのつど勇者たちを選び、戦場に赴かせているのは〈賢者〉ソフィア。しかし、彼女はいつまでも成果を出せない自分のやりかたに疑問を抱くようになっていた。
　そんなあるとき、異世界から〈心理カウンセラー〉の星乃があらわれる。
　ソフィアは星乃に硬直した状況を変化させる希望を託すのだが――と、ストーリーは始まる。
　王道の異世界ファンタジーの設定にかなり本格的なカウンセリングの知識が活かされ、ちょっと類例を思いつかない作品に仕上がっている。
　もっとも、いままで、隆盛をきわめる「異世界もの」ではじつにさまざまなサブジャンルが生み出されてきた。いってしまえば、この『星霜の心理士』もそのひとつであるに過ぎない。
　しかし、ほとんど救いがないように見える世界に、「戦い」そのものではなく「戦いの後」を主軸にした展開と、この作品の個性は異質だ。
　自分ではいっさい戦いに関与することができないカウンセラーであるに過ぎない星乃が主人公だという点も異色中の異色だろう。
　彼女は自分で物語をけん引することができる〈聖女〉や〈悪役令嬢〉ですらない。
　あえていうなら、彼女は主人公でありながら「勇者の戦いの物語」におけるささやかなわき役でしかないのだ。
　その星乃が、ただ対話するだけの手法によってかれらの心を救い、結果として戦線を支える。この作品のオリジナリティはここにある。
・質問箱
　質問箱サービス〈mond〉を開設しました。匿名、記名のメッセージを募集します。ご質問、ご意見、お悩み、オススメの本、オススメの映画、その他もろもろ、何でもお気軽にお寄せください。https://mond.how/ja/kaien
・哀しみと向き合うことは可能なのか？　休むことの許されない戦場で、自分自身を見失う
　重要なのは、星乃があくまで「結果として」戦いに協力しているに過ぎないという点だろう。
　彼女の目的は、あくまでクライアントである勇者やその仲間たちが自分自身と向き合う行為をサポートすること。
　厳密にいうなら、星乃はかれらを「救う」わけではなく、「癒やす」わけですらない。ただ、かれら自身が自分の内面をのぞき込むことを助けているに過ぎないのだ。
　それでも、星乃のプロフェッショナルとして洗練された語り口は、長い時間をかけて勇者たちの心をあるべき方向に向かわせる。
　大賢者であるソフィアはそんな星乃を「師」と呼び、彼女を頼るようになってゆく。
　しかし、魔族との長い、長い戦いが国土と国民を疲弊させつづけているこの世界において、精神的健康を損なった人間がゆっくりと休んでいる余裕はない。
　星乃は心が傷つき、限界に達したかと見える僧侶の少女エルンストンをいったん戦場から退ける提案を行うが、国王はそのことを許さない。いったいどうすれば良いのか？　奇妙なほどリアリティのある展開が続いてゆく。
　ここら辺はある意味では精神に傷を負った人間が十分な休養を取ることができない現代社会の写し鏡のようだ。その意味で、この作品における「異世界」は、いわゆる現実逃避の場というより、現実のありようを象徴的に映し出すステージといった正しいだろう。
　物語冒頭、一様に大切な仲間、最良の親友を喪った哀しみに暮れる勇者一行のなかでも、恋する男を守り切れなかったエルンストンは、哀しみにひたり切ることすらできず、強い希死念慮に苦しめられるようになってゆく。
　愛した人がもういないという、この絶望的な哀しみとどう向き合うかが彼女のカウンセリングにおけるテーマである。
・『葬送のフリーレン』という先例。「喪失と回復」の物語が求められる背景とは？
　ここでぼくが思い出すのが、『葬送のフリーレン』だ。『フリーレン』もまた、勇者ヒンメルの死という「喪失」から始まる物語だった。
　</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2228064</link>
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                <pubDate>Fri, 13 Feb 2026 23:16:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><h2>・この記事を書いたひと</h2>
<blockquote>
<p><strong>海燕</strong>：<br />ジャンル横断エンタメライター。主にマンガ・アニメ・ゲーム・映画を題材に、読者が感じる違和感や評価の分かれ目を言葉にする記事を執筆。最近の仕事は『このマンガがすごい！2025』CLAMP特集、ITmedia「ねとらぼ」連載、マルハン東日本「ヲトナ基地」連載など。<br /><br />お仕事のご依頼はメールアドレス〈kaien2990@gmail.com〉まで。</p>
</blockquote>
<h2>・『星霜の心理士』という異世界マンガの新境地</h2>
<p>　数日前、話題のマンガ『星霜の心理士』の第二巻が出版されたので、さっそく買って読んでみた。</p>
<p>　素晴らしい。</p>
<p>　第一巻も良かったが、第二巻の面白さはそれを上回る。</p>
<p>　物語の舞台は、ある意味ではありふれたファンタジーの世界だ。その世界では、およそ一千年にわたって〈魔王〉や〈魔族〉との果てしない戦いが続いている。</p>
<p>　何十代にもわたって新たな「勇者」が選ばれ、仲間たちとともに魔族と戦い、そして道半ばで斃れる。そういったことが延々とくり返されているのだ。</p>
<p>　そのつど勇者たちを選び、戦場に赴かせているのは〈賢者〉ソフィア。しかし、彼女はいつまでも成果を出せない自分のやりかたに疑問を抱くようになっていた。</p>
<p>　そんなあるとき、異世界から〈心理カウンセラー〉の星乃があらわれる。</p>
<p>　ソフィアは星乃に硬直した状況を変化させる希望を託すのだが――と、ストーリーは始まる。</p>
<p>　王道の異世界ファンタジーの設定にかなり本格的なカウンセリングの知識が活かされ、ちょっと類例を思いつかない作品に仕上がっている。</p>
<p>　もっとも、いままで、隆盛をきわめる「異世界もの」ではじつにさまざまなサブジャンルが生み出されてきた。いってしまえば、この『星霜の心理士』もそのひとつであるに過ぎない。</p>
<p>　しかし、ほとんど救いがないように見える世界に、「戦い」そのものではなく「戦いの後」を主軸にした展開と、この作品の個性は異質だ。</p>
<p>　自分ではいっさい戦いに関与することができないカウンセラーであるに過ぎない星乃が主人公だという点も異色中の異色だろう。</p>
<p>　彼女は自分で物語をけん引することができる〈聖女〉や〈悪役令嬢〉ですらない。</p>
<p>　あえていうなら、彼女は主人公でありながら「勇者の戦いの物語」におけるささやかなわき役でしかないのだ。</p>
<p>　その星乃が、ただ対話するだけの手法によってかれらの心を救い、結果として戦線を支える。この作品のオリジナリティはここにある。</p>
<h2>・質問箱</h2>
<p>　質問箱サービス〈mond〉を開設しました。匿名、記名のメッセージを募集します。ご質問、ご意見、お悩み、オススメの本、オススメの映画、その他もろもろ、何でもお気軽にお寄せください。<br /><br /><a href="https://mond.how/ja/kaien">https://mond.how/ja/kaien</a><br /><br /></p>
<h2>・哀しみと向き合うことは可能なのか？　休むことの許されない戦場で、自分自身を見失う</h2>
<p>　重要なのは、星乃があくまで「結果として」戦いに協力しているに過ぎないという点だろう。</p>
<p>　彼女の目的は、あくまでクライアントである勇者やその仲間たちが自分自身と向き合う行為をサポートすること。</p>
<p>　厳密にいうなら、星乃はかれらを「救う」わけではなく、「癒やす」わけですらない。ただ、かれら自身が自分の内面をのぞき込むことを助けているに過ぎないのだ。</p>
<p>　それでも、星乃のプロフェッショナルとして洗練された語り口は、長い時間をかけて勇者たちの心をあるべき方向に向かわせる。</p>
<p>　大賢者であるソフィアはそんな星乃を「師」と呼び、彼女を頼るようになってゆく。</p>
<p>　しかし、魔族との長い、長い戦いが国土と国民を疲弊させつづけているこの世界において、精神的健康を損なった人間がゆっくりと休んでいる余裕はない。</p>
<p>　星乃は心が傷つき、限界に達したかと見える僧侶の少女エルンストンをいったん戦場から退ける提案を行うが、国王はそのことを許さない。いったいどうすれば良いのか？　奇妙なほどリアリティのある展開が続いてゆく。</p>
<p>　ここら辺はある意味では精神に傷を負った人間が十分な休養を取ることができない現代社会の写し鏡のようだ。その意味で、この作品における「異世界」は、いわゆる現実逃避の場というより、現実のありようを象徴的に映し出すステージといった正しいだろう。</p>
<p>　物語冒頭、一様に大切な仲間、最良の親友を喪った哀しみに暮れる勇者一行のなかでも、恋する男を守り切れなかったエルンストンは、哀しみにひたり切ることすらできず、強い希死念慮に苦しめられるようになってゆく。</p>
<p>　愛した人がもういないという、この絶望的な哀しみとどう向き合うかが彼女のカウンセリングにおけるテーマである。</p>
<h2>・『葬送のフリーレン』という先例。「喪失と回復」の物語が求められる背景とは？</h2>
<p>　ここでぼくが思い出すのが、『葬送のフリーレン』だ。『フリーレン』もまた、勇者ヒンメルの死という「喪失」から始まる物語だった。</p>
　
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2228064">続きを読む</a>
                        </p>]]>
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                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[生殖SFとしての『十二国記』]]></title>
                <description><![CDATA[<p>　名作といい、傑作という。とはいえ、出版されたそのときは絶賛を集めた作品も、大方は時の流れとともに忘れられ消えていくことが世の常だ。が、なかには忘却の宿命に抗って長期に渡り人気を集めつづける逸品もある。

　小野不由美の大河シリーズ『十二国記』はまさにその代表格。シリーズ第一作『月の影、影の道』が上梓されてからじつに30年以上になるにもかかわらず、人気は衰えることを知らない。むしろ、時間が経つほどその名望は高まるばかりであるようだ。

　その秘密はどこにあるのか。この記事では、あらためてこの不世出の作品の無二の面白さの謎を探っていくこととしたい。
　</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2227915</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2227915</guid>
                <pubDate>Tue, 10 Feb 2026 17:35:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div>　名作といい、傑作という。とはいえ、出版されたそのときは絶賛を集めた作品も、大方は時の流れとともに忘れられ消えていくことが世の常だ。が、なかには忘却の宿命に抗って長期に渡り人気を集めつづける逸品もある。</div>
<br />
<div>　小野不由美の大河シリーズ『十二国記』はまさにその代表格。シリーズ第一作『月の影、影の道』が上梓されてからじつに30年以上になるにもかかわらず、人気は衰えることを知らない。むしろ、時間が経つほどその名望は高まるばかりであるようだ。</div>
<br />
<div>　その秘密はどこにあるのか。この記事では、あらためてこの不世出の作品の無二の面白さの謎を探っていくこととしたい。</div>
<div><br />　</div>
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2227915">続きを読む</a>
                        </p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[ネトフリのオリジナルアニメ『超かぐや姫！』が超ケッサク多段ロケット映画だった件]]></title>
                <description><![CDATA[<p>

　そういうわけで、ネットフリックスオリジナルのアニメーション映画『超かぐや姫！』を観ました。

　たいへん良かった――というか、これはもしかして超傑作なのでは！？　令和のアニメという感じが強烈にします。

　未見の方にはこのためだけにでもネットフリックスと契約する価値は十分にあるよといっておきたいところ。その他に『ひゃくえむ。』なんかも観られるしね（ぼくはまだ観ていないけれど）。

　具体的なレビューはどこか他のところで書きたいので（可能なら商業媒体が良いですね）とりあえず措くとして、ぼくの評価が絶賛であることだけここに書いておきましょう。

　いや、もう、こういうのものすごく好きです。もっとやれ、もっともっともっとやれ。ものすごく色々なコンテクストで語れる作品ではあるのですが、まず、とにかく無条件で楽しい。

　このあいだ『閃光のハサウェイ』を観たばかりだからつい比較してしまうのだけ</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2227540</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2227540</guid>
                <pubDate>Tue, 03 Feb 2026 00:09:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div><script type="text/javascript" src="https://ext.nicovideo.jp/thumb_watch/sm45886154?w=650&amp;h=380"></script></div>
<br />
<div>　そういうわけで、ネットフリックスオリジナルのアニメーション映画『超かぐや姫！』を観ました。</div>
<br />
<div>　たいへん良かった――というか、これはもしかして超傑作なのでは！？　令和のアニメという感じが強烈にします。</div>
<br />
<div>　未見の方にはこのためだけにでもネットフリックスと契約する価値は十分にあるよといっておきたいところ。その他に『ひゃくえむ。』なんかも観られるしね（ぼくはまだ観ていないけれど）。</div>
<br />
<div>　具体的なレビューはどこか他のところで書きたいので（可能なら商業媒体が良いですね）とりあえず措くとして、ぼくの評価が絶賛であることだけここに書いておきましょう。</div>
<br />
<div>　いや、もう、こういうのものすごく好きです。もっとやれ、もっともっともっとやれ。ものすごく色々なコンテクストで語れる作品ではあるのですが、まず、とにかく無条件で楽しい。</div>
<br />
<div>　このあいだ『閃光のハサウェイ』を観たばかりだからつい比較してしまうのだけれど、とにかくポップでライト、それでいてひどくダークなソウルをこっそりひそめた無二はとっても現代的。</div>
<br />
<div>　日本のアニメーションは本作をもって「いま」に到達したといっても過言ではないのではないでしょうか。作中に頻出するボカロ＆VTuber文脈の表現はその象徴といっても良いと思う。</div>
<br />
<div>　監督のインタビューを読むかぎり、もともとこの手のインターネット＆メタバースカルチャーとは無関係に立ち上がった企画らしいですが、これはネット文化を絡めて大正解。結果として、最新＆最高のアニメ映画に仕上がりました。すばら。</div>
<br />
<div><a href="https://kai-you.net/article/94322">https://kai-you.net/article/94322</a></div>
<br />
<div>　上述したようにとにかく色々な文脈が複雑に絡み合っている作品で、初音ミクやVRChatはもちろん、『かぐや姫の物語』や『サマーウォーズ』、さらには『月姫』だの『リーグ・オブ・レジェンド』だの『ドラえもん』だの『天気の子』だの、でたらめに色々絡めて語ることができます。</div>
<br />
<div>　そもそもかぐや姫姫伝説がベースの作品は無数にあるわけで、それらと比較してどうなのかということを語り始めると終わらないことになる。</div>
<br />
<div>　しかも、あきらかに過去の作品を踏まえて「その先」をめざしている映画であるわけですよ。少なくとも『かぐや姫の物語』は明白に意識していると思う。</div>
<br />
<div>　ある意味でほとんど正面からケンカ売っているようにすら思える（笑）。</div>
<br />
<div>　まあ、そこら辺のことは追々どこかで書くとして（書かせてもらえるならだけれど）、とにかく、とくべつボカロ好きでなくてもぜひ見てみてください。ちょっといままで観たことがない世界にふれられると思います。</div>
<br />
<div>　個人的にはきわめて知的かつ自覚的な作劇だと見ていますが、他の人の意見はどうなんだろうな。とりあえずペトロニウスさんの記事は読みました。</div>
<br />
<div><a href="https://note.com/gaius_petronius/n/n9acc83f120c4">https://note.com/gaius_petronius/n/n9acc83f120c4</a></div>
<br />
<div>　ここでは終盤の展開が多段ロケット方式になっていることがふれられていて、そのひとつひとつに関しての解釈されているのだけれど、そしてえそれはまさに妥当な「読み」だとは思うけれど、ぼくはスタッフロールの後の「蛇足」も含めてみるべきなのではないかと考えている。</div>
<br />
<div>　あそこであえて「蛇足」を入れてきたのはあきらかに意図的な構成だと思うのですよね。</div>
<br />
<div>　その他、台詞のひとつひとつに至るまで非常に考え抜かれている印象で、とにかくものすごく自覚的。視聴者がぱっと考えつくツッコミはことごとく先回りされている予感がする。</div>
<br />
<div>　これは過大評価だとも牽強付会だとも思いません。ほんとに「いまという時代」について考え尽くしていなければこんな作品はできっこない。</div>
<br />
<div>　一見するとライトでポップ、オタク的で限られたターゲットに向けた「かるくてあかるい」だけの映画に思えるかもしれないけれど、いやいや、なかなかどうして、その次元で終わっているシロモノじゃないでしょう。</div>
<br />
<div>　もしかしたら、この映画をどう評価するかによって、その人がどのようなセンスを持っているのか、ある種、「踏み絵」的に判別できるかもしれない。そのくらい、見る側が問われる作りになっています。</div>
<br />
<div>　うっかりすると「ネットのあかるい面だけを取り出してできた能天気なアニメだよね」くらいのことはいってしまいそうになるのだけれど、いやいやいやいや、それはやっぱり表面的な理解だと思いますよ。</div>
<br />
<div>　もちろん、ふつうに観ていても十分に楽しく、ひたすらポップでしゃにむにキュートなケッサクであることは論を待たないのだけれど、むしろ、その奥にあるものをこそ直視するべきなのではないか、と。</div>
<br />
<div>　映画そのものがある種の物語論、あるいは世代論になっているとも見ることができるだけに、「どこまでついていけるか？」をきわめてシビアに問われる作品なのではないかな。</div>
<br />
<div>　もちろん、ただ異常に出来が良い百合アニメとして見ても十分なんですけれどね。まあ、見てみてください。面白いから。早くもことしのベスト候補の登場です。</div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail>https://secure-dcdn.cdn.nimg.jp/blomaga/material/channel/article_thumbnail/ch908/2227540</nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[異能バトルマンガと特殊設定ミステリの二重らせん。]]></title>
                <description><![CDATA[<p>　宣伝デス。
　マルハン東日本のウェブサイト「ヲトナ基地」に「大ヒット『呪術廻戦』から文学賞四冠『地雷グリコ』まで、螺旋進化する異能バトルと特殊設定ミステリのいまを解き明かす！」という長いタイトルの記事を掲載しました。
　ご一読のうえ、拡散にご協力いただければ幸いです。
https://www.maruhan.co.jp/east/media/new/1413
　『地雷グリコ』の受賞ラッシュが象徴しているように、いま、何らかの奇妙なシチュエーションを前提とした「特殊設定ミステリ」はブームです。
　行き着くところまで行き着き、袋小路にたどり着いたかと見えた本格ミステリに新たな展望をもたらす可能性のフロンティアといえるかもしれません。
　この記事では、そこに『ハンタ』や『呪術』といったゲーム的な「異能バトル」を関連させているのですが、このリクツにはどのくらい説得力があるものでしょうか。
　両者</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2199004</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2199004</guid>
                <pubDate>Thu, 23 May 2024 20:53:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div>　宣伝デス。</div>
<br /><div>　マルハン東日本のウェブサイト「ヲトナ基地」に「大ヒット『呪術廻戦』から文学賞四冠『地雷グリコ』まで、螺旋進化する異能バトルと特殊設定ミステリのいまを解き明かす！」という長いタイトルの記事を掲載しました。</div>
<br /><div>　ご一読のうえ、拡散にご協力いただければ幸いです。</div>
<br /><div><a href="https://www.maruhan.co.jp/east/media/new/1413">https://www.maruhan.co.jp/east/media/new/1413</a></div>
<br /><div>　『地雷グリコ』の受賞ラッシュが象徴しているように、いま、何らかの奇妙なシチュエーションを前提とした「特殊設定ミステリ」はブームです。</div>
<br /><div>　行き着くところまで行き着き、袋小路にたどり着いたかと見えた本格ミステリに新たな展望をもたらす可能性のフロンティアといえるかもしれません。</div>
<br /><div>　この記事では、そこに『ハンタ』や『呪術』といったゲーム的な「異能バトル」を関連させているのですが、このリクツにはどのくらい説得力があるものでしょうか。</div>
<br /><div>　両者</div>
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2199004">続きを読む</a>
                        </p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[結婚して妻子を養うことこそが「男の幸せ」なのか？　独身男性の幸福を考える。]]></title>
                <description><![CDATA[<p>【ある弱者男性の告白】
　トイアンナさんの著書『弱者男性1500万人』から、一部が公開されている。
　以前にも書いた通り、この本、基本的にはいままでフォーカスされなかったところに光をあてたなかなかの良書だと思うのだが、一方でひとりの弱者男性であるぼくとしては、いっそ面白いくらい共感がない内容でもある。
　この本に登場する弱者男性たちひとりひとりはたしかにつらい境遇にあるとは思うのだが、ぼく自身は同じような状況にあってもとくにつらくないので、エンパシー（他人と自分を同一視することなくその人の気持ちを汲むこと）はともかく、シンパシー（他人と感情を共有すること）が湧かないのだ。
　もちろん、ぼくが共感できないからといって、即座にかれらの不幸がニセモノだということにはならない。じっさい、本人は大変なのだろうとは思う。
　また、男性であっても社会的弱者の立場に置かれているひとであれば何らかのサポート</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2198645</link>
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                <pubDate>Tue, 21 May 2024 07:05:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><h1><span style="color:#3366ff;">【ある弱者男性の告白】</span></h1>
<div>　トイアンナさんの著書『弱者男性1500万人』から、一部が公開されている。</div>
<br /><div>　以前にも書いた通り、この本、基本的にはいままでフォーカスされなかったところに光をあてたなかなかの良書だと思うのだが、一方でひとりの弱者男性であるぼくとしては、いっそ面白いくらい共感がない内容でもある。</div>
<br /><div>　この本に登場する弱者男性たちひとりひとりはたしかにつらい境遇にあるとは思うのだが、ぼく自身は同じような状況にあってもとくにつらくないので、エンパシー（他人と自分を同一視することなくその人の気持ちを汲むこと）はともかく、シンパシー（他人と感情を共有すること）が湧かないのだ。</div>
<br /><div>　もちろん、ぼくが共感できないからといって、即座にかれらの不幸がニセモノだということにはならない。じっさい、本人は大変なのだろうとは思う。</div>
<br /><div>　また、男性であっても社会的弱者の立場に置かれているひとであれば何らかのサポート</div>
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2198645">続きを読む</a>
                        </p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[火の時代を生きる氷の少女たち。フェミニズムに失望したあなたを魅了する新世代ヒロイン群像を徹底解説してみた！]]></title>
                <description><![CDATA[<p>




【ほむらの時代】
　刮目し見よ、火の世紀は来た。過去の常識や法則が音を立てて乱れ、崩れ、滅び、まったく新しい芸術と物語とが轟々と燃えさかる焔の時代。
　21世紀の開幕からはや幾十年が過ぎ、世界はいまや革新の時を迎えている。そして、また、この混沌とした世情にあって、内面の苦悩と過重な責任を抱え、いまひとつ冴えない様子のヒーローたちに代わって出色の活躍を見せるのが、かつては塔のうえの姫君よろしくただ護られるだけであったヒロインたちである。
　彼女たちは一様に重たげなドレスを脱ぎ捨て、窮屈なコルセットをほどき、ガラスの靴を放り出して、あるいは血煙ただよう戦場へ、あるいは陰謀渦巻く宮廷へと躍り出る。
　わたしたちはそれが男性向けであるか女性向けであるかを問わず、さまざまな物語のなかに、ときに赤黒い鮮血に濡れ、ときに鋭い悪意の刃に切り刻まれながら、それでもなお、立ち上がり、立ち向かい、黄金の意思と漆黒の怒りで己を縛りつける支配と抑圧の鉄鎖を断ち切ろうとする可憐で勇敢な女性たちの姿を見て取ることができるだろう。
　彼女たちはみな命がけの戦いを戦う強靭な心の戦士だ。しかし、その手に持つ武器は刀剣や弓矢の類ばかりとはかぎらない。
　しばしばひたすらに死の衝動〈タナトス〉に取り憑かれ、ニヒリスティックなまでに戦うために戦うバトルマニアのヒーローたちと異なり、彼女たちの戦いには目的があり、理想があるのだから。
　たとえば『天幕のジャードゥーガル』の主人公ジャードゥーガルは、かつて彼女の愛するものを滅ぼした人類史上最大の帝国を崩すため、ありとあらゆる策謀を尽くすことだろう。
　また、『ONE PIECE FILM RED』の実質的な主役である歌姫ウタは、暴力と流血が支配する海賊の世界に弱者のための平和と平安を打ち立てるため、数知れぬ国家と権力を向こうに回したったひとり歌い、戦うことだろう。
　おお、策謀の海を悠々と泳ぎ切る知性と言葉の魔女！　血にまみれてなお華麗に歌い、踊り狂う美しい姫君！　何と壮絶な少女たちなのか。そして、何という清冽な物語たちなのだろうか。
　しかし――そう、ただ、それだけの娘なら、いままでにもまったくいなかったわけではない。わたしたちは幾多の古びた書物のなかに、お伽噺の英雄さながら故郷や国家を守るために戦ったヒロインたちのエピソードを見つけだすことができるだろう。
　その意味では「戦うヒロイン」は、少なくともこの国においてはとくべつめずらしいものではないのだ。
【あたらしいヒロインとは？】
　だから、わたしがいくら新時代のヒロインたちを誇らしく称揚しても、そんなものは疾うに見飽きたと大あくびする人もいるに違いない。
　たしかにその通り。一理ある話。だが、そうはいっても『アンナ・コムネナ』の主人公、千年帝国ビザンツの皇女アンナが威風堂々と胸を張る姿を見るとき、これは、と思われはしないか。
　また、『薬屋のひとりごと』の一風変わったヒロインである猫猫が猛毒を食み陶然と笑うところを眺めたら、何かが違う、と感じられるのではないだろうか。
　少なくともわたしはそう思い、そう感じる。彼女たちにはいままでの「灼熱の運命に抗うヒロイン」たちにはなかった何かがある。自分たちを束縛する支配と抑圧の権力に対する凄まじい怒りはそのままに、そこにたしかに「何か」が加わっているのだ。
　それは、いったい何だろう。戦線に立つ男性たちに劣らぬ腕力か。否。ジャードゥーガルの二の腕はあいかわらずか細い。死をも滅びをも恐れぬ狂気にも似た蛮勇か。否。否。むしろ、アンナの健全さを見ればわかるように、そのような「ヒロイックな」精神風土からはまったく遠い何かである。
　それは、いうなれば生きるため、己が希みを叶えるために自身の感情を制御する氷の心、みずからの炎の怒りをも抑えつけ操り尽くす鉄の理性、そういったものなのである。
　くりかえそう。彼女たちを抑圧する暴力や権力に対する怒りのすさまじさは何ひとつ変わっていない。もし、剣でその心を斬ったなら憤怒は奔流のように吹き出すに違いない。
　しかし、そうでいて、そこには同時に、めったなことでは怒りのあまり我を失ったりしない「自制」がともなってもいるのだ。
　それこそは、彼女たちがこの狂った世界の脅威に復讐を遂げるため、どうしても身につけなければならなかったものであった。
　ただ力があるだけでは足りない。なぜなら、この世にはより怖ろしい力をそなえた敵がうじゃうじゃと群れを成しているのだから。
　ただ、烈火の如き復讐心を抱いているだけでは不足だ。なぜなら、その敵は強大にして奸佞、だれにも心を許さないようなあいてなのだから。
　そう――つまり、彼女たちが目的を達するためにはどうしても「戦略」が必要なのである。
　個々の局面の「戦術」において天才であるだけでは、到底足りぬ。全世界にも喩えるべき強大なあいてを敵に回して戦い抜くためには、長期にわたって未来を展望し、自分の力を最大限に発揮する能力が必須だということ。
【インターミッション】
　この記事のここから下は有料です。サブスクリプションに入会することでお読みいただくことができます。月間10本前後の有料記事が公開予定です。よろしければご入会ください。
　また、海燕は何らかの文章を発表できるお仕事、メディアを募集中です。お仕事をご依頼の方などはメールアドレス〈kenseimaxi@mail.goo.ne.jp〉までご連絡ください。よろしくお願いします。
　現在、マルハンさま運営のウェブメディア「ヲトナ基地」にて、サブカルチャー系の記事を連載しています。4月公開の記事は2024年5月13日現在、人気記事ランキング1位です。そちらもご一読いただければ幸いです。
　それでは、続きをどうぞ。
　</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2198204</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2198204</guid>
                <pubDate>Thu, 16 May 2024 20:16:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><center>
<div>
<div><img src="https://m.media-amazon.com/images/I/51NY-DHpwCL._SL500_.jpg" class="hatena-asin-detail-image" alt="天幕のジャードゥーガル １ (ボニータ・コミックス)" style="margin-left:auto;margin-right:auto;" /></div>
</div>
</center>
<h3><span style="color:#2196f3;"><br />【ほむらの時代】</span></h3>
<p>　刮目し見よ、火の世紀は来た。過去の常識や法則が音を立てて乱れ、崩れ、滅び、まったく新しい芸術と物語とが轟々と燃えさかる焔の時代。</p>
<p>　21世紀の開幕からはや幾十年が過ぎ、世界はいまや革新の時を迎えている。そして、また、この混沌とした世情にあって、内面の苦悩と過重な責任を抱え、いまひとつ冴えない様子のヒーローたちに代わって出色の活躍を見せるのが、かつては塔のうえの姫君よろしくただ護られるだけであったヒロインたちである。</p>
<p>　彼女たちは一様に重たげなドレスを脱ぎ捨て、窮屈なコルセットをほどき、ガラスの靴を放り出して、あるいは血煙ただよう戦場へ、あるいは陰謀渦巻く宮廷へと躍り出る。</p>
<p>　わたしたちはそれが男性向けであるか女性向けであるかを問わず、さまざまな物語のなかに、ときに赤黒い鮮血に濡れ、ときに鋭い悪意の刃に切り刻まれながら、それでもなお、立ち上がり、立ち向かい、黄金の意思と漆黒の怒りで己を縛りつける支配と抑圧の鉄鎖を断ち切ろうとする可憐で勇敢な女性たちの姿を見て取ることができるだろう。</p>
<p>　彼女たちはみな命がけの戦いを戦う強靭な心の戦士だ。しかし、その手に持つ武器は刀剣や弓矢の類ばかりとはかぎらない。</p>
<p>　しばしばひたすらに死の衝動〈タナトス〉に取り憑かれ、ニヒリスティックなまでに戦うために戦うバトルマニアのヒーローたちと異なり、彼女たちの戦いには目的があり、理想があるのだから。</p>
<div style="text-align:left;">　たとえば『天幕のジャードゥーガル』の主人公ジャードゥーガルは、かつて彼女の愛するものを滅ぼした人類史上最大の帝国を崩すため、ありとあらゆる策謀を尽くすことだろう。</div>
<p>　また、『ONE PIECE FILM RED』の実質的な主役である歌姫ウタは、暴力と流血が支配する海賊の世界に弱者のための平和と平安を打ち立てるため、数知れぬ国家と権力を向こうに回したったひとり歌い、戦うことだろう。</p>
<p>　おお、策謀の海を悠々と泳ぎ切る知性と言葉の魔女！　血にまみれてなお華麗に歌い、踊り狂う美しい姫君！　何と壮絶な少女たちなのか。そして、何という清冽な物語たちなのだろうか。</p>
<p>　しかし――そう、ただ、それだけの娘なら、いままでにもまったくいなかったわけではない。わたしたちは幾多の古びた書物のなかに、お伽噺の英雄さながら故郷や国家を守るために戦ったヒロインたちのエピソードを見つけだすことができるだろう。</p>
<p>　その意味では「戦うヒロイン」は、少なくともこの国においてはとくべつめずらしいものではないのだ。</p>
<h3><span style="color:#2196f3;">【あたらしいヒロインとは？】</span></h3>
<p>　だから、わたしがいくら新時代のヒロインたちを誇らしく称揚しても、そんなものは疾うに見飽きたと大あくびする人もいるに違いない。</p>
<p>　たしかにその通り。一理ある話。だが、そうはいっても『アンナ・コムネナ』の主人公、千年帝国ビザンツの皇女アンナが威風堂々と胸を張る姿を見るとき、これは、と思われはしないか。</p>
<p>　また、『薬屋のひとりごと』の一風変わったヒロインである猫猫が猛毒を食み陶然と笑うところを眺めたら、何かが違う、と感じられるのではないだろうか。</p>
<p>　少なくともわたしはそう思い、そう感じる。彼女たちにはいままでの「灼熱の運命に抗うヒロイン」たちにはなかった何かがある。自分たちを束縛する支配と抑圧の権力に対する凄まじい怒りはそのままに、そこにたしかに「何か」が加わっているのだ。</p>
<p>　それは、いったい何だろう。戦線に立つ男性たちに劣らぬ腕力か。否。ジャードゥーガルの二の腕はあいかわらずか細い。死をも滅びをも恐れぬ狂気にも似た蛮勇か。否。否。むしろ、アンナの健全さを見ればわかるように、そのような「ヒロイックな」精神風土からはまったく遠い何かである。</p>
<p>　それは、いうなれば生きるため、己が希みを叶えるために自身の感情を制御する氷の心、みずからの炎の怒りをも抑えつけ操り尽くす鉄の理性、そういったものなのである。</p>
<p>　くりかえそう。彼女たちを抑圧する暴力や権力に対する怒りのすさまじさは何ひとつ変わっていない。もし、剣でその心を斬ったなら憤怒は奔流のように吹き出すに違いない。</p>
<p>　しかし、そうでいて、そこには同時に、めったなことでは怒りのあまり我を失ったりしない「自制」がともなってもいるのだ。</p>
<p>　それこそは、彼女たちがこの狂った世界の脅威に復讐を遂げるため、どうしても身につけなければならなかったものであった。</p>
<p>　ただ力があるだけでは足りない。なぜなら、この世にはより怖ろしい力をそなえた敵がうじゃうじゃと群れを成しているのだから。</p>
<p>　ただ、烈火の如き復讐心を抱いているだけでは不足だ。なぜなら、その敵は強大にして奸佞、だれにも心を許さないようなあいてなのだから。</p>
<p>　そう――つまり、彼女たちが目的を達するためにはどうしても「戦略」が必要なのである。</p>
<p>　個々の局面の「戦術」において天才であるだけでは、到底足りぬ。全世界にも喩えるべき強大なあいてを敵に回して戦い抜くためには、長期にわたって未来を展望し、自分の力を最大限に発揮する能力が必須だということ。</p>
<h3><span style="color:#2196f3;">【インターミッション】</span></h3>
<p>　この記事のここから下は有料です。サブスクリプションに入会することでお読みいただくことができます。月間10本前後の有料記事が公開予定です。よろしければご入会ください。</p>
<p><span style="color:#d32f2f;"><strong>　また、海燕は何らかの文章を発表できるお仕事、メディアを募集中です。お仕事をご依頼の方などはメールアドレス〈kenseimaxi@mail.goo.ne.jp〉までご連絡ください。よろしくお願いします。</strong></span></p>
<p>　現在、マルハンさま運営のウェブメディア「ヲトナ基地」にて、サブカルチャー系の記事を連載しています。4月公開の記事は2024年5月13日現在、人気記事ランキング1位です。そちらもご一読いただければ幸いです。</p>
<p>　それでは、続きをどうぞ。</p>
　
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2198204">続きを読む</a>
                        </p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[同人読者がどくさいスイッチを押すとき、あるいは「庵野、殺す！」の犯罪心理学。]]></title>
                <description><![CDATA[<p>
「あきらめるもんか」彼は低声で言った。「聞こえるか？　ぜったいにあきらめないぞ」
スティーヴン・キング『ミザリー』

【非論理的な妄説なのか？】
　はてな匿名ダイアリーに投稿された「同人女として、男性サークルへの毒マロが理解できてしまうので解説する」と題した記事が話題になっている。
　というか猛批判を受けて大炎上している。燎原を焼き尽くす猛火のごときいちめんの火の海、とでもいうべきか、すさまじいまでの燃えっぷりである。
　まあ、それはそうだろう、というべき内容なのは間違いない。このダイアリーの書き手、つまり「増田」は、何の権利があってのことか「同人女」全体を代表してある種の暴論を展開している。

美しいものだけで構成された美しい作品を、現実の男が作っててその男の姿まで知ってしまったら、その絵・作品を見るたびサークルスペースで見てしまった作者男の映像が頭の中で再生されてしまって、その生々しさでオエーとなるのです。作品に没頭できなくなってしまう。別にこちらから積極的に作者の姿を探したわけでもないのに、ただイベントに一般参加しただけで作者の生々しいリアルな姿（醜さ）を見せられてしまい、脳内に刻まれてしまったのです。（くだんの男性作者さんの容姿が劣ってると言いたいのではない。女にとって男は一部の例外を除いてだいたい醜いのです）作り出した作者が醜くても作品に罪はないからこそ作品の世界に没頭したいのに、記憶の片隅にやきついた作者男の映像に邪魔されてしまう。これまで楽しんでいたものが楽しめなくなるという妨害行為をされてしまった。それが嫌で、そんな被害者を再発させないよう、男作者は予防してほしいのです。

　おまえは何をいっているのだ、というしかないめちゃくちゃなロジックで、あらゆる意味でツッコミどころ満載なので、批判的に分析しようと思えば簡単なのだが、ここではあえてそういう文脈では取り上げない。すでにたくさんの人がそうしているからである。
　そのかわり、ここで、ぼくはこの文章に対し、ある種の「共感」を込めて語ることにしたい。
　気でも狂ったか、といわれるかもしれない。このようなろくでもない自己中心的な妄論に共感するなど。
　しかし、この「増田」が考えていることが、じつはぼくには良く理解できるように思えるのである。それは、より本質的には「同人女」に限ったことでも、ルッキズムや男性嫌悪といった問題でもない、とぼくは感じる。
　それはむしろ、「人類のテーマ」とでもいうべき深く重い問題の一端なのであり、そして、また「創作とは何か？　そして、だれかが創作した作品を受容するとはどういうことなのか？」といった問題ともつよく関係している。
　ぼくはそう思う。具体的にどういうことなのかは下記に記していこう。
【天才作家キングと『ミザリー』という名作】
　そのキャリア50年に及び、数々の傑作を物してモダン・ホラーの巨匠とも呼ばれている天才作家スティーヴン・キングの初期の代表作のひとつに、『ミザリー』という小説がある。
　おそらく、この文章を読まれている方の多くもタイトルくらいは聞いたことがあるのではないかと思う。
　その名も『ミザリー』というタイトルの作品を書いた作家ポール・シェルダンが、その『ミザリー』の熱狂的ファンである女性アニーに監禁され、拷問されながら『ミザリー』を書き直すことを求められるという筋書きだ。
　キングがこの小説を書いた頃にはまだ「ストーカー」という概念はなかったとらしいが、キングは天才的な直感でまさに「作家につきまとうストーカー」の本質を的確に描き出すことに成功している。
　作品を熱狂的に偏愛する「ファン（この言葉は、ファナティック＝狂気から来ているという説がある）」にとって、作家はしばしばただの「ノイズ」と化す。
　なぜなら、作家の生み出す作品は必ずしも自分の思い通りにならないからである。何もかも自分の願望をそのままに描き出された作品を理想の名作とするなら、現実の作家が生み出す新作はかならずその理想からズレていく性質を持つ。
　どんなに優れて天才的な作家であっても、自分とは異なるべつの人間である以上、どこかに「自分にとって都合の良くない存在」としての一面をそなえているからだ。
　しかし、どのような作品もその「都合の良くない存在」としての作家がいなければそもそも生まれないわけであり、作家を否定することは作品を否定することでもある。
　あたりまえといえば、これ以上ないくらいあたりまえの話だろう。しかし、それこそ作中作としての『ミザリー』のような超絶的に優れた作品と出逢ったとき、ぼくたちは（とあえて書くが）、しばしばそのあまりにもあたりまえのことがわからなくなる。
　自分の好みの作品を描いてくれない作家を恨み、憎み、攻撃しさえするのである。そのとき、ぼくたちはシェルダンに作品改変を要求するアニーと化しているといっても良いだろう。
　とくに現在のインターネットでは、このような「アニー」の姿をたくさん見ることができる。
　キングはほんとうに慧眼だった。かれには作品を愛する一方で作家を憎む「ファン」の真実がわかっている。また、日本にもこういった「アニー」的な心理を傑出した表現力で描写した作品がある。たとえば、庵野秀明監督による『新世紀エヴァンゲリオン』である。
【インターネットの「アニー」たち】
　1997年に公開された『エヴァ』の劇場版には、ほんの一瞬、「庵野、殺す！」という言葉が映し出される場面がある。
　「アニメファン」というが人種がときにいかに傲慢で醜悪になりえるかが端的に表現されたセリフであり、また、「ヒトとヒトがどれほど理解しあえないか」を象徴する言葉でもあるのだろう、きわめて印象的な一場面だった。
　庵野監督はのちに、NHKの取材を受けて、この頃、インターネットで庵野秀明の殺し方を議論する掲示板のスレッドを見て、何もかもどうでも良くなり自殺を考えたという趣旨のことを語っている。
　インターネットに集まる「アニー」たちは、庵野というシェルダンをまさにあと一歩で殺害するところまで行っていたのである。
　庵野が天才的な映像作家であり、『エヴァ』が超絶的な傑作であったからこそ、たくさんの人が自他を分ける境界線（まさに『エヴァ』作中におけるA.T.フィールド）を認識できなくなり、人をひとり殺しかけたのだ。
　もしかしたら、そこに書き込んだ人たちはちょっとしたジョーク、あるいはストレスの発散のつもりだったかもしれないが、そういった悪意をぶつけられる側はたまったものではない。
　ぼくはひとりのファンとして、庵野監督が生きのびて新作を作ってくれたことを感謝するばかりだ。
　ただ、『ミザリー』や『エヴァ』の場合は極端な例ではあるが、古来、このようなことはくり返しくり返し起こってきたのだろう。ファンによる作家殺人事件。
　もちろん、その動機は「作品愛」である。作品をあまりにも深く愛しているがゆえに、作家の存在が邪魔になってしまったのだ。
　いや、待て。ほんとうにそうだろうか？　このように身勝手に作家を攻撃するような人物、即ち「インターネットのアニーたち」が、ほんとうに作品を愛しているといって良いのか。
　それは、かれらの主観では愛であるかもしれないが、実際にはもっと自分勝手な心理なのではないだろうか。ぼくは思う。それはどこまでいっても作品を鏡像として自分自身を見つめているだけの自己愛（ナルシシズム）の域を出ないのではないかと。
　</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2197828</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2197828</guid>
                <pubDate>Tue, 14 May 2024 13:16:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><blockquote>
<p>「あきらめるもんか」彼は低声で言った。「聞こえるか？　ぜったいにあきらめないぞ」</p>
<p>スティーヴン・キング『ミザリー』</p>
</blockquote>
<h3><span style="color:#2196f3;">【非論理的な妄説なのか？】</span></h3>
<p>　はてな匿名ダイアリーに投稿された「同人女として、男性サークルへの毒マロが理解できてしまうので解説する」と題した記事が話題になっている。</p>
<p>　というか猛批判を受けて大炎上している。燎原を焼き尽くす猛火のごときいちめんの火の海、とでもいうべきか、すさまじいまでの燃えっぷりである。</p>
<p>　まあ、それはそうだろう、というべき内容なのは間違いない。このダイアリーの書き手、つまり「増田」は、何の権利があってのことか「同人女」全体を代表してある種の暴論を展開している。</p>
<blockquote>
<p>美しいものだけで構成された美しい作品を、現実の男が作っててその男の姿まで知ってしまったら、その絵・作品を見るたびサークルスペースで見てしまった作者男の映像が頭の中で再生されてしまって、その生々しさでオエーとなるのです。作品に没頭できなくなってしまう。<br />別にこちらから積極的に作者の姿を探したわけでもないのに、ただイベントに一般参加しただけで作者の生々しいリアルな姿（醜さ）を見せられてしまい、脳内に刻まれてしまったのです。<br />（くだんの男性作者さんの容姿が劣ってると言いたいのではない。女にとって男は一部の例外を除いてだいたい醜いのです）<br />作り出した作者が醜くても作品に罪はないからこそ作品の世界に没頭したいのに、記憶の片隅にやきついた作者男の映像に邪魔されてしまう。これまで楽しんでいたものが楽しめなくなるという妨害行為をされてしまった。それが嫌で、そんな被害者を再発させないよう、男作者は予防してほしいのです。</p>
</blockquote>
<p>　おまえは何をいっているのだ、というしかないめちゃくちゃなロジックで、あらゆる意味でツッコミどころ満載なので、批判的に分析しようと思えば簡単なのだが、ここではあえてそういう文脈では取り上げない。すでにたくさんの人がそうしているからである。</p>
<p>　そのかわり、ここで、ぼくはこの文章に対し、ある種の「共感」を込めて語ることにしたい。</p>
<p>　気でも狂ったか、といわれるかもしれない。このようなろくでもない自己中心的な妄論に共感するなど。</p>
<p>　しかし、この「増田」が考えていることが、じつはぼくには良く理解できるように思えるのである。それは、より本質的には「同人女」に限ったことでも、ルッキズムや男性嫌悪といった問題でもない、とぼくは感じる。</p>
<p>　それはむしろ、「人類のテーマ」とでもいうべき深く重い問題の一端なのであり、そして、また「創作とは何か？　そして、だれかが創作した作品を受容するとはどういうことなのか？」といった問題ともつよく関係している。</p>
<p>　ぼくはそう思う。具体的にどういうことなのかは下記に記していこう。</p>
<h3><span style="color:#2196f3;">【天才作家キングと『ミザリー』という名作】</span></h3>
<p>　そのキャリア50年に及び、数々の傑作を物してモダン・ホラーの巨匠とも呼ばれている天才作家スティーヴン・キングの初期の代表作のひとつに、『ミザリー』という小説がある。</p>
<p>　おそらく、この文章を読まれている方の多くもタイトルくらいは聞いたことがあるのではないかと思う。</p>
<p>　その名も『ミザリー』というタイトルの作品を書いた作家ポール・シェルダンが、その『ミザリー』の熱狂的ファンである女性アニーに監禁され、拷問されながら『ミザリー』を書き直すことを求められるという筋書きだ。</p>
<p>　キングがこの小説を書いた頃にはまだ「ストーカー」という概念はなかったとらしいが、キングは天才的な直感でまさに「作家につきまとうストーカー」の本質を的確に描き出すことに成功している。</p>
<p>　作品を熱狂的に偏愛する「ファン（この言葉は、ファナティック＝狂気から来ているという説がある）」にとって、作家はしばしばただの「ノイズ」と化す。</p>
<p>　なぜなら、作家の生み出す作品は必ずしも自分の思い通りにならないからである。何もかも自分の願望をそのままに描き出された作品を理想の名作とするなら、現実の作家が生み出す新作はかならずその理想からズレていく性質を持つ。</p>
<p>　どんなに優れて天才的な作家であっても、自分とは異なるべつの人間である以上、どこかに「自分にとって都合の良くない存在」としての一面をそなえているからだ。</p>
<p>　しかし、どのような作品もその「都合の良くない存在」としての作家がいなければそもそも生まれないわけであり、作家を否定することは作品を否定することでもある。</p>
<p>　あたりまえといえば、これ以上ないくらいあたりまえの話だろう。しかし、それこそ作中作としての『ミザリー』のような超絶的に優れた作品と出逢ったとき、ぼくたちは（とあえて書くが）、しばしばそのあまりにもあたりまえのことがわからなくなる。</p>
<p>　自分の好みの作品を描いてくれない作家を恨み、憎み、攻撃しさえするのである。そのとき、ぼくたちはシェルダンに作品改変を要求するアニーと化しているといっても良いだろう。</p>
<p>　とくに現在のインターネットでは、このような「アニー」の姿をたくさん見ることができる。</p>
<p>　キングはほんとうに慧眼だった。かれには作品を愛する一方で作家を憎む「ファン」の真実がわかっている。また、日本にもこういった「アニー」的な心理を傑出した表現力で描写した作品がある。たとえば、庵野秀明監督による『新世紀エヴァンゲリオン』である。</p>
<h3><span style="color:#2196f3;">【インターネットの「アニー」たち】</span></h3>
<p>　1997年に公開された『エヴァ』の劇場版には、ほんの一瞬、「庵野、殺す！」という言葉が映し出される場面がある。</p>
<p>　「アニメファン」というが人種がときにいかに傲慢で醜悪になりえるかが端的に表現されたセリフであり、また、「ヒトとヒトがどれほど理解しあえないか」を象徴する言葉でもあるのだろう、きわめて印象的な一場面だった。</p>
<p>　庵野監督はのちに、NHKの取材を受けて、この頃、インターネットで庵野秀明の殺し方を議論する掲示板のスレッドを見て、何もかもどうでも良くなり自殺を考えたという趣旨のことを語っている。</p>
<p>　インターネットに集まる「アニー」たちは、庵野というシェルダンをまさにあと一歩で殺害するところまで行っていたのである。</p>
<p>　庵野が天才的な映像作家であり、『エヴァ』が超絶的な傑作であったからこそ、たくさんの人が自他を分ける境界線（まさに『エヴァ』作中におけるA.T.フィールド）を認識できなくなり、人をひとり殺しかけたのだ。</p>
<p>　もしかしたら、そこに書き込んだ人たちはちょっとしたジョーク、あるいはストレスの発散のつもりだったかもしれないが、そういった悪意をぶつけられる側はたまったものではない。</p>
<p>　ぼくはひとりのファンとして、庵野監督が生きのびて新作を作ってくれたことを感謝するばかりだ。</p>
<p>　ただ、『ミザリー』や『エヴァ』の場合は極端な例ではあるが、古来、このようなことはくり返しくり返し起こってきたのだろう。ファンによる作家殺人事件。</p>
<p>　もちろん、その動機は「作品愛」である。作品をあまりにも深く愛しているがゆえに、作家の存在が邪魔になってしまったのだ。</p>
<p>　いや、待て。ほんとうにそうだろうか？　このように身勝手に作家を攻撃するような人物、即ち「インターネットのアニーたち」が、ほんとうに作品を愛しているといって良いのか。</p>
<p>　それは、かれらの主観では愛であるかもしれないが、実際にはもっと自分勝手な心理なのではないだろうか。ぼくは思う。それはどこまでいっても作品を鏡像として自分自身を見つめているだけの自己愛（ナルシシズム）の域を出ないのではないかと。</p>
　
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2197828">続きを読む</a>
                        </p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[『異世界車中泊物語』は「ご都合主義異世界ファンタジー」の限界を乗り越えられるか？]]></title>
                <description><![CDATA[<p>【ただの「異世界もの」に見えるのだが……】
　マンガ『異世界車中泊物語』の最新刊である第四巻を読みました。これが、意外にといっては何だけれど、面白い。
　タイトルやあらすじだけを見たならよくある「異世界もの」のバリエーションのひとつでしかないように感じられるのだけれど、どういうわけか胸に迫るものがあるちょっと不思議な作品です。
　むしろ、この手の「異世界もの」に飽きてきている方にこそオススメしたい、そういう物語だといって良いでしょう。
　ただ、そうかといって、それではどこが具体的に面白いのかというと――うーん、どこだろう。
　物語は、仕事で大失敗をしたあげくテキトーないいわけをして逃げ出してしまったダメ人間の主人公が、偶然（かな？）、ある異世界に迷い込むところから始まります。
　そこでかれはお約束通りにひとりの少女と出逢い、彼女と心を通わせることによってほんの少しだけ成長します。そして、それから現実世界に戻り、社会人としてもわずかにレベルアップしていくことになるのです――と、こう書いてもこの面白さは伝わらないだろうなあ。
　というか、この記事を書いているぼく自身がまだうまく物語の核心を把握し、言語化できていない気がする。ペトロニウスさんのブログ「物語三昧」でも、やっぱり言語化できていないと語られていますね。

仕事で失敗した主人公が、リカバーもせず、資料を持って会社を逃げ出してしまうんですね。せめて、資料置いて帰れよ、と思ったのですが、、、、そこではなくて、こんな難しい仕事与えた会社が悪い、とか他責にしまくって、馬鹿馬鹿しくてやってられねーって逃げ出すんですよね。
この物語のコアは、車で「異世界転生して現実に帰ってきて行ったり来たりする」所に面白さがあるのですが、異世界に行ったことで、主人公が心を入れ替えて、仕事を頑張ったり、謝れるようになるんですよね。
（中略）
ちなみに、この記事では、では「何によって変わったか」が、まだペトロニウスの中で言語化できていません。なので、もう少し考えたいと思います。めちゃくちゃ好きになったので、何度も読み返しているので。
https://petronius.hatenablog.com/entry/2024/04/27/000000

　そのくらい、一見すると非常にわかりやすいごく単純な異世界ハーレムラブコメの類型に見えるにもかかわらず、どこか異質な印象を受けるうまく把握しづらい作品なんですよね。
　いや、その「どこか違う」というのもあくまでぼくがいっているだけに過ぎないとそうなのだけれど、たしかにぼくのゴーストが囁いている、これはふつうの「異世界もの」とは何か違っていると。
　それじゃ、具体的に何が違うのかといえば――ぐぬぬ、何だろう。
　どうにもうまく表現できないのだけれど、あえて言葉にしてみるなら、この『異世界車中泊物語』は「現実」と向き合っていると思うのですね。　</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2197236</link>
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                <pubDate>Thu, 09 May 2024 12:49:00 +0900</pubDate>
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                        <![CDATA[<p><h1><span style="color:#3366ff;">【ただの「異世界もの」に見えるのだが……】</span></h1>
<div>　マンガ『異世界車中泊物語』の最新刊である第四巻を読みました。これが、意外にといっては何だけれど、面白い。</div>
<br /><div>　タイトルやあらすじだけを見たならよくある「異世界もの」のバリエーションのひとつでしかないように感じられるのだけれど、どういうわけか胸に迫るものがあるちょっと不思議な作品です。</div>
<br /><div>　むしろ、この手の「異世界もの」に飽きてきている方にこそオススメしたい、そういう物語だといって良いでしょう。</div>
<br /><div>　ただ、そうかといって、それではどこが具体的に面白いのかというと――うーん、どこだろう。</div>
<br /><div>　物語は、仕事で大失敗をしたあげくテキトーないいわけをして逃げ出してしまったダメ人間の主人公が、偶然（かな？）、ある異世界に迷い込むところから始まります。</div>
<br /><div>　そこでかれはお約束通りにひとりの少女と出逢い、彼女と心を通わせることによってほんの少しだけ成長します。そして、それから現実世界に戻り、社会人としてもわずかにレベルアップしていくことになるのです――と、こう書いてもこの面白さは伝わらないだろうなあ。</div>
<br /><div>　というか、この記事を書いているぼく自身がまだうまく物語の核心を把握し、言語化できていない気がする。ペトロニウスさんのブログ「物語三昧」でも、やっぱり言語化できていないと語られていますね。</div>
<br /><blockquote>
<div>仕事で失敗した主人公が、リカバーもせず、資料を持って会社を逃げ出してしまうんですね。せめて、資料置いて帰れよ、と思ったのですが、、、、そこではなくて、こんな難しい仕事与えた会社が悪い、とか他責にしまくって、馬鹿馬鹿しくてやってられねーって逃げ出すんですよね。</div>
<br /><div>この物語のコアは、車で「異世界転生して現実に帰ってきて行ったり来たりする」所に面白さがあるのですが、異世界に行ったことで、主人公が心を入れ替えて、仕事を頑張ったり、謝れるようになるんですよね。</div>
<br /><div>（中略）</div>
<br /><div>ちなみに、この記事では、では「何によって変わったか」が、まだペトロニウスの中で言語化できていません。なので、もう少し考えたいと思います。めちゃくちゃ好きになったので、何度も読み返しているので。</div>
<br /><div><a href="https://petronius.hatenablog.com/entry/2024/04/27/000000">https://petronius.hatenablog.com/entry/2024/04/27/000000</a></div>
</blockquote>
<br /><div>　そのくらい、一見すると非常にわかりやすいごく単純な異世界ハーレムラブコメの類型に見えるにもかかわらず、どこか異質な印象を受けるうまく把握しづらい作品なんですよね。</div>
<br /><div>　いや、その「どこか違う」というのもあくまでぼくがいっているだけに過ぎないとそうなのだけれど、たしかにぼくのゴーストが囁いている、これはふつうの「異世界もの」とは何か違っていると。</div>
<br /><div>　それじゃ、具体的に何が違うのかといえば――ぐぬぬ、何だろう。</div>
<br /><div>　どうにもうまく表現できないのだけれど、あえて言葉にしてみるなら、この『異世界車中泊物語』は「現実」と向き合っていると思うのですね。　</div>
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2197236">続きを読む</a>
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                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[謙虚で礼儀正しい天才は嫌いですか？　大谷翔平や羽生結弦を非難する人たちの共通項とは。]]></title>
                <description><![CDATA[<p>
　苛烈な時代は不世出の才能を生むものなのだろうか、いまの日本を一望すると、さまざまな分野で異質なほどの能力を示す若者が幾人も見つかる。
　そのなかでも、しんじつ最高の天才と呼びたいのが以下の三人だ。
　野球二刀流の大谷翔平。
　フィギュアスケート金メダリストの羽生結弦。
　将棋八冠の藤井聡太。
　いずれもその分野における最高の実力者である。
　そしてまた、それだけではなく、この三人にはあきらかに共通項がある、と感じる。
　また、そう思うのはぼくだけではないらしく、Googleで「大谷翔平　羽生結弦」と入れると「藤井聡太」がサジェスションされたりする。
　まったくべつのジャンルの人物ではあるが、どうにも並べて語りたくなるところのある三人なのだ。
　それでは、そんなかれらの共通点とは何か。
　いうまでもないだろう、いままでの常識では考えられないような快挙を実現した並はずれた天才であるのみならず、ふだんから礼儀正しく、いつも謙虚で偉ぶらないその人格の高潔さだ。
　ただその成績だけを見ても、それぞれの競技でかれらほどの業績を成し遂げた者はかつてないわけだが、それ以上に印象に残るのは人を分け隔てせず、だれに対しても優しく接するその人間的な度量の大きさである。
　かつて、「天才」というと、世間知らずだったり常識がなかったり、あるいは放埓な性格だったりと、ある側面では巨大な力量を示しながら、べつの面では何か欠落を抱えているものという印象が強かった。談志とか。
　それはときにかれら自身を破滅に追いやることもあるほどで、ある種、その種の天才たちに対して一般人は崇拝とともに見下しを抱いていたのではないかと思う。
　しかし、上記の三人は違う。その成果だけをみてもそれはもう途方もないほどの大天才たちである上に、人格的にもきわめて成熟しているのである。
　あるいは、これからフィクションで天才を描くとき、才能と欠落を等量に抱えているような描写をすると古くさい印象になってしまうかもしれない。
　それくらい、かれらの人間的な素晴らしさは「天才」のイメージそのものを塗り替えてしまった。
　現在20代の三人を一世代としてくくるとしたら、この世代はほんとうに立派な人間を生み出したものだと感心するしかない。
　まあ、将棋の場合、羽生善治という人がいて、かれもまたいつも笑顔でだれにでも気さくな「新時代の天才」だったわけだが、やはりかれはその全盛期においては突出した存在だったと思う。
　こういった凄まじい才能と繊細な人格を併せ持つ若者が次々と出て来る現代日本は案外と悪くない時代なのではないかと思えてくる。
　もちろん、一部の突出した人間だけをサンプルに世代を語ることはできないわけだが、じっさい、「いまどきの若者たち」は平均的に見ても心やさしく温和で折り目正しい人が多いと感じられる。
　そう、おそらく問題なのはもっと上の世代なのかもしれない。羽生や大谷の世代が中心になったら、日本はまた変わって来るのではないか。
　そんなささやかな期待を抱かせるほど、この世代のスターたちは素晴らしいのだ。
　しかし、世の中は広いもので、こういう「できた人たち」が嫌いな人もいるのである。
　あるいはほとんど完璧な才能にしか見えるかれらに対する「逆張り」というものなのかもしれないが、たとえばフェミニストの北原みのりさんはこのように書いている。

　「羽生結弦」が苦手だ。
　などと言えば、日本全国どころか今や世界中の反感を買いそうだけれど、女は意外に「羽生結弦」が苦手なのではないか。羽生結弦さん個人のことではなく、「羽生結弦」というプロジェクトに対する苦手意識のようなものだと思ってほしい。結婚の報告を読んで、やっぱり「羽生結弦」が苦手……という以前からどこかで感じていた気持ちがむくむくとわき上がってしまっている。あんまりモヤモヤするので、なぜ「羽生結弦」が苦手なのか、言語化してみたい。
　率直に言えば、「羽生結弦」はとても重たく、そして直視するには、あまりに痛々しいのである。https://dot.asahi.com/articles/-/198345

　自分個人が苦手だというだけのことを「女は」と主語を大きくするところがなかなか最低な上に、この後には羽生結弦と「羽生結弦」に対する批判が延々と続いている（ただし、最後は大谷翔平には「悲壮感がない」と褒めている）。
　「「羽生結弦」というプロジェクト」のことを「重い」、「痛々しい」と感じることは理解できなくもないものの、そういう単なる個人的印象をもとに人をジャッジする厚顔さには反発を感じる。
　こういう人もいるのだ。
　また、作家の白饅頭さんは「大谷翔平のただしさと息苦しさ」と題した記事で、以下のツイートを取り上げ、

大谷翔平、28歳なのに高校生みたいな顔してて正直キモいと思ってしまう自分がいる。ネオテニーっぽさと言うか。
https://twitter.com/iikagenni_siro_/status/1633693442487517186

https://twitter.com/pannacottaso_v2/status/1633783099481026561
　「個人の感想にすぎないものが、ここまで罵詈雑言を浴びせられなければならないほど大炎上するのかと笑って驚いてしまった。」と語っている。
https://note.com/terrakei07/n/na4181dacf5c5
　かれはこれらのツイートの「炎上」を「大谷不敬罪」としてかなり冷笑的に揶揄しているのだが、ぼくにいわせれば、いまや世界的大スターでたくさんの人のリスペクトを集める大谷を「キモい」、「ネオテニーっぽ」いなどと中傷すれば批判を受けるのはあまりにもあたりまえのことである。
　まして、薬をやったりしないから人間的魅力がないなどという意見はちょっと理解を絶するトンデモツイートとしかいいようがなく、大炎上して当然の暴論としか考えられない。
　これらをあえて「個人の感想に過ぎない」とみなして弁護するなら、白饅頭さんが大嫌いな北原みのりさんのようなフェミニストの意見だって「個人の感想に過ぎない」と捉えるべきだろう。
　そもそも白饅頭さんが「恐ろしいほどの火柱」、「火あぶりの刑」、「罵詈雑言」とひとまとめにしているものもいってしまえば「個人の感想に過ぎない」わけで、もし「個人の感想」に対し批判が浴びせられるのが「息苦しい」というなら、白饅頭さん自身がやっていることは何なのかという話になってしまう。
　さらにいうなら、白饅頭さんはふだんからリベラリストやフェミニストの意見に対してはみずから率先して「罵詈雑言」を浴びせて「火あぶりの刑」に処しているのだから、よくもまあこういうしらじらしいことがいえるものだというしかない。
　ようは自分の同意見のお仲間が批判されることは一方的に「ただしさ」の押しつけとみなして「息苦しい」と感じるが、自分が他人を批判することは「ただしさに対する抵抗」と捉えて正当化しているのだろう。
　その意味で、かれの姿勢は北原さんと大差ないくらい恣意的だと感じてしまうのだけれど、まちがえていますかね。
　人が自分のいちばん嫌いなものに似ていくというのはこういうことである。そういうぼく自身もまた他山の石としなければならないだろうけれど。
　フェミニストとアンチ・フェミニストの有名人ふたりが期せずして羽生結弦と大谷翔平というふたりの天才アスリートについて、「痛々しい」とか「ただしさと息苦しさ」という言葉で批判的に語っていることは印象的だ。
　このふたつの意見にも、何となく共通項があるのが見て取れる。
　そう、北原さんと白饅頭さんの記事に共通しているものは、かれらの真摯で誠実な姿勢をある種の「過剰さ」とみなして攻撃する態度である。
　つまりは人間的な立派さそのものに対する反感なのだ。
　北原さんは羽生を「痛々しい」というし、白饅頭さんは大谷を「ただしい」と語るのだが、これらはようするに「完璧すぎるのが気に喰わない」という言葉のパラフレーズであるに過ぎない。
　もちろん、それではかれらが人間的に小物であったら好感を示すかというとそうではないだろう。
　こういう人は有名人がどれほど謙虚で誠実で理知的な態度を取ろうと関係なく、自分の「お気持ち」でジャッジしてはやれ「痛々しい」とかやれ「息苦しい」といって非難するものなのだ。
　フェミニストとアンチ・フェミニストと、思想的立場は真逆であるはずのふたりだが、自分の個人的な「お気持ち」を屈折した論理を駆使して一般論にまで拡大していく手つきはよく似ている。
　仲良く対談でもしてほしいくらい。羽生結弦と大谷翔平のどちらがひどいかをテーマに話したらどうですかね。意外と意見が合うかもしれない。
　大谷や羽生や藤井は少なくとも人前ではこういう繊細さを欠いた人の悪口をいわないわけで、それだけでもかれらが尊敬されるのは当然だと思える。
　北原さんたちに理解できないのは、世の中には練習をなまけたりだれかの悪口をいったりしなくても辛いと感じない人間もいるのだ、ということなのではないか。
　自分たちのレベルで考えると異常に見えても、大谷や羽生にとってはそれがナチュラルな態度であるという可能性もあるのだ。というか、おそらくそうなのだろう。かれらはかれらなりに自然体なのだと思われる。
　人として立派な態度で活躍する人物を見て「弱さ」がない人間なんて気持ち悪い、などと批判することはたやすい。
　しかし、大谷や羽生や藤井のような若き天才たちも努力して「弱さ」を克服してきた側面もあるはずなのである。
　それすらも批判されることは人間のさがとしてわかる。だが、それはもはやかれら天才たちの問題ではなく、どうにか天才の欠点を見つけて批判しようとする凡人たち自身の問題でしかないだろう。
　ひとりの能なしの凡人として、心からそう思うのである。
　</p>]]></description>
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                <pubDate>Mon, 20 Nov 2023 06:23:00 +0900</pubDate>
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                        <![CDATA[<p><div style="text-align:center;"><a href="https://www.amazon.co.jp/%E8%97%A4%E4%BA%95%E8%81%A1%E5%A4%AA%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%93%E3%81%86%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B-%E6%9D%89%E6%9C%AC-%E6%98%8C%E9%9A%86/dp/4569855180?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&amp;crid=333BOOJ3MHS07&amp;keywords=%E8%97%A4%E4%BA%95%E8%81%A1%E5%A4%AA&amp;qid=1700429028&amp;sprefix=%E8%97%A4%E4%BA%95%E8%81%A1%E5%A4%AA%2Caps%2C236&amp;sr=8-2-spons&amp;sp_csd=d2lkZ2V0TmFtZT1zcF9hdGY&amp;psc=1&amp;linkCode=li3&amp;tag=sometorang-22&amp;linkId=e229c62b6781bf5919101d0a87f09b3b&amp;language=ja_JP&amp;ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;ASIN=4569855180&amp;Format=_SL250_&amp;ID=AsinImage&amp;MarketPlace=JP&amp;ServiceVersion=20070822&amp;WS=1&amp;tag=sometorang-22&amp;language=ja_JP" alt="q?_encoding=UTF8&amp;ASIN=4569855180&amp;Format=" /><br /><br /></a></div>
<div>　苛烈な時代は不世出の才能を生むものなのだろうか、いまの日本を一望すると、さまざまな分野で異質なほどの能力を示す若者が幾人も見つかる。</div>
<br /><div>　そのなかでも、しんじつ最高の天才と呼びたいのが以下の三人だ。</div>
<br /><div>　野球二刀流の大谷翔平。</div>
<br /><div>　フィギュアスケート金メダリストの羽生結弦。</div>
<br /><div>　将棋八冠の藤井聡太。</div>
<br /><div>　いずれもその分野における最高の実力者である。</div>
<br /><div>　そしてまた、それだけではなく、この三人にはあきらかに共通項がある、と感じる。</div>
<br /><div>　また、そう思うのはぼくだけではないらしく、Googleで「大谷翔平　羽生結弦」と入れると「藤井聡太」がサジェスションされたりする。</div>
<br /><div>　まったくべつのジャンルの人物ではあるが、どうにも並べて語りたくなるところのある三人なのだ。</div>
<br /><div>　それでは、そんなかれらの共通点とは何か。</div>
<br /><div>　いうまでもないだろう、いままでの常識では考えられないような快挙を実現した並はずれた天才であるのみならず、ふだんから礼儀正しく、いつも謙虚で偉ぶらないその人格の高潔さだ。</div>
<br /><div>　ただその成績だけを見ても、それぞれの競技でかれらほどの業績を成し遂げた者はかつてないわけだが、それ以上に印象に残るのは人を分け隔てせず、だれに対しても優しく接するその人間的な度量の大きさである。</div>
<br /><div>　かつて、「天才」というと、世間知らずだったり常識がなかったり、あるいは放埓な性格だったりと、ある側面では巨大な力量を示しながら、べつの面では何か欠落を抱えているものという印象が強かった。談志とか。</div>
<br /><div>　それはときにかれら自身を破滅に追いやることもあるほどで、ある種、その種の天才たちに対して一般人は崇拝とともに見下しを抱いていたのではないかと思う。</div>
<br /><div>　しかし、上記の三人は違う。その成果だけをみてもそれはもう途方もないほどの大天才たちである上に、人格的にもきわめて成熟しているのである。</div>
<br /><div>　あるいは、これからフィクションで天才を描くとき、才能と欠落を等量に抱えているような描写をすると古くさい印象になってしまうかもしれない。</div>
<br /><div>　それくらい、かれらの人間的な素晴らしさは「天才」のイメージそのものを塗り替えてしまった。</div>
<br /><div>　現在20代の三人を一世代としてくくるとしたら、この世代はほんとうに立派な人間を生み出したものだと感心するしかない。</div>
<br /><div>　まあ、将棋の場合、羽生善治という人がいて、かれもまたいつも笑顔でだれにでも気さくな「新時代の天才」だったわけだが、やはりかれはその全盛期においては突出した存在だったと思う。</div>
<br /><div>　こういった凄まじい才能と繊細な人格を併せ持つ若者が次々と出て来る現代日本は案外と悪くない時代なのではないかと思えてくる。</div>
<br /><div>　もちろん、一部の突出した人間だけをサンプルに世代を語ることはできないわけだが、じっさい、「いまどきの若者たち」は平均的に見ても心やさしく温和で折り目正しい人が多いと感じられる。</div>
<br /><div>　そう、おそらく問題なのはもっと上の世代なのかもしれない。羽生や大谷の世代が中心になったら、日本はまた変わって来るのではないか。</div>
<br /><div>　そんなささやかな期待を抱かせるほど、この世代のスターたちは素晴らしいのだ。</div>
<br /><div>　しかし、世の中は広いもので、こういう「できた人たち」が嫌いな人もいるのである。</div>
<br /><div>　あるいはほとんど完璧な才能にしか見えるかれらに対する「逆張り」というものなのかもしれないが、たとえばフェミニストの北原みのりさんはこのように書いている。</div>
<br /><blockquote>
<div>　「羽生結弦」が苦手だ。</div>
<div>　などと言えば、日本全国どころか今や世界中の反感を買いそうだけれど、女は意外に「羽生結弦」が苦手なのではないか。羽生結弦さん個人のことではなく、「羽生結弦」というプロジェクトに対する苦手意識のようなものだと思ってほしい。結婚の報告を読んで、やっぱり「羽生結弦」が苦手……という以前からどこかで感じていた気持ちがむくむくとわき上がってしまっている。あんまりモヤモヤするので、なぜ「羽生結弦」が苦手なのか、言語化してみたい。</div>
<div>　率直に言えば、「羽生結弦」はとても重たく、そして直視するには、あまりに痛々しいのである。<br /><br /><a href="https://dot.asahi.com/articles/-/198345">https://dot.asahi.com/articles/-/198345</a></div>
</blockquote>
<br /><div>　自分個人が苦手だというだけのことを「女は」と主語を大きくするところがなかなか最低な上に、この後には羽生結弦と「羽生結弦」に対する批判が延々と続いている（ただし、最後は大谷翔平には「悲壮感がない」と褒めている）。</div>
<br /><div>　「「羽生結弦」というプロジェクト」のことを「重い」、「痛々しい」と感じることは理解できなくもないものの、そういう単なる個人的印象をもとに人をジャッジする厚顔さには反発を感じる。</div>
<br /><div>　こういう人もいるのだ。</div>
<br /><div>　また、作家の白饅頭さんは「大谷翔平のただしさと息苦しさ」と題した記事で、以下のツイートを取り上げ、</div>
<br /><blockquote>
<div>大谷翔平、28歳なのに高校生みたいな顔してて正直キモいと思ってしまう自分がいる。ネオテニーっぽさと言うか。</div>
<br /><div><a href="https://twitter.com/iikagenni_siro_/status/1633693442487517186">https://twitter.com/iikagenni_siro_/status/1633693442487517186</a></div>
</blockquote>
<div><a href="https://twitter.com/pannacottaso_v2/status/1633783099481026561">https://twitter.com/pannacottaso_v2/status/1633783099481026561</a></div>
<br /><div>　「個人の感想にすぎないものが、ここまで罵詈雑言を浴びせられなければならないほど大炎上するのかと笑って驚いてしまった。」と語っている。</div>
<div><br /><a href="https://note.com/terrakei07/n/na4181dacf5c5">https://note.com/terrakei07/n/na4181dacf5c5</a></div>
<br /><div>　かれはこれらのツイートの「炎上」を「大谷不敬罪」としてかなり冷笑的に揶揄しているのだが、ぼくにいわせれば、いまや世界的大スターでたくさんの人のリスペクトを集める大谷を「キモい」、「ネオテニーっぽ」いなどと中傷すれば批判を受けるのはあまりにもあたりまえのことである。</div>
<br /><div>　まして、薬をやったりしないから人間的魅力がないなどという意見はちょっと理解を絶するトンデモツイートとしかいいようがなく、大炎上して当然の暴論としか考えられない。</div>
<br /><div>　これらをあえて「個人の感想に過ぎない」とみなして弁護するなら、白饅頭さんが大嫌いな北原みのりさんのようなフェミニストの意見だって「個人の感想に過ぎない」と捉えるべきだろう。</div>
<br /><div>　そもそも白饅頭さんが「恐ろしいほどの火柱」、「火あぶりの刑」、「罵詈雑言」とひとまとめにしているものもいってしまえば「個人の感想に過ぎない」わけで、もし「個人の感想」に対し批判が浴びせられるのが「息苦しい」というなら、白饅頭さん自身がやっていることは何なのかという話になってしまう。</div>
<br /><div>　さらにいうなら、白饅頭さんはふだんからリベラリストやフェミニストの意見に対してはみずから率先して「罵詈雑言」を浴びせて「火あぶりの刑」に処しているのだから、よくもまあこういうしらじらしいことがいえるものだというしかない。</div>
<br /><div>　ようは自分の同意見のお仲間が批判されることは一方的に「ただしさ」の押しつけとみなして「息苦しい」と感じるが、自分が他人を批判することは「ただしさに対する抵抗」と捉えて正当化しているのだろう。</div>
<br /><div>　その意味で、かれの姿勢は北原さんと大差ないくらい恣意的だと感じてしまうのだけれど、まちがえていますかね。</div>
<br /><div>　人が自分のいちばん嫌いなものに似ていくというのはこういうことである。そういうぼく自身もまた他山の石としなければならないだろうけれど。</div>
<br /><div>　フェミニストとアンチ・フェミニストの有名人ふたりが期せずして羽生結弦と大谷翔平というふたりの天才アスリートについて、「痛々しい」とか「ただしさと息苦しさ」という言葉で批判的に語っていることは印象的だ。</div>
<br /><div>　このふたつの意見にも、何となく共通項があるのが見て取れる。</div>
<br /><div>　そう、北原さんと白饅頭さんの記事に共通しているものは、かれらの真摯で誠実な姿勢をある種の「過剰さ」とみなして攻撃する態度である。</div>
<br /><div>　つまりは人間的な立派さそのものに対する反感なのだ。</div>
<br /><div>　北原さんは羽生を「痛々しい」というし、白饅頭さんは大谷を「ただしい」と語るのだが、これらはようするに「完璧すぎるのが気に喰わない」という言葉のパラフレーズであるに過ぎない。</div>
<br /><div>　もちろん、それではかれらが人間的に小物であったら好感を示すかというとそうではないだろう。</div>
<br /><div>　こういう人は有名人がどれほど謙虚で誠実で理知的な態度を取ろうと関係なく、自分の「お気持ち」でジャッジしてはやれ「痛々しい」とかやれ「息苦しい」といって非難するものなのだ。</div>
<br /><div>　フェミニストとアンチ・フェミニストと、思想的立場は真逆であるはずのふたりだが、自分の個人的な「お気持ち」を屈折した論理を駆使して一般論にまで拡大していく手つきはよく似ている。</div>
<br /><div>　仲良く対談でもしてほしいくらい。羽生結弦と大谷翔平のどちらがひどいかをテーマに話したらどうですかね。意外と意見が合うかもしれない。</div>
<br /><div>　大谷や羽生や藤井は少なくとも人前ではこういう繊細さを欠いた人の悪口をいわないわけで、それだけでもかれらが尊敬されるのは当然だと思える。</div>
<br /><div>　北原さんたちに理解できないのは、世の中には練習をなまけたりだれかの悪口をいったりしなくても辛いと感じない人間もいるのだ、ということなのではないか。</div>
<br /><div>　自分たちのレベルで考えると異常に見えても、大谷や羽生にとってはそれがナチュラルな態度であるという可能性もあるのだ。というか、おそらくそうなのだろう。かれらはかれらなりに自然体なのだと思われる。</div>
<br /><div>　人として立派な態度で活躍する人物を見て「弱さ」がない人間なんて気持ち悪い、などと批判することはたやすい。</div>
<br /><div>　しかし、大谷や羽生や藤井のような若き天才たちも努力して「弱さ」を克服してきた側面もあるはずなのである。</div>
<br /><div>　それすらも批判されることは人間のさがとしてわかる。だが、それはもはやかれら天才たちの問題ではなく、どうにか天才の欠点を見つけて批判しようとする凡人たち自身の問題でしかないだろう。</div>
<br /><div>　ひとりの能なしの凡人として、心からそう思うのである。</div>
<div><br />　</div>
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2173995">続きを読む</a>
                        </p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[絶望の時代が生み出した現実逃避文学「異世界転生」に希望は見いだせるのか。]]></title>
                <description><![CDATA[<p>
　「異世界」とは結局、何なのか？
　芳賀概夢＆灯まりも『異世界車中泊物語　アウトランナーPHEV』というマンガを何だか気に入ってしまって、読みつづけている。　一見するとあまり語ることのない、見ようによっては平凡な作品である。
　主人公は仕事にも生活にも行き詰まっているダメサラリーマンで、あるとき、ちょっとしたことから異世界におもむき、そこで冒険したり、美少女たちと出逢ったりする。
　なんということはない、あたりまえの「異世界系」。
　それはそうなのだが、この作品に特異性があるとすれば、それはいったん行った異世界から「現実世界に戻ってくる」ところだろう。
　そう、この物語においては主人公が、異世界と現実を行き来しながら少しずつ少しずつ「成長」していくのだ。
　ここが、革命的に新しいというほどではないにせよ、何となく気になる。
　現実と異世界を往還するだけなら『日帰りクエスト』の時代からあるにはあるのだが、それでも、いままでの「異世界系」は「行ってしまって、帰ってこない」ストーリーが主流だった。

　そもそも「異世界転生もの」のばあい、転生するまえに一度死んでしまっているのだから帰りようがない。
　「転生もの」よりさらに以前のファンタジーの主流が「行きて帰りし物語」だったのに対して、「転生もの」は故郷に帰るつもりがまったくないのだ。
　なぜ、このような物語類型が生まれたのか？
　その点について考えるためには、そもそも、「小説家になろう」を中心に爆発的に浸透し、いまなお広く読まれている「異世界系」の、その「異世界」とは何なのか、考えなければならない。
　</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2173987</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2173987</guid>
                <pubDate>Sun, 19 Nov 2023 23:37:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[考え過ぎ]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><center><a href="https://www.amazon.co.jp/%E7%95%B0%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%BB%8A%E4%B8%AD%E6%B3%8A%E7%89%A9%E8%AA%9E-%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%8A%E3%83%BC%EF%BC%B0%EF%BC%A8%EF%BC%A5%EF%BC%B6%EF%BC%88%EF%BC%91%EF%BC%89-%E3%82%A2%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E7%81%AF%E3%81%BE%E3%82%8A%E3%82%82-ebook/dp/B0BG55YF19?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&amp;crid=1K7VZ8RPNMZ4P&amp;keywords=%E7%95%B0%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%BB%8A%E4%B8%AD%E6%B3%8A%E7%89%A9%E8%AA%9E&amp;qid=1700404222&amp;sprefix=%E7%95%B0%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%BB%8A%E4%B8%AD%E6%B3%8A%E7%89%A9%E8%AA%9E%2Caps%2C164&amp;sr=8-2&amp;linkCode=li3&amp;tag=sometorang-22&amp;linkId=fb77874cf81bdcb6f9c650516144ed09&amp;language=ja_JP&amp;ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;ASIN=B0BG55YF19&amp;Format=_SL250_&amp;ID=AsinImage&amp;MarketPlace=JP&amp;ServiceVersion=20070822&amp;WS=1&amp;tag=sometorang-22&amp;language=ja_JP" alt="q?_encoding=UTF8&amp;ASIN=B0BG55YF19&amp;Format=" /></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=sometorang-22&amp;language=ja_JP&amp;l=li3&amp;o=9&amp;a=B0BG55YF19" width="1" height="1" alt="" style="border:none;margin:0px;" /></center>
<p><br />　<strong>「異世界」とは結局、何なのか？</strong></p>
<p>　芳賀概夢＆灯まりも『異世界車中泊物語　アウトランナーPHEV』というマンガを何だか気に入ってしまって、読みつづけている。<br /><br />　一見するとあまり語ることのない、見ようによっては平凡な作品である。</p>
<p>　主人公は仕事にも生活にも行き詰まっているダメサラリーマンで、あるとき、ちょっとしたことから異世界におもむき、そこで冒険したり、美少女たちと出逢ったりする。</p>
<p>　なんということはない、あたりまえの「異世界系」。</p>
<p>　それはそうなのだが、この作品に特異性があるとすれば、それはいったん行った異世界から「現実世界に戻ってくる」ところだろう。</p>
<p>　そう、この物語においては主人公が、異世界と現実を行き来しながら少しずつ少しずつ「成長」していくのだ。</p>
<p>　ここが、革命的に新しいというほどではないにせよ、何となく気になる。</p>
<p>　現実と異世界を往還するだけなら『日帰りクエスト』の時代からあるにはあるのだが、それでも、いままでの「異世界系」は「行ってしまって、帰ってこない」ストーリーが主流だった。</p>
<div></div>
<p>　そもそも「異世界転生もの」のばあい、転生するまえに一度死んでしまっているのだから帰りようがない。</p>
<p>　「転生もの」よりさらに以前のファンタジーの主流が「行きて帰りし物語」だったのに対して、「転生もの」は故郷に帰るつもりがまったくないのだ。</p>
<p>　なぜ、このような物語類型が生まれたのか？</p>
<p>　その点について考えるためには、そもそも、「小説家になろう」を中心に爆発的に浸透し、いまなお広く読まれている「異世界系」の、その「異世界」とは何なのか、考えなければならない。</p>
　
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2173987">続きを読む</a>
                        </p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[電子書籍新刊発売！＆RTで5000円＋αがあたる販促企画実施ちう！]]></title>
                <description><![CDATA[<p>
　電子書籍新刊『Simple is the worst　－単純すぎる扇動言論がこの世界を焼き尽くす－』をAmazon Kindle Storeにて（ようやく）販売開始ました。ぱちぱちぱちぱち。
　まあ、そういうわけでひさしぶりの新刊なのですが、原稿そのものは随分前からできていました。ちなみに『ヲタスピ（仮題）』上下巻の原稿もすでにしあがっています。なぜすぐに出ないんでしょうね。不思議だ。
　まあそれはともかく。『Simple is the worst』はタイトルの通り、「単純すぎる言説」を批判する内容となっています。
　シンプル・イズ・ザ・ベスト。一般に、世間ではそのようにいわれることが多いでしょう。シンプルであることは当然に「良いこと」であり、言葉をもちいるときにはよりシンプルな内容になるよう工夫するべきであると。しかし、本書の内容はそれとは正反対です。
　シンプル・イズ・ザ・ワースト。本書は「シンプルであること」がときに非常な問題を孕むことを指摘し、多数の参考資料をもとに、その問題を解決するためにはどうすれば良いかを語っています。
　ただし、単にシンプルさを否定しているわけではありません。本書で問題として取り上げるのはあくまで「過剰な単純さ」であり、決してシンプルであろうとすることそのものを問題視しているわけではありません。
　アインシュタインがいうところの「simple（適切な単純さ）」と「simpler（過剰な単純さ）」の差はどこにあるのか、それもまた本書のテーマのひとつといって良いでしょう。
　また、本書は男性と女性、右翼と左翼、フェミニズムとアンチフェミニズム、リベラルとアンチリベラルといった、ネットでよくみられる素朴な対立項を解体することも目的としています。
　このような一見すると不倶戴天の関係は、しかし、その実、見た目ほどわかりやすい対立を抱えているわけではないと著者は考えます。
　じっさい、普段からソーシャルメディアをお使いの方のなかには、このような対立する党派の人間が延々と議論ともいえないようないがみあいを続けているところを見てうんざりしたこともおありなのではないでしょうか？
　Twitterなどでは一見するとほとんどすべての人間が対立する派閥のどちらかに属しているように見えてしまう一面がありますが、じっさいにはどちらにも属さない「サイレント・マジョリティ」が大勢いるが大勢いるはずです。
　本書の想定読者の第一はまさにそのような方たちです。もし、あなたにそのようなところがあるとすれば、本書を読み、いっしょに問題についてお考えになってくだされば幸いです。現在、特価１００円で販売ちうです。よろしくお願いいたします。
https://www.amazon.co.jp/dp/B0C6MY3WY8
　ちなみに、新刊発売記念の販促企画ということで、以下のツイートをリツイートすると５０００円＋αが当たります。ぜひ、ＲＴしていただけると非常に助かります。よろしくお願いします。
https://twitter.com/kaien/status/1663675372851056640
　以下に、本編の冒頭第一章までを掲載しておきます。
　まえがき
「今や社会そのもの、さらには社会活動、社会問題のすべてがあまりに複雑である。唯一の「正しい答え」が、あらゆる問題に通用するはずがない。答えは複数ある。だが、そのうちかなり正しいと言えるものさえ一つもない。」
　経営学の巨人ピーター・ドラッカーが著書『新しい現実』のなかでこのように述べてからすでに四半世紀が経ちます。
　その間も社会はいっそうの複雑化と不透明化を遂げ、ドラッカーが「新しい現実」と呼んだその難解な社会状況を作り上げています。
　もはやきわめて多面的な社会の全体像を理解している者はひとりもおらず、諸々の問題に対して唯一にして明快な「正しい答え」を見出すことは不可能になってしまったかのようです。
　たとえば原発稼働問題や少子化問題ひとつ取ってみても、往古、アレクサンドロス大王が一刀両断したというゴルディアスの結び目さながら、あまりにも多くの事情が絡み合っていて、シンプルに解き明かすことはきわめてむずかしいでしょう。
　もちろん、それこそ現代のアレクサンドロスたらんと、自分こそはこの時代と社会に対して明快な処方箋を提示する人物は多数存在します。
　しかし、その意見に対しては同程度の説得力を持つべつの意見が必ず存在し、熾烈な言論闘争が繰り広げられることになります。そして、その双方が自分の主張こそ絶対的に正しいとみなしているようなのです。
　分断と対立の時代。
　思えばドラッカーが上記の内容を記したのは1989年、ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が本格的に終わりを告げた年のことでした。
　善悪も成否もすっかり理解しづらくなってしまった現代の社会が冷戦終結による「大きな物語」の失墜から始まるとすれば、わたしたちはまさに「混迷の三分の一世紀」を見て来たことになります。
　そういうわけで、何もかも複雑で手に負えない時代であるわけですが、逆説的なことに、まさにそうであるからこそ、世界各地で極度に単純化された言説が飛び交っています。
　もちろん、粗雑なまでに単純な扇動が人々を動員する事態はいまに始まったことではありません。
　文豪ウィリアム・シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を読むとき、わたしたちは人々を突き動かすアジテーションの実体が何も変わっていないことに苦笑させられるでしょう。
　しかし、そうはいってもインターネット、特にいわゆるソーシャルメディアを通して「インフルエンサー」たちがアジテーションを続け、影響力を発揮する現代特有の問題は看過できないものがあります。
　わたしの目から見ると、そういったインターネット・インフルエンサーの意見はしばしばあまりにも単純すぎます。
　必ずしも端的に間違えているというのではありません。ただ、きわめて複雑で難解な問題をシンプルに読み解きすぎている、極端な党派性に拠って自派の正統性を盲目的に信頼しすぎている、そのような印象を受けます。
　ドラッカーがいうには、「あまりに複雑」なこの社会に対して「正しい答え」は「複数ある」。
　ですが、それにもかかわらず、その複数の「答え」のもち主がいずれも自派の主張のみが絶対的に正しいと主張し、他派を揶揄し嘲弄し罵倒し攻撃する、「合理的な批判」という美名のもとに。そのような事態をあまりに多く見かけることになりました。
　それは思想的に右派であるか左派かといった違いに依存しません。むしろもはやイデオロギー的な左右など、表面的な差異に過ぎないようにすら感じられるほどです。
　たしかに、ものごとをよりシンプルに切り詰めて考えることを奨める「オッカムの剃刀」という言葉があるように、複雑なことを単純化して捉えることは重要です。
　大半の人はあまりに複雑すぎる情報を一瞬で把握できるような特殊な頭脳を持っていないので、わかりやすく説明することによって初めて他者の理解を得られる一面はあります。
　とはいえ、その剃刀で色々なものを切り落とし過ぎて本質を見失っては元も子もありません。ものごとを単純化して認識する際には、なるべく丁寧かつ慎重に自己批判しながら実行するべきでしょう。
　それが本書の基本的なスタンスです。
　もっとも、本書の姿勢そのものが丁寧さと慎重さを十分に備えていないというご批判はありえます。
　可能な限り公正を心がけたつもりですが、読者諸氏のご意見ご批判を承れれば幸いです。
　わたしは学者でもなければジャーナリストでもありません。また、べつだん、社会に対し高邁な識見を持っているわけでもなければ、崇高な理想を胸に抱えて活動しているともいえないでしょう。
　一介のライターないしブロガーです。つまりはどこにでもいる在野の一市民に過ぎません。
　しかし、そのわたしの目から見ても、いま、あまりにも単純な言説が飛び交い、しかも一定の支持を受けていることは大きな問題に思えます。
　もちろん、そういった粗雑な意見に対してはそれなりの批判が寄せられるのですが、管見するところ、その批判に対する反応が成熟した対話なり議論なりに進むことはほとんどなく、ただ相手に対する怒りと憎しみが増進しつづけているように思われます。
　本書は、そのような現実に対する危機感から書かれました。
　特定の思想なり理念を指示するものではなく、そういった理想を表明する際の方法論について記したつもりです。
　よろしくご一読をお願いします。
　</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2152273</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2152273</guid>
                <pubDate>Wed, 31 May 2023 09:03:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[1]]></category>
                <category><![CDATA[2]]></category>
                <category><![CDATA[3]]></category>
                <category><![CDATA[4]]></category>
                <category><![CDATA[5]]></category>
                <category><![CDATA[6]]></category>
                <category><![CDATA[7]]></category>
                <category><![CDATA[8]]></category>
                <category><![CDATA[9]]></category>
                <category><![CDATA[10]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div><img data-image_id="865968" width="293" src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch908/865968/06580e5c30f5cd732c2990001f752d02fb2f8692.jpg" height="458" style="margin-left:auto;margin-right:auto;" alt="06580e5c30f5cd732c2990001f752d02fb2f8692" /></div>
<div>　電子書籍新刊『Simple is the worst　－単純すぎる扇動言論がこの世界を焼き尽くす－』をAmazon Kindle Storeにて（ようやく）販売開始ました。ぱちぱちぱちぱち。</div>
<br /><div>　まあ、そういうわけでひさしぶりの新刊なのですが、原稿そのものは随分前からできていました。ちなみに『ヲタスピ（仮題）』上下巻の原稿もすでにしあがっています。なぜすぐに出ないんでしょうね。不思議だ。</div>
<br /><div>　まあそれはともかく。『Simple is the worst』はタイトルの通り、「単純すぎる言説」を批判する内容となっています。</div>
<br /><div>　シンプル・イズ・ザ・ベスト。一般に、世間ではそのようにいわれることが多いでしょう。シンプルであることは当然に「良いこと」であり、言葉をもちいるときにはよりシンプルな内容になるよう工夫するべきであると。しかし、本書の内容はそれとは正反対です。</div>
<br /><div>　シンプル・イズ・ザ・ワースト。本書は「シンプルであること」がときに非常な問題を孕むことを指摘し、多数の参考資料をもとに、その問題を解決するためにはどうすれば良いかを語っています。</div>
<br /><div>　ただし、単にシンプルさを否定しているわけではありません。本書で問題として取り上げるのはあくまで「過剰な単純さ」であり、決してシンプルであろうとすることそのものを問題視しているわけではありません。</div>
<br /><div>　アインシュタインがいうところの「simple（適切な単純さ）」と「simpler（過剰な単純さ）」の差はどこにあるのか、それもまた本書のテーマのひとつといって良いでしょう。</div>
<br /><div>　また、本書は男性と女性、右翼と左翼、フェミニズムとアンチフェミニズム、リベラルとアンチリベラルといった、ネットでよくみられる素朴な対立項を解体することも目的としています。</div>
<br /><div>　このような一見すると不倶戴天の関係は、しかし、その実、見た目ほどわかりやすい対立を抱えているわけではないと著者は考えます。</div>
<br /><div>　じっさい、普段からソーシャルメディアをお使いの方のなかには、このような対立する党派の人間が延々と議論ともいえないようないがみあいを続けているところを見てうんざりしたこともおありなのではないでしょうか？</div>
<br /><div>　Twitterなどでは一見するとほとんどすべての人間が対立する派閥のどちらかに属しているように見えてしまう一面がありますが、じっさいにはどちらにも属さない「サイレント・マジョリティ」が大勢いるが大勢いるはずです。</div>
<br /><div>　本書の想定読者の第一はまさにそのような方たちです。もし、あなたにそのようなところがあるとすれば、本書を読み、いっしょに問題についてお考えになってくだされば幸いです。現在、特価１００円で販売ちうです。よろしくお願いいたします。</div>
<br /><div><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/B0C6MY3WY8">https://www.amazon.co.jp/dp/B0C6MY3WY8</a></div>
<br /><div>　ちなみに、新刊発売記念の販促企画ということで、以下のツイートをリツイートすると５０００円＋αが当たります。ぜひ、ＲＴしていただけると非常に助かります。よろしくお願いします。</div>
<br /><div><a href="https://twitter.com/kaien/status/1663675372851056640">https://twitter.com/kaien/status/1663675372851056640</a></div>
<br /><div>　以下に、本編の冒頭第一章までを掲載しておきます。</div>
<br /><div>　まえがき</div>
<br /><div>「今や社会そのもの、さらには社会活動、社会問題のすべてがあまりに複雑である。唯一の「正しい答え」が、あらゆる問題に通用するはずがない。答えは複数ある。だが、そのうちかなり正しいと言えるものさえ一つもない。」</div>
<br /><div>　経営学の巨人ピーター・ドラッカーが著書『新しい現実』のなかでこのように述べてからすでに四半世紀が経ちます。</div>
<br /><div>　その間も社会はいっそうの複雑化と不透明化を遂げ、ドラッカーが「新しい現実」と呼んだその難解な社会状況を作り上げています。</div>
<br /><div>　もはやきわめて多面的な社会の全体像を理解している者はひとりもおらず、諸々の問題に対して唯一にして明快な「正しい答え」を見出すことは不可能になってしまったかのようです。</div>
<br /><div>　たとえば原発稼働問題や少子化問題ひとつ取ってみても、往古、アレクサンドロス大王が一刀両断したというゴルディアスの結び目さながら、あまりにも多くの事情が絡み合っていて、シンプルに解き明かすことはきわめてむずかしいでしょう。</div>
<br /><div>　もちろん、それこそ現代のアレクサンドロスたらんと、自分こそはこの時代と社会に対して明快な処方箋を提示する人物は多数存在します。</div>
<br /><div>　しかし、その意見に対しては同程度の説得力を持つべつの意見が必ず存在し、熾烈な言論闘争が繰り広げられることになります。そして、その双方が自分の主張こそ絶対的に正しいとみなしているようなのです。</div>
<br /><div>　分断と対立の時代。</div>
<br /><div>　思えばドラッカーが上記の内容を記したのは1989年、ベルリンの壁が崩壊し東西冷戦が本格的に終わりを告げた年のことでした。</div>
<br /><div>　善悪も成否もすっかり理解しづらくなってしまった現代の社会が冷戦終結による「大きな物語」の失墜から始まるとすれば、わたしたちはまさに「混迷の三分の一世紀」を見て来たことになります。</div>
<br /><div>　そういうわけで、何もかも複雑で手に負えない時代であるわけですが、逆説的なことに、まさにそうであるからこそ、世界各地で極度に単純化された言説が飛び交っています。</div>
<br /><div>　もちろん、粗雑なまでに単純な扇動が人々を動員する事態はいまに始まったことではありません。</div>
<br /><div>　文豪ウィリアム・シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を読むとき、わたしたちは人々を突き動かすアジテーションの実体が何も変わっていないことに苦笑させられるでしょう。</div>
<br /><div>　しかし、そうはいってもインターネット、特にいわゆるソーシャルメディアを通して「インフルエンサー」たちがアジテーションを続け、影響力を発揮する現代特有の問題は看過できないものがあります。</div>
<br /><div>　わたしの目から見ると、そういったインターネット・インフルエンサーの意見はしばしばあまりにも単純すぎます。</div>
<br /><div>　必ずしも端的に間違えているというのではありません。ただ、きわめて複雑で難解な問題をシンプルに読み解きすぎている、極端な党派性に拠って自派の正統性を盲目的に信頼しすぎている、そのような印象を受けます。</div>
<br /><div>　ドラッカーがいうには、「あまりに複雑」なこの社会に対して「正しい答え」は「複数ある」。</div>
<br /><div>　ですが、それにもかかわらず、その複数の「答え」のもち主がいずれも自派の主張のみが絶対的に正しいと主張し、他派を揶揄し嘲弄し罵倒し攻撃する、「合理的な批判」という美名のもとに。そのような事態をあまりに多く見かけることになりました。</div>
<br /><div>　それは思想的に右派であるか左派かといった違いに依存しません。むしろもはやイデオロギー的な左右など、表面的な差異に過ぎないようにすら感じられるほどです。</div>
<br /><div>　たしかに、ものごとをよりシンプルに切り詰めて考えることを奨める「オッカムの剃刀」という言葉があるように、複雑なことを単純化して捉えることは重要です。</div>
<br /><div>　大半の人はあまりに複雑すぎる情報を一瞬で把握できるような特殊な頭脳を持っていないので、わかりやすく説明することによって初めて他者の理解を得られる一面はあります。</div>
<br /><div>　とはいえ、その剃刀で色々なものを切り落とし過ぎて本質を見失っては元も子もありません。ものごとを単純化して認識する際には、なるべく丁寧かつ慎重に自己批判しながら実行するべきでしょう。</div>
<br /><div>　それが本書の基本的なスタンスです。</div>
<br /><div>　もっとも、本書の姿勢そのものが丁寧さと慎重さを十分に備えていないというご批判はありえます。</div>
<br /><div>　可能な限り公正を心がけたつもりですが、読者諸氏のご意見ご批判を承れれば幸いです。</div>
<br /><div>　わたしは学者でもなければジャーナリストでもありません。また、べつだん、社会に対し高邁な識見を持っているわけでもなければ、崇高な理想を胸に抱えて活動しているともいえないでしょう。</div>
<br /><div>　一介のライターないしブロガーです。つまりはどこにでもいる在野の一市民に過ぎません。</div>
<br /><div>　しかし、そのわたしの目から見ても、いま、あまりにも単純な言説が飛び交い、しかも一定の支持を受けていることは大きな問題に思えます。</div>
<br /><div>　もちろん、そういった粗雑な意見に対してはそれなりの批判が寄せられるのですが、管見するところ、その批判に対する反応が成熟した対話なり議論なりに進むことはほとんどなく、ただ相手に対する怒りと憎しみが増進しつづけているように思われます。</div>
<br /><div>　本書は、そのような現実に対する危機感から書かれました。</div>
<br /><div>　特定の思想なり理念を指示するものではなく、そういった理想を表明する際の方法論について記したつもりです。</div>
<br /><div>　よろしくご一読をお願いします。</div>
<div>　</div>
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                        </p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[最高で最低のテーマパーク映画としての『スーパーマリオ・ザ・ムービー』。]]></title>
                <description><![CDATA[<p>（この記事は映画『スーパーマリオ・ザ・ムービー』の内容について全面的にネタバレしています！　まだ映画を未見の方はそのむね了承の上でお読みください。まあ、たいしてネタバレを気にしなければならないようなタイプの映画ではありませんが、一応、注意を喚起しておきます。念のため。）
　世界的に大ヒットを続けている映画『スーパーマリオブラザーズ・ザ・ムービー』が先日、日本でも公開され、好評を得ている。
　このゴールデンウィークは日米の大作映画がいくつも上映され、それぞれに大きな数字を記録している状況だが、そのなかでも『マリオ』の人気は頭ひとつふたつ抜け出ているようだ。
　ぼくも近所の4DX3Dで見て来て楽しんだ。すでに各所で指摘されていることだが、この映画は4DXときわめて相性が良い。これから見ようという気があって、4DXの映画館が近くにある方は、ぜひそちらで視聴することをオススメする。非常に楽しい映画</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2149247</link>
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                <pubDate>Fri, 05 May 2023 10:22:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[流行りに乗っときゃ誰か食いつくと思った?]]></category>
                <category><![CDATA[コメント0件]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div>（この記事は映画『スーパーマリオ・ザ・ムービー』の内容について全面的にネタバレしています！　まだ映画を未見の方はそのむね了承の上でお読みください。まあ、たいしてネタバレを気にしなければならないようなタイプの映画ではありませんが、一応、注意を喚起しておきます。念のため。）</div>
<br /><div>　世界的に大ヒットを続けている映画『スーパーマリオブラザーズ・ザ・ムービー』が先日、日本でも公開され、好評を得ている。</div>
<br /><div>　このゴールデンウィークは日米の大作映画がいくつも上映され、それぞれに大きな数字を記録している状況だが、そのなかでも『マリオ』の人気は頭ひとつふたつ抜け出ているようだ。</div>
<br /><div>　ぼくも近所の4DX3Dで見て来て楽しんだ。すでに各所で指摘されていることだが、この映画は4DXときわめて相性が良い。これから見ようという気があって、4DXの映画館が近くにある方は、ぜひそちらで視聴することをオススメする。非常に楽しい映画</div>
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                        </p>]]>
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                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[『ナウシカ論』を書くよ。]]></title>
                <description><![CDATA[<p>　どもです。
　ただいま、『ナウシカ論』的にアレな電子書籍の草稿を書いています。そのまま「ナウシカ論」というタイトルになるかどうかはいまのところ未定ですが、漫画版の『風の谷のナウシカ』を扱った本になることは間違いありません。
　来月前半には書き上がるよう鋭意執筆ちうです。ほんとうなら、今月中には仕上がるはずだったのですが、順調に予定が遅れて今日に至ります。いま、30000文字弱くらいまで書きました。あと、40000～50000文字くらい書けば完成です。
　でも、資料の読み込みが必要なのでわりと時間がかかることになると思います。まあ良いけど。
　漫画版の『ナウシカ』を批評的に読み解いた本としては、いまのところ、稲葉振一郎『ナウシカ解読』と赤坂憲雄『ナウシカ考　風の谷の黙示録』が双璧だと思います。
　この傑出したふたつの批評書に対抗することは不可能なので、ぼくはちょっと変わった視点から『ナウシ</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2148751</link>
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                <pubDate>Sun, 30 Apr 2023 16:15:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[コメント0件]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div>　どもです。</div>
<br /><div>　ただいま、『ナウシカ論』的にアレな電子書籍の草稿を書いています。そのまま「ナウシカ論」というタイトルになるかどうかはいまのところ未定ですが、漫画版の『風の谷のナウシカ』を扱った本になることは間違いありません。</div>
<br /><div>　来月前半には書き上がるよう鋭意執筆ちうです。ほんとうなら、今月中には仕上がるはずだったのですが、順調に予定が遅れて今日に至ります。いま、30000文字弱くらいまで書きました。あと、40000～50000文字くらい書けば完成です。</div>
<br /><div>　でも、資料の読み込みが必要なのでわりと時間がかかることになると思います。まあ良いけど。</div>
<br /><div>　漫画版の『ナウシカ』を批評的に読み解いた本としては、いまのところ、稲葉振一郎『ナウシカ解読』と赤坂憲雄『ナウシカ考　風の谷の黙示録』が双璧だと思います。</div>
<br /><div>　この傑出したふたつの批評書に対抗することは不可能なので、ぼくはちょっと変わった視点から『ナウシ</div>
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                        </p>]]>
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                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[2022年に面白かった作品ランキング1位から50位まで。]]></title>
                <description><![CDATA[<p>　早くも、というかいつものようにほとんど何も成さないうちに大晦日ですね。ぼくの人生は何も成し遂げないで終わるのだろうかと思ってしまいますが、そんな感慨は無視して時は経ちます。年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず。そういうわけで、2022年のまとめをランキング形式で書いていきたいと思います。フィクション、ノンフィクション、マンガ、映画などすべて混合です。１位から50位まで行きたいと思います。
・１位『実存的貧困とは何か』
　今年のベスト・オブ・ベストはこれですね。今年というか、過去10年でもベストに近いかも。「実存的貧困」とは聞き慣れない概念ですが、ようは「愛情に恵まれなかったこと」を意味しています。「愛を実感できずに育つこと」が人をどのように変えてしまうのか？　膨大なエビデンスをもとに実証的に描き抜かれています。ハードカバーで700ページを超えるという大部な学術書ですが、意外に読みやす</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2133768</link>
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                <pubDate>Sat, 31 Dec 2022 08:38:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[1]]></category>
                <category><![CDATA[2]]></category>
                <category><![CDATA[3]]></category>
                <category><![CDATA[4]]></category>
                <category><![CDATA[5]]></category>
                <category><![CDATA[6]]></category>
                <category><![CDATA[7]]></category>
                <category><![CDATA[8]]></category>
                <category><![CDATA[9]]></category>
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<br /><div>・１位『実存的貧困とは何か』</div>
<br /><div>　今年のベスト・オブ・ベストはこれですね。今年というか、過去10年でもベストに近いかも。「実存的貧困」とは聞き慣れない概念ですが、ようは「愛情に恵まれなかったこと」を意味しています。「愛を実感できずに育つこと」が人をどのように変えてしまうのか？　膨大なエビデンスをもとに実証的に描き抜かれています。ハードカバーで700ページを超えるという大部な学術書ですが、意外に読みやす</div>
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2133768">続きを読む</a>
                        </p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[電子書籍『小説家になろうの風景』980円を無料販売中！]]></title>
                <description><![CDATA[<p>Amazonにて電子書籍『小説家になろうの風景』、無料キャンペーン中です！　日本最大の小説投稿サイト「小説家になろう」の現状について解説した内容となっています。良ければ０円で買ってください。よろしくお願いします。 　また、近日中に新刊『ヲタスピ』上下巻を発売したいと思っています。すでに原稿はほぼ書き上がっているので、あとは表紙イラストが仕上がってくれば出せる状態です。18万文字とわりと大作ですが、それなりに内容はあるものと考えています。こちらも読んでくださるとありがたいです。　とりあえず、でわ。</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2123916</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2123916</guid>
                <pubDate>Wed, 19 Oct 2022 17:37:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[1]]></category>
                <category><![CDATA[2]]></category>
                <category><![CDATA[3]]></category>
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                <category><![CDATA[7]]></category>
                <category><![CDATA[8]]></category>
                <category><![CDATA[9]]></category>
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                        <![CDATA[<p>Amazonにて電子書籍『小説家になろうの風景』、無料キャンペーン中です！　日本最大の小説投稿サイト「小説家になろう」の現状について解説した内容となっています。良ければ０円で買ってください。よろしくお願いします。<br /><br /> <br /><br />　また、近日中に新刊『ヲタスピ』上下巻を発売したいと思っています。すでに原稿はほぼ書き上がっているので、あとは表紙イラストが仕上がってくれば出せる状態です。18万文字とわりと大作ですが、それなりに内容はあるものと考えています。こちらも読んでくださるとありがたいです。<br /><br />　とりあえず、でわ。
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                        </p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[電子書籍の予告。]]></title>
                <description><![CDATA[<p>　いま、電子書籍で出す予定の「本」の原稿を書いています。正確なタイトルは未定ですが、たぶん『オタク・スピリチュアリティ　信仰としての推し活、魔術としてのポップカルチャー』になるはず。
　ぼくが昔、ウルトラマクロとかいっていたオタク文化における「聖なるもの」を考察する一冊になるかと。
　じつは10年以上前に出したきりの2冊の同人誌の精神的な続編にあたります。そうはいっても内容的にはまったくつながりはないので、そちらを未読の方にも読んでみてほしいと思います。
　読んだ人が面白いと思うかどうかはわからないけれど、とりえあず書いているぼくは面白い。自分のなかに何十年もかけて堆積した思考を整理し、アウトプットする行為はそれだけで面白いですね。
　『戦場感覚』と具体的にどこかつながっているわけではないのですが、あの時点では何が何だかわからなかった思考がはっきりと具体化されていることが自分でもよくわかり</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2119057</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2119057</guid>
                <pubDate>Fri, 09 Sep 2022 23:53:00 +0900</pubDate>
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                        <![CDATA[<p><div>　いま、電子書籍で出す予定の「本」の原稿を書いています。正確なタイトルは未定ですが、たぶん『オタク・スピリチュアリティ　信仰としての推し活、魔術としてのポップカルチャー』になるはず。</div>
<br /><div>　ぼくが昔、ウルトラマクロとかいっていたオタク文化における「聖なるもの」を考察する一冊になるかと。</div>
<br /><div>　じつは10年以上前に出したきりの2冊の同人誌の精神的な続編にあたります。そうはいっても内容的にはまったくつながりはないので、そちらを未読の方にも読んでみてほしいと思います。</div>
<br /><div>　読んだ人が面白いと思うかどうかはわからないけれど、とりえあず書いているぼくは面白い。自分のなかに何十年もかけて堆積した思考を整理し、アウトプットする行為はそれだけで面白いですね。</div>
<br /><div>　『戦場感覚』と具体的にどこかつながっているわけではないのですが、あの時点では何が何だかわからなかった思考がはっきりと具体化されていることが自分でもよくわかり</div>
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2119057">続きを読む</a>
                        </p>]]>
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                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[『ONE PIECE FILM RED』はアンチ少年漫画として「女の子の物語」の夢を見る。]]></title>
                <description><![CDATA[<p>　一昨日、映画『ONE PIECE FILM RED』を観て来ました（以下『FILM RED』）。
　ぼくは特に『ONE PIECE』の熱烈なファンではなく、一応は物語を履修はしているものの、細部となると記憶が怪しいというよくいるレベルの読者に過ぎません。
　過去の映画もほとんど見ていないし、「まあ、すごいマンガだよな」とは思いつつ、熱心に連載を追いかけるつもりにもなれない程度の熱意しか持っていなかったのが実際のところです。
　そういうぼくなので、周囲からいくらかのネタバレを喰らいつつ、あまり期待もせずに劇場に赴きました。それで、じっさいに観てみるとどうだったかというと――
「ウッキー！　大傑作じゃないか！」
　ということで、『トップガン　マーヴェリック』を抜いて今年の映画ベスト確定、過去数年でもトップを争う傑作という認識になったのでした。
　いったいこの映画のどこがそんなに凄いのか？　過去の『ONE PIECE』映画とどう違うのか？　これから延々と語っていくつもりなのですが、「ネタバレ」なしで語ることはできないので、ここから下では一切、ネタバレについて配慮することはしないことにします。これから『FILM RED』を観賞される方はご注意ください。
　また、『FILM RED』の他にも、『ONE PIECE』本編を初めとするいくつかの過去作品のネタバレがあります。その点にもご注意ください。まあ、いつものことではあるけれど。
　いやあ、しかし、ほんとに素晴らしかった！　僕はめちゃくちゃ感動したので、可能なかぎり熱く語り尽くしたいと思っています。
　ただ、何しろ『ONE PIECE』に関してはかなりにわかなので、細部の間違い、あるいは解釈の違いなどはあることでしょう。もし気になる点などありましたらご指摘をよろしくお願いします。それでは、語り始めましょう。この、稀代の歌姫の物語について。
　しかし、そうはいったものの、いったいどこから語り出したら良いものか。何しろこの映画ひとつはまだしも、『ONE PIECE』という物語には膨大な設定と物語の蓄積があり、さまざまな論点が絡んでいます。
　それらをどう整理しながら語るのか？はなかなかの難題です。まず、『FILM RED』がどのような映画なのか、簡単な概略を書いておきましょう。
　この映画の舞台はかつて音楽の国として繁栄し、そしてなぞめいた滅亡を遂げた「エレジア」。そこで、世界一の歌姫である「ウタ」のファーストライブが開催されようとしているのです。
　そこに集まった何万人もの人々（どうやって集まったんだろうという気はするが、気にしてはいけない）のなかにもルフィと仲間たちも混じっていました。
　そしてライブが始まるのですが、ルフィは彼女が幼なじみの少女、シャンクスの娘ウタであることに気づきます。かれはひさしぶりの再開を喜びますが、かれが船に帰ろうとすると、ウタは引き留めようとし、しだいにライブは混乱していきます。
　そして、じつはウタは「ウタウタの実」の能力者であり、その能力で世界中を彼女の内面世界「ウタワールド」に引きずり込んで永遠に楽しく過ごそうとしていたことがあきらかになります。
　このまま彼女が死ねば、彼女の歌に捕らわれた人々の精神は永遠にウタワールドの虜囚となるのです。この事実を知ったルフィはウタを止めようとしますが、その裏にはさらなる秘密が隠されており――と、物語は進みます。
　ここで重要なのはウタが「闇堕ち」して悪の存在になったわけではなく、混乱が打ち続く「大海賊時代」において、本気で世界を救うために「ウタウタの実」の能力を使おうとしていることです。
　海軍や世界政府はもちろん、さまざまな組織や海賊たちをも敵にまわして、彼女はたったひとり、歌の力だけで世界を救おうとしているのです。
　ウタの目的が「間違えている」ことは物語が始まってすぐにわかります。いままでたくさんの物語を観てきた人なら「ウタウタの実」、そして「トットムジカ」から「人類補完計画」や「Cの世界」を連想し、それが人間の現実と可能性を否定するものであることを思い出すでしょう。
　ウタの理想は気高いけれど、その手段は端的に「間違えている」。そのため、ウタはルフィにとっての「ラスボス」にならざるを得ない。こうして、物語はルフィとウタの対立構造に収斂していきます。
　しかし、それでも『FILM RED』の構造はいままでの『ONE PIECE』とは決定的に違っています。ウタはたしかに物語においてルフィの「敵」であり「ラスボス」なのですが、ルフィはウタをいままでのようにウタを殴って倒そうとはしません。
　かれにとってウタの理想が打倒するべきものであることはたしかなのですが、ウタ個人は決して嫌いではないのです。
　その意味で、『FILM RED』従来の『ONE PIECE』とは異なる。むしろ、アンチ『ONE PIECE』なのではないかとすら思うくらいです。
　もちろん、そのアンチ『ONE PIECE』的な要素をも含んでさらに続いていくのが『ONE PIECE』という物語なのでしょうが、いずれにしろ、ここで『ONE PIECE』は決定的にアップデートされたと感じました。
　ここに来て、さらに内容を刷新するのが『ONE PIECE』の凄みなのでしょう。圧巻としかいいようがありません。
　それでは、『FILM RED』が『ONE PIECE』ではないとはどういう意味なのか。それは、この映画の主人公がルフィでないということです。
　いままでの『ONE PIECE』の主人公はいうまでもなくルフィです。しかし、この映画はじつはルフィの物語ではない。あくまで「ウタの物語」なのである。これが、ぼくが『FILM RED』を観ながらたどり着いた結論でした。
　否、あとから冷静になって振り返ってみると、単に「ウタの物語である」といい切ることには無理があり、むしろ「ウタの物語」と「ルフィの物語」が対立し、対決していると見るほうが自然であるように思えます。
　このふたつの物語は相互に矛盾する関係にあり、両立は不可能なのです。それは、どこまでも自由に「海賊王をめざす」ルフィと、海賊を憎んで「世界を救おうとする」ウタ、ふたりの目的が対立しているというだけではありません。
　ルフィが貫こうとする「男の子の物語」とウタが背負う「女の子の物語」、その語りの方法論、つまりドラマツルギーが対立してるといったほうが良いでしょう。
　「男の子の物語」とは、少年ないし男性を主人公とした物語のことです。その物語においては、世界の中心にいるのはあくまでも男の子であり、女の子は「冒険の仲間」として扱われるにせよ、「救済するべきヒロイン」として描かれるにせよ、従属的存在に留まることになります。
　主人公である男の子が戦いと冒険の日々を繰りひろげるとき、女の子には席がないのです。これは世界的に見てもそうだったと思いますが、特に戦後の日本では、敗戦のトラウマが作劇にダイレクトな影響を与えています。
　その結果、「男の子の物語」は「正義が悪を討つ」というシンプルでストレートな構造を採用しにくくなり、きわめて複雑な自己懐疑／自己批判をくり返すことになりました。
　そのひとつの頂点が、たとえば永井豪の最高傑作『デビルマン』だったことでしょう。『デビルマン』においては善悪は完全に逆転し、人間たちは「悪」の烙印を押され、世界は崩壊してしまいます。
　こういった流れについては同人誌などで散々書きましたが、適当にはしょっていうと、その流れが決定的なターニング・ポイントを迎えたのがかの『新世紀エヴァンゲリオン』でした。
　『エヴァ』において、「男の子の物語」は決定的に挫折し、破綻しました。主人公碇シンジはあらゆる意味で「男の子らしさ」を剥奪され、ひたすら苦しげにうずくまるばかりだったのです。
　ここで詳述する余裕はありませんが、その背景にあるのはこの社会が複雑・多様化し、いわゆる「大きな物語」が失われて、不透明化していったことです。
　現代においては、何が正しく、何が間違えているかの判断が非常にむずかしい。善意で、正義のつもりでやったことでも、結果として最悪の顛末に至ることがありえる。そのため、男の子たちは正義を実行しづらくなり、ただ碇シンジのようにうずくまるしかなくなってしまうわけです。
　もちろん、その状況を突破しようとさまざまな取り組みがなされたわけですが、そのことを細々と語っている余裕はありません。
　ここでは、精神科医の樺沢紫苑さんは著書『父滅の刃』において、現代の物語において「父性」が通用しなくなっていくプロセスを丹念に検証していることを挙げておきましょう。
　良くも悪くもぼくたちは「父なき時代」に生きているわけであり、「父殺し」の物語は容易に成立しなくなったのです。
　しかし、『エヴァ』以降、それでも『少年ジャンプ』を初めとする少年漫画は「男の子の物語」を貫いてきました。『ONE PIECE』はその代表的作品といって良いでしょう。
　『ONE PIECE』を初めとするジャンプ漫画は、しばしばジェンダー描写の古さを批判されることがありますが、見方を変えれば、だからこそいまなお「男の子の物語」を描き切れたという一面もある。
　『ONE PIECE』が、「不透明な正義」の問題に突入することなく、「男の子の物語」を貫徹させつづけられたのは、この物語が犯罪者たる海賊を主人公にした一種のピカレスク・ロマンであり、そもそも「正義」を志向していないからということが大きいと思います。
　ルフィはそれぞれのステージにおいてただ自分の嫌いな相手を感情に任せて打倒しているだけであり、その結果については関与していない。無責任といえばかぎりなく無責任なのですが、その姿勢がルフィを善悪倫理を巡るはてしない葛藤から救っています。
　つまりまあ、色々と書いてきましたが、主人公であるルフィがしばしば苦戦しながらも、かれにとっての「悪」を殴って倒して事態を解決するのが『ONE PIECE』という作品のシンプルで力強い「男の子の物語」の王道ともいうべき構造でした。
　ところが、『FILM RED』においてはルフィはウタを最後まで殴らない。これは、ほんとうに最後の最後まで「ウタの物語」と「ルフィの物語」が交錯しなかったことを意味しています。
　いや、このいい方は誤解を生むでしょう。ぼくがいいたいのは、「ウタの物語」は最後まで「ルフィの物語」に取り込まれなかった、ということなのです。
　それを「女の子の物語」が「男の子の物語」に取り込まれなかったといっても良いでしょう。画期的なことだと思います。少なくともぼくは過去、このような例を見たことがありません。
　もっとも、このように書くとすぐに反論が返って来そうです。そのことの良し悪しはともかく、いまではポリティカル・コレクトネス概念の普及によって、女性主人公の冒険物語はたくさん存在するようになりました。
　また、日本には「戦闘美少女」ものと呼ばれる一ジャンルもあり、必ずしも女の子の冒険物語が語られてこなかったわけではありません。その意味では、「男の子の物語」に拮抗する「女の子の物語」はいくらでもあるではないか、ということはできるでしょう。
　それは一面の真実です。ただ、それでも、男たちが「男の美学」にのっとって誇り高い戦いを繰りひろげるとき、女の子たちはどうしても蚊帳の外に置かれる傾向がある。
　これはそれこそ『ONE PIECE』において端的に表れている問題で、『ONE PIECE』はあくまでも何より「ルフィの物語」であるが故に、ルフィのまわりの女性陣はルフィに従属的なポジションしか与えられない印象がつよい。
　たとえばナミのように、あるいはニコ・ロビンのように、最終的には彼女たちは「ルフィに救出される立場」を選ぶのです。
　ぼくは必ずしも「ポリコレ」的に、それが悪いというつもりはありません。ただ、ともかく『ONE PIECE』はそういう物語であったという事実はある。そして、それに不満を持つ人たちも相当数いたはずです。
　そしてまた、『ONE PIECE』がおそらくは少年漫画史上最高最大ともいうべき怪物的大傑作であることは論を待たないものの、それでも、四半世紀になんなんとする連載を経て、その方法論は少し過去のものになっていたと思うのです。
　それをリファインし、アップデートしようとしたのが今回の『FILM RED』だったのではないかという見方はできます。
　もちろん、そうはいっても、膨大な蓄積の上に成り立つ『ONE PIECE』をいまさら刷新するのは容易なことではないはずですが、谷口悟朗監督は今回、完璧な仕事をしました。
　ここではウタという女の子と、その「女の子の物語」がルフィの「男の子の物語」と対立し、拮抗し、そして、ぼくの見方では「勝利」しています。
　いや、じっさいのところは、それはあまりに偏った見方に過ぎないかもしれません。物語のなかでウタの目論見は失敗しており、また最後には彼女は（おそらく）死んでしまいます。
　ルフィにも、シャンクスにもウタは救えなかった。『ONE PIECE』にはめずらしいビターでセンチメンタルな結末だと見る人が多いことでしょう。ですが、ぼくにいわせれば、ウタはまさに勝ったのです。
　少なくとも彼女はルフィの「男の子の物語」に負けることなく、自分の「女の子の物語」を貫徹している。これはほんとうに素晴らしいことだと思います。
　いったいいままで「男の子の物語」とその背景にある「男の美学」をまえに「敗北」した女の子を何人観てきたことか。その意味で、ウタはまさに「新時代」を予感させるキャラクターだといえます。
　それでは、いったい「男の美学」とは何か。これはまさに『ONE PIECE』のバックボーンとなっているある種のジェンダー規範です。
　いまの男女平等志向社会では「男の美学」などという言葉はあまりに古くさく、時代遅れの印象があるかもしれませんが、何より『ONE PIECE』が大ヒットしつづけているという事実は、この「美学」がいまなお魅力的であることを示しています。
　「男の美学」を格好良く描いた少年漫画には枚挙にいとまがない名作傑作があるのだけれど、『ONE PIECE』はその系譜の最高傑作のひとつといって良いでしょう。
　もちろん、「男らしさ」そのものは随分と前に変質しました。少年漫画だけを見ても、たとえば70年代の『男組』あたりではシリアスに描写されていた「男らしさ」は、80年代の『魁!!男塾』ではかなりパロディ的に扱われるようになっています。
　「男らしさ」は暑苦しく、むさくるしく、スマートではないものという意識が強くなっていったのでしょう。ですが、それでも「男の美学」そのものは形を変えて連綿と生き残っているのです。
　だからこそ、『FILM RED』におけるウタの「勝利」はあまりにも輝かしい。それでは、「男の美学」の物語のほうが「勝った」例を考えてみましょう。
　いくらでも例を挙げられるのですが、たとえば、『ファイブスター物語』第11巻収録のダグラス・カイエンとミース・シルバーの物語は、ぼくの考えではそれにあたります。
　あるいは、『ベルセルク』でのガッツとグリフィスの対立においても、「女の子」であるキャスカは第三者的なポジションしか与えられなかった。
　しかし、もっと印象的なのは、『FILM RED』と同じ谷口悟朗監督による、『コードギアス　反逆のルルーシュ』の例です。この物語のなかで、ユーフェミア・リ・ブリタニアこと、ユフィは主人公ルルーシュに対し、ある合理的なアイディアを提案します。
　それはルルーシュの立場を理解した上でかれをも仲間に引き入れるという優れた発想であり、ルルーシュすらもそのことを認めるのですが、その後、あろうことかユフィはある「偶然の事故」によって死亡してしまうことになるのです。
　ぼくは、この展開に何らシナリオ的な必然性を見て取ることができません。これは、あきらかにユフィという存在が物語にとって邪魔でしかなかったことを意味しているのだと思っています。
　そう、ユフィがあまりに活躍しすぎてしまうと、まさにルルーシュの立場がなくなる。男性のスザクであれば、ルルーシュの「ライバル」であることができるけれど、「女の子」であり、根本的に土俵の異なる価値観を掲げるユフィは物語のなかに居場所がない。
　そのため、彼女は物語から「追放」されてしまったのです。
　こういった唐突ともいえる展開は、「男の子の物語」のドラマツルギーにおいては、そもそも「仲間」でも「ヒロイン」でもない女の子は居場所がない、つまり「男の子の物語」はそういう女の子を語る方法論を端的に持たないことを示しています。
　「男の子の物語」はあくまでも主人公の男の子のためにあり、そこでは女の子はどうしても従属的な位置づけになってしまうのです。これは、差別というよりも作劇的な必然と見るべきでしょう。だからこそ、『FILM RED』は画期なのです。　</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2117483</link>
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                <pubDate>Mon, 29 Aug 2022 18:44:00 +0900</pubDate>
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                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div>　一昨日、映画『ONE PIECE FILM RED』を観て来ました（以下『FILM RED』）。</div>
<br /><div>　ぼくは特に『ONE PIECE』の熱烈なファンではなく、一応は物語を履修はしているものの、細部となると記憶が怪しいというよくいるレベルの読者に過ぎません。</div>
<br /><div>　過去の映画もほとんど見ていないし、「まあ、すごいマンガだよな」とは思いつつ、熱心に連載を追いかけるつもりにもなれない程度の熱意しか持っていなかったのが実際のところです。</div>
<br /><div>　そういうぼくなので、周囲からいくらかのネタバレを喰らいつつ、あまり期待もせずに劇場に赴きました。それで、じっさいに観てみるとどうだったかというと――</div>
<br /><div>「ウッキー！　大傑作じゃないか！」</div>
<br /><div>　ということで、『トップガン　マーヴェリック』を抜いて今年の映画ベスト確定、過去数年でもトップを争う傑作という認識になったのでした。</div>
<br /><div>　いったいこの映画のどこがそんなに凄いのか？　過去の『ONE PIECE』映画とどう違うのか？　これから延々と語っていくつもりなのですが、「ネタバレ」なしで語ることはできないので、ここから下では一切、ネタバレについて配慮することはしないことにします。これから『FILM RED』を観賞される方はご注意ください。</div>
<br /><div>　また、『FILM RED』の他にも、『ONE PIECE』本編を初めとするいくつかの過去作品のネタバレがあります。その点にもご注意ください。まあ、いつものことではあるけれど。</div>
<br /><div>　いやあ、しかし、ほんとに素晴らしかった！　僕はめちゃくちゃ感動したので、可能なかぎり熱く語り尽くしたいと思っています。</div>
<br /><div>　ただ、何しろ『ONE PIECE』に関してはかなりにわかなので、細部の間違い、あるいは解釈の違いなどはあることでしょう。もし気になる点などありましたらご指摘をよろしくお願いします。それでは、語り始めましょう。この、稀代の歌姫の物語について。</div>
<br /><div>　しかし、そうはいったものの、いったいどこから語り出したら良いものか。何しろこの映画ひとつはまだしも、『ONE PIECE』という物語には膨大な設定と物語の蓄積があり、さまざまな論点が絡んでいます。</div>
<br /><div>　それらをどう整理しながら語るのか？はなかなかの難題です。まず、『FILM RED』がどのような映画なのか、簡単な概略を書いておきましょう。</div>
<br /><div>　この映画の舞台はかつて音楽の国として繁栄し、そしてなぞめいた滅亡を遂げた「エレジア」。そこで、世界一の歌姫である「ウタ」のファーストライブが開催されようとしているのです。</div>
<br /><div>　そこに集まった何万人もの人々（どうやって集まったんだろうという気はするが、気にしてはいけない）のなかにもルフィと仲間たちも混じっていました。</div>
<br /><div>　そしてライブが始まるのですが、ルフィは彼女が幼なじみの少女、シャンクスの娘ウタであることに気づきます。かれはひさしぶりの再開を喜びますが、かれが船に帰ろうとすると、ウタは引き留めようとし、しだいにライブは混乱していきます。</div>
<br /><div>　そして、じつはウタは「ウタウタの実」の能力者であり、その能力で世界中を彼女の内面世界「ウタワールド」に引きずり込んで永遠に楽しく過ごそうとしていたことがあきらかになります。</div>
<br /><div>　このまま彼女が死ねば、彼女の歌に捕らわれた人々の精神は永遠にウタワールドの虜囚となるのです。この事実を知ったルフィはウタを止めようとしますが、その裏にはさらなる秘密が隠されており――と、物語は進みます。</div>
<br /><div>　ここで重要なのはウタが「闇堕ち」して悪の存在になったわけではなく、混乱が打ち続く「大海賊時代」において、本気で世界を救うために「ウタウタの実」の能力を使おうとしていることです。</div>
<br /><div>　海軍や世界政府はもちろん、さまざまな組織や海賊たちをも敵にまわして、彼女はたったひとり、歌の力だけで世界を救おうとしているのです。</div>
<br /><div>　ウタの目的が「間違えている」ことは物語が始まってすぐにわかります。いままでたくさんの物語を観てきた人なら「ウタウタの実」、そして「トットムジカ」から「人類補完計画」や「Cの世界」を連想し、それが人間の現実と可能性を否定するものであることを思い出すでしょう。</div>
<br /><div>　ウタの理想は気高いけれど、その手段は端的に「間違えている」。そのため、ウタはルフィにとっての「ラスボス」にならざるを得ない。こうして、物語はルフィとウタの対立構造に収斂していきます。</div>
<br /><div>　しかし、それでも『FILM RED』の構造はいままでの『ONE PIECE』とは決定的に違っています。ウタはたしかに物語においてルフィの「敵」であり「ラスボス」なのですが、ルフィはウタをいままでのようにウタを殴って倒そうとはしません。</div>
<br /><div>　かれにとってウタの理想が打倒するべきものであることはたしかなのですが、ウタ個人は決して嫌いではないのです。</div>
<br /><div>　その意味で、『FILM RED』従来の『ONE PIECE』とは異なる。むしろ、アンチ『ONE PIECE』なのではないかとすら思うくらいです。</div>
<br /><div>　もちろん、そのアンチ『ONE PIECE』的な要素をも含んでさらに続いていくのが『ONE PIECE』という物語なのでしょうが、いずれにしろ、ここで『ONE PIECE』は決定的にアップデートされたと感じました。</div>
<br /><div>　ここに来て、さらに内容を刷新するのが『ONE PIECE』の凄みなのでしょう。圧巻としかいいようがありません。</div>
<br /><div>　それでは、『FILM RED』が『ONE PIECE』ではないとはどういう意味なのか。それは、この映画の主人公がルフィでないということです。</div>
<br /><div>　いままでの『ONE PIECE』の主人公はいうまでもなくルフィです。しかし、この映画はじつはルフィの物語ではない。あくまで「ウタの物語」なのである。これが、ぼくが『FILM RED』を観ながらたどり着いた結論でした。</div>
<br /><div>　否、あとから冷静になって振り返ってみると、単に「ウタの物語である」といい切ることには無理があり、むしろ「ウタの物語」と「ルフィの物語」が対立し、対決していると見るほうが自然であるように思えます。</div>
<br /><div>　このふたつの物語は相互に矛盾する関係にあり、両立は不可能なのです。それは、どこまでも自由に「海賊王をめざす」ルフィと、海賊を憎んで「世界を救おうとする」ウタ、ふたりの目的が対立しているというだけではありません。</div>
<br /><div>　ルフィが貫こうとする「男の子の物語」とウタが背負う「女の子の物語」、その語りの方法論、つまりドラマツルギーが対立してるといったほうが良いでしょう。</div>
<br /><div>　「男の子の物語」とは、少年ないし男性を主人公とした物語のことです。その物語においては、世界の中心にいるのはあくまでも男の子であり、女の子は「冒険の仲間」として扱われるにせよ、「救済するべきヒロイン」として描かれるにせよ、従属的存在に留まることになります。</div>
<br /><div>　主人公である男の子が戦いと冒険の日々を繰りひろげるとき、女の子には席がないのです。これは世界的に見てもそうだったと思いますが、特に戦後の日本では、敗戦のトラウマが作劇にダイレクトな影響を与えています。</div>
<br /><div>　その結果、「男の子の物語」は「正義が悪を討つ」というシンプルでストレートな構造を採用しにくくなり、きわめて複雑な自己懐疑／自己批判をくり返すことになりました。</div>
<br /><div>　そのひとつの頂点が、たとえば永井豪の最高傑作『デビルマン』だったことでしょう。『デビルマン』においては善悪は完全に逆転し、人間たちは「悪」の烙印を押され、世界は崩壊してしまいます。</div>
<br /><div>　こういった流れについては同人誌などで散々書きましたが、適当にはしょっていうと、その流れが決定的なターニング・ポイントを迎えたのがかの『新世紀エヴァンゲリオン』でした。</div>
<br /><div>　『エヴァ』において、「男の子の物語」は決定的に挫折し、破綻しました。主人公碇シンジはあらゆる意味で「男の子らしさ」を剥奪され、ひたすら苦しげにうずくまるばかりだったのです。</div>
<br /><div>　ここで詳述する余裕はありませんが、その背景にあるのはこの社会が複雑・多様化し、いわゆる「大きな物語」が失われて、不透明化していったことです。</div>
<br /><div>　現代においては、何が正しく、何が間違えているかの判断が非常にむずかしい。善意で、正義のつもりでやったことでも、結果として最悪の顛末に至ることがありえる。そのため、男の子たちは正義を実行しづらくなり、ただ碇シンジのようにうずくまるしかなくなってしまうわけです。</div>
<br /><div>　もちろん、その状況を突破しようとさまざまな取り組みがなされたわけですが、そのことを細々と語っている余裕はありません。</div>
<br /><div>　ここでは、精神科医の樺沢紫苑さんは著書『父滅の刃』において、現代の物語において「父性」が通用しなくなっていくプロセスを丹念に検証していることを挙げておきましょう。</div>
<br /><div>　良くも悪くもぼくたちは「父なき時代」に生きているわけであり、「父殺し」の物語は容易に成立しなくなったのです。</div>
<br /><div>　しかし、『エヴァ』以降、それでも『少年ジャンプ』を初めとする少年漫画は「男の子の物語」を貫いてきました。『ONE PIECE』はその代表的作品といって良いでしょう。</div>
<br /><div>　『ONE PIECE』を初めとするジャンプ漫画は、しばしばジェンダー描写の古さを批判されることがありますが、見方を変えれば、だからこそいまなお「男の子の物語」を描き切れたという一面もある。</div>
<br /><div>　『ONE PIECE』が、「不透明な正義」の問題に突入することなく、「男の子の物語」を貫徹させつづけられたのは、この物語が犯罪者たる海賊を主人公にした一種のピカレスク・ロマンであり、そもそも「正義」を志向していないからということが大きいと思います。</div>
<br /><div>　ルフィはそれぞれのステージにおいてただ自分の嫌いな相手を感情に任せて打倒しているだけであり、その結果については関与していない。無責任といえばかぎりなく無責任なのですが、その姿勢がルフィを善悪倫理を巡るはてしない葛藤から救っています。</div>
<br /><div>　つまりまあ、色々と書いてきましたが、主人公であるルフィがしばしば苦戦しながらも、かれにとっての「悪」を殴って倒して事態を解決するのが『ONE PIECE』という作品のシンプルで力強い「男の子の物語」の王道ともいうべき構造でした。</div>
<br /><div>　ところが、『FILM RED』においてはルフィはウタを最後まで殴らない。これは、ほんとうに最後の最後まで「ウタの物語」と「ルフィの物語」が交錯しなかったことを意味しています。</div>
<br /><div>　いや、このいい方は誤解を生むでしょう。ぼくがいいたいのは、「ウタの物語」は最後まで「ルフィの物語」に取り込まれなかった、ということなのです。</div>
<br /><div>　それを「女の子の物語」が「男の子の物語」に取り込まれなかったといっても良いでしょう。画期的なことだと思います。少なくともぼくは過去、このような例を見たことがありません。</div>
<br /><div>　もっとも、このように書くとすぐに反論が返って来そうです。そのことの良し悪しはともかく、いまではポリティカル・コレクトネス概念の普及によって、女性主人公の冒険物語はたくさん存在するようになりました。</div>
<br /><div>　また、日本には「戦闘美少女」ものと呼ばれる一ジャンルもあり、必ずしも女の子の冒険物語が語られてこなかったわけではありません。その意味では、「男の子の物語」に拮抗する「女の子の物語」はいくらでもあるではないか、ということはできるでしょう。</div>
<br /><div>　それは一面の真実です。ただ、それでも、男たちが「男の美学」にのっとって誇り高い戦いを繰りひろげるとき、女の子たちはどうしても蚊帳の外に置かれる傾向がある。</div>
<br /><div>　これはそれこそ『ONE PIECE』において端的に表れている問題で、『ONE PIECE』はあくまでも何より「ルフィの物語」であるが故に、ルフィのまわりの女性陣はルフィに従属的なポジションしか与えられない印象がつよい。</div>
<br /><div>　たとえばナミのように、あるいはニコ・ロビンのように、最終的には彼女たちは「ルフィに救出される立場」を選ぶのです。</div>
<br /><div>　ぼくは必ずしも「ポリコレ」的に、それが悪いというつもりはありません。ただ、ともかく『ONE PIECE』はそういう物語であったという事実はある。そして、それに不満を持つ人たちも相当数いたはずです。</div>
<br /><div>　そしてまた、『ONE PIECE』がおそらくは少年漫画史上最高最大ともいうべき怪物的大傑作であることは論を待たないものの、それでも、四半世紀になんなんとする連載を経て、その方法論は少し過去のものになっていたと思うのです。</div>
<br /><div>　それをリファインし、アップデートしようとしたのが今回の『FILM RED』だったのではないかという見方はできます。</div>
<br /><div>　もちろん、そうはいっても、膨大な蓄積の上に成り立つ『ONE PIECE』をいまさら刷新するのは容易なことではないはずですが、谷口悟朗監督は今回、完璧な仕事をしました。</div>
<br /><div>　ここではウタという女の子と、その「女の子の物語」がルフィの「男の子の物語」と対立し、拮抗し、そして、ぼくの見方では「勝利」しています。</div>
<br /><div>　いや、じっさいのところは、それはあまりに偏った見方に過ぎないかもしれません。物語のなかでウタの目論見は失敗しており、また最後には彼女は（おそらく）死んでしまいます。</div>
<br /><div>　ルフィにも、シャンクスにもウタは救えなかった。『ONE PIECE』にはめずらしいビターでセンチメンタルな結末だと見る人が多いことでしょう。ですが、ぼくにいわせれば、ウタはまさに勝ったのです。</div>
<br /><div>　少なくとも彼女はルフィの「男の子の物語」に負けることなく、自分の「女の子の物語」を貫徹している。これはほんとうに素晴らしいことだと思います。</div>
<br /><div>　いったいいままで「男の子の物語」とその背景にある「男の美学」をまえに「敗北」した女の子を何人観てきたことか。その意味で、ウタはまさに「新時代」を予感させるキャラクターだといえます。</div>
<br /><div>　それでは、いったい「男の美学」とは何か。これはまさに『ONE PIECE』のバックボーンとなっているある種のジェンダー規範です。</div>
<br /><div>　いまの男女平等志向社会では「男の美学」などという言葉はあまりに古くさく、時代遅れの印象があるかもしれませんが、何より『ONE PIECE』が大ヒットしつづけているという事実は、この「美学」がいまなお魅力的であることを示しています。</div>
<br /><div>　「男の美学」を格好良く描いた少年漫画には枚挙にいとまがない名作傑作があるのだけれど、『ONE PIECE』はその系譜の最高傑作のひとつといって良いでしょう。</div>
<br /><div>　もちろん、「男らしさ」そのものは随分と前に変質しました。少年漫画だけを見ても、たとえば70年代の『男組』あたりではシリアスに描写されていた「男らしさ」は、80年代の『魁!!男塾』ではかなりパロディ的に扱われるようになっています。</div>
<br /><div>　「男らしさ」は暑苦しく、むさくるしく、スマートではないものという意識が強くなっていったのでしょう。ですが、それでも「男の美学」そのものは形を変えて連綿と生き残っているのです。</div>
<br /><div>　だからこそ、『FILM RED』におけるウタの「勝利」はあまりにも輝かしい。それでは、「男の美学」の物語のほうが「勝った」例を考えてみましょう。</div>
<br /><div>　いくらでも例を挙げられるのですが、たとえば、『ファイブスター物語』第11巻収録のダグラス・カイエンとミース・シルバーの物語は、ぼくの考えではそれにあたります。</div>
<br /><div>　あるいは、『ベルセルク』でのガッツとグリフィスの対立においても、「女の子」であるキャスカは第三者的なポジションしか与えられなかった。</div>
<br /><div>　しかし、もっと印象的なのは、『FILM RED』と同じ谷口悟朗監督による、『コードギアス　反逆のルルーシュ』の例です。この物語のなかで、ユーフェミア・リ・ブリタニアこと、ユフィは主人公ルルーシュに対し、ある合理的なアイディアを提案します。</div>
<br /><div>　それはルルーシュの立場を理解した上でかれをも仲間に引き入れるという優れた発想であり、ルルーシュすらもそのことを認めるのですが、その後、あろうことかユフィはある「偶然の事故」によって死亡してしまうことになるのです。</div>
<br /><div>　ぼくは、この展開に何らシナリオ的な必然性を見て取ることができません。これは、あきらかにユフィという存在が物語にとって邪魔でしかなかったことを意味しているのだと思っています。</div>
<br /><div>　そう、ユフィがあまりに活躍しすぎてしまうと、まさにルルーシュの立場がなくなる。男性のスザクであれば、ルルーシュの「ライバル」であることができるけれど、「女の子」であり、根本的に土俵の異なる価値観を掲げるユフィは物語のなかに居場所がない。</div>
<br /><div>　そのため、彼女は物語から「追放」されてしまったのです。</div>
<br /><div>　こういった唐突ともいえる展開は、「男の子の物語」のドラマツルギーにおいては、そもそも「仲間」でも「ヒロイン」でもない女の子は居場所がない、つまり「男の子の物語」はそういう女の子を語る方法論を端的に持たないことを示しています。</div>
<br /><div>　「男の子の物語」はあくまでも主人公の男の子のためにあり、そこでは女の子はどうしても従属的な位置づけになってしまうのです。これは、差別というよりも作劇的な必然と見るべきでしょう。だからこそ、『FILM RED』は画期なのです。　</div>
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                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
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            <item>
                <title><![CDATA[オタク文化はどこまで宗教に接近するか。]]></title>
                <description><![CDATA[<p>　ふと思い立って、マインドマップ作成ツールを使って、自分の関心領域を一覧的な図にしてみた。

　細かくて見えないだろうけれど、何十かの項目で図が成り立っている。もちろん、過去から現在にかけて興味を持ったことすべてを書き込めたわけではないけれど、いまリアルタイムで関心を抱いていることはおおむね書けたと思う。
　で、このマップのなかに「ニア宗教」という項目がある。これはぼくの造語で、「宗教に接近し、また代替する文化」くらいの意味である。
　具体的には、サブカルチャー、ホストクラブ、ブラック企業、インフルエンサー、自己啓発、ビジネス書、スピリチュアルなどが挙げられている。ぼくは現代においてこういったカルチャーが宗教に取って代わる存在になりつつあると考えているわけだ。
　いま、日本においてはもちろん、世界的に見ても、宗教人口は減りつつあるという。たしかに現在、旧統一教会を初めとしてカルトが問題視さ</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2117185</link>
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                <pubDate>Fri, 26 Aug 2022 21:53:00 +0900</pubDate>
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                <category><![CDATA[2]]></category>
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                        <![CDATA[<p><div>　ふと思い立って、マインドマップ作成ツールを使って、自分の関心領域を一覧的な図にしてみた。</div>
<div><br /><img data-image_id="836230" width="141" src="https://bmimg.nicovideo.jp/image/ch908/836230/295e2ff80c3c883a01ab73989df766eed8de40af.png" height="241" alt="295e2ff80c3c883a01ab73989df766eed8de40af" /><br /><br /></div>
<div>　細かくて見えないだろうけれど、何十かの項目で図が成り立っている。もちろん、過去から現在にかけて興味を持ったことすべてを書き込めたわけではないけれど、いまリアルタイムで関心を抱いていることはおおむね書けたと思う。</div>
<br /><div>　で、このマップのなかに「ニア宗教」という項目がある。これはぼくの造語で、「宗教に接近し、また代替する文化」くらいの意味である。</div>
<br /><div>　具体的には、サブカルチャー、ホストクラブ、ブラック企業、インフルエンサー、自己啓発、ビジネス書、スピリチュアルなどが挙げられている。ぼくは現代においてこういったカルチャーが宗教に取って代わる存在になりつつあると考えているわけだ。</div>
<br /><div>　いま、日本においてはもちろん、世界的に見ても、宗教人口は減りつつあるという。たしかに現在、旧統一教会を初めとしてカルトが問題視さ</div>
                            <a href="https://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar2117185">続きを読む</a>
                        </p>]]>
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                <dc:creator><![CDATA[海燕]]></dc:creator>
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                <title><![CDATA[10年に一度の一冊！『実存的貧困とはなにか』を読む。]]></title>
                <description><![CDATA[<p>
　いま、原田和弘『実存的貧困とはなにか　ポストモダン社会における「新しい貧困」』を読んでいます。
　これがぼく的に大ヒットで、めちゃくちゃ面白い。ぼくにとっては『嫌われる勇気』以来の「ディケイド本（10年に一度の一冊）」です。
　ただ、必ずしも難解な内容というわけではなく、論旨は明快できわめて読みやすいものの、大きなハードカバーに細かい字で700ページ以上あるという「箱本」で、おそらく100万字くらいの分量があるので、なかなか読み終わりません。
　そこで、今回は簡単な紹介に留め、読了ししだい、詳細かつ具体的な感想を述べたいと思います。
　この『実存的貧困とはなにか』の主題は、タイトルにある通り「実存的貧困」です。このばあいの「貧困」とは、社会福祉学の概念としてのそれで、本書は従来の「貧困」に関する理論を批判しながら、新たに「実存的貧困」概念を提唱しています。
　ぼくは社会福祉学にくわしい</p>]]></description>
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                <pubDate>Mon, 22 Aug 2022 22:23:00 +0900</pubDate>
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                <category><![CDATA[2]]></category>
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                        <![CDATA[<p><div align="center"><a href="https://www.amazon.co.jp/%E5%AE%9F%E5%AD%98%E7%9A%84%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AB%E3%81%8B-%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%80%E3%83%B3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B%E3%80%8C%E6%96%B0%E3%81%97%E3%81%84%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E3%80%8D-%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%92%8C%E5%BA%83/dp/4791774361?keywords=%E5%AE%9F%E5%AD%98%E7%9A%84%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%AB%E3%81%8B&amp;qid=1661175439&amp;sprefix=%E3%81%98%E3%81%A4%E3%81%9E%E3%82%93%E3%81%A6%E3%81%8D%2Caps%2C244&amp;sr=8-1&amp;linkCode=li3&amp;tag=sometorang-22&amp;linkId=220f5f143d2cda3672bab302b2c9db1a&amp;language=ja_JP&amp;ref_=as_li_ss_il" target="_blank"><img src="//ws-fe.amazon-adsystem.com/widgets/q?_encoding=UTF8&amp;ASIN=4791774361&amp;Format=_SL250_&amp;ID=AsinImage&amp;MarketPlace=JP&amp;ServiceVersion=20070822&amp;WS=1&amp;tag=sometorang-22&amp;language=ja_JP" alt="q?_encoding=UTF8&amp;ASIN=4791774361&amp;Format=" /></a><img src="https://ir-jp.amazon-adsystem.com/e/ir?t=sometorang-22&amp;language=ja_JP&amp;l=li3&amp;o=9&amp;a=4791774361" width="1" height="1" alt="" style="border:none;margin:0px;" /></div>
<div><br />　いま、原田和弘『実存的貧困とはなにか　ポストモダン社会における「新しい貧困」』を読んでいます。</div>
<br /><div>　これがぼく的に大ヒットで、めちゃくちゃ面白い。ぼくにとっては『嫌われる勇気』以来の「ディケイド本（10年に一度の一冊）」です。</div>
<br /><div>　ただ、必ずしも難解な内容というわけではなく、論旨は明快できわめて読みやすいものの、大きなハードカバーに細かい字で700ページ以上あるという「箱本」で、おそらく100万字くらいの分量があるので、なかなか読み終わりません。</div>
<br /><div>　そこで、今回は簡単な紹介に留め、読了ししだい、詳細かつ具体的な感想を述べたいと思います。</div>
<br /><div>　この『実存的貧困とはなにか』の主題は、タイトルにある通り「実存的貧困」です。このばあいの「貧困」とは、社会福祉学の概念としてのそれで、本書は従来の「貧困」に関する理論を批判しながら、新たに「実存的貧困」概念を提唱しています。</div>
<br /><div>　ぼくは社会福祉学にくわしい</div>
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