• ややこしい 近代イギリス史のまとめ ② (帝国主義時代の幕開けから第一次世界大戦まで)

    2019-05-11 12:16

    近代イギリス史 ② (帝国主義時代の幕開けから第一次世界大戦まで)


    古代~中世イギリス史 まとめ ①

    ~ケルト系ブリトン人」支配時代~
    ● ケルト系民族ブリトン人による支配 (紀元前7世紀から紀元前2世紀ごろ)

    ~「ローマの属州」時代~
    ● ローマ帝国による南部イギリス地方の属州化 (紀元1世紀末)

    ~「ゲルマン系アングロ・サクソン人」支配時代~
    ● ゲルマン系アングロ・サクソン人による「七王国」の形成と「イングランド王国」の誕生 (紀元前4世紀末~前9世紀)

    ~「ゲルマン系ノルマン人」支配時代~
    ● ヴァイキング(ゲルマン系ノルマン人)の南下 (10世紀ごろ)
    ● ロロによるノルマンディー公国(西フランク王国に臣従)の建設 (911年)
    ● クヌートによる「デーン朝」の建設 (1019年)
    ● ギョーム2世(ノルマンディー公ウィリアム1世)による「ノルマン・コンクエスト」 (1066年)
     ロロの子孫のギヨーム2世がイングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、国王(ウィリアム1世)となり、ノルマンディー公とイングランド王を兼任する。 
    ● ヘンリ1世によるイングランド・ノルマンディの再統一。(1106年)
     ウィリアム1世の死後、イングランド王国は三男のウィリアム(即位してウィリアム2世)に、ノルマンディ公国は長男のロベールにそれぞれ与えられて分割統治状態となったが、ウィリアム2世の死後、イングランド王となった四男のヘンリ1世が長兄のロベールと争ってイングランドとノルマンディの再統一を果たす。

    ~「プランタジネット朝」時代~
    ● ヘンリ2世による「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の建設 (1154年)
     ヘンリ1世の死後、イングランド王は甥のスティーブンに受け継がれたが、ヘンリ1世の娘マティルダも王位継承を主張して13年におよぶ内乱へ突入。
     その後両者で密約が交わされ、スティーブンの死後にマティルダの息子へと王位が譲り渡されることが決まる。
     1154年にマティルダの息子はヘンリ2世として即位するが、母のマティルダはフランスのアンジュー伯爵ジョフリ・プランタジネットに嫁いでいたため、ヘンリ2世は母がフランスに有していたアンジューの領地も同時に獲得することとなり、「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の始祖となった。
    ● ヘンリ2世の息子リチャード1世が即位。(1189年)
     リチャード1世は"獅子心王"の異名を取る勇者で第三回十字軍遠征が活躍。ライバルとなったアイユーブ朝エジプト王のサラディンと激闘を繰り広げた。
    ● 「ブーヴィーヌの戦い」(1214年)
     リチャード1世の後を継いだ弟のジョン王が、フランスに敗れて大陸領土を失った戦い。ジョンはヘンリ2世の子たちのなかで唯一領土の割譲が得られず"失地王"と呼ばれていたが、文字通り領地を失う王となった。
    ● 大憲章マグナカルタの制定(1215年)
     フランスに敗れたジョンだったが、その後も大陸領土を取り戻そうとして国内の貴族たちに無理な動員や戦費の負担を強いようとしたため、反発した貴族たちがジョンに対して、王権の制限や、貴族の特権、都市の自由などを認めさせた文書。「法の支配」による立憲主義の出発点となった。

    ● ヘンリ3世が即位。
     ジョン王の死後、即位した息子のヘンリ3世はわずか9歳だったため、諸侯たちは「パーラメント」と呼ばれる諸侯会議を開催して王を支え、イギリスの「議会政治」が発達。
     ところがその後、25歳に達したヘンリ3世は親政を開始するとともに、失ったフランス領土を取り戻すと対外戦争を進めるようになり、諸侯たちとの対立を深める。
    ● シモン・ド・モンフォールの反乱(1264年)
     マグナ=カルタの規定を無視して戦費を徴収しようとしたヘンリ3世に反発した貴族が、シモン=ド=モンフォールに率いられて起こした反乱で、ヘンリ3世は敗れて捕虜とされてしまう。
    ● モンフォール議会の招集。(1265年)
     シモン・ド・モンフォールの反乱に敗れたヘンリ3世が諸侯の求めに応じて招集した議会。従来の貴族・聖職者の代表者に加えて、各州から2名ずつの騎士と、各都市から2名ずつの代表者が参加できるようになり、これが実質的な議会制度の始まりとなったが、後にシモンが国王側の反撃に遭って殺されたため、定着まではしなかった。

    ● ヘンリ3世の長男エドワード1世が即位(1272年)
    ● エドワード1世がウェールズを征服。(1277年)
    ● 模範議会の招集(1295年)
     先代のヘンリ3世の時代に深まった諸侯との関係緩和のため、エドワード1世によって召集された議会。「モンフォール議会」にならい貴族・聖職者だけでなく、当時、有力になりつつあった「コモンズ」と呼ばれた庶民階級の人びとである州代表の騎士と都市代表の市民を加えて開催された議会で、その後のイギリスの身分制議会の模範となった。
    ● エドワード1世がスコットランドを征服。(1303年5)


    古代~中世イギリス史 まとめ ②

    ~「プランタジネット朝」時代~(~14世紀末まで)
    ● 「百年戦争」の勃発(1337年~1453年)
     フランス王の王位継承権を巡ってイングランド王エドワード3世と新しくフランス王となったフィリップ6世との間で戦争が勃発。
    ● 「ブレティニー条約」の締結(1360年)
     捕虜にしたフランス王ジャン2世の解放を条件に、エドワード3世がフランス側の大陸に広大な領土を獲得。

    ~「ランカスター朝」時代~(1399年~1461年まで)
    ● ヘンリ4世の即位。(1399年)
     エドワード3世の孫リチャード2世が、王家を支えていたランカスター家のヘンリ・ボリングブルックがと対立して廃位に追い込まれ、代わってヘンリがヘンリ4世として即位し、「プランタジネット朝」から「ランカスター朝」が開始される。
    ● 「トロワ条約」の締結(1420年)
     ヘンリ5世が戦争で優位に立ち、フランスから王位継承権を獲得。
    ● 「オルレアン包囲戦」(1428年~29年)
     追いつめられていたフランスがジャンヌ・ダルクの登場によって巻き返しに転じ、1453年にはイングランド王国は大陸に持っていた領土をほぼ失い、百年戦争も終結。

    ~「ヨーク朝」時代~(1461年~1485年)
    ● 「ばら戦争」の開始(1453年~1485年)
     プランタジネット朝に代わってランカスター朝を開いたランカスター家に、エドワード3世の5男を祖とするヨーク家のリチャードが台頭し、王位を巡って勃発した内乱。
    ● エドワード4世が即位。(1461年)
     ヨーク家のエドワードが、ランカスター朝のヘンリ6世をロンドン塔に幽閉してエドワード4世として即位し「ヨーク朝」が成立。

    ~「テューダー朝」時代~(1485年~)
    ● ヘンリ7世が即位。(1485年)
     ヨーク朝のリチャード3世をフランスへ亡命していたリッチモンド伯ヘンリ・テューダーが倒し、ばら戦争を終結させてヘンリ7世として即位し「テューダー朝」を開く。


    近世イギリス史 まとめ

    ~「テューダー朝」時代(「絶対王政」の時代)~ (1509年~)
    ● ヘンリ8世による宗教改革、「イギリス国教会」の設立。(1534年)
    ● エリザベス1世によるイングランドの海洋進出。スペイン無敵艦隊を撃破(1588年)、「東インド会社」の設立(1600年) 


    近代イギリス史 まとめ ①

    ~「ステュアート朝」時代(「革命」と「立憲君主制」の成立)~ (1603年~)
    ● 「ピューリタン革命」(1642年)
     カトリック教徒で王権神授説を唱えるチャールズ1世にピューリタンを中心とする議会の議員たちが反乱を起こし「ピューリタン革命」が勃発。前期ステュアート朝が終焉
    ● 「イングランド共和国」の誕生。(1649年)
     革命により国王が処刑され「イングランド共和国」が誕生するが、同時に議会派のクロムウェルによる独裁がはじまる。
    ● 「王政復古」(1660年)
     議会派の独裁への反発から処刑された王の子のチャールズ2世が迎えられ王政が復活。後期ステュアート朝の成立
    ● 「名誉革命」(1688年)
     チャールズ2世の弟ジェームズ2世が即位するもカトリック復興を強行しようとして議会から追放され、オランダ総督オラニエ公ウィリアム3世とその妻メアリ2世が共同王として迎えられ「名誉革命」が成立。立憲君主制が確立される契機となる。


    近代イギリス史 まとめ ②

    ~「ハノーヴァー朝」時代(「責任内閣制」の成立)~ (1714年~)
    ● ウィリアム3世の後を継いだメアリ2世の妹アン女王が死去し、ドイツのハノーヴァー選帝侯ジョージがイギリス王ジョージ1世として即位。ハノーヴァー朝が開始される。(1714年)ジョージ1世およびその子のジョージ2世は政治に関心が乏しく、王に代わって議会から選出された内閣の大臣たちが議会に政治の責任を負って政務を遂行する「責任内閣制」が形つくられていく。

    ● ジョージ3世が即位(1760年)
    ● 「アメリカ独立戦争」(1775年)
     ジョージ3世のアメリカ殖民地に対する政策が植民地側の強い反発を受け「アメリカ独立戦争」が開始される。
    ● 「独立宣言」(1776年)
     アメリカ13植民地合同の第2回大陸会議総会で「独立宣言」が採択される。
    ● 「ヨークタウンの戦い」(1781年)
     バージニア植民地のイギリス軍最終拠点ヨークタウンを、米仏連合軍が「ヨークタウンの戦い」で陥落させ、独立軍の勝利が確定。
    ● 「フランス革命」(1789年)
    ● 「フランス革命戦争」(1792年4月)
     オーストリアからのフランス革命に対する干渉に、フランス革命政府(ジロンド派内閣)がオーストリアへ宣戦布告し「フランス革命戦争」が開始される。
    ● 「第一回対仏大同盟」(1793年)
     フランス革命軍がベルギーを占領してオランダにまで進攻の手を伸ばしてきたことに危機感を抱いたイギリス首相ピットトーリー党/保守)の働きかけにより「第一回対仏大同盟」が結成される。
    ● 「第二回対仏大同盟」(1799年)
    ● アイルランド併合(1801年)
     ピット首相によりアイルランドが併合され、正式な国号が「大ブリテンおよびアイルランド連合王国」となる。
    ● 「第三回対仏大同盟」(1805年)
    ● 「トラファルガーの海戦」(1805年)
     英ネルソン提督がフランス海軍を撃破。
    ● 「アウステルリッツ三帝会戦」(1805年)
     ナポレオン率いるフランス軍がオーストリア・ロシア連合軍を撃退。
    ● 「大陸封鎖令」(1806年)
     イギリスとの貿易を禁止し経済封鎖することを目的とした「大陸封鎖令」がナポレオンによって出される。
    ● 「ロシア遠征」(1812年)
     ナポレオン軍が「ロシア遠征」を決行するも焦土戦術により敗退。
    ● 「ライプツィヒの戦い」の戦い(1813年)
     ナポレオン軍がプロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデンの連合軍に敗れ、パリが陥落。ナポレオンは退位してエルバ島へと脱出。
    ● 「ケープ植民地」の獲得(1814年)
     イギリスはナポレオン戦争後の「ウィーン会議」で、イギリス軍がナポレオン戦争中に占拠していた旧オランダ領ケープ植民地の領有を認められ「イギリス領ケープ植民地」を獲得する。当時オランダはナポレンによって併合され、フランスの直轄領となっていた。
    ● 「ワーテルローの戦い」(1815年)
     ナポレオンが再起を賭けて「ワーテルローの戦い」を挑むも英蘭連合軍に敗退し、ナポレオンはセントヘレナ島に配流される。

    ● ジョージ4世が即位(1820年)
    ● イギリスでそれまで厳しく弾圧されていたカトリック教徒が公職に就くことを認められた「カトリック教徒解放法」が制定される。(1829年)

    ● ジョージ4世の弟のウィリアム4世が即位(1830年)
    ● イギリスで第一回選挙法改正が実施され、腐敗選挙区(人口が減少した選挙区のこと)の議院定数の見直しが行われる。(1832年) 

    ● ジョージ3世の孫のヴィクトリア女王が即位(1837年)
    「ヴィクトリア時代」と呼ばれるこの時代にイギリスは「世界の工場」として経済発展を迎え、圧倒的な工業力と軍事力を背景に欧米諸国・アジア・アフリカに自由貿易圏を拡大し「パクス・ブリタニカ」と称される繁栄期を築き上げる。
     また「保守党」と「自由党」の二大政党制が確立され、交互に独自の政策を実現させ、国内問題や対外問題にあたっていくようになる。
     「保守党」(旧トーリ党)は、地主や貴族の支持を受け、保護貿易や強行外交を推進し、アイルランドの自治にも否定的。
     「自由党」(旧ホイッグ党)は、産業資本家や労働者の支持を受け、自由貿易と平和外交を促進し、アイルランドの自治にも寛容的。

    ● アヘン戦争(1840~42年)
     イギリスからのアヘンの密輸を禁止した清王朝に対し、自由党パーマストン子爵外相は、自由貿易と廃棄されたアヘンの賠償を求めて「アヘン戦争」をしかけ、インド総督に命じて海軍を派遣し、中国沿岸の厦門、寧波、広州、上海、鎮江といった諸都市を占領しつつ、南京に迫った。
    ● 南京条約(1842年)
     アヘン戦争後にイギリスと清王朝との間で交わされた講和条約で、その結果、清はイギリスに対し合計2100万ドルをイギリスに支払うことをはじめ、海禁政策を止めて広州、福州、厦門、寧波、上海の5港を開港することや、その他、関税自主権の放棄や領事裁判権(治外法権)の承認など、数々の不平等条約を結ばされることとなった。
    ● シパーヒー/セポイの反乱(1857~58年)
     インドを支配する東インド会社に傭兵として雇われていた「シパーヒー/セポイ」と呼ばれるインド人傭兵たちが、イギリスによる植民地支配からの独立を訴えて起こした反乱。
     しかし自由党パーマストン子爵首相は、インドの植民地統治機関と化していたイギリス東インド会社の軍隊に命じて、翌年までに反乱を鎮圧した。
    ● アロー戦争(1856~60年)
     1856年10月、広州港に停泊中だったアヘン密輸船のアロー号が、清朝官憲から海賊容疑で臨検された上、船員が逮捕されり、国旗を引きずり降ろされたりなどした「アロー号事件」を不当なものとして、イギリスが清王朝に対して再び戦争をしかけた戦い。
     しかし自由党パーマストン首相の真の目的は清王朝に5港以外の完全な自由貿易を認めさせることにあり、同年に発生していたフランス人宣教師殺害事件を口実に清への侵出を窺っていたナポレオン3世のフランスも誘って共同で出兵した。
     そのころちょうど「太平天国の乱」が起こり、清朝政府が対応に苦慮していたことも彼らにとっての好機だった。
    ● 天津条約(1858年)
     アロー戦争に負けた清と英仏露米の間で結ばれた条約。
     清は、外国公使の北京駐在やキリスト教の布教を認めることに加え、台湾、漢口、九江、南京など10港を開港し、合計600万両の賠償金支払いをさせられる結果となったが、後に清王朝が条約の批准を拒否して再び戦闘状態へと陥る。
    ● 北京条約(1860年)
     天津条約の批准に清王朝が拒否して再び戦争となり、負けて再び清と英仏露米との間で結ばれた条約。その結果、清の賠償金は800万両に増やされ、天津も開港し、そしてイギリス九竜半島南部を、ロシアには沿海州を割譲することなどが決められた。

    ● 「東インド会社の解散」(1858年)
     インドでの大反乱を受け、東インド会社による統治に限界を感じたイギリス政府は、保守党ダービー伯爵内閣時に東インド会社の解散を行い、インドの直接統治に踏み切る。

    ● 「スエズ運河の買収」(1875年)
     スエズ運河はイギリスにとって最重要の植民地インドを結ぶ海運の大動脈だったが、スエズ運河を経営していたのはイギリスのライバル・フランスとエジプト太守の共同出資による万国スエズ運河株式会社だった。
     そんな中、運河会社の株式を大量保有するエジプトが財政難に陥り、株式が売りに出されることになったため、その情報をキャッチした保守党ディズレーリ首相は独断で、休会中の議会を無視して大財閥ロスチャイルドから400万ポンドを借り、スエズ運河の買収に成功する。
     これにより、イギリスはスエズ運河の運営・管理についてフランスと同等の発言権を得ると共に、これがイギリスのアフリカ進出の発端ともなった。
     イギリスではディズレーリ首相の時代に、軍事力を背景にした領土、勢力圏、植民地の拡大を図る帝国主義政策が強力に展開され、イギリスは主に、海外のオランダ勢力を排除していくかたちで自国の勢力を拡大させていく。

    ● 「教育法」の制定。(1870年)
     自由党グラッドストン内閣で「教育法」が制定され、初等教育が義務化される。
    ● 「労働組合法」の制定。(1871年)
     自由党グラッドストン内閣で「労働組合法」が制定され、労働組合が合法となり、ストライキ権(争議行為)も認められるようになった。

    ● 「三帝同盟」(1873~79年)→「ビスマルク外交」の開始
     フランスとロシアに挟み撃ちにされることを危惧したプロイセンの首相ビスマルクによって結ばれた、ドイツ、オーストリア、ロシアの三国間の同盟。「ビスマルク外交」の始まり。

    ● 「インド帝国」の成立。(1877年)
     保守党ディズレーリ内閣で、ヴィクトリア女王がインド皇帝を兼ねる「インド帝国」が成立し、イギリスがインドを直接の支配下に収める。
    ● 第二次アフガン戦争(1878~80年)
     保守党ディズレーリ内閣で、イギリスが「第二次アフガン戦争」を起こしてアフガニスタンを保護国化する。

    ● 「ベルリン条約」でキプロス島を獲得。(1878年)
     保守党ディズレーリ内閣で、イギリスは露土戦争後に結ばれた講和条約に干渉し、イギリスはベルリン会議でキプロス島を獲得するとともに、ロシアのバルカン半島への南下政策を阻止した。
    ● 「独墺同盟」(1879年) 
     ベルリン会議で悪化したドイツとロシアの関係悪化を補うべく、ビスマルクによって結ばれたドイツとオーストリア関係強化のための同盟。
    ● 「新三帝同盟」(1881~87年)
     バルカン半島進出で対立を深めたロシアとオーストリアの関係を修繕してビスマルクが三帝同盟を復活させるが、ロシアとオーストリアの対立から1887年に消滅。
     ロシアとオーストリアはそれぞれ、当時はオスマン帝国の支配下にあったバルカン半島の諸国を、スラヴ系民族で独立と統一をめざそうとする「汎スラブ主義」を掲げるロシア帝国と、ゲルマン系民族での独立と統一をめざそうとする「汎ゲルマン主義」を掲げるドイツ帝国とで熾烈な対立関係にあった。

    ● 「三国同盟」(1882年)
     ベルリン条約で、アフリカのチュニスへの進出が認められたフランスに脅威を抱いたイタリアに、ビスマルクが誘ってフランスを仮想敵国とするドイツ、オーストリア、イタリア間で三国同盟を結成。

    ● 「第3次選挙法改正」(1884年)
     自由党グラッドストン内閣により第3次選挙法改正が行われ、農村労働者にも選挙権が拡大し、有権者が倍増。グラッドストンはアイルランドの解放にも熱心に取り組んだ。

    ● 「再保障条約」(1887~89年)
     ロシアとの新三帝同盟が延長されることなく解消されたため、ビスマルクがロシアとの関係を維持しようとして、もしロシアとオーストリアが戦争状態に陥ったとしてもドイツは独墺同盟に反して中立を保つと約束した密約の条約。
    ● ビスマルク外交の終焉(1890年)
     1888年に即位したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は宰相のビスマルクとは合わず、1890年にビスマルクが罷免されるとビスマルク外交も終焉を迎え、ドイツが最も恐れていた、フランスとロシアの同盟が結ばれることとなる。

    ● 南アフリカ戦争/ボーア戦争」(1899~1902年)
     自由党ローズベリー伯爵内閣時に、イギリスは、南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国とオレンジ共和国でそれぞれ発見された金とダイヤモンド鉱山を奪取すべく、ケープ植民地から「南アフリカ戦争/ボーア戦争」をしかけ、二国家を侵略し、併合する。
     ボーア人とは17世紀に南アフリカのオランダ領ケープ植民地に入植したオランダ系白人とその子孫のこと。

    ● 「露仏同盟」(1891~94年)
     ドイツとロシアとの間で結ばれていた「再保証条約」の更新がヴィルヘルム2世によって拒否されたため、ロシアがフランスとの間に結んだ同盟。

    ~「サクス・コバーグ・ゴータ朝」時代~ (1901年~)
    ● エドワード7世が即位。(1901年)
     ヴィクトリア女王の死後、子のアルバートがエドワード7世として即位。エドワード7世の父がドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ(英名でサクス・コバーグ・ゴータ)家出身であったため、彼の代からハノーヴァー朝に代わって「サクス・コバーグ・ゴータ朝」となる。

    ● 日英同盟(1902年)
     極東アジアで南下政策を進め膨張を続けるロシア帝国に対抗すべく「日英同盟」が締結される。
    ● 「日露戦争」(1904~05年)
     イギリスの支援を受けた日本がロシアを戦争で破ってロシアの南下を阻止。ロシアは駐留していた満州から撤退。
    ● 英仏協商(1904年)
     ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の世界政策展開によるアフリカや中東への進出に危機感を抱いたイギリスが、それまで同じアフリカで勢力争いをしていたフランスと対立を解消して築いた協力体制。
     
    ● シン・フェイン党の結成。(1905年)
     アイルランドでイギリスからの独立をめざす民族主義政党「シン・フェイン党」が結成される

    ● 英露協商(1907年)→三国協商の成立
     バルカン半島から中東方面に進出してきたドイツに対抗するため、それまでイラン・アフガニスタン・チベットなどにおいてロシアの南下政策に対抗し「グレート・ゲーム」と呼ばれる激しい対立をしてきたイギリスが、ロシアとの長年の対立関係を解消して結んだ協力体制。
     また、これにより露仏同盟、英仏協商、英露協商を合わせて、独墺伊の三国同盟に対抗する英仏露の「三国協商」が成立することとなった。

    ● ジョージ5世が即位(1910年)
    ● アイルランド自治法の成立。
     自由党アスキス内閣で「アイルランド自治法」が成立。
    ● 第一次世界大戦の勃発(1914~18年)
     1871年に、プロイセンによって統一されたドイツは電機・化学工業が飛躍的に発展してイギリスを上回るほどの工業力を持つようになり、イギリスと対抗する帝国主義国として新たな市場を求め、海外でイギリスと対立すようになる。
     ドイツは最大のライバルであるフランスに対抗すべくオーストリア、イタリアと「三国同盟」を結成し、さらにイギリスの「3C政策」に「3B政策」を展開してイギリスとも対立を深めた。
     イギリスはドイツ対策のため、露仏同盟に加わる格好で「三国協商」を結成。
     その後、1914年に、オーストリアの皇太子夫妻がセルビア人に暗殺される「サラエヴォ事件」の発生をきっかけに、先ずオーストリア(カトリック教、汎ゲルマン)がセルビア(ギリシア正教、汎スラヴ、反オスマン帝国・イスラム教)に宣戦布告。
     これにセルビアの後ろ盾で、バルカン半島進出をめぐってかねてからオーストリアと対立していたロシア(ギリシア正教、汎スラヴ、反オスマン帝国・イスラム教)が総動員令を発令。
     するとそこへ、今度はドイツがロシアとフランスに宣戦布告をして侵攻を開始。
     イギリスはフランスを守る形でドイツに宣戦布告し、こうして大国同士の世界戦争へと発展していった。
     オスマン帝国は「露土戦争」を戦ってきたロシアに対抗し、独墺の三国同盟側に入って参戦。
     イタリアは「未回収のイタリア」問題解決のため、第一次世界大戦では三国同盟から離脱してオーストリアに宣戦布告した。
     また、極東方面では、日本が日英同盟を名目に参戦し、イギリスからの要請を受けて中国の山東半島にあるドイツ領・青島を攻撃して占領した。

    ● フセイン=マクマホン協定(1915年)
     第一次大戦にはオスマン帝国が参戦していたが、イギリスはこの機会に、衰えたオスマンに代わって中東の切り取りを画策した。
     しかし中東に多くの兵力を派遣する余裕はなく、そこでイギリスは1915年、アラブのハーシム家の投手フサインに、アラブ勢力を集めて対オスマン戦争をしかけるように持ちかけ、またその代償として、戦後にオスマン帝国領内のアラブ諸国の独立を認めることとした。
     この件は、イギリスのエジプト高等弁務官マクマホンがフサインと往復書簡を交わして合意に達した。
    ● サイクス・ピコ協定の締結(1916年)
     イギリスはアラブのフサインと「フセイン=マクマホン協定」を交わしながら、その翌年、ロシアとフランスとの間で「サイクス・ピコ協定」という密約を結び、戦後、イギリスがイラク、フランスがシリアを勢力圏に置き、パレスチナについては共同管理とする取り決めを行った。

    ~「ウィンザー朝」(サクス・コバーグ・ゴータ朝から改称)時代~ (1917年~)
    ● ジョージ5世が、サクス・コバーグ・ゴータ朝を改名してウィンザー朝を開始。(1917年)
     サクス・コバーグ・ゴータ朝とはドイツ貴族の名に由来する王朝名だったため、ドイツと戦うイギリスにふさわしくないとして、ジョージ5世が「ウィンザー朝」へと変更。
     ウィンザーとは居城から取った名前。

    ● バルフォア宣言(1917年)
     イギリスは「サイクス・ピコ協定」で、戦後パレスチナについては共同管理とすると決めながら、その一方で、戦費調達のため、ユダヤの金融資本家ロスチャイルドに、イギリスのバルフォア外相が、戦後パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設することに賛同する意志を表明してしまう。
     これにより第一次世界大戦後、パレスチナの地にユダヤ人の国イスラエルが建国されることとなるが、もともとイスラム教徒のアラブ人たちが多く住む土地の中に突如としてユダヤ教徒によるユダヤ人国家が建設されたことで、それが現在にまで続く「パレスチナ問題」を生む原因ともなっていった。

    ● 「二月革命/三月革命」(1917年3月)→「第二次ロシア革命」のはじまり
     第一次世界大戦に参戦したロシアは、ドイツ・オーストリア軍に国土の多くを占領された上、戦争が国内の食糧・燃料の不足、物価騰貴をもたらし、国民の生活を急激に悪化させた。 そうしたなか1917年、ロシア暦で2月23日(新暦3月8日)の国際婦人デーに、首都ペテログラードで女子労働者の「パンよこせ」デモが発生。これに続けて民衆が「戦争反対」「専制政府打倒」のスローガンを掲げて立ち上がり、軍隊がそれに呼応してペトログラードの労働者と兵士たちによる「労兵ソヴィエト」政権が結成される。 
     全国へ普及した民衆の放棄を受けて皇帝ニコライ2世は3月15日に退位し、ロマノフ朝は崩壊。代わりに国会では立憲民主党(カデット)のリヴォフ公を首相とする臨時政府が成立し、議会制によるブルジョア政権が誕生したが、臨時政府は戦争を継続しようとしたため、戦争継続に反対する「労兵ソヴィエト」との二重権力の状態となった。

    ● 「十月革命」(1917年11月)
     ロシア暦10月25日(新暦11月7日)、レーニンに指導されたボリシェヴィキが武装蜂起して臨時政府の打倒を果たし、ボリシェヴィキ独裁による「ソヴィエト」政権を樹立。
     土地の公有化も実施され、世界最初の労働者階級が権力を握る社会主義政権が誕生した。
     同時にレーニンは「平和についての布告」で交戦国すべてに即時講和を呼びかけ、第一次世界大戦から離脱すると共に戦争の終結を訴えた。
    ● 「ブレスト=リトフスク条約」(1918年)
     レーニンのボリシェヴィキ独裁がドイツ帝国で単独で結んだ終戦講和条約。
     同年3月には、ボリシェヴィキは「ロシア共産党」と改称され、首都をモスクワに移し、7月には憲法が制定され「ロシア=ソヴィエト連邦社会主義共和国」が正式に発足した。
    ● 「対ソ干渉戦争」(1918年~)
     社会主義革命を実現して第一次大戦から離脱したソ連に対し、イギリス・フランス・アメリカ・日本などの連合国側諸国が、世界の社会主義化を恐れたはじめたソ連打倒のための干渉戦争。日本も「シベリア出兵」して参戦。

    ● 第4回選挙法改正で、男子普通選挙、女性参政権成立(1918年) 
     戦時下における自由党首相ロイド・ジョージ挙国一致内閣(保守党・自由党・労働党の連立内閣)で男性は21歳以上の者すべてに、女性は30歳以上で戸主又は戸主の妻である場合に選挙権が認められるようになる。
     大戦中のイギリスでは、女性も軍需工場や、電車・バスの車掌、男性が出征した後の会社の事務などで働くことが求められ、銃後の働きで戦争を支えたが、それに応じて女性の社会進取出や発言権も大きくなり、政治参画への動きが加速されることとなった。

    ● 「ドイツ革命」(1918年11月)→第一次世界大戦の終結
     劣勢に追い込まれていたドイツで、無謀な出撃命令を拒否した海軍兵士による「キール軍港の水兵反乱」が発生。
     「キール軍港の水兵反乱」はロシアで起きた革命と同じように、兵士と労働者が結託した「労兵評議会/レーテ」による全国的な反乱放棄へと発展し、社会主義政権による「ドイツ共和国」が誕生。皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命。
     ドイツ共和国の臨時政府を握った社会民主党のエーベルト首相は、11月11日、フランスのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定を結び、第一次世界大戦は終結した。

     国民皆兵時代の第一次世界大戦はかつてないほど大規模化し、長期戦となった。
     戦争は互いに、連発式の機関銃で守られた長大な塹壕線を突破できずに膠着状態となる。
     毒ガスや戦車といった新兵器が投入されたが決め手にならず、死んでも次々延々と増援が送り込まれるため戦死者ばかりが膨大な人数へ膨れ上がっていった。
     イギリス軍は兵士不足に陥り、徴兵制が導入され、開戦前25万人体制だったイギリス陸軍は、最終的に570万人にまで達した。
     戦況を大きく変えたのはアメリカの参戦で、アメリカが200万人の大軍をヨーロッパに送り込み、さらにイギリス海軍がドイツ海軍の封じ込めに成功すると、ドイツは急速に物資不足に陥り、敗戦へ追い込まれる結果となった。
     しかし第一次世界大戦で史上初めて出現した「総力戦」による戦いでは、勝者となったイギリスも大きな傷を負うこととなった。
     イギリスは戦死者91万人、重傷者は200万人にのぼり、84億ポンドの戦費を費やした。
     戦費の大半が国債でまかなわれたたため、戦後のイギリス財政は困窮し、イギリスはもはや、かつての栄光の面影をなくしてしまうほどのダメージを負った。

    ● アイルランド自由国が成立(1922年)

     長くイギリスからの独立運動を続けていたアイルランドは、ロイド=ジョージ挙国一致内閣により自治が認められて、イギリス連邦を構成する自治国である「アイルランド自由国」となった。しかし、プロテスタントの多い北アイルランド(アルスター地方)は、アイルランド自由国に加わらず、イギリスに残った。


    近代イギリス史 まとめ 3

    ● マクドナルド首相による初の労働党内閣が成立(1924年)
    ● インド統治法の制定(1935年)
    ● エドワード8世が結婚問題で退位(1936年)
    ● ジョージ6世が即位(1936年)
    ● 「第二次世界大戦」が勃発(1939年)
    ● チャーチルによる戦時挙国一致内閣の成立(1940年) 
    ● インド・パキスタンの独立(1947年)
    ● エリザベス2世の即位(1952年)
    ● スエズ動乱(1956年)
    ● サッチャー保守内閣の発足(1979年)
    ● フォークランド紛争の勃発(1982年)
    ● サッチャー首相退任(1990年)










































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  • ややこしい 近代イギリス史のまとめ ① (二つの革命とイギリス議会制度の確立)

    2019-04-30 21:42

    近代イギリス史 ① (二つの革命とイギリス議会制度の確立)


    古代~中世イギリス史 まとめ ①

    ~ケルト系ブリトン人」支配時代~
    ● ケルト系民族ブリトン人による支配 (紀元前7世紀から紀元前2世紀ごろ)

    ~「ローマの属州」時代~
    ● ローマ帝国による南部イギリス地方の属州化 (紀元1世紀末)

    ~「ゲルマン系アングロ・サクソン人」支配時代~
    ● ゲルマン系アングロ・サクソン人による「七王国」の形成と「イングランド王国」の誕生 (紀元前4世紀末~前9世紀)

    ~「ゲルマン系ノルマン人」支配時代~
    ● ヴァイキング(ゲルマン系ノルマン人)の南下 (10世紀ごろ)
    ● ロロによるノルマンディー公国(西フランク王国に臣従)の建設 (911年)
    ● クヌートによる「デーン朝」の建設 (1019年)
    ● ギョーム2世(ノルマンディー公ウィリアム1世)による「ノルマン・コンクエスト」 (1066年)
     ロロの子孫のギヨーム2世がイングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、国王(ウィリアム1世)となり、ノルマンディー公とイングランド王を兼任する。 
    ● ヘンリ1世によるイングランド・ノルマンディの再統一。(1106年)
     ウィリアム1世の死後、イングランド王国は三男のウィリアム(即位してウィリアム2世)に、ノルマンディ公国は長男のロベールにそれぞれ与えられて分割統治状態となったが、ウィリアム2世の死後、イングランド王となった四男のヘンリ1世が長兄のロベールと争ってイングランドとノルマンディの再統一を果たす。

    ~「プランタジネット朝」時代~
    ● ヘンリ2世による「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の建設 (1154年)
     ヘンリ1世の死後、イングランド王は甥のスティーブンに受け継がれたが、ヘンリ1世の娘マティルダも王位継承を主張して13年におよぶ内乱へ突入。
     その後両者で密約が交わされ、スティーブンの死後にマティルダの息子へと王位が譲り渡されることが決まる。
     1154年にマティルダの息子はヘンリ2世として即位するが、母のマティルダはフランスのアンジュー伯爵ジョフリ・プランタジネットに嫁いでいたため、ヘンリ2世は母がフランスに有していたアンジューの領地も同時に獲得することとなり、「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の始祖となった。
    ● ヘンリ2世の息子リチャード1世が即位。(1189年)
     リチャード1世は"獅子心王"の異名を取る勇者で第三回十字軍遠征が活躍。ライバルとなったアイユーブ朝エジプト王のサラディンと激闘を繰り広げた。
    ● 「ブーヴィーヌの戦い」(1214年)
     リチャード1世の後を継いだ弟のジョン王が、フランスに敗れて大陸領土を失った戦い。ジョンはヘンリ2世の子たちのなかで唯一領土の割譲が得られず"失地王"と呼ばれていたが、文字通り領地を失う王となった。
    ● 大憲章マグナカルタの制定(1215年)
     フランスに敗れたジョンだったが、その後も大陸領土を取り戻そうとして国内の貴族たちに無理な動員や戦費の負担を強いようとしたため、反発した貴族たちがジョンに対して、王権の制限や、貴族の特権、都市の自由などを認めさせた文書。「法の支配」による立憲主義の出発点となった。

    ● ヘンリ3世が即位。
     ジョン王の死後、即位した息子のヘンリ3世はわずか9歳だったため、諸侯たちは「パーラメント」と呼ばれる諸侯会議を開催して王を支え、イギリスの「議会政治」が発達。
     ところがその後、25歳に達したヘンリ3世は親政を開始するとともに、失ったフランス領土を取り戻すと対外戦争を進めるようになり、諸侯たちとの対立を深める。
    ● シモン・ド・モンフォールの反乱(1264年)
     マグナ=カルタの規定を無視して戦費を徴収しようとしたヘンリ3世に反発した貴族が、シモン=ド=モンフォールに率いられて起こした反乱で、ヘンリ3世は敗れて捕虜とされてしまう。
    ● モンフォール議会の招集。(1265年)
     シモン・ド・モンフォールの反乱に敗れたヘンリ3世が諸侯の求めに応じて招集した議会。従来の貴族・聖職者の代表者に加えて、各州から2名ずつの騎士と、各都市から2名ずつの代表者が参加できるようになり、これが実質的な議会制度の始まりとなったが、後にシモンが国王側の反撃に遭って殺されたため、定着まではしなかった。

    ● ヘンリ3世の長男エドワード1世が即位(1272年)
    ● エドワード1世がウェールズを征服。(1277年)
    ● 模範議会の招集(1295年)
     先代のヘンリ3世の時代に深まった諸侯との関係緩和のため、エドワード1世によって召集された議会。「モンフォール議会」にならい貴族・聖職者だけでなく、当時、有力になりつつあった「コモンズ」と呼ばれた庶民階級の人びとである州代表の騎士と都市代表の市民を加えて開催された議会で、その後のイギリスの身分制議会の模範となった。
    ● エドワード1世がスコットランドを征服。(1303年5)


    古代~中世イギリス史 まとめ ②

    ~「プランタジネット朝」時代~(~14世紀末まで)
    ● 「百年戦争」の勃発(1337年~1453年)
     フランス王の王位継承権を巡ってイングランド王エドワード3世と新しくフランス王となったフィリップ6世との間で戦争が勃発。
    ● 「ブレティニー条約」の締結(1360年)
     捕虜にしたフランス王ジャン2世の解放を条件に、エドワード3世がフランス側の大陸に広大な領土を獲得。

    ~「ランカスター朝」時代~(1399年~1461年まで)
    ● ヘンリ4世の即位。(1399年)
     エドワード3世の孫リチャード2世が、王家を支えていたランカスター家のヘンリ・ボリングブルックがと対立して廃位に追い込まれ、代わってヘンリがヘンリ4世として即位し、「プランタジネット朝」から「ランカスター朝」が開始される。
    ● 「トロワ条約」の締結(1420年)
     ヘンリ5世が戦争で優位に立ち、フランスから王位継承権を獲得。
    ● 「オルレアン包囲戦」(1428年~29年)
     追いつめられていたフランスがジャンヌ・ダルクの登場によって巻き返しに転じ、1453年にはイングランド王国は大陸に持っていた領土をほぼ失い、百年戦争も終結。

    ~「ヨーク朝」時代~(1461年~1485年)
    ● 「ばら戦争」の開始(1453年~1485年)
     プランタジネット朝に代わってランカスター朝を開いたランカスター家に、エドワード3世の5男を祖とするヨーク家のリチャードが台頭し、王位を巡って勃発した内乱。
    ● エドワード4世が即位。(1461年)
     ヨーク家のエドワードが、ランカスター朝のヘンリ6世をロンドン塔に幽閉してエドワード4世として即位し「ヨーク朝」が成立。

    ~「テューダー朝」時代~(1485年~)
    ● ヘンリ7世が即位。(1485年)
     ヨーク朝のリチャード3世をフランスへ亡命していたリッチモンド伯ヘンリ・テューダーが倒し、ばら戦争を終結させてヘンリ7世として即位し「テューダー朝」を開く。


    近世イギリス史 まとめ

    ~「テューダー朝」時代(「絶対王政」の時代)~ (1509年~)
    ● ヘンリ8世による宗教改革、「イギリス国教会」の設立。(1534年)
    ● エリザベス1世によるイングランドの海洋進出。スペイン無敵艦隊を撃破(1588年)、「東インド会社」の設立(1600年) 


    近代イギリス史 まとめ ①

    ~「ステュアート朝」時代(「革命」と「立憲君主制」の成立)~ (1603年~)
    ● 「ピューリタン革命」(1642年)
     カトリック教徒で王権神授説を唱えるチャールズ1世にピューリタンを中心とする議会の議員たちが反乱を起こし「ピューリタン革命」が勃発。前期ステュアート朝が終焉
    ● 「イングランド共和国」の誕生。(1649年)
     革命により国王が処刑され「イングランド共和国」が誕生するが、同時に議会派のクロムウェルによる独裁がはじまる。
    ● 「王政復古」(1660年)
     議会派の独裁への反発から処刑された王の子のチャールズ2世が迎えられ王政が復活。後期ステュアート朝の成立
    ● 「名誉革命」(1688年)
     チャールズ2世の弟ジェームズ2世が即位するもカトリック復興を強行しようとして議会から追放され、オランダ総督オラニエ公ウィリアム3世とその妻メアリ2世が共同王として迎えられ「名誉革命」が成立。立憲君主制が確立される契機となる。


    近代イギリス史 まとめ ②

    ~「ハノーヴァー朝」時代(「責任内閣制」の成立)~ (1714年~)
    ● ウィリアム3世の後を継いだメアリ2世の妹アン女王が死去し、ドイツのハノーヴァー選帝侯ジョージがイギリス王ジョージ1世として即位。ハノーヴァー朝が開始される。(1714年)ジョージ1世およびその子のジョージ2世は政治に関心が乏しく、王に代わって議会から選出された内閣の大臣たちが議会に政治の責任を負って政務を遂行する「責任内閣制」が形つくられていく。



    「テューダー朝」から「スチュアート朝」へ

    ● イングランド・スコットランド「同君連合」の誕生

     生涯独身だったエリザベス1世には子がなく、1603年に彼女が死去するとテューダー朝は断絶してしまう。
     そこで、テューダー朝の始祖ヘンリ7世の血を引くスコットランド王のジェームス6世が、イングランド王ジェームス1世として即位し、「ステュアート朝」がはじまることとなった。
     これによりイングランドはスコットランドと同じ国王を推戴する「同君連合」となった。

     ブリテン島の北方には紀元前のころよりケルト系のピクト人がいて7つの王国を形成し、ローマ帝国の遠征も連合して退けて戦っていたが、6世紀のころになるとピクト人による「アルバ王国」が出現。
     アルバ王国は、アイルランドから渡ってきた同じケルト系スコット人のダルリアダ王国や、北方からのヴァイキングの侵略にも衝突を繰り返すようになるが、9世紀になってダルリアダ王国のケネス1世(ケネス・マカルピン)が現われ、ダルリアダ王国とアルバ王国は統一されて新たな「アルバ王国」として生まれ変わり、さらにその後、11世紀初頭、ダンカン1世の時代にスコットランド全域にまで領土が拡大し、このころからアルバがスコーシア王国、やがて「スコットランド王国」と呼ばれるようになったという。
     その後、スコトランドでは、アサル家、ベイリャル家、ブルース家と王朝が交代していく。
     ブルース朝は、イングランドを打ち破ったロバート1世にはじまるが、やがて血統が途絶えたため、1371年にブルース1世の王妃の血を引くロバート・ステュアートがロバート2世として即位し、これがスコットランド王国スチュアート朝の起源となった。
     「ステュアート」とは、スコットランド王国における「執事(Steward)」という役職名からきていて、彼ら代々、スコットランド王に仕える宰相兼蔵相の職分を担う家柄だった。

     スコットランド王国ステュアート朝では、三代目のジェームス1世のときに、イングランド王国プランタジネット朝エドワード3世の血をひくジョアンを王妃に迎え、その後、ジェームス4世はテューダー朝の祖ヘンリ7世の娘マーガレットを王妃を迎える。
     その二人からジェームス5世が生まれ、ジェームス5世がメアリー・ステュアートを生み、そしてメアリーがヘンリー8世の姪の子ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートと結婚し、彼らの間に生まれた子がスコットランド王ジェームス6世(イングランド王ジェームス1世)となった。

     ジェームス6世は父の死でわずか1歳のときにスコットランド王として即位したが、長く摂政による傀儡化と権力争いで時には軟禁されるなど翻弄された。
     18歳になって漸く親政に乗り出すが、ジェームス6世は教会や議会を王の制圧下に置こうとして対立を深める。
     1598年には、ジェームズ6世はみずから『自由なる君主国の真の法』という論文を書いて「王権神授説」を唱え、王は議会からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができると主張した。

     ジェームス6世がイングランド王ジェームス1世としてイングランドへやってきてもそうした態度は変わらず、ジェームス1世はイングランド22年間の治世で、たった4回しか議会を招集しなかった。
     また宗教政策をめぐっても、ジェームス1世自身はプロテスタントのカルヴァン主義者だったが、彼は欽定訳聖書を定めて「主教なくして国王なし」と主張し、国教会の主教制度を国家の柱として、国教会以外の宗派であるカトリックだけでなくプロテスタント(イングランドのピューリタンとスコットランドの長老派(プレスビテリアン))も否定した。
     
     ジェームズ1世の時代には、アメリカ大陸に最初の恒常的な植民地ヴァージニアが建設(1607年)されていたが、王の国教会強制による迫害を逃れてイングランドのピューリタンが北米に移住(1620年)して、ニューイングランドを建設したというのもジェームズ1世の宗教政策が原因だった。

     そして、ジェームズ1世に始まった国王と議会との対立は、次のチャールズ1世の時にさらに深刻となり、ついにピューリタン革命を引き起こす事態となる。



    「ピューリタン革命」と「名誉革命」

    ● チャールズ1世とピューリタン革命の勃発(前期ステュアート朝の終焉)

     1623年、ジェームズ1世が死去すると、子のチャールズ1世が即位したが、彼も父と同じ政治・宗教路線をとったため、国内対立を激化させてしまう。
     父と同様「王権神授説」を唱えたチャールズ1世に対し、議会は1628年に「権利の請願」を提出して議会の同意のない課税や、法に基づかない逮捕・投獄を認めないように求めたが、王は怒って、以後、11年間議会を招集しない絶対王政を行った。
     そして宗教問題においても、当時、ヨーロッパ大陸では「三十年戦争」の最中で、カトリック勢力と新興のプロテスタント勢力が血みどろの戦いを繰り広げていた。
     大陸での争いはブリテン島の宗教情勢にも影響を及ぼし、イングランドとスコットランドでもカルヴァン派の影響を受けたピューリタン(清教徒)が勢力を増し、イギリス国教会の改革を求めるようになった。
     チャールズ1世は即位前にカトリックのフランス王ルイ14世の妹ヘンリエッタ・マリアと婚姻していたが、即位後も反ピューリタン派のカンタベリ大司教のロードを腹心として重要すると、大主教ロードは国教会の立場を強化しようとしてピューリタンを弾圧し、特権商人に対する独占権の付与や、議会の承認を必要としない関税の増税などを強行。
     また、反対派に対して星室庁裁判所による裁判で取り締まったため、ピューリタンの間には王室への反感、憎しみが募っていった。
     そうした中、スコットランドで主教戦争と呼ばれるピューリタンの反乱が発生。
     チャールズ1世はその反乱鎮圧の軍事費捻出のため議会を招集するが、議会は国王の課税案をはねつけたため、王はわずか3週間で再び議会を解散させる。→(のちに短期議会と呼ばれる)
     しかし議会で戦費を捻出することができなかったイングランド軍はスコットランドの反乱軍に敗退。
     すると今度は反乱軍との和睦の賠償金のためにまた議会を招集せざるを得なくなり、チャールズ1世は改めて議会を招集。
     だが今度の議会は短期に終わった前回の議会と違ってその後13年間も解散させられることがなく、「ピューリタン革命」へつながる衝突の場となっていく。→(のちに長期議会と呼ばれる)
     1640年10月に総選挙が実施され、同年に招集されたこの議会(「長期議会」)では、王の側近ストラフォード伯と大主教ロードの逮捕・処刑が決議され、さらに三年に一度は議会を開催すること、議会自身の決議がなければ解散できないといったことが定められたり、その他、船舶税や星室庁裁判所の廃止など、絶対王政を否定する改革の推進が提起され、また王の悪政を弾劾する大抗議文が可決された。

     しかしこの長期議会で、「大抗議文」に反対しイギリス国境会を支持する「王党派」と、ピューリタンを中心とする「議会派」の対立が激化。
     議会が分裂しているとみたチャールズ1世は1642年1月、自ら兵を率いて議場に赴くと、軍の力を背景に、ジョン=ピムら議会の指導者5人の引き渡しを要求した。
     しかしその要求は拒否され、8月、ついに両派で内乱・内戦が勃発。
     これが聖教徒(ピューリタン)革命の始まりとなった。
     当初はチャールズ1世率いる国王軍と王党派が優勢だったが、オリヴァー・クロムウェル率いる「鉄騎兵」の活躍により議会派が巻き返し、1645年の「ネイズビーの戦い」に勝利した議会派は、1647年1月にチャールズ1世を捕え、勝利を収めた。

     議会派はクロムウェルの鉄騎兵を参考にした「ニュー・モデル・アーミー」と呼ばれる革新的な組織によって構成されていた。
     中世の戦争は、騎士と騎士の一騎打ちといった個人プレーが中心だったが、ニュー・モデル・アーミーでは集団としての作戦行動が重んじられた。
     また、家柄や職業に関係なく、実力主義の人材登用が行われ、軍律は厳しく、兵士たちには神の大義のために戦う覚悟と勇気が求められた。


    ● クロムウェルの独裁(イングランド共和政時代)

     王党派に勝利した議会派の革命軍だったが、その後は議会派を構成する長老派独立派水平派とで新たな対立へと発展。
     「長老派」はカルヴァン派のプロテスタント(新教徒)で、イギリス国教会の国王を中心とする主教制度に反対して王党派と対立していたが、しかし長老派は国王の存在までは否定しない立憲君主派のグループだった。
     「独立派」はクロムウェルに代表されるカルヴァン派ピューリタンの一派で、彼らは長老による教会の統制を主張していた長老派の考えには反対で、各教会の独立を尊重したため独立派と呼ばれ、また、国王のいない共和政の樹立を目指した。
     独立派を支持したのは中程度のジェントリとヨーマン(自由農民)、それに都市の商工業者たちだった。
     「水平派」は、独立派よりもより貧しい小農民や手工業者、小商人層によって構成されたグループで、彼らは私有財産の多寡による制限選挙の実施を主張していた独立派に対し、財産による制限のない普通選挙の実現を求めた。

     英国の議会は、百年戦争を始めたプランタジネット朝のエドワード3世のころより、「貴族院」「庶民院」に分かれて議論が行われるようになっていたが、その庶民院を構成する「ジェントリ」と「ヨーマン」はそれぞれ「準々貴族」「準々々貴族」と呼ばれる貴族・富裕層であって、当時のピューリタン革命時のイギリス人口約450万人のうちのほんの数パーセントしかいない存在だった。
     本来、神の前にはどんな王侯貴族だって農奴や商人と変わらないというのがプロテスタントの宗教改革の主旨だったはずだが、ジェントリ・ヨーマン中心の独立派は、
    「イングランドで生まれたすべての人間に選挙権を」と求める水平派に対し、
    「万人に共通する権利など、あるはずがない。財産を持っていない人間が、国政に口出すべきではない」といって猛反対した。

     「議会派」内の三つ巴のグループの内乱は、最終的に強力な軍隊を持つ独立派のクロムウェルが勝ち抜け、その後はクロムウェルによる独裁政治が展開されていく。
     1649年、チャールズ1世が処刑され、イングランドでは初となる国王のいない「共和政」を実現したイングランド共和国が樹立される。
     同年、クロムウェルは、アイルランドへの侵攻を開始する。
     その理由は、アイルランドで国王派とカトリック教徒が同盟を結んで反クロムウェルの根拠地が形成されたからだったが、クロムウェルはこの機にアイルランドを徹底的に搾取して、財源不足から軍人・兵への給与の未払いが生じていた革命の軍資金を調達しようと考えた。
     1652年には「アイルランド殖民法」が制定され、アイルランドの全耕作地の3分の2が、イングランド人の手に渡ることとなった。
     さらにクロムウェルは、処刑されたチャールズ1世の子チャールズ2世がスコットランド王としての立場で対抗する動きを示したため、1650年にスコットランドへ侵攻し、まだ残っていた国王派を討伐してチャールズ2世もフランスへの亡命に追い込んだ。

     1651年には、当時イギリスの重大な競争相手となってきたオランダの中継貿易に打撃を与えようと航海法を制定。
     その結果オランダとの対立を深め、翌1652年から英蘭戦争が開始される結果となったが、クロムウェルは勝利を収め、1653年には、クロムウェルは長期議会を解散させ護国卿に就任。
     国王でこそなかったが、クロムウェルは国王同然の独裁者となり、その後、護国卿の地位もクロムウェルの息子リチャードに世襲されることとなった。


    ● チャールズ2世と「王政復古」(後期ステュアート朝の成立) 

     ピューリタン革命によって、国王のいない「共和政」へ移行したイングランドだったが、厳格なプロテスタントだったクロムウェルの独裁政治は庶民の娯楽さえ禁じるものだったため、国民には不評だった。
     クロムウェルの死後、護国卿に就いたクロムウェルの子リチャードはニューモデル軍の支持を得られずにわずか8ヶ月で辞職へと追い込まれ、その後はクロムウェルの部下だったジョン・ランバートとチャールズ・フリートウッドらによる軍事政権が誕生。
     しかしその軍事政権を同じニューモデル軍のジョージ・マンクが議会派の支持を得て打倒すると、マンクは革命にうんざりした国民の要望に応える形で、1660年2月、クロムウェルによって解散させられていた長期議会を再開させ、共和政から追放されていた長老派の議員も復帰させた。
     そしてその後、改めて選挙し直した議会で、オランダに亡命していたチャールズ2世が、宗教的寛容を認める「プレダの宣言」を受け入れることを条件にイングランドへ呼び戻すことが決定され、1660年5月29日、チャールズ2世は後期ステュアート朝の王として即位し、「王政復古」が実現されることとなった。


    ● ジェームズ2世と「名誉革命」(立憲君主制の確立)

     チャールズ2世は議会派の議員たちにとって政治に熱心な王ではなかったが、王妃との間に嫡子が生まれなかったことで、王位継承争いが生じることとなった。
     旧教派が後継に推したのは、チャールズ2世の弟で旧教派のヨーク公ジェームズで、彼を支持する勢力は宮廷派と呼ばれた。
     一方、プロテスタント派はチャールズの庶子でプロテスタントのモンマス公を望んだ。
     宮廷派はスコットランドの狂信者を意味するトーリーと罵られ、プロテスタント側はアイルランドの野盗を意味するホイッグと互いに蔑まれた。
     やがて、トーリーはイギリス国境会と王権を尊重し、「保守党」の前身となり、
     一方、ホイッグは議会を重視し、のちの「自由党」の源流となった。

     チャールズ2世の死後は、弟のヨーク公ジェームズ2世が即位することとなったが、問題は、このジェームズ2世が強固なカトリック信者だったことだった。
     ジェームズ2世が即位すると、ホイッグ(プロテスタント)の支持を得ていたモンマス公が反乱を起こし、すぐに反乱は鎮圧されモンマス公も処刑されたものの、ジェームズ2世はモンマス公の協力者を次々と捕え、150人を絞首刑に処し、数百人を西インド諸島へ島流しにするという「血の巡回裁判」と呼ばれる粛清を行う。
     だけでなく、ジェームズ2世は、彼のカトクリック化政策に反対する議会を解散させ、常備軍を拡充し、その兵士にカトリック信者を採用していった。
     ジェームズ2世には、熱心なカトリック信者で、自国だけでなく周辺国のカトリック化を狙うルイ14世が後ろ盾になっていたという。
     さらに、1688年6月10日、ジェームズ2世に嫡子となる男子が誕生したことで、国民の王に対する危機感はピークに達した。
     ジェームズ2世の教育を受ければ、その子も熱心なカトリック王となってしまう。
     この危機に、犬猿の仲のホイッグとトーリさえ手を結び、ジェームズ2世排除の動きが活発となり、両派は新たな王としてオランダ総督だったオラニエ公ウィレム3世(のちのイングランド王ウィリアム3世)を選ぶ。
     オラニエ公ウィレムは、チャールズ1世の娘メアリを母に持ち、ジェームズ2世の長女メアリを妻とし、イングランド王となる資格があった。
     「オランダ総督」とは、1581年にスペインからの独立宣言を行って成立したネーデルラント連邦共和国の最高権力者の地位で、初代は独立運動を指導したオラニエ公ウィレムが就任し、ウィレム3世はその孫だった。
     ウィレム3世は、オランダに侵攻してきたルイ14世のフランス軍との「オランダ戦争」(1672~78年)と、同じく王政復古後のオランダの植民地化を狙って侵攻してきたイングランド王チャールズ2世との「第三次英蘭戦争」(1665~67年)で、敵の撃退に成功した武勇に秀でた指導者だった。
     しかしその後、ウィレム3世はフランスに対抗するためイングランドとは和解し、チャールズ2世の子ジェームズ(後のジェームズ2世)の娘メアリと結婚したのだった。

     1688年、ウィレム3世率いる軍勢1万2000がイングランド南西部に上陸し、歓呼の声で迎えられると、ジェームズ2世は入れ替えにフランスへの亡命を余儀なくされる結果となった。
     イングランド議会はウィレムを即位させる前に、法と自由の保全を記した権利の宣言を作成し、その宣言を受け入れることを条件にウィレムを王として迎え入れた。
     権利の宣言はのちに権利の章典として改めて成文化され、公布された。
     ウィレムは妻のメアリと共にそれぞれ、ウィリアム3世メアリ2世として即位し、二人でイングランドを共同統治していくこととなった。
     ジェームズ2世は、常備軍が早々に離反したこともあって、さっさと抵抗を諦め、ルイ14世を頼って亡命し流血の事態を一切避けられたため、この王朝交代劇は名誉革命と呼ばれるようになった。
     
     ウィリアム3世がイングランドの誘いに応じてイングランド王となったのは、英蘭の同君連合を結成して強大なフランスに対抗するためだったが、ルイ14世はウィリアム3世の即位を認めず、直ちに宣戦布告し、フランスとの「第2次百年戦争」といわれる長期抗争が開始される。
     ウィリアム3世は、
     ルイ14世が神聖ローマ帝国の領邦国家の一つファルツ選帝侯の地位継承を求めて侵攻してきたファルツ戦争(1688~97年)や、
     「ファルツ戦争」と平行して、北米における英仏両国の植民地間で行われたウィリアム王戦争(1689~97年)、
     また、名誉革命でイングランドから追われたジェームズ2世が、ルイ14世の後押しを受けてアイルランドで行われた「ボイン川の戦い」(1690年)などの戦いで、戦いをイングランドの優勢へと持ち込んで戦った。


    ● アン女王と「大ブリテン王国」(1707年~1801年)の誕生

     ウィリアム3世とメアリ2世の共同統治時代から両者の死後、王位はメアリ2世の妹であるアン女王に引き継がれた。
     このアン女王の時代に、イングランドはそれまで「同君連合」を結成していたスコットランドを合併する形で、完全な一つの王国である大ブリテン王国となる。
     イングランドでは、テューダー朝エリザベス1世の死後の1603年に、テューダー朝の始祖ヘンリ7世の血を引くスコットランド王のジェームス6世が、イングランド王ジェームス1世として迎えられて即位し、スコットランドとの同君連合となる「ステュアート朝」時代を迎えたが、ジェームズ1世の子チャールズ1世は、スコットランドにおけるカルヴァン派の「長老派(プレスビテリアン)」に対して、イギリス国教会の司教制度や儀式を守ることを強制しようとして反感を買い、1637年に「スコットランド」の反乱が発生するなど抵抗運動が相次いで巻き起こった。
     王政を打倒したクロムウェルもスコットランドの遠征を行ったが、その後もスコットランドの反抗は続いた。
     しかし、アン女王が1705年に、合同に応じなければ外国扱いにして貿易を規制すると脅すと、スコットランドのほうでも、宗教の独自教育や自由貿易を認めることを条件に議会合同に応じることが決められ、こうして1707年、両国の同君連合が解消されてアン女王の下一つの「大ブリテン王国」となり、そしてこの大ブリテン王国が、現在につながる「イギリス」の原型となった。



    ハノーヴァー朝の成立とイギリス立憲君主制の確立

    ● ジョージ1世とハノーヴァー朝の開始

     アン女王は、1714年に死去するが、彼女には嫡子がなく、ステュアート朝は断絶してしまう。
     代わってイギリス王として迎えられたのが、ドイツのハノーヴァー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ(イギリス王ジョージ1世)
     選帝侯とは、神聖ローマ皇帝(ドイツ国王)の選出権を持つ諸侯のことで、彼がジョージ1世として即位し「ハノーヴァー朝」を開いた。
     ジョージ1世が新たなイギリス王として迎えられたのは、彼の祖母がステュアート朝のジェームズ1世の長女であったことと、彼がプロテスタントであることだった。
     
     ハノーヴァー朝のジョージ1世とその子のジョージ2世の二人の王は、共に政治には無関心で、その結果、イギリスの議会政治がさらに発展することとなり、「王は君臨すれども統治せず」というイギリス立憲君主制の原則が確立されていくこととなった。


    ● イギリス初代首相ロバート・ウォルポールの政治

     ハノーヴァー朝ジョージ1世の時代に活躍政治家がロバート・ウォルポール
     ウォルポールは大地主の子として生まれ、やがて「ホイッグ党」(新教派・革新派)に入党。
     ウォルポールは1720年に起こった南海泡沫事件を収拾し、党の最大実力者となる。

     ことの発端は1700年代初頭、スペイン継承戦争などの戦費を得るため発行した公債の利払いに苦しみ財政難に陥っていたイギリス政府が、ある企業に市場を独占する権利を付与する代わりに、その企業に政府債務を引き受けさせるという策を思いついたことがきっかけだたっという。
     そこで先ずつくられたのが、1694年に設立された「イングランド銀行」だった
     当時はまだ中央銀行というものはなく、それぞれの銀行がそれぞれ銀行券を発行し、預金や貸付、為替などの業務を行っていたが、イギリス政府は彼らがつくったイングランド銀行にそうしたビジネスを独占する特権を与える代わり、政府の債務を肩代わりさせようとしたのだった。
     しかしそれでも財政が改善しなかったため、イギリス政府は次いで、南米スペイン領西インド諸島との奴隷貿易を独占させる特権を与える代わり、政府債務を代弁する「南海会社」を1711年に設立する。
     当時、中南米はほぼスペインの植民地となっていたが、イングランドはそのスペインの領地へアフリカの黒人奴隷を供給することのできるアシエントと呼ばれる特別な契約を、スペイン継承戦争(1701~14年)後のユトレヒト条約によって獲得していた。

     しかし1718年には四カ国同盟戦争が始まりスペインとの貿易が途絶し、南海会社は経営不振に陥る。
     そこで南海会社は1719年に、巨額の公債引き受けの見返りに額面等価の南海会社株を発行できる許可を獲得し、株の発行益で利益を生み出していこうとする「南海計画」を考案した。
     南海計画では先ず、南海会社は株を発行して、その株を投資家が所有しているイギリス政府の公債と等価で交換することによって、政府の公債を引き受ける。
     その際、株と国債の交換は時価で行われ、南海会社の株価が額面100ポンドにつき市場価格200ポンドの場合、200ポンドの国債1枚と南海会社株100ポンド分で等価交換となった。
     しかし南海会社が発行できる株数は交換額に応じて発行できる決まりになっていたため、200ポンドの国債を交換したなら額面100ポンドの株券を2枚発行できた。
     そのため200ポンド分の公債と交換しても南海会社の手元には額面100ポンドの株券、時価で200ポンド分の株が残る仕組みになっていた。
     南海会社ではそうして手元に残った株を売却して利益を出し、あとは株の発行と公債の交換と残った発行株の売却を繰り返すことでどんどん利益を増やしていった。
     南海会社の株は株の売却を繰り返すことで一緒にどんどん値上がりを続けていったため、株価上昇のバブルが発生した。
     南海会社の株価はわずか数ヶ月の間に株価が10倍に高騰したが、しかしその後半年ほどで元々の価格である100ポンド程度の水準まで暴落していった。
     株価上昇による利益は後続の購入者ほど実利益の幅が少なくなり、また株購入額の負担自体も大きくなるため南海計画によるこの錬金術もいつまでも続くものではなく、また、南海会社の本業である貿易も全く利益を上げていなかったことから、一気に株バブルが崩壊を迎える結果となったのだった。

     株価の急落でピーク時に高値で買った一般の投資者は大損し、破産する者が続出。イギリス経済は大パニックに陥ったが、しかしここでウォルポールが、南海会社の株式をイングランド銀行と東インド会社に引き取らせることで事態を収拾して、評価されるようになった。
     ウォルポールは南海会社のほうも、奴隷貿易と捕鯨を専業とする会社に縮小して再建させたという。
     また、この「南海泡沫事件」の調査を通して、現代に続く「公認会計士制度」及び「会計監査制度」が生まれるきっかけにもなったという。

     この「南海泡沫事件」の事件の後、1721年からは、ウォルポールは事実上の首相となる「第一大蔵卿」に就任。
     以後、ウォルポールは20年以上の長きにわたって第一大蔵卿の座にありつづけ、1727年に国王ジョージ1世が崩御してからも、ジョージ2世が彼を信任した。
     
    ・ イギリスの首相の一覧 - Wikipedia

     ウォルポールは、主として保護関税政策を通した「重商主義政策」(原材料の輸入関税は低くし、茶などの奢侈品は高く設定)を重んじ、財政の安定を最優先に考え、対外戦争をできるだけ抑えようとしたため、彼の在任中は戦争への関与が減り「ウォルポールの平和」と呼ばれる時代が築かれることとなった。
     対外的には、1727年2月に「英西戦争」が勃発して、一時はイギリス・フランス・プロイセンとオーストリア・スペインとの間でヨーロッパ全面戦争の危機に直面するも、ウォルポールは国内における対外強硬派だったタウンゼンドを抑えて戦争回避へと導く。
     しかしウォルポールの第一大蔵卿時代の末期には、議会の求めに押されて再びスペインとの戦いとなる「ジェンキンズの耳戦争」(1739~42年)や「オーストリア継承戦争」(1740~48年)に参戦を余儀なくされ、ウォルポールの平和の時代も終焉を迎える結果となった。

     ウォルポールの政治家としての特徴は「現実主義者」ということであり、彼が平和外交を推進したのも彼が「平和主義者」だったからというわけではなく、「戦争になれば戦費がかかって土地税を上げることになり、議会を支配する地主層の支持が失われ、選挙に負ける」という実利的な発想に基づいてのことだったという。
     ウォルポールは21年もの長きにわたって議会で多数派を構成し、その与党の首相として政権を主導し続けたが、その方法は露骨な「金権政治」によってなされたものだった。
     ウォルポールは総選挙のたびに政府機密費を流用して買収・接待に励み、官職を餌に使って有権者の取り込みを図った。
     野党はウォルポールの選挙対策を腐敗政治と批判し、マスコミからは「プライム・ミニスター」という悪罵を投げつけられたが、この「プライム・ミニスター」という言葉はもともとは「独裁者」という意味の悪口だった。
     しかし使われるうちに第一大統領を表す意味になり、いつしか現在のように「首相」の意味で用いられるようになった。

     そしてこのウォルポールの時代に、有力者が内閣をつくり、内閣は議会に対して責任を負うという「責任内閣制」のシステムができ上がってくる。
     1742年に、議会(下院)内で反対派が多数を占めると、ウォルポールは王や上院の支持があったにもかかわらず潔く辞任してしまう。これが議会で多数を占める党派の党首が内閣を組織する責任内閣制の先例となり、こうして、内閣は国王に替わって国政の全般を掌握し、国民の代表である議会に対して責任を持つという責任内閣制が成立することとなったのだった。 


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  • ややこしい 近世イギリス史のまとめ (テューダー朝イングランド絶対王政、国王至上法、イギリス国教会の成立)

    2019-04-27 15:01

    近世イギリス史 (テューダー朝イングランド絶対王政、国王至上法、イギリス国教会の成立)


    古代~中世イギリス史 まとめ ①

    ~ケルト系ブリトン人」支配時代~
    ● ケルト系民族ブリトン人による支配 (紀元前7世紀から紀元前2世紀ごろ)

    ~「ローマの属州」時代~
    ● ローマ帝国による南部イギリス地方の属州化 (紀元1世紀末)

    ~「ゲルマン系アングロ・サクソン人」支配時代~
    ● ゲルマン系アングロ・サクソン人による「七王国」の形成と「イングランド王国」の誕生 (紀元前4世紀末~前9世紀)

    ~「ゲルマン系ノルマン人」支配時代~
    ● ヴァイキング(ゲルマン系ノルマン人)の南下 (10世紀ごろ)
    ● ロロによるノルマンディー公国(西フランク王国に臣従)の建設 (911年)
    ● クヌートによる「デーン朝」の建設 (1019年)
    ● ギョーム2世(ノルマンディー公ウィリアム1世)による「ノルマン・コンクエスト」 (1066年)
     ロロの子孫のギヨーム2世がイングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、国王(ウィリアム1世)となり、ノルマンディー公とイングランド王を兼任する。 
    ● ヘンリ1世によるイングランド・ノルマンディの再統一。(1106年)
     ウィリアム1世の死後、イングランド王国は三男のウィリアム(即位してウィリアム2世)に、ノルマンディ公国は長男のロベールにそれぞれ与えられて分割統治状態となったが、ウィリアム2世の死後、イングランド王となった四男のヘンリ1世が長兄のロベールと争ってイングランドとノルマンディの再統一を果たす。

    ~「プランタジネット朝」時代~
    ● ヘンリ2世による「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の建設 (1154年)
     ヘンリ1世の死後、イングランド王は甥のスティーブンに受け継がれたが、ヘンリ1世の娘マティルダも王位継承を主張して13年におよぶ内乱へ突入。
     その後両者で密約が交わされ、スティーブンの死後にマティルダの息子へと王位が譲り渡されることが決まる。
     1154年にマティルダの息子はヘンリ2世として即位するが、母のマティルダはフランスのアンジュー伯爵ジョフリ・プランタジネットに嫁いでいたため、ヘンリ2世は母がフランスに有していたアンジューの領地も同時に獲得することとなり、「プランタジネット朝」(アンジュー帝国)の始祖となった。
    ● ヘンリ2世の息子リチャード1世が即位。(1189年)
     リチャード1世は"獅子心王"の異名を取る勇者で第三回十字軍遠征が活躍。ライバルとなったアイユーブ朝エジプト王のサラディンと激闘を繰り広げた。
    ● 「ブーヴィーヌの戦い」(1214年)
     リチャード1世の後を継いだ弟のジョン王が、フランスに敗れて大陸領土を失った戦い。ジョンはヘンリ2世の子たちのなかで唯一領土の割譲が得られず"失地王"と呼ばれていたが、文字通り領地を失う王となった。
    ● 大憲章マグナカルタの制定(1215年)
     フランスに敗れたジョンだったが、その後も大陸領土を取り戻そうとして国内の貴族たちに無理な動員や戦費の負担を強いようとしたため、反発した貴族たちがジョンに対して、王権の制限や、貴族の特権、都市の自由などを認めさせた文書。「法の支配」による立憲主義の出発点となった。

    ● ヘンリ3世が即位。
     ジョン王の死後、即位した息子のヘンリ3世はわずか9歳だったため、諸侯たちは「パーラメント」と呼ばれる諸侯会議を開催して王を支え、イギリスの「議会政治」が発達。
     ところがその後、25歳に達したヘンリ3世は親政を開始するとともに、失ったフランス領土を取り戻すと対外戦争を進めるようになり、諸侯たちとの対立を深める。
    ● シモン・ド・モンフォールの反乱(1264年)
     マグナ=カルタの規定を無視して戦費を徴収しようとしたヘンリ3世に反発した貴族が、シモン=ド=モンフォールに率いられて起こした反乱で、ヘンリ3世は敗れて捕虜とされてしまう。
    ● モンフォール議会の招集。(1265年)
     シモン・ド・モンフォールの反乱に敗れたヘンリ3世が諸侯の求めに応じて招集した議会。従来の貴族・聖職者の代表者に加えて、各州から2名ずつの騎士と、各都市から2名ずつの代表者が参加できるようになり、これが実質的な議会制度の始まりとなったが、後にシモンが国王側の反撃に遭って殺されたため、定着まではしなかった。

    ● ヘンリ3世の長男エドワード1世が即位(1272年)
    ● エドワード1世がウェールズを征服。(1277年)
    ● 模範議会の招集(1295年)
     先代のヘンリ3世の時代に深まった諸侯との関係緩和のため、エドワード1世によって召集された議会。「モンフォール議会」にならい貴族・聖職者だけでなく、当時、有力になりつつあった「コモンズ」と呼ばれた庶民階級の人びとである州代表の騎士と都市代表の市民を加えて開催された議会で、その後のイギリスの身分制議会の模範となった。
    ● エドワード1世がスコットランドを征服。(1303年5)


    古代~中世イギリス史 まとめ ②

    ~「プランタジネット朝」時代~(~14世紀末まで)
    ● 「百年戦争」の勃発(1337年~1453年)
     フランス王の王位継承権を巡ってイングランド王エドワード3世と新しくフランス王となったフィリップ6世との間で戦争が勃発。
    ● イングランドで「黒死病」(ペスト)が大流行(1347年)
    ● 「ポワティエの戦い」(1356年)
     エドワード3世の長子エドワード黒太子がフランス軍を撃ち破り、フランス国王ジャン2世を捕虜にする。
    ● 「ブレティニー条約」の締結(1360年)
     捕虜にしたフランス王ジャン2世の解放を条件に、エドワード3世がフランス側の大陸に広大な領土を獲得。

    ~「ランカスター朝」時代~(1399年~1461年まで)
    ● ヘンリ4世の即位。(1399年)
     エドワード3世の孫リチャード2世が、王家を支えていたランカスター家のヘンリ・ボリングブルックがと対立して廃位に追い込まれ、代わってヘンリがヘンリ4世として即位し、「プランタジネット朝」から「ランカスター朝」が開始される。
    ● 「アジャンクールの戦い」(1415年)
     ヘンリ4世の子ヘンリ5世の活躍でフランスの大軍を撃破。
    ● 「トロワ条約」の締結(1420年)
     ヘンリ5世が戦争で優位に立ち、フランスから王位継承権を獲得。
    ● 「オルレアン包囲戦」(1428年~29年)
     追いつめられていたフランスがジャンヌ・ダルクの登場によって巻き返しに転じ、1453年にはイングランド王国は大陸に持っていた領土をほぼ失い、百年戦争も終結。

    ~「ヨーク朝」時代~(1461年~1485年)
    ● 「ばら戦争」の開始(1453年~1485年)
     プランタジネット朝に代わってランカスター朝を開いたランカスター家に、エドワード3世の5男を祖とするヨーク家のリチャードが台頭し、王位を巡って勃発した内乱。
    ● エドワード4世が即位。(1461年)
     ヨーク家のエドワードが、ランカスター朝のヘンリ6世をロンドン塔に幽閉してエドワード4世として即位し「ヨーク朝」が成立。

    ~「テューダー朝」時代~(1485年~)
    ● ヘンリ7世が即位。(1485年)
     ヨーク朝のリチャード3世をフランスへ亡命していたリッチモンド伯ヘンリ・テューダーが倒し、ばら戦争を終結させてヘンリ7世として即位し「テューダー朝」を開く。


    近世イギリス史 まとめ

    ~「テューダー朝」時代(「絶対王政」の時代)~ (1509年~)
    ● ヘンリ8世による宗教改革、「イギリス国教会」の設立。(1534年)
    ● エリザベス1世によるイングランドの海洋進出。スペイン無敵艦隊を撃破(1588年)、「東インド会社」の設立(1600年)


    近代イギリス史 まとめ ①

    ~「ステュアート朝」時代~(1603年~)
    ● 「王権神授説」を唱えるジェームス1世と英議会の対立。→「ピューリタン革命」へ




    イギリス絶対王政の時代


    ● 「イングランド王室史上最高のインテリ」と評されたヘンリ8世

     30年以上断続的に続いた「ばら戦争」に終止符を打ち、ヨーク朝に代わってテューダー朝を開いたヘンリ7世その後のイギリス絶対王政の礎を築いたが、ヘンリ7世の死後、即位したのが次男のヘンリ8世で、ヘンリ8世はイングランド最初の絶対君主となった。

     子どものころから聡明で、当時、イタリアで勃興していたルネサンス的な合理的思考法・知識を身につけ、ラテン語、スペイン語、フランス語などの外国語にも通じ、ヘンリ8世はイングランド王室史上最高のインテリであると評されたという。
     ヘンリ8世は音楽にも造詣が深く、自ら楽器を演奏し、文章を書き、詩を詠んだ。宮廷は学問と芸術の華やかな奢侈の中心となった。
     また、身体能力においても、6フィート(約182cm)以上の身長と広い肩幅を備えた堂々たる体格に、運動神経も抜群でスポーツに秀で、馬上槍試合や狩猟を催しては、ヘンリー8世は荘厳な鎧を纏って外国大使や領主たちの前に姿を現し、王としての強い印象を与えようと努めたという。

    ヘンリー8世 (イングランド王) - Wikipedia


     しかし、国内には30年続いたばら戦争によって、すでに王に対抗できるような大貴族は姿を消していた。
     ヘンリ8世の前には、絶対王政となるべき道が開かれていて、彼はその道を進むだけでよかった。


    ● ヘンリ8世によるイギリス宗教改革

     ヘンリ8世は生涯に6度の結婚をしたが、男子の嫡子を得たいというのが彼の悲願だった。
     ヘンリ8世は何度も女子の流産を繰り返す初代王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの婚姻を解消し、キャサリン王妃の侍女を務めていたアン・ブーリンと結婚し直して、彼女に男子を産ませたいと考えるようになった。
     しかし当時のカトリックでは離婚が簡単には認められなかったため、ヘンリ8世はカトリックから離脱して、イングランド独自の宗派を創設するに至る。


    ● スペイン出身の初代王妃キャサリン・オブ・アラゴン

     ヘンリ8世の最初の結婚相手はスペイン王家の子女キャサリン・オブ・アラゴンで、この婚姻は当時、新興の大国だったスペインとの関係強化を狙った父ヘンリ7世によって組まれた政略結婚だった。

    キャサリン・オブ・アラゴン- Wikipedia


     キャサリンは初め、ヘンリ8世の兄のアーサーと結婚をしていたのだが、わずか2年で亡くなってしまったため、そのままキャサリンはヘンリ8世の王妃とされた。
     結婚当初、ふたりの仲はむつまじく、キャサリンは国民の人気も得ていたが、男子を産むことができなかった。
     キャサリンが出産した6人の子女のうち唯一無事に育ったのは後にイングランド女王となるメアリ一人だけだった。
     しかし男子の嫡子を望むヘンリ8世にはそれが不満で、複数の愛人をつくりはじめる。
     その一人が、キャサリン王妃の侍女だったアン・ブーリン。
     そしてアンが妊娠すると、ヘンリ8世はキャサリンとの結婚を無効とし、アンと結婚してしまう。

    アン・ブーリン- Wikipedia


     ただし、当時、カトリック世界では、離婚するにはローマ教皇の承認が必要で、しかもなかなか認められなかった。
     ヘンリ8世の離婚も認められなかったが、そこには、王妃キャサリンがハプスブルグ皇帝カール5世の叔母にあたる女性だったということも影響していた。
     しかしそんなローマ教皇に対し、ヘンリ8世はなんと、ローマ・カトリックからの離脱をして、だけでなく「イギリス国教会」というカトリックの新たな宗派まで立ち上げてあげてしまう。
     1534年、ヘンリ8世は国王至上法(首長法)を発布し、イギリス国教会」(アングリカン=チャーチ )を成立させる。
     この首長法によってヘンリ8世は、イギリスの教会は国王を唯一最高の首長とすることを規定し、そしてイギリスのキリスト教教会を、ローマ教会から分離独立させることとした。
     この法律は、それまで絶大だった教皇至上権を否定し、教会の人事や教会領の掌握などを国王が管理統制してゆこうとするものだった。
     当時、絶対君主が唯一越えられなかったのが、ローマ教皇の存在だった。絶対君主といえども、教会や修道院(大地主でもあった)には手をつけられなかった。
     しかしローマ・カトリックからの離脱を宣言したヘンリ8世は、イングランド国内の修道院の土地や財産を次々と没収し、それを当時、議会の下院を構成していたジェントリ(郷紳)」と呼ばれる国内の新興領主層に分け与えることで、王に対する支持の強化へと変えていった。
     そのためヘンリ8世にとってローマ・カトリックからの離脱は、単に王妃キャサリンとの離婚のためだけでなく、絶対君主として、王権の強化を図るための政略でもあった。


    ● 二代王妃アン・ブーリンの処刑と王女エリザベスの悲劇

     ヘンリ8世がキャサリン王妃との離婚を決めたのは、キャサリンに代わって王妃の座を強く求める愛人アン・ブーリンの存在も大きかった。
     アンの実家であるハワード家は、もともとノーフォーク地方の農民だったが、曽祖父の代にロンドンへ出てきて財を成し、祖父の代にはサーの称号を得るまでの身分になった。
     祖父のトマス・ハワードは「ばら戦争」において、ヨーク朝最後の王となったリチャード3世に仕えて戦ったが、後に許されてテューダー朝を興したヘンリ7世およびヘンリ8世に仕え、スコットランド王国との戦いでスコットランド王ジェイムズ4世を敗死させるなどの戦功をあらわし、特にヘンリ8世からの信頼が厚かったという。

     そしてそのトマス・ハワードの長女が、ケント州ヒーヴァー城の城主サー・ウィリアム・ブーリンの息子トマス・ブーリンに嫁ぎ、生まれ育った二人の姉妹のうち、妹がアン・ブーリンだった。
     トマス・ブーリンは語学に堪能な外交官で、1518年から1521年にかけてはフランス駐在大使を務め、彼の二人の娘もフランス宮廷に留学し、フランス貴婦人たちの洗練されたファッションセンスや立ち居振る舞い、生活様式、教養などを身につけた女性へと成人した。
     ブーリン家では伯爵家と縁組したり娘を国王に差し出すことで、爵位や領地を増やしていっていたという。
     やがてトマス・ブーリンの二人の娘はイングランド王妃キャサリンの侍女として仕えるようになり、そこで・ブーリンはヘンリ8世に見初められて猛烈なアプローチを受けることとなった。
     しかし実はそのとき既にアンの姉メアリー・ブーリンはヘンリ8世の愛人になっていたという。
     だが姉と違ってアンはヘンリ8世の愛人になることを拒絶し続けたという。 
     アンは1523年頃、ヘンリー・パーシー卿(後の第6代ノーサンバランド伯)と恋愛関係にあったのだが、しかしやがて、アンはキャサリン王妃の侍女から離れて実家へ戻ることとなる。
     パーシー卿とアンとの関係は、ヘンリー8世と王の腹心だったトマス・ウルジー枢機卿によって強引に引き裂かれたのだとする話しもあるというが、ところが、1525年の夏頃、25歳にったアンは、いつしかヘンリー8世と同棲する関係になっていたという。
     が、それでもアンはメアリーと違ってあくまで愛人となることは拒否し、正式な結婚を王に求めた。

     一方、ヘンリ8世は1520年頃から王妃キャサリンとは離婚して、別の女性を王妃にして子を産ませようと考えるようになったという。
     アンの姉メアリー・ブーリンは1520年にイングランド貴族サー・ウィリアム・キャリーと結婚し二人の子どもを生むが、その二人の子はヘンリ8世との子だったのではないかとも言われているという。
     ヘンリ8世はとにかく嫡子となる男児を欲しがったが、実はヘンリ8世には既に、他の愛妾であるエリザベス・ブラントとの間にヘンリー・フィッツロイと名付けられた男の子が1519年に生まれていた。
     エリザベス・ブラントも王妃キャサリンの侍女をしていた女性だった。
     ヘンリ8世はヘンリー・フィッツロイを彼の婚外子では唯一認知したが、しかし庶子では当時、王位を継承する権限がなかった。
     
     そこでヘンリー8世はキャサリン王妃との離婚(婚姻の無効)を画策し、腹心のウルジーにローマ教皇クレメンス7世との交渉を始めるように命じた。
     当時、ヨーロッパ大陸では「宗教改革」の嵐が吹き荒れていたが、本来、ヘンリ8世は、ドイツで宗教改革をはじめたマルティン・ルターの考えには好意を持っておらず、そのためローマ教皇から「信仰の護持者」という称号さえ貰っていたほどだった。
     しかしその「信仰の護持者」という称号をかなぐり捨ててまで、ヘンリ8世はキャサリン王妃との離婚を実現させようとした。
     1527年6月には、ヘンリー8世は王妃キャサリンに対して正式に離婚の意思を伝えた。
     しかしキャサリン王妃はこれを拒み、逆に甥だった神聖ローマ皇帝カール5世を通じ、ローマ教皇に圧力をかけさせてヘンリー8世の企てを断念させようとした。
     が、これに怒ったヘンリー8世は1528年1月、フランス王のフランソワ1世と手を組むと、カール5世に対して宣戦布告を行う。
     ヘンリ8世の強硬な態度に、ローマ教皇はイングランドでの教会裁判を許可し、裁判が行われることとなったが、国王側と王妃側とで双方の主張は平行線を辿り、結審することはなかった。
     1529年に入っても状況は変わらなかったため、7月、ローマ教皇により、両者の離婚問題はローマへ移管することが決定されることとなった。
     国王の離婚問題の解決に失敗したウルジーは、これによって罷免される。
     その後も教皇側に離婚を進める動きは全くないまま、1531年夏頃、ヘンリ8世はキャサリン王妃と別居。
     そしてその1531年から法改正などが行われ、1534年には「国王至上法」の成立と共に「イングランド国教会」が創設されてヘンリー8世はその長となり、ローマ教皇庁から独立を果たし、ヘンリ8世はアン・ブーリンと1533年4月12日に正式な結婚を果たすに至る。
     このときアンは妊娠していて、これは生まれてくる子を庶子にしないための措置でもあった。

     ローマ・カトリックから離脱したヘンリ8世は、1538年、教皇パウルス3世により破門される。
     裁判でも結局、ヘンリ8世の離婚要求が退けられ、キャサリン王妃の主張が認められる判決が下される。
     ところが、そこまでしたにも関わらず、王妃となったアン・ブーリンが生んだのはまたしても女の子だった。
     ヘンリ8世の落胆は激しく、次第にアンへの愛情も薄れ、新たにヘンリ8世はアンの侍女の一人ジェーン・シーモアへと心移りしていくようになる。
     だけでなく、その後アンが再び男子を流産すると、アン・ブーリン王妃は姦通罪、近親相姦罪、魔術を用いた罪で逮捕され、ヘンリ8世から処刑される運命となってしまうのだった。
     その裁判の正当性は当時でも疑問とされ、冤罪であると信じられているという。

     しかしその処刑の際、当時のイングランドでは斧を使って斬首していたが、アンは剣での斬首を懇願し、斧での執行を嫌がったという。
     アンは王妃としては贅沢を好み、宮殿の改装や家具・衣装・宝石などに浪費したというが、彼女には、洗練された文化によるイングランドのフランス化という思いがあったのかも知れない。
     またアンは、王女の身分を剥奪され庶子に落とされたキャサリン元王妃の娘メアリーに対し、自身の娘エリザベスの侍女となることを強要したというが、アンのそうしたキャサリン母娘に対する仕打ちも、それは、長年フランス王国とライバル関係にあった神聖ローマ帝国のオーストリア・ハプスブルク家と血縁関係でつながるスペイン・ハプスブルク家に対する嫌悪感の表れだったとみることもできる。
     
     アン・ブーリンとヘンリ8世との間に生まれたエリザベスは、後にテューダー朝最後の王エリザベス1世となるが、彼女は大国イギリスの基礎を築く偉大な女王となった。
     ただ、フランスの流儀にこだわりがあったと思しき母のアンに対し、娘のエリザベスは、ひたすら他国からの干渉を受けないイングランドの自主独立性を確立させたという点で、対照的な存在だった。


    ● 3番目の王妃ジェーン・シーモアとの間に待望の男児が誕生

     アン・ブーリンに失望したヘンリ8世は、今度はまたアンの侍女をしていたジェーン・シーモアとの婚姻を考えるが、そのためにはアンが邪魔だった。
     アンを処刑に追い込んだヘンリ8世はジェーンを王妃として迎え、そして二人には遂に、のちにエドワード6世として即位することとなる待望の男子が誕生した。
     しかし、母親のジェーンは産後、すぐに死去してしまった。


    ● 4番目の王妃として迎えられながらすぐに離縁され「王の妹」として実家に戻されたアン・オブ・クレーヴズ

     三番目の妻ジェーンの次にヘンリ8世の王妃として迎えられたのは、ドイツ貴族のユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘アン・オブ・クレーヴズ
     この婚姻は、それまで手を組んでいたフランス王のフランソワ1世が1539年になって神聖ローマ帝国カール5世と同盟を結んだことがきっかけだった。
     これまでは一緒に神聖ローマ帝国を相手に戦っていた同盟国のフランスがあべこべに神聖ローマ帝国と手を結んで、イングランドは逆に両者から攻められる立場に置かれてしまった。
     孤立を恐れたヘンリー8世は、ヨーロッパ大陸に別の同盟者をつくるための新たな王妃を探そうとし、それに見合った相手がドイツ貴族のユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世だった。
     1540年にヘンリー8世とアンは結婚するが、ところがそのすぐ半年後には離婚。
     この離婚は、国際情勢が変化し、アンとの結婚がイングランドの危機を招きかねない状況へと変わったからだという。
     1544年には、ヘンリ8世は再びカール5世と連合してフランスに攻め込むといった展開になる。
     ただ、実力者の娘を粗略にはできず、離婚したアンには領地と年金が与えられ、さらに「王の妹」なる称号も貰い、アンはその後もイングランドに残り、ロンドン市内のベイナーズ城で余生をすごして暮らしたという。


    ● 本当の浮気が発覚して処刑された五番目の王妃キャサリン・ハワード

     アン・オブ・クレーヴズと離婚した1540年、49歳になっていたヘンリー8世はすぐにまた19歳のキャサリン・ハワードと五度目の結婚をする。
     キャサリン・ハワードは第2代ノーフォーク公トマス・ハワードの息子エドムンド・ハワードの娘だったが、キャサリンも4番目の王妃アンの侍女をしていた女性の一人だった。
     ヘンリーは若い王妃に夢中になり、年の離れたキャサリンを「私の薔薇」「私の棘のない薔薇」と呼んで可愛がったという。
     ところがこのキャサリン・ハワードには本当にかつての恋人との密通が発覚し、2番目の妻アン・ブーリンと同様、姦通罪で処刑されてしまう結末となった。


    ● 継母でありながら二人の子女の王位継承権を復活させた聡明で慈愛の精神に溢れた最後の王妃キャサリン・パー

     1543年、51歳になったヘンリー8世は、富裕な未亡人キャサリン・パーと6度目の結婚をし、これが最後の結婚となった。

    キャサリン・パー - Wikipedia


     キャサリン・パーのほうもこのとき既に二人の夫に死に別れた31歳の未亡人だったが、キャサリンが嫁いだ二人の夫は共に高齢で、子をもうけることもなく、まるで介護のような短い結婚生活だったという。
     年老いて重い病に苦しめられるようになったヘンリー8世にとっても、キャサリン・パーとの結婚はもはや子づくりが目的ではなくなっていたようだ。
     実際キャサリンは、結婚後も王の看護を侍医に任せきりにせず自ら率先して熱心に行ったため、王からの信頼も厚いものとなった。
     しかもキャサリンは才女として知られ、特に神学についての造詣が深かったというが、彼女は「イングランド王室史上最高のインテリ」と評されたヘンリー8世と対等に学術談義ができるほどの知性の持ち主だった。
     キャサリンは、彼女は庶子の身分に落とされていたメアリーとエリザベスを王女の身分に戻すことをヘンリ8世に申し出て認められ、彼女たちの王位継承権を復活させただけでなく、まだ幼かったエドワード王子やエリザベス王女の養育まで任されるようになる。
     1544年にヘンリーがフランス遠征をした3か月間、キャサリンは国王代理として摂政を任されたほどだった。

     しかしそんな彼女でも、王の不信を買って殺されそうになったことがあった。
     当時イングランドでは、「宗教改革」の影響でカトリック教会とイングランド国教会の対立が止まなかったが、実はキャサリン・パーはヘンリ8世の嫌うプロテスタントだった。
     そのためキャサリンはカトリック司祭らの怒りを買い、キャサリンが異端者であるとヘンリ8世に訴えられ、王がそれでキャサリンの逮捕状を出すというところまでいった。
     が、キャサリンが王に、
    「女はこの世の始めから、男に従うように作られています。夫は妻を教育すべく全てに指図するものです」
    「あなたは優れた教養と知性の王子ですわ」
    といって自らの信仰の潔白を説くと、ようやく王から許されることができたという。

     翌日キャサリンを異端者として逮捕すべくフロセスリーらが現れると、ヘンリーは怒って肩や頭を殴りつけたという。

     ヘンリ8世は生涯、絶対君主として王の権威や権力の確立に邁進した国王だったが、王がかつて自分の妻たちにした残酷な行いは、それは"絶対君主"の威厳を犯すものに対してといった意味もあったかもしれない。


    ● プロテスタント派の王エドワード6世とカトリック派の女王メアリ1世

     妻と離婚したい一心からローマ・カトリック教会から離脱して、教皇から破門されながらもイングランド王国独自の「イギリス国教会」という新宗派までつくってしまったヘンリ8世だったが、1547年に55歳で死去。
     後継は三番目の王妃ジェーン・シーモアとの間にようやく授かった男子が9歳の若さでエドワード6世として即位。
     ところがエドワード6世は健康に恵まれず、在位6年余りで15歳で死去。
     彼には子がなかったため、その後はヘンリ8世最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの間に生まれた子女がメアリ1世として即位することとなる。

     ヘンリ8世が宗教を変えてまで欲した男児のエドワード6世だったが、ところがこのエドワードは、ヘンリ8世が大嫌いだった宗教改革によって生まれたプロテスタントの熱心な信者になってしまっていた。
     幼いエドワード6世の養育をヘンリ8世から任された6番目の王妃キャサリン・パーが信仰心の篤いプロテスタントだったが、キャサリンはプロテスタントであることがバレて王に処刑されそうになったほどだった。
     しかしエドワード6世の治世にヘンリ8世はいなかった。
     若きエドワード6世の後見役となった母方の伯父サマセット公エドワード・シーモアもプロテスタントで、サマセット公失脚後に台頭したノーサンバランド公ジョン・ダドリーもプロテスタント的な政策を推し進めた。
     エドワード6世のとき、1549年に一般祈祷書が制定され、この一般祈祷書に定められたとおりにイギリス国教会の礼拝が行われるように決められたが、その内容は聖書を重視し、プロテスタントの予定説の考えが採用されるなど、カトリックの教義には反するものだった。
     1553年には信仰基準を定めた「42箇条」(信仰箇条)も制定され、信仰によってのみ救われるというプロテスタントの教えが確認されると共に、他には、「化体説」(教会のミサによって聖餐のパンと葡萄酒がキリストの血と肉に化すという説)を否認し洗礼と聖餐を除いてそれ以外の聖典礼を廃止するようにしたり、またそれ以外にも僧侶の結婚の承認、ミサの廃止・・・・・・と、ヘンリ8世が「国王至上法(首長法)」で定めた、国王を首長(教会の最高の統治者)とし、イギリス国王が主教を任命するという「主教制」は維持されたものの、他の面ではルター派とカルヴァン派の要素が多く取り入れらるような改革が行われた。

     エドワード6世はわずか15歳で亡くなってしまったが、死後、プロテスタントたちから純真な少年王として偶像視されるようになり、そんな彼の偶像から、マーク・トウェインによる『王子と乞食』の小説も生まれた。

     プロテスタントたちにとっては好ましい治世となったエドワード6世の時代だったが、彼の死後、新たな王位に就いたメアリ1世は、カトリック大国スペイン出身だった母と同じく熱心なカトリック信者だった。

     メアリ1世は即位するや、父ヘンリ8世、エドワード6世とつづいた反カトリック的な政策を放棄して、ローマ・カトリックとの和解をした。
     そしてその一方、イングランド国内のプロテスタントを弾圧し、改めない者を火あぶりの刑に処していった。
     そこから彼女に対してつけられたあだなが「ブラッディ・メアリ(血まみれのメアリ)」だった。
     また、メアリ1世は、イングランド王国におけるカトリックの長き安泰を願って、結婚相手に従兄で神聖ローマ皇帝カール5世の子であるアストゥリアス公フェリペ(後のスペイン王フェリペ2世)を選んだ。
     しかしカトリック大国スペイン王太子との結婚は、将来イングランド王位がスペイン王位に統合されてしまう可能性を孕んでいて反対する者も多く、国内での反乱も発生した。
     当時のスペインは「太陽の沈まない」強国で、スペインとの関係強化はフランスに対する牽制の意味合いもあったが、だが、フェリペ2世の要請を受けて参戦したフランスとスペインの戦争(第六次イタリア戦争)で、イングランドはフランスに敗れて大陸に残っていた唯一の領土カレーを失うことになったり、また、フェリペ2世とメアリ1世との間に子が誕生することもないままに終わった。


    ● 大国イギリスの礎を築いた偉大なる女王「エリザベス1世」

     15世紀までのイングランドは、ヨーロッパ全体からみれば、けっして大国ではなく、人口でも1500万人のフランス、800万人のスペインに比べ、300万人のイングランド王国は格落ちの感が否めなかった。
     ところが16世紀後半、エリザベス1世の時代にになって、イングランドは急成長をはじめる。



     イングランドではヘンリ8世の死後、エドワード6世によるプロテスタント化の時代になったかと思えば、次のメアリ1世の時代にはカトリック化に逆流するなど、宗教問題で大きく揺れ動いた。
     メアリ1世についで1558年に即位したエリザベス1世自身はプロテスタントの教育を受けて育ったが、彼女の宗教政策は現実主義だった。
     エリザベス1世は、プロテスタントの勢力が増大したイングランドが、カトリックにとっての異端とみなされ十字軍の討伐対象となるような事態を恐れていたという。それ故エリザベスはカトリック勢力を大きく刺激することなく、国内の、より急進的な改革を求めるピューリタンの思想にも寛容になることなく、政治的に中道路線をとり、イギリス国教会に、カトリックもプロテスタントも取り込む基礎をつくるような体制の構築に努めた。
     エリザベスは基本、エドワード6世によって進められた宗教改革を踏襲し、父ヘンリ8世の時に制定された「首長法(国王至上法)」に従い、イギリス国王が主教を任命する「主教制」を維持してイギリス国教会をあくまで王権の管理下に置きつつも、しかし教義の内容に関しては、エドワード6世のつくった「42箇条」を改定した39箇条を制定して、プロテスタントの教えがそこに反映されるようにした。
     また、「首長法(国王至上法)」も改定して、イギリスの教会は、国王を唯一最高の「首長」だとしていた規定を改め、イギリス国王は教会の「統治者」だというふうに改定をした。
     これにより、イングランド国王は神の側に属する宗教指導者ではなく、あくまで世俗の権力者のうちの大なる存在にすぎないのだというスタンスが確立されることとなった。

     また、エリザベス1世は財政安定のため、海洋・貿易立国を志向する。
     まず、東地中海に貿易会社を設立し、1600年にはイギリス東インド会社設立してアジアにも進出。

     エリザベス1世は、父のヘンリ8世同様、ルネサンス的な知識を身につけた絶対君主といえたが、父よりもはるかに柔軟で現実的な政治センスをもっていた。
     エリザベス1世は生涯結婚をせず「処女王」(ヴァージン・クィーン)と称されたが、その理由は、イングランドの政治的独立を守ることにあった。
     スペイン王フェリペ2世をはじめ、大国の大物たちが求婚してきたが、彼女はすべて断わった。彼ら大国の王や後継者と結婚することで、イングランドがその大国の支配下に置かれることを恐れたのだ。
     たとえば、スペイン王フェリペ2世と結婚すれば、その子はスペインのフプスブルク家の血引くこととなり、後継者がやがて即位したとき、後継者の気持ちしだいで、イングランドはスペイン・ハプスブルク帝国の下に立たされることになる。エリザベス1世は、それを避けようとしたのだった。

     メアリ1世の場合は、逆に皇太子時代のフェリペ2世と結婚することによって、フランスに対抗することを考えたが、ただし国内では大きな反発も生じた。
     が、エリザベス1世は大国スペインに頼るどころか、むしろ喧嘩を吹っかけた。
     当時、ヨーロパではスペインとポルトガルがいち早く外洋に進出し、海洋帝国を築き上げていたが、乗り遅れたイングランドではその挽回策として、なんとスペインの富を海上で略奪することを考えた。
     エリザベス1世の時代、イングランドからフランシス・ドレークリチャード・ホーキンスなど名立たる海賊が現れ、彼らはイングランドでは海賊とは呼ばれず「探検家」「黄海家「商人」などと名乗っていたが、実態は海賊と変わらなかった。
     彼らが主に狙ったのが、カリブ海のスペイン船。
     スペインの富の源泉は、南米大陸のポトシ銀山から採掘された銀で、イングランドの海賊たちはスパイ網を張り巡らせてスペイン船の動向をキャッチすると、カリブ海で待ち伏せして襲撃し、富を略奪した。
     彼らが海賊稼業を行うには元手が必要だったが、そのスポンサーになったのはエリザベス1世や彼女の側近たちだった。
     海賊が略奪に成功すれば、巨額の配当が転がり込んできた。
     ドレークら海賊たちは、イングランドに莫大な富をもたらし、ドレークだけでも当時のイングランドの国家予算約20万ポンドの三倍に相当する60万ポンドをイングランドにもたらしたと推定されている。
     
     16世紀後半、フェリペ2世のスペインは、南米大陸の銀と、支配下にあったオランダの富を基盤に、大陸最強の国家となっていた。
     イングランドではテューダー朝のフェリペ7世以来、スペインの機嫌をうかがいながら外交政策を進めてきた。
     エリザベス1世も、当初はフェリペ2世と友好関係にあったが、オランダに発生した独立運動をきっかけにスペインと激しく対立しはじめるようになった。
     オランダの独立運動を封じ込めようとしたスペインに対し、エリザベス1世は自国の安全保障上、オランダの独立を支持した。
     これに対してフェリペ2世もついにイングランドへの侵攻作戦を計画し、1588年に行われたのがアマルダの海戦だった。
     130隻の艦隊を編成したスペイン海軍は、フランスのカレー沖でイングランド艦隊と激突。
     当時、スペイン海軍は、1571年にオスマン帝国の艦隊を「レパントの海戦」で破ったことで「無敵艦隊(アマルダ)」と呼ばれ恐れられていたが、イングランド艦隊は艦隊副司令官に叙任されたフランシス・ドレーク指揮の下、火のついた船を敵艦隊に送り込むといった海賊らしい戦法により、スペイン艦隊を壊滅させ、大勝利を収めた。
     7月末から8月初めの間に行われた両軍の一連の海戦に敗れたスペイン無敵艦隊は、それ以上の作戦続行を断念し、スコットランドとアイルランドを迂回してスペインへの帰還を図ったが、その途上で大嵐に遭い、スペイン本国に帰還できたのは約半数の67隻のみだった。
     その後も何度かスペインはイングランドへの侵攻を試みるが、やはり悪天候に阻まれて成功を収めることはできずに終わった。




    「テューダー朝」から「スチュアート朝」へ

    ●「グレートブリテン王国」の誕生

     生涯独身だったエリザベス1世には子がなく、1603年に彼女が死去すると、テューダー朝は断絶してしまう。
     そこで、テューダー朝の始祖ヘンリ7世の血を引くスコットランド王ノジェームス6世が、イングランド王ジェームス1世として即位し、ここに「ステュアート朝」がはじまることとなった。
     イングランドとスコットランドは同じ国王を推戴する「同君連合」の国となった


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