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記事 21件
  • 羽海野チカ『3月のライオン』最新刊はしみじみと心に染み入る平和編。(2099文字)

    2013-09-27 10:22  
    53pt



    【『3月のライオン』】
     ねむー。起床はしたものの、昨夜遅くまで記事を書いていたのでまだ眠いです。しかし、起きてしまった以上、ほかにやることもないので更新するにします。
     どうもブロマガには妙にやる気になっているときとそうでないときがあって、いまはやる気モードのようです。
     何か新しいアイディアを思いついたり会員が増えつづけているとやる気になるんですけれどね。だいたいそういつまでも続かないのでどこかで失速します。
     たぶん1ヶ月くらい続ければそれなりの効果があると思うのですが、なかなか続かない。来月はがんばりたいと思います。
     まあ、やる気になったときに書き溜めておけばいいのですが、なかなかねー、そういうことができない。ついつい更新してしまいます。ブロガーのサガというか。
     さて、きょうは羽海野チカ『3月のライオン』の発売日です。さっそくコンビニで買って来て読みました。人気漫画は書店
  • ひとは生きるため自由を捨て幸福という名の重石を背負う。(2351文字)

    2013-04-27 01:20  
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     羽海野チカ『3月のライオン』、小春日和の展開が続いていますね。主人公である零くんが抱えていた人間的問題はほぼすべて解決できてしまった感じだけれど、この先、いったいどこへ進むんだろう。そもそもこの物語はどこで終わるんだろうか。
     『ハチミツとクローバー』は全10巻で綺麗に幕を閉じたけれど、この話は10巻じゃ終わりそうにない。しかし、そうかといって、あまり長く続くとも考えがたい。ほんとうにいったい、物語はどこへ向かっていて、どこで決着が着くのだろうか。
     少年漫画的に宗谷名人を倒して終わりってことでもなさそうだしなあ。宗谷名人の耳の問題がふたたびクローズアップされる時は来るのだろうか。うーむ。と、思い悩んだりする日々を送っている最近のぼくです。
     いやー、おもしろい漫画が読めるということは素晴らしい。それだけで次回を読めるまで生きていこうという気になるもの。むしろ、いまのぼくにとって生きていくべき理由なんてそれくらいしかないといってもいい。もちろん、それで十分でもあるけれど。
     さて、そういうわけで、今回は「幸福」と「自由」の話。ひとは自由であることを求めるものだ、とはよくいわれることです。ぼく自身、いつもより自由になりたいと望んでいると思います。しかし、それはほんとうでしょうか? ひとは自由を恐れ、自由から逃避しようとするものでもあるのではないでしょうか。
     その証拠に、ひとは自ら自由を捨て、束縛を望むことがあります。良い例が結婚です。どう考えても結婚することによって人間がより自由になるとは思われない。子供が生まれればなおさら不自由になるでしょう。しかし、多くのひとがその不自由を「幸福」だと感じ、またそう語る。なぜでしょう? 幸福とは、より自由であることではないのでしょうか? 
     たぶんそうじゃないんですね。映画『草原の椅子』のクライマックスで、齢50歳にして新しい家族を抱え込むに至った主人公が、「これでもう勝手に死ねなくなった」と語る場面があります。印象的なひと言です。
     主人公はこの決断によってたしかに幸福を手に入れたはずなのですが、それでも、やはり「いつでも死ねる」という自由を失ってしまっている。ひょっとしたら幸福とは、自由を代償にしてしか手に入らないものなのでしょうか?
     あるいはほんとうにそうなのかもしれません。一般的にいってたくさんのものを持っている「リア充」ほど、色々なもので縛られていて不自由なのではないかと思います。たとえば恋人がいるひとは恋人に、家族がいるひとは家族に、仕事があるひとは仕事に、束縛される。
     何も持っていないぼくはそういう意味ではかなり自由です。しかし、どうもあまり幸福ではないような気がします。結局のところ、「自由」と「幸福」とは、対極にある概念なのかもしれません。幸福とはたくさんのものに縛りつけられている状況のことを指す言葉なのかも。
     ひとは自由になればなるほど、幸福感から遠ざかっていくものであるようにも思われます。ぼくは数年前、大好きだった祖母が亡くなったとき、いっきに自由になりました。なぜなら、もう「祖母が亡くなったらどうしよう」と心配する必要がなくなったからです。
     この先、両親が亡くなったらぼくはもっと自由になるでしょう。そうなったら、ぼくが死んだところで気にするひとはほとんどいなくなるわけだから、いつ死んでもかまわなくなるわけです。
     
  • ああ神さま、なぜひとは「持つ者」と「持たざる者」に分かれるのでしょうか?(2184文字)

    2013-04-16 17:17  
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     羽海野チカ『ハチミツとクローバー』は、いうまでもなくゼロ年代の少女漫画を代表するラブコメディの傑作だ。その終盤で、明るく、快活で、つねにひとから愛される弟に劣等感を抱いている兄の話がある。
     かれはかれで優秀な頭脳の持ち主なのだが、究極的なところで自分を肯定しきる「根拠のない自信」を持っていないのだ。だから、かれはいつも不安に駆られている。それは自分の存在そのものへの懐疑と一体になった不安だ。
     なぜ生まれてきたのか? ほんとうに自分が生きていていいのか? 自分になど何の価値もないのではないか? そういう、答えなどあるはずもない問いで自分を雁字搦めにするしかないタイプの人間だといってもいいだろう。こういう人々のことをぼくは「闇属性」と呼んでいる。
     一方でかれの弟のように、自分の存在理由に一切の不安を持たないひとも、少数ではあるが、いる。そういうひとのことをぼくは「光属性」と呼ぶ。
     闇属性と光属性の差は、色々なところで大きく表れてくる。生まれつき不安を抱いていないようにすら見える光属性の人々は、時として、闇属性のひとの羨望と嫉妬を集める。『ハチクロ』の作中でもそのようすは描かれている。

    「忍… 忍…オレはずっと不思議だった どうしてこの世は「持つ者」と 「持たざる者」に分かれるのか どうして「愛される者」と 「愛されない者」が在るのか 誰がそれを分けたのか どこが分かれ道だったのか ――そもそも 分かれ道などあったのか? 生まれた時にはもうすべて決まっていたのではないか? ならば ああ 神さま オレのこの人生は 何の為にあったのですか」。

     人生が何のためにあるのか、とそう悩み、嘆くことじたい、闇属性の特徴である。光属性のひとはそんなこと端から考えもしない。かれらはただ純粋に生きることを楽しむだけなのだ。
     思う。それでは、闇属性の人間は、ひとたび光の道を見失ってしまった者は、どうあがいても光属性のひとには勝てないのだろうか。あるいはかれからすべてを奪ったところで、しょせん「根源的な自信」の差は埋めようもないものなのだろうか。
     
  • 萌え版『ハチミツとクローバー』を見たい! 「男女複数非対称形萌えラブコメ」は可能か。(1721文字)

    2013-04-09 18:34  
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     今日、6本目の記事です。このあとも2本書く予定です。合計8本ですね。メールで読まれている方は、お前は1日にどれだけメールを送りつければ気が済むんだ、よっぽど暇なのか、と思われるかもしれませんが、よっぽど暇なのです。
     読むことと書くことくらいしかやることがないマイライフ。読んでは書き、読んでは書きで、ぼくの一生は終わるでしょう。いい人生です。ベリベリキュートな彼女を作って楽しく暮らす人生は来世に持ち越すことにします。
     さて、本題。今回は宮原るり『恋愛ラボ』の話。この作品のアニメ化が決まってしばらく経ちますが、原作でもさっそくアニメネタが取り込まれています。はたしてアニメがどんな出来になるのか、いまの時点ではまったくわかりませんが、期待して待ちたいと思います。最近のアニメは原作を壊さない傾向が強いからそんなに不安はない。
     この『恋愛ラボ』のアニメ化が、萌え業界にとってひとつの試金石となるであろうことは以前書きました。というのも、『恋愛ラボ』はひとりの男性主人公を複数のヒロインが取り巻くというハーレム系式ではなく、主人公が複数のヒロインのなかからひとりを選ぶという一対多のラブコメ形式でもなく、複数女子×複数男子によるラブコメだからです。
     これはいままでの萌え文化にはあまりなかったパターンで、はたしてこのパターンが受け入れられて人気が出るのかどうか、それともやはり「おれの好きな女の子がおれ以外の男とくっつくなんて許せない!」という拒絶反応が出るのか、注目したいところです。
     もし、これが受け入れられるようなら、萌えカルチャーは新しいステージに入ることになるかもしれません。いままでは「女の子だけ」が主流だった仲良し空間ものに男が混じってくるきっかけになったりするかも。
     で、ようやくこの記事のタイトルに繋がるわけですが、仮に『恋愛ラボ』が受け入れられたとしたら、その先に「男女複数非対称形萌えラブコメ」が生まれることがあるのかな、と。
     『恋愛ラボ』はぼくの定義によると「男女複数対称形萌えラブコメ」であるわけです。どういうことかと、『恋愛ラボ』では恋人同士になる女子と男子があらかじめ「組」として設定されているんですね。
     最終的にはこの女の子とこの男の子がくっつくんだろうな、ということが見ていてはっきりわかる。「ひとりの男の子をふたりの女の子が好きになってしまって――」みたいな恋愛関係の葛藤というものはないわけです。
     だから、そういう葛藤が複雑に絡みあう萌え漫画とかライトノベルというものはできないものかな、と思うのです。つまりは萌え版『ハチミツとクローバー』。
     
  • 空気の奴隷であるよりキモオタであるほうが100倍マシだと思う理由。(2619文字)

    2013-04-04 12:22  
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     「リア充」に関する記事を何本か書いた。そこでぼくが考えるリア充、ほんとうの意味で充実しているひとについて書くことにしよう。それは「根拠のない自信」を持ち、本質的なところで自分を肯定できているひとのことである。
     以前、西村博之さんの本を読んだ時、「根拠のない自信がいちばん大切だ。自分はそれを持っているから強い」という意味のことが書かれていて(意訳)、感銘を受けた。
     この場合の「根拠のない自信」というのは、何の根拠もなく自分は賢いとか偉い、優れている、と思い込んでいるということではなく、偉くなくても優れていなくても自分を肯定できるということであろう。
     具体的な成果や成功体験のような「根拠」を必要としない絶対の自信。それがひとにとっていちばん大きな武器であるとひろゆきは考えているようだ。ぼくもそう思う。
     世の中で「リア充」と呼ばれ、また自分も成功していると思っているひとの何割かは実は社会的通念の奴隷である。社会の暗黙のルールに適応し、世の中が要求する価値に順応し、周囲から高い評価を受けることが何より大切というだけのひとたちである。
     そういうひとは、あるいはイケメン(美人)で、成績優秀で、仕事もでき、恋人や伴侶にも恵まれているかもしれない。しかし、「根拠のない自信」は持っていない。なぜそういい切れるかといえば、根拠のない自信を持っていれば他人の評価など気にしないからだ。
     ひとの評価によって自信と自己肯定を形作っているひとは、どれだけその路線で成功していようと、しょせん他者評価の奴隷である。あるいは視線の奴隷といってもいい。かれらは常にひとがどう評価しているか気にし、空気を読むことに専念し、自分と同じ価値観を持っていない人間を軽蔑する。
     かれらはひとの評価によるランキングを何より重視するから、自分がそのランキングの上位にいる(と認識している)ことを誇りに思い、ランキング下位の人間を軽蔑する。そのようなランキングそのものが意味を持たない価値観というものを想像できないのだ。
     いや、そのような異質な価値観はかれらの価値観の絶対性を相対化してしまうから、積極的に否定したくなるのであろう。かれらにとっては、たとえば美容が、あるいは成績が、さもなければ仕事の実績がすべてであり、そのようなランキングの上位に上り詰めることが人生の目的そのものである。
     かれらは局地的な勝ち負けを人生そのものの価値と見なしているといってもいい。かれらにとっては恋愛や勉強や仕事で勝つことこそがすべてなのであって、そのランキングで自分より上位の者には劣等感を、下位の者には優越感を抱く。しかし、それは本質的に奴隷が鎖を誇り、あるいは嘆くたぐいの優越感であり、劣等感であるといっていい。
     その種の価値観が最も端的に出ていると思われるのがダイエットである。ぼくたちの社会は何十年も前からダイエットに夢中だ。数々のダイエット本がベストセラーになっていることからもそれはわかるだろう。
     『いつまでもデブと思うなよ』や『iPhoneダイエット』のような興味深いダイエット本(ダイエットに効果がある本という意味ではなく、ダイエットとは人間にとってどんな意味があるのか書かれている本)を読むと、徹底的にダイエットが賛美され、デブがいかに悲惨であるか切々と書かれている。
     『iPhoneダイエット』では「太っていた頃、わたしは自分が嫌いで仕方なかった」といった意味のことが書かれていた(意訳)。しかし、ぼくが興味を持つのは、なぜ太っているだけで自分を嫌いにならなければならないのかということなのである。
     人間の価値は、肉体の体脂肪率で決定されるとでもいうのだろうか。もしそうならずいぶんとシニカルな価値観であるというしかない。あるいは「いや、そうではないが、現実に人間はひとの視線に晒されるのだし、ひとは外見によって他人を判断するものだ」ということかもしれない。
     しかし、そういう「ひとの評価」によって自分を好きになったり、嫌いになったりする時点で本来の自己肯定ができていないということである。
     本来の「自己肯定」とはそういうものではない。太っていようが、痩せていこうが、愛されていようが、嫌われていようが、成功していようが、敗残者だろうが、そんなことに関係なく自分の存在を肯定できる。それがまっとうな自己肯定というものだ。
     美容や体重を気にすることが悪いというのではない。じっさい、適切な体重にダイエットすることは健康的な意味もあるだろう。だが、自分の体重の増減に一喜一憂し、そのことによって優越感や劣等感を抱くようなら、それはすでに「視線の奴隷」になっているということなのである。
     
  • 『ハチミツとクローバー』で考える才能論。(2052文字)

    2013-01-28 10:30  
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     才能という言葉にはふしぎな魅力がある。多くのひとがその言葉に惹きつけられ、多かれ少なかれ気にして生きている。
     しかし、よく考えてみればこれほど正体不明の言葉もない。いったい才能とは何だろう? 何ができれば才能があることになるのだろうか?
     ぼくの考えをいわせてもらえば、才能とは結果によって判断されるものである。だれかが結果として成功すれば、そのひとは才能があったといわれる。失敗すれば、才能がなかったと見なされる。それだけのものだ。
     もちろん、成功失敗には努力や時間も大いに関係しているはずだが、大抵の場合、それは無視される。ひとはこう思うものなのだ。たしかに努力の問題はあるだろう。しかし、努力だけでそこまでひとと差がつくものだろうか? 才能の差があると考えなければ説明がつかない、と。
     つまり、才能とは結果の巨大な格差を説明するためのマジックワードであり、ほとんど実体がない空虚な概念であるともいえる。
     たしかに生まれつきの能力の差、といったものはあるだろう。それは努力の質や量だけでは説明し切れないものかもしれない。しかし、すべてを才能という言葉で説明してしまうことはいかにも安易だ。
     他人の成功を「あのひとには才能があったのだ」というひと言で切り捨てられるひとには、たしかに才能がないのだと思う。
     もしあなたが自分に才能があるかどうか気にしているようなら、その時点であなたにはほんとうに才能がない、といういい方もできる。才能があるひとなら、自分に才能があるかどうかなどと悩むこともせずにその行為に夢中になっているはずだから、という理屈だ。
     自分には才能がないのではないかと悩む時点で大した才能はないのだ。天才は才能の有無に懊悩するより前にその物事を楽しみ抜く。
     羽海野チカの『ハチミツとクローバー』に森田馨と忍という兄弟が登場する。心に暗いものを抱えた秀才である馨に対し、弟の忍は天才肌の人物で、一切ダークサイドを持っていないように見える。
     
  • 努力には限界がある。どんなにがんばっても報われないかもしれない現実を見つめろ。(2205文字)

    2013-01-26 14:03  
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     羽海野チカ『3月のライオン』第7巻の冒頭で、前巻で主人公に敗れ去った脇役の山崎順慶がこう切々と語る場面がある。

    「信じれば夢は叶う」
    それは多分 本当だ
    但し 一文が抜けている
    「信じて努力を続けていれば夢は叶う」 
    ――――これが正解だ
    さらに言えば
    信じて
    「他のどのライバルよりも1時間長く
    毎日 努力を続ければ
    ある程度迄の夢は、かなりの確率で」
    叶う――だ

     そしてこのように続く。

    キャッチコピーというものは 短い方がいい
    ――でも これは あまりにも はしょり過ぎだと思う
    それじゃまるで「何もしなくても」「ただ信じていれば」
    叶うみたいじゃないか
    この文章を
    ここまで削ったヤツに
    何を思って
    ここまで削ったのかと
    問い質したい

     前巻で悪役然として描かれていた山崎の独白だけに、胸に染み入るような台詞である。色々な解釈があるだろうが、ぼくはここから山崎の、「信じれば夢は叶う」と無邪気にいう世間の人々に対する反感を読み取った。
     現役のプロ棋士である山崎は、人並み外れた努力を積んできた男である。その山崎に向かい、かれの知人たちは「有名になってTVとか出てよー」「でさぁ!! 早く名人とかなっちゃってよー」と気楽にいう。
     ほんとうの努力と、それが報われないことの苦しさを知らない者の台詞である。山崎でなくても、このような言葉を「暴力的」だと思うことだろう。しかし、それでも「信じれば夢は叶う」と他人に語るひとはいるものだ。
     それはもはや理性的な判断というより「信じること」に対する信仰である。こういう信仰は何か歪んだものを生むとぼくは考える。たしかに成功のためには「信じること」が必要な一面もあるだろう。自分は成功できると信じなければ努力できないからだ。
     しかし、じっさいには信じて努力したところで、夢が叶うとはかぎらない。山崎の言葉は、裏を返せば「他のどのライバルよりも1時間長く毎日努力を続けたとしても、あまり大きな夢は叶わないし、ある程度までの夢も一定の確率で無理だ」という意味になる。
     身も蓋もない話だが、社会のどうしようもない現実である。もちろん、艱難辛苦の果てに大きな夢を叶えるひと握りの人々は実在する。しかし、かれらが成功したということは、ぼくやあなたが同じだけ努力をすれば同じように成功するということではない。
     努力には限界があり、そしてその限界まで努力したところで、才能や環境や、さらには幸運を持った人々には勝てないかもしれないのだ。
     「信じれば夢は叶う」とはいわないひとたちも、どうかすると「努力すれば夢は叶う」といってしまう。しかし、これもやはり欺瞞を抱えた言葉だ。
     
  • どうすれば人生は充実してくるのか。『ベイビーステップ』でリア充になる秘訣を探る。(2222文字)

    2012-12-20 13:33  
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    『ベイビーステップ』おもしろいよ『ベイビーステップ』。というわけで、漫画を読んでリア充になる秘訣を探ろうという無謀な記事です。でもまあ、ほんとうに漫画から学ぶことができたなら、それをリアルに役立てることは不可能ではないと思うのですよ。結局はそのひと次第であるわけですが。それにしてもぼくも「リア充」って言葉が好きだな。かなりこだわっている。
  • どうすれば真の自信を持てるのか。『3月のライオン』が描く「自分の大きさ」を知る方法。(2287文字)

    2012-12-14 16:26  
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    羽海野チカ『3月のライオン』の最新刊が発売されました。すでに雑誌ですべて読んでいますが、あらためて単行本で読んでみました。いい! いままでの展開にまさるとも劣らぬスリリングだったりハートウォーミングだったりする展開が続く第8巻です。今回は第9巻に収録されるはずのエピソードから気になる台詞を取り出して語ってみました。ネタバレにご注意ください。
  • 『3月のライオン』の「差別構造」に物語の限界を見る。(5262文字)

    2012-11-28 18:45  
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    「Something Orange」からの転載記事です。べつに『3月のライオン』を批判しているわけじゃないから(いや、ある意味では批判しているんだけれど)、ファンのひとは怒らないようにお願いします。この議論はけっこうクリティカルなものだと思っていて、なかなか良い記事なのではないかなーなどと自画自賛しています。長いですが、よければ読んでみてくださいませ。