エンドロールに”終”の文字が現れた直後、どこからともなく客席から拍手が巻き起こった。試写会でもなく、舞台挨拶付きのプレミア上映でもない。ただの上映初日の1コマで、こんなことは日本ではまず起こらない。しかし、ゴジラ史に残る”名作誕生”の瞬間に居合わせた興奮は、客席にいた多くの人が共有した感覚だったのではないだろうか?
■ ハリウッドに迎合しない、これが邦画ゴジラの在り方だ!
正直、『シン・ゴジラ』を観る前は気が重かった。直近のハリウッド版『GOZILLA』(2014)が、話も映像もかなり良くできていたからだ。予算も技術も時間も、何もかも規模が違うことは分かっている。しかし比較せざるをえない。時に辛口レビューも書くが、何とか邦画を盛り上げたいが故、できればあまり悪口は書きたくない……。
しかし、上映開始直後、そんな懸念はあっという間に吹き飛んだ。それどころか今この瞬間、ゴジラ史、いや邦画史の新たな1ページに立ち会っている、そんな確信にも似た高揚感に包まれた。内容について多くは語らない。これは、『ゴジラ』本来のテーマへの原点回帰であり、かつ、これまでの『ゴジラ』とは全く違う、新たな日本映画だ。さらに言えば『シン・ゴジラ』は、ただの特撮怪獣映画ではない、まさに現代日本の”今”を描いた”政治ドラマの最高傑作”と言って過言はない。
■ ヒーロー不在、無駄な要素を徹底排除した組織ドラマ
『シン・ゴジラ』を見て気づかされたことがある。思えば我々は、あまりにハリウッド映画の文脈に毒されすぎていた。ラブあり、アクションあり、分かりやすい敵がいて、最後は主人公が大活躍。制作者たちも、そんな”正解”にとらわれすぎていたように思える。しかし、『シン・ゴジラ』で庵野秀明(脚本・総監督)は、そんなハリウッド文脈に明快なアンチテーゼをぶつけてくれた。この作品におけるゴジラは、ゴジラであってゴジラでない。ゴジラは自然災害や原発事故のような”想定外の事象”であって敵ではないのだ。その”想定外”に直面する政治家・官僚・役人たちの”日本型組織”と、内側で繰り広げられる人間ドラマの描かれ方が、ある種ドキュメンタリーのようでもあり、日本映画史に残る屈指の”政治ドラマ”とも呼べる秀逸作に仕上がっている。
■ 映像に遜色なし、随所に見られる庵野秀明のこだわり
ストーリーもさることながら、映像作品としても『シン・ゴジラ』には一貫した”庵野イズム”が貫かれている。話は逸れるが、昨今、日本の映画監督たちは「ない袖は振れない」予算と時間の制約の中で、どこか”適度なあきらめ”に慣れてしまっている感がある。というよりも、日本映画界自体が、適度にあきらめてくれる優等生監督を好む傾向にあると言うべきか。そんな閉塞感の中、庵野秀明の徹底的な”リアリティー”へのこだわりは、作品に大きなエネルギーを与えている。例えば、『GOZILLA』でギャレス・エドワーズ(監督)が採用した着ぐるみ=特撮によるゴジラに対して、庵野は「人間味を一切排除した」フルCGで感情のないゴジラを作り出している。しかし、その造形の細かさが得体の知れない生命体として、全編通じて不気味さと、自然災害にも似た抗えない強大さを醸し出している。随所に散りばめられた庵野の”こだわり”は是非、劇場で目の当たりにしてみて欲しい。蛇足になるが、『シン・ゴジラ』はもちろん怪獣映画としても十分に楽しめるエンターテイメント作品だ。
『シン・ゴジラ』公式HP
http://shin-godzilla.jp [リンク]
画像提供:東宝
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(執筆者: 荏谷美幸) ※あなたもガジェット通信で文章を執筆してみませんか
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