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        <title><![CDATA[こち駒 ニコニコ支店]]></title>
        <link>https://ch.nicovideo.jp/ch285/blomaga</link>
        <description><![CDATA[駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部山口ゼミ公式ブログ「こち駒」の支店です。]]></description>
        <language>ja</language>
            <item>
                <title><![CDATA[これは断じてゴスでもロリでもない]]></title>
                <description><![CDATA[<p>稲田朋美クールジャパン戦略担当相がアフリカ開発会議の行事に「自称ゴスロリ」のドレス姿で登場し話題となったが、これは断じてゴスロリではない。担当大臣が誤った情報を発信するのはいただけない。</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/ch285/blomaga/ar248174</link>
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                <pubDate>Sun, 02 Jun 2013 12:58:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p>巷で話題になっているこの記事。
<blockquote>「<a href="http://www.asahi.com/politics/update/0531/TKY201305310376.html">私はアリス？　稲田朋美大臣、自称ゴスロリのドレス披露</a>」（朝日新聞2013年6月1日）　「メード・イン・ジャパンのドレス、似合っていますか」。稲田朋美クールジャパン戦略担当相（５４）が３１日、横浜市で開かれたアフリカ開発会議の行事に自称ゴスロリ（ゴシックロリータ）のドレス姿で現れ、日本のファッションを売り込んだ。</blockquote>
<br />「自称」とわざわざ書いてあるのは当然意味がある。論評のため直リンクを貼るが、こんな感じの。<br /><br /><img src="http://p.news.nimg.jp/photo/184/508184l.jpg" alt="自称ゴスロリ" />稲田朋美クールジャパン戦略担当相がアフリカ開発会議の行事に「自称ゴスロリ」のドレス姿で登場し話題となったが、これは断じてゴスロリではない。担当大臣が誤った情報を発信するのはいただけない。<br />（リンク元：http://p.news.nimg.jp/photo/184/508184l.jpg）<br /><br />これはひどい。<br />これは断じてゴスでもロリでもない。<br /><br />巷では、ドレスが似合ってるとかいないとか、あるいは稲田大臣ご自身の容姿についてあれこれいう向きもあるようだが、もちろんそういう話ではない。このくらいの年齢の女性が改まった場でドレスを着るのは別に何もおかしくないし（この場がそういう場かどうかよく知らないが）、このドレスが変だとか似合ってないとかも思わない。このドレスは大臣の地元・福井県のデザイナーと婦人服メーカーの作品だそうで、「不思議の国のアリスをイメージした」というあたりは正直よくわからないが、ドレスとしてはいいものなのだろうし、政治家が地元産品を宣伝しようというのはよくある話だ。<br /><br />私がひどいと思ったのは、クールジャパン戦略担当相である稲田大臣が、これを「ゴスロリ」と称した、という点だ。繰り返すが、これはゴシックでもロリータでもないだろう。もちろんいわゆるゴスロリと呼ばれるファッションには一定の幅があるはずで、どこまでがその範疇になるのか、あまり詳しいとはいえない私にはなんともいえないが、これはさすがにちがうと思う（レース？が「それ」にあたるのだろうか？本気でわからない）。<br /><br />ゴシックもロリータも西洋由来だが、それらを組み合わせたゴスロリは日本でできたものであり、その意味で日本はゴスロリファッションの中心地といえる。海外でも人気は高く、外国人オタク向けの日本ツアーでは、男子は秋葉原だが、女子はゴスロリブランドの「聖地」ともいえるラフォーレ原宿がある原宿が定番のコースとなっている（<a href="http://www.h-yamaguchi.net/2007/09/post_85c6.html">参考</a>）。当然、昨今のクールジャパン戦略の中にも入っていて、だからこそ稲田大臣も言及したのだろう。<br /><br />だったら。<br /><br />ゴスロリだというなら、きちんとゴスロリの服を着るべきだ。ゴスロリはクールジャパン戦略の一翼を担う存在であり、日本が海外に売り込みたいものだろう。ならば大臣自らゴスロリに関する誤った、あるいは不適切なイメージを発信するのはいかがなものか。これはいってみれば、「これが日本が誇る西陣織です」と言いながら黄八丈を紹介する、みたいなもので、どちらにも失礼なふるまいだ。もしゴスロリが何なのか知らないで言っているのだとしたら、自ら担当する政策の内容を知らないという意味で、それこそ大臣としての適性を問うべきだ。<br /><br />ATELIER-PIERROTでもh.NAOTOでもかまわないが（年齢的にはJuliette et JustineとかLumiebreあたりの方がいいかも？）、クールジャパン戦略担当大臣が自ら、クールジャパンの一翼を担うゴスロリブランドのファッションに身を包んでゴスロリを宣伝するというなら、たとえ世間が「イタい」と笑おうが「年齢を考えろ」と批判しようが、私は全力で支援申し上げたい。それは心意気の問題だろうし、そもそも年齢や容姿の問題で人を嘲るのは少なくとも私の趣味ではない。<br /><br />そうでなく、地元のメーカーを引き立てたいというなら、ただ「これは地元のメーカーとデザイナーが」といえばいい。クールジャパンはゴスロリ以外にもあるわけで、このドレスもクールジャパンと胸を張ってお勧めすればよかろう。しかしゴスロリでないものをゴスロリと称して、クールジャパンを海外発信しようという大臣が自らその足を引っ張るようなことをするのは、やはりいただけない。<br /><br />というわけで、ぜひ次の機会には、本格的なゴスロリファッションで周囲をあっといわせてもらいたい。きっと「ゴスロリ大臣」として「歴史に名を残すことができると思う。閣内には「ローゼン閣下」もいらっしゃることだし、いっそ「ゴスロリ内閣」と打ち出してみてはどうか、などと思考が暴走し始めたので、このへんで撤収。</p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[山口　浩]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail>https://secure-dcdn.cdn.nimg.jp/blomaga/material/channel/article_thumbnail/ch285/248174</nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[こち駒ゲームレビューvol.1：「とびだせどうぶつの森」]]></title>
                <description><![CDATA[<p>2012年11月8日に発売されたニンテンドー3DS専用ソフト「とびだせどうぶつの森」のレビューです。</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/ch285/blomaga/ar18703</link>
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                <pubDate>Fri, 23 Nov 2012 14:04:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[ゲーム]]></category>
                <category><![CDATA[とびだせどうぶつの森]]></category>
                <category><![CDATA[こち駒]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div>日本よ、これがどぶ森だ。</div>
<br /><div>2012年11月8日に発売されたニンテンドー3DS専用ソフト「<a href="http://www.nintendo.co.jp/3ds/egdj/index.html">とびだせどうぶつの森</a>」は、初週から60万本という驚異的な売上を達成した。平たく言えば、かわいらしい動物の住人たちとコミュニケーションをとりながら、釣り、虫取り、イベントなどをこなし自由気ままな生活を体験しようというコンセプトのゲームである。</div>
<br /><div>「どうぶつの森？そんなの女子供がやるもんだろ？」とか思ってる自称コアゲーマー兄貴は帰って、どうぞ。このゲームは非常に面白く、中毒性が高い。ライト層から廃人層まで幅広く受け入れられる魔性のゲームと言えるだろう。そんなどうぶつの森の恐ろしさ（魅力）の冒頭をある廃人の視点から紹介して行こう。（震え声）</div>
<br /><br /><div>
<div>-----------</div>
<br /><div>ゲーム冒頭、列車にのって目的地の村に向かう主人公。なごやかな雰囲気で進むNPCとの馴れ初めの質問でさえ気を抜いてはならない。主人公の顔は質問の返答次第で決まってしまうのだ（絶望）心配な人は有志が作った顔チャートを見ながら質問に答えていくべきだ。</div>
<br /><div>その後間髪入れずに村の地形を決める事になる。村の中心に川が通っていたり、崖だらけの村はめんどくさいのでNG。ここで村の厳選を始めるとさらに膨大な時間を使う。さらにその後家の場所を決める事になるが中途半端に開けたとこに建てたりするとのちの公共事業に影響がでる可能性があるので注意すべし。</div>
<br /><div>また、住人同士の家の位置も確認する必要がある。後から越してくる住人が団子詰めみたいに家を建てられたくなかったらな。その後村中の岩の位置を地図に起こしてメモっておこう。一日に一度鉱石のとれる岩がスポーンするので後々楽になる。</div>
<br /><div>まだまだやる事は残っているが時間がないのでここで今日は家でセーブしておこう。もう深夜の3時半か・・・ん？いや、そんな！これはなんだ！住民から貰ったテレビに宇宙人が_____＿＿＿</div>
<br /><div>____＿＿つりざおででおさかなつっつたりあみでむしとったり！むらのみんなとともだちになろう！まいでざいんでふくつくるだけでいちにちがおわるよ。　うふふ　よかったらあそんでみてね　かゆ　うま</div>
<div>・・・(ここで日誌は終わっている)</div>
<br /><div>------------</div>
<br /><div>評価は10点満点中9.5点です！様々な要素が追加された今作はどうぶつの森最高傑作といえるのではないでしょうか。</div>
<br /><div>唯一引っかかったのは手持ちの物を家具にまとめてしまったり出したり出来ないことと、インターネットエラーのバグくらいです！サメ10匹が次元の狭間に消えてしまいました！またそう遠くない次回のレビューでお会いしましょう！</div>
<br /><br /></div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[山口　浩]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail>https://secure-dcdn.cdn.nimg.jp/blomaga/material/channel/article_thumbnail/ch285/18703</nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[こち駒ミュージックレビュー：英国で出会った音楽たち]]></title>
                <description><![CDATA[<p>今年の夏休みに、駒澤大学のプログラムを利用してイギリス南西部のエクセターという都市に1ヶ月間語学留学に行ってきました。そこでの音楽体験（？）についてバンド紹介と合わせて書きたいと思います。</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/ch285/blomaga/ar18298</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/ch285/blomaga/ar18298</guid>
                <pubDate>Wed, 21 Nov 2012 18:26:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div>今年の夏休みに、駒澤大学のプログラムを利用してイギリス南西部のエクセターという都市に1ヶ月間語学留学に行ってきました。そこでの音楽体験（？）についてバンド紹介と合わせて書きたいと思います。</div>
<div><br /><div><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm18575331">Eternal Summers / You Kill</a></div>
<div><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm18575331"><br /></a><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm18575331"><iframe src="https://ext.nicovideo.jp/thumb/sm18575331" width="312" height="176" scrolling="no" frameborder="0" ></iframe></a><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm18575331"><br /><br /><br /></a></div>
<div>トットネスのThe Drift Record Shopという小さなレコード店で流れていて気になり、店のおばちゃんに尋ねて見つけたローファイなインディー・ポップバンド。</div>
<br /><div>アメリカのバンドですが、ボーカルの女の子はアジア系の親近感湧く顔立ち。線が細くてかわいらしい声をしています。</div>
<br /><br /><div><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm17436904">Sub Focus / Out the Blue</a></div>
<br /><div><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm17436904"><iframe src="https://ext.nicovideo.jp/thumb/sm17436904" width="312" height="176" scrolling="no" frameborder="0" >http://www.nicovideo.jp/watch/sm17436904</iframe><br /></a></div>
<br /><div>HMVのような大型CDショップに行って印象的だったのは、かなりの確立で“ドラムンベース”や“ダブステップ”といったUK発祥のクラブミュージックがかかっていたことです。</div>
<br /><div>今時のイギリスの若者にはロックよりも、こういうエレクロニック音楽が人気な様です。</div>
<br /><br /><div><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm17506012">Of Monsters and Men / Little Talks</a></div>
<br /><div><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm17506012"><iframe src="https://ext.nicovideo.jp/thumb/sm17506012" width="312" height="176" scrolling="no" frameborder="0" >http://www.nicovideo.jp/watch/sm17506012</iframe><br /></a></div>
<br /><div>ホームステイ先のリビングでくつろいでいると、ホストマザーから“何か音楽流して“とリクエストが…。アイスランド出身インディー・フォークバンドのこの曲をかけたところ、マザーのお孫さん（５才）がサビを合わせて口ずさんでくれました。この曲歌えるなんてセンスいいね！と嬉しくなった瞬間でした。</div>
<div>　</div>
<div>来年１月には初来日公演が原宿アストロホールで決まっています。気になった方はぜひ。</div>
<br /><br /><br /><div><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm15550525">I DIVIDE / The Arrival</a></div>
<br /><div><a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm15550525"><iframe src="https://ext.nicovideo.jp/thumb/sm15550525" width="312" height="176" scrolling="no" frameborder="0" >http://www.nicovideo.jp/watch/sm15550525</iframe><br /></a></div>
<br /><div>エクセター出身のエモ〜オルタナティブ・ロックなバンドI DIVIDEのライブに行ったのですが、地元愛溢れる”I Love Exeter!”のコール＆レスポンスに痺れました。</div>
<br /><div>ギタリストのご両親と偶然にも話ができたんですが、日本でもこのバンドを広めるように言われたので動画を貼ります（笑）</div>
<br /><div>ONE OK ROCKのような音楽が好きな人にオススメです。</div>
<br /><div>------------------</div>
<br /><div>イギリスではラジオや店内BGM、ナイトクラブなど、田舎にも関わらず身の回りに常に音楽がある環境を実感しました。と同時に“音楽好き“であることはアイデンティティにならない社会のような印象も受け、勉強になったと思っています。</div>
<br /><div>イギリスの音楽に興味の有る方は、ぜひ一度現地に行かれると面白い経験が出来ると思います。</div>
</div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[山口　浩]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[齋藤孝「10分あれば書店に行きなさい」]]></title>
                <description><![CDATA[<p>齋藤孝著「10分あれば書店に行きなさい」（メディアファクトリー新書、2012年）。実際、この本の主張は比較的シンプルだ。簡単にまとめると、(1)本を読め、(2)紙の本を買え、(3)書店へ行け、というぐらいにまとめられようか。</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/ch285/blomaga/ar17263</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/ch285/blomaga/ar17263</guid>
                <pubDate>Thu, 15 Nov 2012 18:27:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div>齋藤孝著「<a href="http://www.amazon.co.jp/dp/4840148597/ref=as_li_qf_sp_asin_til?tag=kochikoma-22&amp;camp=243&amp;creative=1615&amp;linkCode=as1&amp;creativeASIN=4840148597&amp;adid=1AY07YCCVPD8XBNH5GDN">10分あれば書店に行きなさい</a><img src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=kochikoma-22&amp;l=as2&amp;o=9&amp;a=4840148597" width="1" height="1" alt="" style="border:none;margin:0px;" />」（メディアファクトリー新書、2012年）<br />メディアファクトリーからのいただきもの。多謝。著者は、『声に出して読みたい日本語』など数々のベストセラーで知られるあの齋藤孝さんだ。最近の本はタイトルがとてもわかりやすくて、タイトルを見ただけで半分ぐらいは読んだ気になれたりするものだが、この本もまさにそういう感じ。もちろん本文も読みやすくてすらすら読める。</div>
<br /><div><br /><div>実際、この本の主張は比較的シンプルだ。簡単にまとめると、</div>
<br /><div>(1)本を読め</div>
<div>(2)紙の本を買え</div>
<div>(3)書店へ行け</div>
<br /><div>というぐらいにまとめられようか。そう主張する理由（の主な1つ）もちゃんと、帯に「リアル書店の刺激が旺盛な知的出力を支える！」と書いてある。リアル書店は、</div>
<br /><div>(1)当初は考えていなかった新たな本との出会いがある</div>
<div>(2)本に満たされ、本好きが集う空間から知的刺激を受ける</div>
<br /><div>という得がたいメリットがあるから、「旺盛な知的出力」を学業や仕事、あるいは他の目的で求められる人はリアル書店に行くのがよい、と。</div>
<br /><div>こういうテーマで1冊書けるっていうのはすごいなあ、さすが高名な教育学者にしてベストセラー連発の書き手はちがうなあ、というのが正直な第一印象だが、読んでみるとこれが意外にも、あれこれと考えさせられて、いろいろと味わい深いのだ。</div>
<br /><div>そもそも、今この本を出してくるということ自体がある意味すごい。ネット書店がすっかり定着してリアル書店がどんどん減りつつある今、各社が電子書籍端末や関連サービスを競って売り出し、日本もいよいよ本格的に電子書籍時代に突入しようかというこのタイミングで、「書店」に出かけていって「紙の本」を買えというのは、それなりになかなか「勇気」のいる主張ではなかろうか。</div>
<br /><div>ぱっと見ではただの守旧派の主張っぽくもみえるわけだが、必ずしもそうと決めつけたものでもない。ネット書店にせよ電子書籍にせよ、著者は必ずしも頭ごなしに全部だめだと言っているわけではなく、むしろ、それぞれのメリットと限界を理解せよ、うまく使い分けよと主張している。</div>
<br /><div>ネット書店については、さまざまな本と出会うきっかけとするのがよい、というご意見らしい。ただし買う際には必ず街の書店に行き、中身を確かめよ、と。そうしなければはずれを引くかも、という趣旨だ。ふつうは、リアル書店で見つけた本を（ネット書店は予想外の本との「出会い」が少ないし、えてして立ち読みが不便だし）ネットで買えば重くなくて便利、みたいにいうところだが、あえて逆を主張しているのが興味深い。それではネット書店の売上がなくなってしまうではないかという点は、まあアレだ。善意にとれば、使い分ければいい、ということなんだろうな。</div>
<br /><div>ちなみに私は最近ほとんど街の書店には行かず、もっぱらネットですましているので、この「教え」にはまっこうから背いているわけだが、言いたいことはある程度わかる。私の場合は、うかつに書店に足を踏み入れるとあっというまに1万円ぐらい飛んでいって、代わりに重い荷物（日本の本は軽く作られているがそれでもたくさんあれば重いよね）を持たされるはめになるからで、いってみれば著者のいうリアル書店のメリットがメリットすぎるがゆえのデメリットがあるわけだ。この本の著者が懸念する「はずれ」本に当たることも、たまにはあるが、そういうのもダメさ加減を愛でる楽しみはあるから、あまり気にはしていない。</div>
<br /><div>電子書籍についても、著者は、「膨大な量をダウンロードできる」などよさもあるから、やがて合理的併用の時代がくる、と一定の評価をしている。確かに、本を大量に買う人にとって、保管場所は昔から問題だったわけで、それが不要な電子書籍はまさに福音だ。一方、紙の本には、物理的実体があることによるさまざまなメリットもあり、本好きはまさにそれを楽しんできたわけだから、すぐに離れられるというものでもなかろう。それに、事業者が入り乱れて端末もサービスも乱立している割には品ぞろえはどれもいまいちという日本の現状の下で、電子書籍を手放しで礼賛するのもちょっと行き過ぎという気がするし。</div>
<br /><div>著者によれば、紙の本の「敵」は電子書籍ではなく、ネットでアクセスできる無料の音楽や映像やニュースであるという。つまり、これが単にテキスト情報の伝達形式の問題ではなくいわゆる「アイボール」、言い換えれば読者の時間配分をめぐる「有償」と「無償」の競争であるということを見抜いていらっしゃるわけだ。まさに慧眼。SNSなどの誘引力から本を読む時間をどのように守るかは、教育上の大きな課題になってきているわけだが、同時にそれは、これまで本のビジネスを支えてきた基盤が大きく揺らいでいることを意味する。</div>
<br /><div>当然著者は、ブログなどネット上のさまざまな文章に対して批判的だ。「書き手は編集者という「つっかい棒」がいなくなった分、より自由に書くことができる」がそれゆえに「ひとりよがりな作品になりがち」であり、「ビジネスとして軌道に乗せることは難しい」から優れた「才能も集まら」ず、結果として「書く仕事はますます「片手間」となり、身辺雑記レベルのブログ」（つまり、このブログのような手合いだ）だけが増えていく、と手厳しい。</div>
<br /><div>どこの馬の骨ともしれない（匿名のものも多いし）有象無象が、まともな訓練も受けず、編集者の厳しいチェックも通さずに、あることないことを好き放題書き散らした文章が、ネットにはごろごろしている（そう、この文章のようにだ）。こんな文章にばかり触れていても知的刺激にはならない、と著者はおっしゃるわけで、匿名でこそないが自他ともに認める有象無象の1人としては「へへえ」と恐れ入るしかない。</div>
<br /><div>恐れ入るのは別にポーズということではなく、実際、こうした構図の立て方については、賛同できる部分がけっこうあるんだが、同時にやや、ためにする議論のように思えなくもない。この本は、つきつめれば「本を買い支えよ」というメッセージを通じて「出版文化を守れ」という主張をしているわけだが、それは、斜に構えた見方をすれば「価値ある文章を書き、届ける『祝福された聖者たち』に金を貢げ」という主張だ。そうした「聖者」の中にご自身も入っていらっしゃる、までいうと言い過ぎかもしれないが、そう受け取る人もいるだろう。</div>
<br /><div>言いたいのは、こうした供給者側の論理に立った主張が、（紙の）本を（書店で買って）読むことがいかに需要者たる読み手にとってメリットになるか、ネットの文章ではなく紙の本でなくてはだめなのかといった点と、必ずしも直接的に結びつくものではない、ということだ。この本は、軽い読み物として書かれたせいでもあろうが、その間の論考がすっぽり抜けている。文化とビジネスを二項対立的にとらえ、受け手の「高い意識」で両者をつなごうとするのはよくある論法だが、はっきりいって、著者の思っているほど説得力は高くない。</div>
<br /><div>この手の議論は、「ものづくり」をめぐる議論と少し似たところがある。日本が誇る「ものづくり」の伝統を守ろう、がんばっていいものを作ればきっと売れる、みたいな考え方が、日本の製造業をどんな状況に追いやったかは、最近のニュースをチェックしていればわかるはずだ。消費者は、高度な技術を駆使して、あるいはじっくり手間暇をかけて創りだされた高級、高機能なものばかりを求めているわけではない。いわゆる「イノベーションのジレンマ」の問題だ。</div>
<br /><div>特にこれは、変化の速い市場においてはより深刻な問題となりうる。日本の家電や携帯電話はそうなったわけだが、本はそうなっていないのか、という問いをつきつけられているのかもしれない。磨き上げられた書き手の技術や編集者の手厚いサポート、培われた本作りの職人の技などが、サーベルタイガーの牙のようなものになっていないか、とまでいうと過激だろうが、少なくとも、文化の重要性を唱えれば、あるいは質の差を指摘すれば、人々が財布を開いてくれるような状況ではないのだ。</div>
<br /><div>さらに踏み込んでみる。そもそも本は、著者が暗黙裡にイメージするような高尚なものだったのだろうか。現在書店で売られている、プロたちの手によって作られたはずの本や雑誌の中には、信じられないほどレベルの低いもの、ネットの駄文とさして変わらぬクォリティのものがけっこう含まれている。もちろん、ベストセラーランキングに出てくるようなものはそんなことはなくて、たいていしっかり作られているわけだが、それにしても、「知性のシャワー」と形容するのをちょっとはばかられるようなものは少なくない。別にそれが悪いといっているのではない。そもそも以前から、大半の本はそういうものではなかったのか、ということだ。</div>
<br /><div>そもそも、この本の帯にある「知性のシャワーがあなたを磨く」みたいな形容にふさわしい本は、今一般に書店で売られている本の中で、おそらく多くはない。同じ意味で、本書が想定するような「知的」な興味をもって書籍を手に取る人も、そう多くはないだろう。たとえば、書籍で100万部も売れたらベストセラーと呼ばれるだろうが、ではその100万冊の本は都合何人ぐらいに読まれるのかといえば、せいぜいその数倍程度にとどまるのではと想像する。一方、日本には1億2753万人(2012年10月1日現在推計値)の人がいて、うち本を読めない可能性が高い4歳までの乳児(約500万人)を除くと約1億2000万人強ということになる。要するに、ほとんどの本は、ほとんどの人の目には触れないのだ。</div>
<br /><div>この本にも、総務省の家計調査を紹介する新聞記事が引用されている。曰く、2011年の1世帯あたりの書籍・雑誌・週刊誌の購入額は前年比4.1パーセント減の1万3725円だった、と。1世帯で月1000円そこそこ。著者はこれをもって「日本の読書文化は消え失せたのかもしれない」と嘆くが、もう少し遡ればこの数字、2003年時点でも1万5550円だった。減少ペースが速い、ともいえるが、昔は皆がこぞって本の虫だったかというと、そんなこともない。ほんの数十年も遡れば、読書好きの子どもが「本ばかり読んで」と怒られ、「勉強しろ」「家の仕事を手伝え」といわれた時代があったのだ。著者のロジックをとるなら、もともと日本に読書文化などなかったという方がむしろ適切だろう。</div>
<br /><div>もちろん、日本に読書文化はあった。昔も本を愛する人々、本をたくさん買う人々はいたわけだが、それは全国民ではなく、国民の一部、それも比較的少数だ。そしてそうした人々は、一時と比べれば減ってはきているのかもしれないが今もちゃんといる。その周囲に、それよりはるかに多くの、本書でいう「知性のシャワー」からは少し離れた内容の気楽な「読書文化」を楽しんでいる人々、あるいは月に1回本を買うかどうかというぐらいの気軽な「読書文化」を楽しむ人々がいる。さらにそのまわりには、本ではないがさまざまな文章は読むという「活字文化」を楽しむ人々のクラスターが大きく広がっている、というぐらいの構図になろうか。つまり、読書文化なるものは、総じていえば、著者がイメージするような、あるいは著者自身がそうであるような、「旺盛な知的出力」をめざす人々から離れたところで大きく花開いている、ということになる。</div>
<br /><div>素朴に考えてみる。この本の「ターゲット」はいったいどんな人たちなんだろうか。本屋で本を買えという主張の本だから、今本を買わない人たち向けかというと、おそらくそうではない。この本で著者が嘆いている、月に1冊も本を読まない人々、あるいはプライベートではマンガしか読まない人々がこの本を手に取ること自体、まずないことだろうし、たとえ読んでも、共感はしてくれないだろうからだ。</div>
<br /><div>ではターゲットになるのはどんな人たちかというと、基本的に本が好きで、本を買う人たちだろう。この本が紙の本である（みたところ電子書籍にはなってないっぽい）以上当然といえば当然だが、条件はおそらくもう1つある。本をめぐる現状に不満やら不安やらを覚えている人、だ。</div>
<br /><div>これまでけっこう本を買ってきたが、最近は収入が減ってこれまでのようには買えなくなった人、街の書店の減少を歯がゆく思っている人、あるいはそろそろ電子書籍に移行しようかと悩みながら、でも大丈夫だろうかと不安が払拭できない人。そうした「本を買う」文化の信奉者、あるいは潜在的な支持者こそが、この本のターゲットだ。そうした人たちに、本を買うのをやめないでいいんだ、身の回りの人々にもそう伝えてくれというのが、この本の最大のメッセージということになるんだろう。</div>
<br /><div>その意味でこの本は、「本を買って読む」という行為を「祝福された」ものとして尊ぶ「宗教」（便宜的に「本買う教」とでも名付けておく）の布教書のようなものなのかもしれない。本をたくさん買う人向けの免罪符であり（確信をもっていうが、本書が勧めるように月に2万円本を買っていたら、一般的な家庭なら「本ばかり買って」と苦情をいわれるはずだ）、本をたくさん買いたいがどうしようと思っている人には「買ってもいいんだよ」という「赦し」を与える福音となる。本をあまり買わない人には悔い改めよと教えを説き、このありがたい教えを広めたい人には布教の指導書となる。</div>
<br /><div>実際、最後に著者はこう書いているのだ。</div>
<br /><div>「図書カード」の配布はハードルが高いとしても、1日10分の書店通いなら誰でもできる。あるいは周囲の人にそう呼びかけることも可能だろう。</div>
<br /><div>「図書カードの配布」というのは、全国民に、それができないならせめて児童手当の一部として、政府が図書カードを配布せよという著者の政策提案だが、それがかなわなくても、個人個人が書店に行けばいい、それを周囲に呼びかけよというのは、まさに「布教」のすすめだ。</div>
<br /><div>ではこの「本買う教」の布教活動はどこで行うべきだろうか。まず考えられるのは学校だろう。小学校から大学まで、学校とは基本的に本を読むあるいは読まされる場所であり、本を読む習慣を身につけさせるなら、学生時代に仕込むのが一番だ。その意味で、この本は学校の先生に読んでいただくといい。先生たちは喜んで伝道者役を引き受けてくれるかもしれない。</div>
<br /><div>しかし、ここには大きな落とし穴がある。学校では本を「読む」ことを教えるが、本を「買う」ことを教えはしない。むしろ、「買う」ことを間接的にだが否定しさえする。学校には図書館があるからだ。まじめな話、日本人が本を買わなくなったのは、必ずしも他の娯楽やネットの文章に流れたからばかりではないのではないかと思う。著者は都合よく無視しているが、図書館は書店にとって、昔から手強いライバルだった。そして最近、その「脅威」は拡大しつつある。</div>
<br /><div>ちょっと数字を挙げてみる。文部科学省が公表した2011年度社会教育調査の中間報告によると（<a href="http://current.ndl.go.jp/node/22221">参考</a>）、2011年10月1日現在、日本には図書館が3274館ある。前回、3年前の調査時より増加している、というか過去最高に達しているらしい。図書館の国民1人当たりの利用回数も、3年前の1.4回から1.5回へと増加傾向が続いているし、国民1人当たりへの貸出冊数も前回の4.9冊から5.4冊へ、児童1人当たりへの貸出冊数も18.8冊から26.0冊へと増加した。おそらく図書館も、利用者の声に応えて、あるいは管理者から「成果」としての貸出実績を求められて、ベストセラーを大量に揃えるなどの「努力」をしているんだろう。</div>
<br /><div>図書館は非営利だし、本好きにとって親しみのもてる存在だから、悪くいう者はあまりいないが、はっきりいってこれらは書店の事業と競合する。たとえば、<a href="http://www.city.funabashi.chiba.jp/kurashi/study/0001/p015502_d/fil/toshokan-ishikichousa.pdf">ある調査</a>の結果をみると、図書館を利用する人の最大の利用目的(71.8％)は「自分で読む本を借りる」ことであり、図書館を利用しない人にその理由を聞くと、その最大の理由(53.9％)は「読みたい本は自分で購入するから」だ。つまり人々は、自分が読みたい本を買わないですますために図書館を利用している。</div>
<br /><div>図書館によるベストセラーの大量購入（図書館業界では「複本」と呼ぶらしい）については、これまでも議論があった。たとえば<a href="http://www.pot.co.jp/zu-bon/zu-09/zu-09_086">このページ</a>は図書館サイドの主張だが、巧妙な論理には感心させられる。とはいえ、1つの図書館で『ハリー・ポッターと炎のゴブレット』を上下50冊ずつ買っても半年待ちになるほどの人が読むとあれば、影響がないとはとてもいえまい。もちろん、図書館が本を貸さなければ人々は本を買うようになる、という話でもないだろうし（そういえば音楽業界でも似たような話があったね）、図書館が置かれた状況もある程度はわかる。私としても、図書館でがんばっている人たちを批判するつもりは基本的にはない（図書館のあり方をもう一度考えなおした方がいいとは思うが、それはまた別途）。おそらくこの本の著者もそうだろう。</div>
<br /><div>ただ少なくとも、本を「読む」ではなく「買う」ことを推奨するということは、本を「買う」代わりに「借りる」ことを選択している人々に対し、「買う」よう説得することを必然的に含むはずだ。著者が、あるいはその教えを受けた「本買う教」の「伝道者」たちが、「書店で本を買うべし」という教義を布教したければ、それを行うべき最大の要所は、図書館ということになるのではないか。もちろん図書館は本を「買いたくない」人の聖地でもあろうから、そこでの「布教」活動には反発もあろう。しかし「伝道者」たる者、磔にされようと石もて追われようとひるんではならない・・・まあ、実際にはそんなことはなくて、図書館の方々も「本を買おう」という主張には概ね賛成してもらえるんじゃないかと思う。図書館の蔵書検索端末に「この本が欲しくなったらここを押せば帰りに近くの書店で買えます」みたいなボタンをつけとくとか、やろうと思ったらけっこうできるんじゃないだろうか。どのくらい効果があるかは知らないが。</div>
<br /><div>…おわかりいただけると思うが、こういうふうに、「本を買おう」という主張を宗教になぞらえたのは、それが合理性を超えた信仰みたいなものに基づかなければ合理化できないのではないか、と私が考えているからだ。ことわっておくが、別に紙の本やリアル書店がなくなっていいといっているのではない。私はこの職に就く前から、月に1万円以上本を買う生活を（もちろん自費で）続けてきたし、若いころは書店で半日過ごすなんてことも当たり前にやってた。だからもちろん気持ちはよくわかるんだが、人を池まで連れてくることはできても、水を飲ませることはできない。実際のところ、あまり有効なアプローチとは思えない。</div>
<br /><div>出版業界を含むあらゆる産業、あらゆるセクターは、時代の変化に対応する必要がある。時代の変化とはすなわち社会の変化、技術の変化であり、それを押しとどめることはできない。その意味で、著者のような方には、自分の理想を押し付けるのではなく、今の時代にふさわしい、多くの人が魅力的と思う、よりよい本とのつきあい方を提案してもらいたかった。手練れの読み手として、ネット書店とリアル書店のうまい連携方法や、電子書籍とリアル書籍の「合理的併用」のうまいやり方などを提言してくれれば、さぞかし多くの人が耳を傾けるだろうに。</div>
<br /><div>というわけで、あまり好意的な評価にはみえないかもしれないが、私としては、けっこうこの本を楽しく読んだつもりだ。いや、言い訳じゃないよ？こうやって批判的に読むのも本の楽しみの1つだ。それに、ネットとちがって、本の場合は著者がいきなり反論してきてボコボコにされるおそれは少ない。これこそ、今の時代における、紙の本の最大のメリットの1つなんじゃないかと思う。</div>
<br /><div>・・冗談はともかく、まじめな話、本好きな方、本好きを子どもに教え込みたい保護者や教師の皆さんには有益な本ではないかと思う。書店のさまざまな利用法も参考になる。とりあえず、これを副教材に使って、子どもに書店や本について考えさせる課題とか出してみたらどうかな。</div>
</div></p>]]>
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                <dc:creator><![CDATA[山口　浩]]></dc:creator>
                <nicoch:article_thumbnail></nicoch:article_thumbnail>
            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[こち駒ミュージックレビュー：「MASTERPIECE」by エレファントカシマシ]]></title>
                <description><![CDATA[<p>ボーカルの宮本浩次率いる4人組みエレファントカシマシから2012年5月30日に発売され、1988年のデビュー以来通算21枚目となるこの「MASTERPIECE」。ベテランバンドの風格を醸し出す一枚だ。</p>]]></description>
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                <pubDate>Thu, 18 Oct 2012 11:58:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div>ボーカルの宮本浩次率いる4人組みエレファントカシマシから2012年5月30日に発売され、1988年のデビュー以来通算21枚目となるこの「MASTERPIECE」。ベテランバンドの風格を醸し出す一枚だ。よく言えばエレカシらしいというかどの曲も個性が強くアクが強いので初めての人には聞き辛いかもしれない。</div>
<br /><br /><div><br /><br /><div>以下、主な曲の簡単なレビュー</div>
<br /><div>1, 我が祈り</div>
<div>このアルバムでは珍しくロック調な一曲。イントロのギターがエレカシらしくていい！</div>
<br /><div>2, 大地のシンフォニー</div>
<div>俺たちの明日以降から目立ってきたお得意のバラード曲シリーズ。無難な出来に仕上がっている。</div>
<br /><br /><br /><div>3, 穴があったら入りたい</div>
<div>最初期のエレカシを思い起こさせる気の抜けたノリと爽快感あふれる迷曲。</div>
<br /><div>4, 世界伝統のマスター馬鹿</div>
<div>タイトルで敬遠してしまう気持ちも分かるが是非聞いて頂きたい一曲。これぞ宮本の真骨頂だと思う。</div>
<br /><div>エレファントカシマシはCDや曲ごとで印象が大きく変わるので、このアルバムが受け入れられなくても是非ほかのアルバムにも食指をのばしてみて欲しい。</div>
<div>また、10月31日には新曲「ズレてる方がいい」が発売されるのでファンは要チェックだ。</div>
<br /><br /><br /><br /></div>
<div></div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[山口　浩]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[過去がうらやましい、という人がいたので]]></title>
                <description><![CDATA[<p>今私たちが見ている、ネット創世期に「うまくやって成功した」ようにみえる人たちは、実際には、そういう競争を勝ち抜いてきた勝者だ。そういう人たちだけを見て「あの時代に生まれていれば簡単に成功できた」などと思うのは、甘い幻想でしかない。</p>]]></description>
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                <pubDate>Sun, 14 Oct 2012 09:08:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p>はてな匿名ダイアリー、通称「増田」にこんな投稿があって、ツイッターの私のタイムライン上でこれに関するちょっとしたやりとりがあった。<br /><br />「<a href="http://anond.hatelabo.jp/20121012105249">高校1年だけどコンピュータ、インターネット創成期が羨ましい</a>」（2012年10月12日）<br /><br />ごく短い文章で、あの頃は「資本がなくても大富豪になるチャンスがあった」らしいからという理由だ。まあ非常にわかる気持ちではある。あまり深く考えず気楽にそのときの気分を書いたということなら別に気にしないが、どうもそうでもないかもしれないという気がしたので、少しだけ書いてみる。高校1年とあるので、できるだけかみくだいて書くよう努める。とはいえ最初にはっきり書いておくべきだろう。そもそも、「大富豪になるチャンスがあった」という論点そのものがまちがいだ。チャンスがあれば大富豪になれるのだったら、今の世の中、大富豪はもっとごろごろしているはずで、こういう議論にあまり意味はない。ひとことでいえば、宝くじはどの1枚にも当たるチャンスがあるが、だからといって買えば必ず当たるというわけではない、という話だ。<br /><br />もう少し具体的な例を出してみる。歴史を知った上で戦国時代に戻れば、明智光秀の謀反を織田信長に知らせて恩を着せて大名に取り立ててもらうことだってできるだろう。うまく取って代われば天下統一だって夢ではないかもしれない。ではなぜ当時の織田家家臣は信長に知らせることができなかったのか。当たり前だが、知らなかったからだ。では自分が実際に当時生まれていたら、それをあらかじめ知ることはできただろうか。まあ無理と考えるのが妥当だろう。知っている理由がない。<br /><br />これでも実感がわかなければ、では今、「チャンス」がどこにあるか考えてみることだ。あえて断言するが、20年後、今を振り返れば、「ああ、あの頃あれをやってれば今頃大金持ちだったのに」というチャンスは必ず見つかるはずだ。ではなぜ今それに気付けないのか。ネット創世期に「資本がなくても大富豪になるチャンス」に気づいていた人は、それほど多くはなかった。ドットコムバブルはやがてはじけると考えた人もいたし、ベンチャーなんてこわくてとても、という人も多かったろう。自分が当時生きていれば気づいていたはずだというなら、今の時点で、今あるチャンスにも気づけないはずはない。<br /><br />もちろん、気づいていたからといって成功できるとは限らない。気づいた人がたくさんいれば、そこで競争が起きる。実際に当時ネットビジネスに乗り出した人も、その多くは競争に敗れて消えていった。楽天と同時期に「電子商店街」ビジネスを始めた会社はかなりの数あったと記憶している。90年代にはそこら中にあったホームページ作成会社は今どうしているだろう。今私たちが見ている、ネット創世期に「うまくやって成功した」ようにみえる人たちは、実際には、そういう競争を勝ち抜いてきた勝者だ。そういう人たちだけを見て「あの時代に生まれていれば簡単に成功できた」などと思うのは、甘い幻想でしかない。<br /><br />投資の業界で、サバイバーシップバイアスということばがある。いろいろな投資ファンドの過去の収益率の平均をとると、実際より高めに出てしまうという現象だ。さまざまなファンドが資産運用を始めると、業績の悪いものはどんどん脱落していくので、生き残ったものだけで平均をとると実際より高くなってしまう。今のネット長者たちを見て「当時のネット業界では簡単に成功できた」などと考えるのは、同じ時期にビジネスを始めて、競争に敗れ消えていった多くの人たちを無視するというバイアスのかかった見方だということだ。<br /><br />それから、当時と比べて今チャンスと思えるのは「医療とか沢山のお金が必要なものばかり」だからだめだという点も、大きく疑問符をつけたい。それがまさに、ネット創世期の大半の人と同じ発想だからだが、では本当に「沢山のお金が必要なものばかり」なのだろうか。確かに、沢山のお金が必要な事業の方が多いかもしれないが、それは当時とて変わらない。逆に、今はもう、あまりお金のかからない事業機会はないのかというと、そうでもないような気がする。<br /><br />たとえばスマートフォンのアプリ市場は激烈な競争状態だが、アプリ自体を作るのには資本はほとんど要しない。低予算でも優れたアプリを作ることができれば、市場は世界規模だ。一気に億万長者になるチャンスだってあるだろう。たとえばインスタグラムは2人で始めて、公開から2年足らずで10億ドルで買収された。ものづくりの分野でも、たとえば3Dプリンタのような技術は、必要な資本を段違いに小さくすることができる。もちろんその他にも、チャンスはいろいろあるだろう。問題は、どの事業分野にチャンスがあるのかではなく、自分にどのような具体的なアイデアがあるか、それを実現できる力が自分にあるかという点だ。<br /><br />多少の資金が必要な分野であっても、今はベンチャー資金が当時よりはるかに利用しやすくなっている。きちんとした技術とビジネスプランがあれば、それなりの規模の資金が集まるチャンスはあると思う。<br /><br />もちろん、一般論としてチャンスがあっても、大半のチャレンジャーは競争に敗れる、というのは上記の通り。勝者となるのはごく少数だ。しかしうまく成長して生き残れば、20年後には、「2010年代 はチャンスが沢山あってよかった。あの時代に生きていれば」と言われるようになるだろう。かつて「強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ」と言ったのはサッカー選手のベッケンバウアーだったか。まあ、そういうことだ。<br /><br />過去がうらやましいというのは、いってみれば今の時代の閉塞感を反映したものなのだろう。この先見通しは暗い。そう語る人が多い。実際、私もそう明るいとは思っていない。しかし、真っ暗かというと、そこまででもないだろうし、領域によってはかなり明るいところもあるように思う。実際、ネット創世期というのは、アメリカはともかく、日本ではバブル崩壊後の、どちらかといえば暗く感じられる時期だった（実際には景気が拡大していた時期もあるにはあるのだが、一般人に実感はほとんどなかったと思う）。ネット事業の好調が伝えられても、多くの人は暗い時代に咲いた徒花のように見ていたし、ドットコムバブルが崩壊したときには「それみたことか」といわれたものだ。そうした中でネットの「未来」を信じた人たちの中のさらにその一部が生き残った。その後参入した人たちも、多くが脱落して少数が生き残り、そうやって今のネット業界ができている。今の目からは「うらやましい」ようにみえても、当時の人にいわせれば、「そんなことはない」ということになるだろう。<br /><br />この件で最も気になったのは、上記の「増田」を書いた「高校1年生」が、ビジネスに「正解」があるかのような考えを持っているのではないかと思われたことだ。ネットビジネスという「正解」を知った状態で過去に戻りたいという発想は、その「正解」が当時も自明の正解だったと考えていなければ出てこないのではないかと思う。しかし、ビジネスに限らず、人生全般にそうだろうと思うが、これが100％正解という類の正解は、現実の世の中にはほとんどない。数少ない例外が学校教育だが、高校1年といえばそろそろ大人の世界に入る準備をしてもいいころだ。「正解」がわからない世界について、ぜひ想像をめぐらせてもらいたい。<br /><br />もちろん、大人の中にも、世の中には「正解」があるという幻想の中に生きている人はたくさんいる。だからそういう生き方も、望むならできなくはないだろう。しかしそういう幻想はしばしば打ち砕かれるし、そのために損をすることもたびたびあるように思う。少なくとも、「大富豪になる」ことをめざすような生き方をしたいのであれば、そういう幻想からは早く脱却した方がいいかもしれない。<br /><br />ともあれ、こういうことなど何も考えていない高校1年生も多かろうから、考えただけ一歩先んじた、ともいえるかもしれない。今はシニカルな見方の方がはやりっぽいが、前向きな人は応援したいと思っているので、過去ではなく未来を見て、ぜひがんばってほしい。まずは学校の勉強をしっかりやることかと思う。その上で、世の中の動きをよく見て、いろいろな人と話して、いろいろ考えてみるといい。もちろん成功の保証はないが、リスクをなくすことまではできないまでも、小さくする方法はいろいろある。もちろん覚悟の上で、思い切って賭けるのもアリ。少なくとも成功者たちは例外なく、そうやって「賭ける」タイミングがあったはず。あらかじめ備えておけば、失敗は必ずしも破滅ではないし、再起のチャンスもめぐってくるかもしれない。あとは自分の選択だ。<br />（山口）<br /><br /><br /><br /></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[山口　浩]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[意識の高いゆるキャラ諸氏のためのサバイバル5ヶ条]]></title>
                <description><![CDATA[<p>熊本県のゆるキャラ「くまモン」が何やら怒られたらしい。「「くまモン、式典では礼儀を」　熊本県議からカミナリ」（朝日新聞2012年9月28日）一見なんともくだらんニュースだが、バカにしてはいけない。私の目（悪乗りフィルタ装着）にはむしろこの記事、ある重大な問題を提起しているものと映る。それは何か。ゆるキャラにも今やサバイバル術が必要ということだ。</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/ch285/blomaga/ar8895</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/ch285/blomaga/ar8895</guid>
                <pubDate>Sun, 30 Sep 2012 09:03:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p>熊本県のゆるキャラ「くまモン」が何やら怒られたらしい。<br /><blockquote>「<a href="http://www.asahi.com/national/update/0927/SEB201209270013.html">「くまモン、式典では礼儀を」　熊本県議からカミナリ</a>」（朝日新聞2012年9月28日）この日の特別委員会で自民の山本秀久議員は、くまモンが県のＰＲキャラクターとして成長していることに理解を示す一方で、「正式の式典でふざけていると感じる場面がある。礼儀をきちんとさせないとだめだ」と「しつけ」の必要があると指摘した。</blockquote>
<br />一見なんともくだらんニュースだが、バカにしてはいけない。私の目（悪乗りフィルタ装着）にはむしろこの記事、ある重大な問題を提起しているものと映る。<br />それは何か。<br /><br />ゆるキャラにも今やサバイバル術が必要ということだ。<br /><br /><br />ちなみにこのニュース、ぱらぱら検索した限りでは報じているのは朝日新聞だけのようで、いわば「特ダネ」ということになろうか。なんともしょうもない特ダネだが、そうはいっても「カミナリ」とか書かれると、そりゃどんなふうに怒られたのか、気になるではないか。見たいではないか。<br /><br /><a href="http://www.pref.kumamoto.jp/site/gikai/">熊本県議会</a>は<a href="http://www.kumamoto-pref.stream.jfit.co.jp/">ネット中継とか動画公開とか</a>もけっこうやってるのだが、どうも見たところ対象は本会議だけのようで、このやりとりがあった「特別委員会」の映像で公開されたものは見当たらない。だいたい何もついてない無印の「特別委員会」って何さと思うのだが（実際、県議会の審議日程にも「特別委員会」としか書いてない）、ひょっとして名を明かせない極秘の委員会だったりするのだろうか。さすがくまモン、大物である。記事に添えられた写真を見ると、会議テーブルのような場所に、誰だか知らないが怖い顔をした政治家らしき男性と並んで座って写っている。会議の出席者扱いということなのであろうきっと。<br /><br />ともあれ、怒られたわけだ。朝日の記事は「くまモンは会話ができない分、常に手足で感情を表現する。そのしぐさが「ふざけている」と映ったようだ」と書いている。まあ想像できる図ではある。写真に写っているこわい顔の男性が怒った県議さんなのかどうかは知らないが、たとえばあの位置に自分が座っていたとして、すぐ横でばかでかいくまモンがもぞもぞ動いてたら確かに気が散るだろうとは思う。よかれと思ってやったのだとしても、空回りになっては意味がない。<br /><br />これに限らず、昨今氾濫するゆるキャラだが、脇が甘いと思しき事例が少なからず見受けられる。ゆるキャラ（正確には「ゆるキャラ®」と表記すべきかもしれないが）は、当然ながら、そのデザインやコンセプトにおいて「ゆる」い「キャラ」クターだから「ゆるキャラ」であるわけだが、だからといって、意識までゆるくていいというものではない。いまや海外にもゆるキャラとしかいいようのない奇っ怪なキャラたち（<a href="http://www.joc.or.jp/games/olympic/london/mascot/">これ</a>とか<a href="http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20120601/Recordchina_20120601011.html">これ</a>とか）が登場するなど、ゆるキャラ界にもグローバル化の波が押し寄せてきている。上記の熊本県議のように「成長してきている」などと悠長なことはいっていられない。ゆるキャラも即戦力が求められているのだ。<br /><br />特に自治体ゆるキャラの諸氏は、自治体における昨今のゆるキャラブームに乗って一気に増殖した面が強い。自治体等の財政状況も厳しい折、このままでは数年後の生き残りすら危ぶまれる者も出てこよう。ゆるキャラ諸氏は、隣接の企業キャラ業界においてあれだけの人気を誇りながら、未曾有の事故のあおりを受けたとはいえ、財政難であっさりとその命脈を断たれた「<a href="http://otanews.livedoor.biz/archives/51863220.html">でんこちゃん</a>」の末路を思い起こすべきだ。意識の高いゆるキャラは、その轍を踏んではならない。組織における自らの立場と使命を常に意識し、中長期的な視点と戦略的思考をもってその存在意義を高め、アピールしていくことが求められるのである。<br /><br />というわけで、意識の高いゆるキャラ諸氏が心がけておくべきサバイバル術のポイントを5ヶ条にまとめてみた。<br /><br /><hr /><br /><br />(1)ターゲットを明確に意識する<br />現在、ゆるキャラがどのくらいいるのか、定義の問題もあるし正確なところはわかりかねるが、少なくとも数百に及ぶことはまちがいない。2013年に東京で開かれる国体等を盛り上げるためとして9月28日に開かれたイベントには、263体ものゆるキャラが集まったという。<br /><blockquote>「<a href="http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120928-OYT1T01515.htm?from=ylist">ゆるキャラゆるゆる大集合…２６３体でギネスに</a>」（読売新聞2012年9月28日）東京都調布市の「味の素スタジアム」に２８日、全国各地から「ゆるキャラ」などのマスコットキャラクター２６３体が集合、「マスコットの最多集合」ギネス世界記録として認定された。</blockquote>
<br />これだけ集まると、写真を見てもどれがどれやらわかったものではない。　ゆるいだけでは、認知すらしてもらえないのだ。多くのゆるキャラは、地方自治体等の広報という役割を担っている。そしてその広報の目的は、地元意識のある当該自治体在住者、出身者の愛着を高めるというだけにとどまらず、より積極的に、他都道府県からのファン獲得をめざそうとするものに変わりつつある。そうなってくると、ゆるキャラも、ゆるいというアイデンティティを保ちつつも、一定のプレゼンスを示さなければその存在意義を問われかねない。そして存在意義に疑問を持たれたゆるキャラは、容赦なく淘汰される運命なのだ。<br /><br />もともと当該自治体に興味のある人々ならともかく、そうでない人々の関心を引くには、それなりの「地力」がいる。某企業の<a href="http://character.disney.co.jp/mickey-and-friends/mickey-mouse">ねずみのキャラクター氏</a>のような、ブランド力も予算も豊富な場合は別として、そうした資源の裏打ちがないゆるキャラ諸氏の場合、万人受けを狙うことは必ずしも有効な戦略とはいえない。この点は、組織の性格上つい万人受けを志向しがちな自治体関係者との意識合わせが必要であろう。しかしひるんではならない。人々の趣味嗜好が多様化する新しい市場環境の下、意識の高いゆるキャラは、自らの立ち位置を自覚し、どの層に向けてアピールするのかを明確に意識した行動が求められるのだ。ポピュラリティへの道は、一点突破を越えた先に開けている。<br /><br /><br />(2)自らの「場」を守る<br />キャラクターの魅力はデザインだけではない。むしろ、そのプロフィールを含む「世界観」と「物語」こそがその魅力のカギだ。そしてデザインやキャラクター自身の立ち居振る舞いがそれらと整合し、ときにずれたりするさまが愛着を呼ぶ。すなわち、意識の高いゆるキャラは、その登場の場やシチュエーションを慎重に選ぶことが求められるのだ。<br /><br />上記のくまモン氏が怒られたという記事についていえば、彼は明らかに登場の場の選定をまちがったとしかいいようがない。口を利くことのできないゆるキャラが動作で感情を表現するのはしごく自然なことであって、それが「ふざけている」ととられるような場にはそもそも出るべきではない。また、ゆるキャラは、着ぐるみとして登場した場合には、その場の注目を一身に集めて初めて存在意義が出てくるものであり、会議の添え物として横に控えているような使われ方はよろしくない。したがって、あの件はくまモン氏本人というよりスタッフの安直な姿勢こそが責められるべきケースだが、イメージを自ら守るのは意識の高いゆるキャラとして当然のことであり、他人任せにしていい問題ではない。くまモン氏は、こうしたゆるキャラの本分に沿わない仕事に対しては毅然として「ノー」と言うべきだったのだ。<br /><br />この点でも、お手本になるのはかの<a href="http://character.disney.co.jp/mickey-and-friends/mickey-mouse">ねずみのキャラクター氏</a>であろう。彼は登場する場とシチュエーションを慎重に選ぶ。千葉県にある彼の「国」においても、彼の登場機会は厳密にコントロールされているし、テレビなどに出る際には必ず「大使」がアテンドしてその発言を代弁する（世界観を壊す「その着ぐるみ何体ぐらいあるんすか」とか「その中暑いでしょう？」みたいな発言は事前の打ち合わせで封じているはずだが、その場では彼女らがさばく）など、「王」たる彼のイメージを守り、その場に受け入れられ、場の「主」として振る舞えるよう、細心の注意が払われている。たとえ予算が限られていても、意識の高いゆるキャラは、こうした事例をふまえ、少なくとも、自らのイメージと魅力が保たれない場での仕事は避ける努力が必要だろう。<br /><br /><br />(3)暴言を吐かない<br />かつてゆるキャラは、言語によるコミュニケーションを期待されないケースが多かった。しかし最近はソーシャルメディアの発達もあって、ツイッターなどで<a href="https://twitter.com/i/#!/yurui_jp/characters/members">さまざまなゆるキャラ</a>がアカウントを開設している。言語によるコミュニケーションは、メッセージを伝えるには有効であり、その言説のキャラクターとのマッチないしミスマッチが魅力を高めたりもするのだが、それとて限度というものはある。<br /><br />一時過激な発言で物議を醸した<a href="https://twitter.com/manbe_kunGT">まんべくん氏</a>などは、それがうまくいかなかった事例ということになろう（今は復活して快調にトバしてるようだが前回の反省を踏まえているなら何より）。あの路線は、個性の主張としては有効なものたりうるが、リスクが比較的高い。意識の高いゆるキャラ諸氏におかれては、かの<a href="http://character.disney.co.jp/mickey-and-friends/mickey-mouse">ねずみのキャラクター氏</a>のように、あえてツイッター降臨は控えるというのも手だが、もしやるなら、基本的にはゆるい雰囲気を保つ戦略が有益と思われる。日本有数のフォロワー数を誇るかの<a href="https://twitter.com/GachapinBlog">恐竜キャラクター氏</a>のツイートは参考になろう。<br /><br /><br />(4)子どもを敵に回さない<br />企画意図にかかわらず、ゆるキャラは子どもたちの関心を呼ぶことが多い。「人を射んとすれば先ず馬を射よ」といったのは杜甫であったか。ゆるキャラにとって、子どもはまさにその「馬」にあたる。子どもの人気を得れば、親はついてくる。意識の高いゆるキャラは、子どもをおろそかにはしない。しかしここで重要なことは、子どもの視点は大人とは異なるということだ。ゆるキャラのゆるさを愛好するのは主に大人であり、そうした「ゆるさリテラシー」を欠くことが多い子どもの場合、ゆるキャラといえども、わかりやすい「かわいらしさ」や「親しみやすさ」で勝負しなければならない。例の<a href="http://character.disney.co.jp/mickey-and-friends/mickey-mouse">ねずみのキャラクター氏</a>の路線を嫌々でも真似なければならないのだ。<br /><br />しかし、ゆるキャラによっては、こうした戦略をとりづらい場合もあろう。<a href="http://ameblo.jp/melon-kuma/">夕張メロン熊</a>氏などは、その意味ではなかなか立ち位置が難しいところにある。実際、彼の風貌は<a href="http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1685508.html">純真なお子様方にはやや刺激が強い</a>。とはいえ、みたところ、彼はその風貌からくる「許容範囲」を慎重に選んだ上で、意識的にぎりぎりの線をついているようでもあり、そのポジショニングはこれまでのところ奏功しているようだ。夕張といえば、かつて「<a href="http://yubarifusai.jp/">夕張夫妻</a>」という実につっこみづらいキャラを打ち出した土地柄でもある。こうした難易度の高いキャラで勝負しようという戦略は、再起に賭ける夕張の人々の「覚悟」と「気合」のようなものが感じられるが、これは多数派のためのものではないから、うかつにマネをするのは危険だ。リスク管理は、意識の高いゆるキャラの基本である。<br /><br /><br />(5)仲間をもつ<br />ゆるキャラは、特に自治体などの場合、単独で作られる場合が少なくない。予算の関係というのが大きいだろう。着ぐるみの制作費は安く見ても1体あたり数十万円に及ぶ。複数となればその分よけいにコストがかかるわけで、さらに運営経費も考えれば、なかなか難しいところであろう。<br /><br />とはいえ、ゆるキャラにとって、「仲間」の存在はけっこう重要なのだ。ゆるキャラにはそれぞれ性格やプロフィールの設定があるが、複数のゆるキャラがいれば、そこでそれらにバリエーションをもたせることができる。これは、ゆるキャラの「キャラ」を守る上で重要なポイントだ。キャラに合わない行動や言動をさせられると、キャラ設定が甘くなり、その魅力が減少してしまう。たとえばだらしない性格のゆるキャラに「税金を払いましょう」といったキャンペーンを行わせても、その効果はあまり期待できないばかりか、そのキャラクターが崩れてしまうのである。しかし、もし複数のゆるキャラがいれば、別にきちんとした性格のゆるキャラを作ることもできる。彼らの間のインタラクションを通じて必要なメッセージを伝えることもできる。<br /><br />また、ゆるキャラ仲間の存在は、危機管理という面でも有効である。かの世界一有名な<a href="http://character.disney.co.jp/mickey-and-friends/mickey-mouse">ねずみのキャラクター氏</a>も、かつて水上ショーの途中で乗っていた水上バイクから水に転落するという失態を演じたことがある。ショーの主役たるべき彼の転落はむろん大事件だが、彼は引き上げられた後、救援にかけつけた<a href="http://character.disney.co.jp/mickey-and-friends/minnie-mouse">ガールフレンドのねずみキャラクター女史</a>の水上バイクに相乗りさせてもらって無事撤収することができた。サポートスタッフでなく、同じキャラクター仲間によって助けられた形を演出することで、世界観を守りきったのである。意識の高いゆるキャラ諸氏も、こうした事例にならい、仲間を持つことを検討すべきであろう。場合によっては、隣接地域、隣接領域のゆるキャラたちと大局的見地に立った戦略的互恵関係を構築するというのも1つの手なのではないか。<br /><br /><hr /><br /><br />数百ものゆるキャラが乱立する現代は、ゆるキャラにとってまさに戦国時代である。うかうかしてはいられない。比較的歴史の浅い場合が多いゆるキャラ諸氏が学ぶべきは、やはりキャラ界の大先輩にあたる、ねずみなのに犬を飼っているというあのやけにばかでかい<a href="http://character.disney.co.jp/mickey-and-friends/minnie-mouse">ねずみのキャラクター氏</a>であろう。彼が有する長い歴史やブランド力、潤沢なサポートスタッフや予算はまねができなくとも、キャラクターとして自らを律する姿勢、細部へのきめ細かい配慮など、学ぶべき点は多い。意識の高いゆるキャラならば、あの高みを目指し、いついかなるときも油断することなく、そのゆるさに磨きをかけ、厳しい競争を勝ち抜いていっていただきたいものである。</p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[山口　浩]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[ソーシャルメディアでリーチできない人々]]></title>
                <description><![CDATA[<p>よしあしは別として、ソーシャルメディアを使わない人、言い換えれば何かのときのコミュニケーション手段が相対的に限られている人がいることが、社会全体にとってのリスク要因、あるいはコスト要因ととらえられる時代も、ひょっとしたらくるのかもしれない。</p>]]></description>
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                <pubDate>Fri, 28 Sep 2012 19:53:00 +0900</pubDate>
                <category><![CDATA[こち駒]]></category>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div>先日、修士のころの同級生たちと会う機会があったのだが、そこでちょっと考えさせられることがあった。</div>
<br /><div>ふと思い立って、その場にいた面々に、フェースブックを使っているかどうか聞いてみたのだが、ほとんどの人がノーと答えたのだ。じゃあツイッターはと聞いたら全員がノー。いわゆるソーシャルメディアの類は使っていない、ということだった。</div>
<div><br /><div>ソーシャルメディアを使っていない人がいること自体は、別に珍しくはない。この手の調査は数多く行われているが、ざっくりいえば、ネットユーザーの中でソーシャルメディアを利用しているのはだいたい3割から4割、といったあたりだろう。インターネットユーザーは人口の約8割だから、ソーシャルメディアの利用者は人口からみれば2割から3割そこそこ、という計算になろうか。だから、任意の1人を連れてきて「ソーシャルメディアを使っていますか」と聞けば、どう低く見積もっても半分以上の確率で、使っていないという人に出会うことになるはずだ。</div>
<br /><div>だが、私がそのとき会っていた同級生たちは、コンピュータやインターネットに関する知識がないわけではない。私が彼らといっしょに勉強していたのは、90年代前半。インターネットの商用サービスが始まってまだそう時間がたっていなかったころだ。ヤフーもなければグーグルもない。「パソコン通信」がまだ健在だった。当時のインターネット普及の最前線は、大学や大学院であり、私たちは、その大学院で、インターネットに触れたのだった。</div>
<br /><div>そして現在、彼らは、国際的に展開している日本企業や外資系企業などの第一線で活躍している。各自の机にはPCが置かれているであろうし、世界各地とメールのやりとりをするのはもちろん、ネットでニュースなどを見たりもするはずだ。グループウェアなどもあたりまえに使っているだろう。そうした人たちが、自分ではソーシャルメディアを使っていないというわけだ。</div>
<br /><div>基本的には、興味がないということらしい。これもデータと整合的だ。総務省が2011年に行ったネット調査（<a href="http://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/linkdata/h23_05_houkoku.pdf">リンク先PDF</a>）をみると、ソーシャルメディアを利用しない理由として、「興味がないから」が、情報漏洩その他のリスクへの警戒などと比べて圧倒的に高い。もちろん、リスクを避けるためという理由も少なからずあるだろう。彼らが働いているのはネット業界やIT関連業界ではなく、どちらかといえば「リアル」なセクターに属するが、そういう理由もあるかもしれない。</div>
<br /><div>繰り返すが、これ自体はびっくりするようなことではない。ただ、ソーシャルメディアについて考える際、ソーシャルメディア利用者とそうでない人を、年齢、職業、その他、いわゆる情報リテラシーに関連すると思われる「属性」で分けて語ってしまうことが多いよなあ、とそのとき思った。ソーシャルメディアを使わない人というとつい、デジタルデバイドの典型的な事例と関係付けて、高齢者や乳幼児、その他一般的に情報リテラシーが低めと想定される層の人たちを想像してしまいがち、ということだ（賢い皆さんはそんなことはないかもしれないが、少なくとも私はそうなのだ）。</div>
<br /><div>いわゆる情報弱者と呼ばれる層に対してネット経由でのリーチが難しい点については割と広く認識されているように思う。だが、スペック的には情報強者に分類されていてもおかしくない人たちの間にも、実際にはソーシャルメディアとは縁遠い人がかなりの割合でいるということは、頭では理解していても、意外に忘れてしまったりしている。</div>
<br /><div>別に、ソーシャルメディアを使わない彼らが遅れているとか言いたいのではない。そういえばこんな記事があった。米国の有力企業の経営者は、ソーシャルメディアを使わないと遅れてるといわれてしまいそうだが、そう決めつけたものでもなかろうとは思う。私がそのときいっしょだった同級生たちに有力企業の経営者はいなかったが、話は似ている。企業としてはともかく、企業人が全員、自分で使わなければならないとは思わない。</div>
<br /><div>
<blockquote>「<a href="http://jp.wsj.com/Business-Companies/node_519000">米経営者、ツイッターに及び腰</a>」（WSJ日本版2012年9月26日）</blockquote>
</div>
<blockquote>
<div>CEOに関する情報を扱っているCEOドット・コムなどが5月に行った調査報告によると、フォーチュン500社番付に入っている企業のCEOの70％は、ツイッターやフェイスブック、リンクトインなどソーシャルメディアを使っていない。ソーシャルメディアを利用しているCEOの間でも、ツイッターにアカウントを持っているのは4％、実名でフェイスブックを利用しているのは8％にとどまっている。米国民全体では、ツイッターを利用しているのは34％、フェイスブックは50％に達している。</div>
</blockquote>
<br /><div>とはいえ、だ。</div>
<br /><div>このことが気になったのは、社会の中での情報の流れに関するソーシャルメディアの役割が増大してきているという意識があるからだ。となると、利用している人といない人との間に生じる差（つまりデバイドだ）の影響がより大きくなるのではないか、と連想するのは当然だろうが、さらに、利用している人たち、あるいは社会全体にとっても、利用していない人がいることのデメリットは大きくなるかもしれない。いわゆるバンドワゴン効果と逆方向の話だ。</div>
<br /><div>総論的な話はその分野でいろいろ語ってる人がたくさんいるはずなのでそちらに譲るとして、そのとき連想したのは、たとえば災害時に電話が通じなくなったりしたら、彼らとソーシャルメディアで連絡をとることはできないのだなあ、という点だった。</div>
<br /><div>災害時の連絡というと、たとえば災害用伝言板というサービスがある。通信の負荷を分散させて、災害時の安否確認がスムーズにできるよう、電話会社が運営しているわけだが、この利用率があまり高くないようだ。ある調査では、東日本大震災の際、家族や知人への連絡手段として災害用伝言板等のサービスを利用しようとした人は数％程度しかいなかったとの結果が出ている。</div>
<br /><div>問題は、「やり方がわからなかった」と答えた2割もさることながら、「利用しようとしなかった」と答えた7～8割だ。使おうと思えば使えたが使おうとは思わなかった、ということか。とはいえわからなくもない。端的にいって、人は緊急時に、ふだん使わないものを使おうとはしない。非常時にしか使えないメディアが非常時にあまり使われないのは、べき論はともかく、自然なことではある。</div>
<br /><div>こうした人たちは、たとえばいっせいに電話をかけようとして、電話が通じにくくなったりした。いっせいにメールを送ろうとして、メールの遅配も発生した。一方、ツイッターやミクシィなどのソーシャルメディアを使った人たちは、比較的連絡がとれやすかったようだ。もちろん数がちがうのでいちがいにはいえないが、音声よりテキストの方が負荷は小さいだろうし、それがあちこちのメディアに分散すればさらに通じやすくなるかもしれない。少なくとも震災のとき、連絡手段としてソーシャルメディアが一定の役割を果たしたのはまちがいないし、今後も一定の役割を果たし続けるだろう。</div>
<br /><div>つまり、災害時の連絡手段としてソーシャルメディアが使える人と使えない人とでは、連絡がとれる可能性に差が出てくるわけだ。これは、平常時にソーシャルメディアを利用するかしないかといった、好みの問題だけですむ話ではない。安否をすぐにでも知りたい家族や知人がいるとしたら、それらの人々「全員」と連絡がとれないと安心はできないだろうからだ。もちろんその他、ニュースなどの情報を取得するための補完的あるいは代替的手段としても、ソーシャルメディアは一定程度、有効に活用できる。そしてそれは、社会全体にとっても意義がある。</div>
<br /><div>もちろん、だからといって、災害時のためにみんながソーシャルメディアを使うよう義務づけろなんて話になるはずもないしそうすべきでもない。ただ、個人レベルのリスクマネジメントとして、何かのときのために、ふだんから複数のコミュニケーション手段をもっておくことは有効、というのは、ひとつの考え方としてありうるだろう。よしあしは別として、ソーシャルメディアを使わない人、言い換えれば何かのときのコミュニケーション手段が相対的に限られている人がいることが、社会全体にとってのリスク要因、あるいはコスト要因ととらえられる時代も、ひょっとしたらくるのかもしれない。</div>
<br /><br /></div></p>]]>
                </content:encoded>
                <dc:creator><![CDATA[山口　浩]]></dc:creator>
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            </item>
            <item>
                <title><![CDATA[【サンプル記事】こち駒 ニコニコ支店]]></title>
                <description><![CDATA[<p>職業柄、人からいろいろなことを聞かれることがある（職業とまったく関係ないが昔から街を歩いているとよく道を聞かれたりもする。旅先でもけっこうあるので閉口する）。根がブロガーなので、別に専門でなくても（そうことわった上で）ぺらぺらしゃべったりするし、ブログに書いたりもする。
いじめ問題については、少し前に自分のブログに書いた（リンク）のだが、おそらくこれをどこかで見かけたのだろう、とある高校生の方から、メールで意見を求められた。なんでも「夏休みの課題」であるらしい。高校生からとなれば、「職業柄」、まじめに答えざるを得まいということで、少々まじめに書いたのが以下のもの。ご承諾をいただいたので、氏名等は伏せてここに公開しておく。若干教員ぽいというかポジショントークっぽいところもあるが、そもそもそういう文章なのでご容赦。メールは、ある新聞記事を引用していた。おそらくこれかと思う。
「「いじめ」ゆがん</p>]]></description>
                <link>https://ch.nicovideo.jp/ch285/blomaga/ar5232</link>
                <guid>https://ch.nicovideo.jp/ch285/blomaga/ar5232</guid>
                <pubDate>Fri, 07 Sep 2012 17:00:00 +0900</pubDate>
                <content:encoded>
                        <![CDATA[<p><div>職業柄、人からいろいろなことを聞かれることがある（職業とまったく関係ないが昔から街を歩いているとよく道を聞かれたりもする。旅先でもけっこうあるので閉口する）。根がブロガーなので、別に専門でなくても（そうことわった上で）ぺらぺらしゃべったりするし、ブログに書いたりもする。</div>
<br /><div>いじめ問題については、少し前に自分のブログに書いた（<a href="http://www.h-yamaguchi.net/2012/07/post-9bd9.html" target="_blank">リンク</a>）のだが、おそらくこれをどこかで見かけたのだろう、とある高校生の方から、メールで意見を求められた。なんでも「夏休みの課題」であるらしい。高校生からとなれば、「職業柄」、まじめに答えざるを得まいということで、少々まじめに書いたのが以下のもの。ご承諾をいただいたので、氏名等は伏せてここに公開しておく。若干教員ぽいというかポジショントークっぽいところもあるが、そもそもそういう文章なのでご容赦。<br /><br /><div>メールは、ある新聞記事を引用していた。おそらくこれかと思う。</div>
<br /><div>「「<a href="http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK201207230003.html">いじめ」ゆがんだ糾弾　ネット過信、誤情報で別人標的</a>」（朝日新聞2012年7月23日）</div>
<br /><div>デジタルでは一部しか公開されていないが、紙面では、このあと、「どんな人がどんな思いでネット情報を見ているのか。「いじめに抗議しよう」という掲示板の呼び掛けに応じ、自殺した生徒が通っていた学校前に来た人達に聞いてみた」と、抗議している人たちにインタビューしていて、「「マスコミは伝えるべき情報を隠しているから」と一人が言うと周囲が一斉にうなずいた」としめくくられている。</div>
<br /><div>これを挙げたのち、メールをくれた高校生の方は、こう問いかけている。</div>
<div> </div>
<div>「この記事についてどう思われますか。</div>
<div>私はこの記事を見て、ネットは恐ろしいと思いました。</div>
<div>そしてネットというものが無かったら、こんな事は起きなかっただろうと思いました。</div>
<div>私はこの問題を解決するには、掲示板などをなくす事が必要だと思いましたが、山口先生はどう思われますか。」</div>
<div> </div>
<div>いじめそのものではなく、いじめ問題にまつわる人々の反応に注目しているのは興味深い。一応メディア関連の学部の教員でもあるわけで、メディアに関する質問には答えようと思って書いたのが以下の文章。</div>
<br /><div><hr /></div>
<br /><div>メールをいただきました駒澤大学の山口です。</div>
<div>私はいじめ問題の専門家ではありませんが、ネットでいじめに関する記事を書いたことはあるので、それをお読みになったのでしょうか。</div>
<div>「専門家」のご意見をお求めでしたら、別の方にお聞きになるのがよいと思います。</div>
<div>以上を前提としてですが、せっかくお尋ねいただきましたので、お答えいたします。</div>
<br /><div>報道等を見る限り、大津市の事件でのいじめは、かなりひどいものだったように思います。さらに、いじめを放置し、かつ自殺者が出た後も事態に向きあおうとせず責任逃れに終始するかのようにみえる学校や教育委員会の対応は、怒りをかきたてるものがあります。</div>
<br /><div>同じように考える人は、世の中にたくさんいるだろうということは容易に想像できます。中には、自身や身近な人にいじめ被害の経験があるなど、いじめ問題に対してひときわ強い思い入れを持った人もいるでしょう。中には、加害者や学校、教委の人たちに「天誅」を下してやりたい、と思う人もいるかもしれません。</div>
<br /><div>人は、頭の中で何を考えようと自由です。しかし、それをことばや行動で表現することに対しては、一定の制約があります。「殺してやりたい」と思うことは自由ですが、実際に殺人を犯せば犯罪ですし、「殺してやる」と相手に対して言うだけでも犯罪になる可能性があります。それは、自分の考えを表現したり行動に移したりする自由があると同時に、相手方にも、平穏に生きる権利があるからです。法律はそれらの権利の間の調整をはかるものです。そして、法律以外にも、「常識」や「社会通念」、あるいは「慣行」のように、人々の間の権利調整のためのさまざまなルールが社会の中にはあります。</div>
<br /><div>これらに照らして考えれば、今回の事件に関連して現在起こっている、学校や関係者への「抗議活動」の中には、脅迫などの犯罪にあたるもの、犯罪の疑いがあるものが少なからず含まれているように思われます。「自殺した生徒は守られなかったのに学校関係者は守るのか」といった反論は通用しません。正当防衛など特殊な場合を除いて権利侵害に対して、私的な報復は法律で禁じられていますし、ましてや今そうしている人たちのほとんどは無関係の他人でしょう。</div>
<br /><div>しかし、こうしたルール上の問題以上に重要なのは、こうした人々の行動こそがまさに「いじめ」であるということです。「いじめ」にはもちろんいろいろなケースがあるでしょうが、その中には「あいつ許せないから懲らしめてやる」といった、いわばある種の「正義感」に基づくものがかなりの割合で含まれています。仲間内のルールを乱したり、迷惑をかけたりしたことへの「私的制裁」というわけですが、これは、「いじめ」をした者、「いじめ」を放置した者への私的制裁と実質的に変わるところはありません。「学校や教委はあんなにひどいいじめを放置したんだからひどい目に遭って当然だ」という意見は、その意味で、いじめを擁護する意見そのものであり、死を以っていじめの被害を訴えた生徒の気持ちを踏みにじるものだと思います。</div>
<br /><div>さて、以上を前提として、ここからがご質問の本題。</div>
<br /><div>今回の事件を受けて、「ネットは恐ろしい」「ネットや掲示板がなかったらこんなことは起きなかった」というご意見についての回答です。</div>
<br /><div>「こんなこと」というのが何を指すのか文章からは必ずしもはっきりしないのですが、仮に、学校や教委に対する脅迫や個人名の暴露などのいやがらせのことを指す、と考えます。</div>
<br /><div>結論から書くと、私の意見は以下の通りです。</div>
<div>・ネットや掲示板がなくても似たようなことは起きた</div>
<div>・ネットは恐ろしいが有用なのでなくすべきではない</div>
<div>・対策はネットをなくすことではなく、よりよいやり方を工夫していくこと、人々がもっと学ぶこと</div>
<br /><div>以下、理由を書きます。</div>
<br /><div>そもそもこの件は、「ネット」が原因なのでしょうか？詳しく事情を知りませんが、少なくともこの件が社会に広く知られるに至ったのは、マスメディアが報じたからでした。ネットは、関心ある人が求める情報を探すにはいいツールですが、社会全般に情報を広める力はまだあまり強くありません。ネットは、マスメディアといっしょになって初めて大きな力を発揮します。つまりこの事件に対して社会の広い層から反発が集まったのは、ネットとマスメディア双方の力によるものでしょう。</div>
<br /><div>ネットがなかった時代にも、似たようなことはしばしば起きました。有名な事件を1つ挙げます。松本サリン事件の際の第一発見者に対する誹謗中傷です。これについてはネットに情報がたくさんありますので、調べてみてください。この時代、インターネットはまだ普及していませんでしたが、マスメディアの報道をきっかけに、この方の自宅には脅迫状や脅迫電話が押し寄せました。こうしたいわゆる「報道被害」の事例は他にもたくさんあります。</div>
<br /><div>報道されなくとも、ネットに流れなくとも、周辺の人しか知らないような場合でも、無言電話などいやがらせのような行為はよくあります。ネットがあるからこうしたことが起きるのではなく、人はもともとこうしたことをしたがる傾向を持っているのだと思います。よく「ネットの闇」などといいますが、闇はネットではなく、人の心の中にあるのです。</div>
<br /><div>もちろん、ネットの存在によって、こうしたいやがらせ行為を行いやすくなったという面はあるでしょう。では、だからネットはなくすべきでしょうか。掲示板は禁止すべきでしょうか。</div>
<br /><div>ネットはもともと、悪いことをするために発達したのではありません。人に危害を及ぼすたいていの道具はそうです。包丁は料理をするため、自動車は人やモノを運ぶために作られましたが、中にはそれを悪いことのために使う者、上手に使えずに他人に危害を加えてしまう者が現れます。では、包丁で人を刺した人がいたからといって、包丁の製造や販売、所持を禁止すべきでしょうか。自動車で誤って人をはねてしまうドライバーがいるから、自動車を禁止すべきでしょうか。</div>
<br /><div>実際にはそんなことはありません。包丁や自動車は、人に危害を加えることもありますが、人にメリットをもたらしもするからです。そしてメリットの方が大きいと考える人が多いため、禁止はされていません。一方、銃は、人が自由に持てるようにするとデメリットの方が大きいという判断から、銃刀法でその所持に許可が必要なしくみになっています。そもそも基本的に人は自由なので、他人に迷惑をかけない限り、何をすることもできます。何かを禁止するのは、それを禁止しない場合とした場合とでどちらがよいか比較した上で、後者の方がよいと判断される場合だけです。</div>
<br /><div>では、ネットやネット掲示板は、禁止した方がメリットが大きいでしょうか。私はそうは思いません。</div>
<br /><div>ネットは多くの人に有用に使われています。インターネットは、日本の全人口の約8割に普及しています。今回の事件で学校等にいやがらせをした人が何人いるかは知りませんが、どんなに多く見積もっても、せいぜい数百人から数千人といったところでしょう。ネットユーザーのほとんどの人は、こうした行為に参加してはいないのです。こうして私たちがやりとりできるのも、電子メールというネットサービスがあるからです。メールで他人を脅迫する人もいますが、だからといってメールを禁止しようという話にはなりませんよね？</div>
<br /><div>掲示板についても、基本的な考え方は同じです。掲示板は多くの人に利用されるサービスであり、一部のユーザーが不適切な使い方をしたからといって、即禁止すべきという議論にはなりません。ただ、悪用されるケースがあったときに、そのユーザーに対してペナルティを与えることが難しい状況があるとよくないという意味で、今広く使われている掲示板等の多くは一定のルールを設けており、必要な範囲で警察等の捜査への協力も行なっているはずです。それが十分でないという議論は確かにあって、検討は行われているかと思いますが、禁止という方向性ではないでしょう。</div>
<br /><div>そもそも、ネットを禁止しても被害はなくなりません。ネットは世界につながっているので、国内で禁止されれば海外のサービスが利用されるだけの話です。掲示板を禁止しても、今回のように、有名人のブログをきっかけに炎上が起きることもあります。また、上記のように、ネットがなくても、マスメディアをきっかけに今回のようなことが起きることもあるでしょう。マスメディアが伝えなくても、近所の噂だけでも似た問題は起きます。問題はネットではなく、社会の中で起きるのです。ネットや掲示板の禁止は問題の解決にはつながりません。</div>
<br /><div>一方、ネットは、こうした問題が起きたときに、すぐに反対の意見が出てくることによって、自ら誤ちを正していく力もあります。いじめ事件が放置されたことに対して「おかしい」という声が上がったのと同じように、関係者に対する嫌がらせに対しても「おかしい」という声が上がりました。ネットで他人に暴言を吐いている人もいれば、ネットで傷ついた人のために暖かいメッセージを送る人もいます。</div>
<br /><div>人間の行動に対してルールによる制約が必要な場合は確かにありますが、不必要に制約を加えることは望ましくありません。社会は、人々の創意工夫によって発展してきました。そして創意工夫は、自由から生まれます。「あれとこれはやっていい」と決めるのと、「あれとこれはやっちゃダメだが他はいい」と決めるのとでは、人々の行動には大きな差が生まれます。</div>
<br /><div>もちろん、「有益なものは認めるが無益なものは認めない」という考え方は今の社会でもある程度通用しているわけですが、これも必ずしも正しいとは限りません。学校とちがい、現実社会には「正解」のわからないことがたくさんあります。有益無益の判断は、事後的にしかできない場合がけっこう多いのです。</div>
<br /><div>かつて「ソ連」という国があったことは知っているでしょう。ソ連はかつて、アメリカと並ぶ二大強国と考えられていました。彼らは政府が経済活動を細かく計画しコントロールする計画経済というやり方をとっていました。1950～60年代ごろは、こうした計画経済と、アメリカのような自由経済のどちらが優れているのか、学者の間でもまじめに激論が交わされていました。しかし80年代にはその差は誰の目にも明らかなものとなり、91年にソ連は崩壊してしまいました。</div>
<br /><div>現在の目でふりかえると50年代の議論はばかばかしくも見えますが、当時は本当にわからなかったのです。自由な行動を阻害すれば、その分だけ発展が遅れます。そしてその遅れが、人々を困窮に陥れるのです。弱者への思いやりも、裏打ちする発展があってこそです。つまり、自由そのものに価値があるのです。</div>
<br /><div>インターネットもそうです。インターネットは比較的新しい存在であるため、今当たり前の存在となっているもののほとんどは、ごく最近始まったものです。たとえば、携帯電話でメールをやりとりする習慣は、99年のi-modeサービス開始以前には存在しませんでした。ネットで動画を見る習慣も、2005年のYouTubeサービス開始時点では、今のように一般的になると考えた人はほんの少数だったはずです。将来は、わからないものです。だからこそ、不必要な制約を受けないことが重要なのです。</div>
<br /><div>もちろん、さまざまな変化に合わせた新しいルール作りは必要です。その意味で、現在のルールは、法律にせよ慣習にせよ、必ずしもネットを前提とした実態についていっているとはいえません。自動車が発明された当時、自動車の存在を前提とした交通法規はありませんでした。それらは自動車が普及し、問題が多数発生した後に作られたのです。同じように、ネットが普及した現在、ネットが普及する以前のルールでは対処できない部分があるのは当然でしょう。</div>
<br /><div>今、関係者ががんばって、より時代に合ったルール作りをすすめようとしています。そしてそれは、「ネット禁止」「掲示板禁止」といった乱暴なものではなく、もっときめ細かく、自由と保護とのバランスに配慮したものをめざしているはずです。もちろんそれが「正解」である保証はありませんし、仮に正解であったとしても、永遠に正解であり続けることはないでしょう。検証しながら、少しずつ直してよりよいものにしていく、そうした継続的な努力が必要なのです。</div>
<br /><div>同時に、社会の中の私達自身が、新しい現実を知り、向き合っていく必要があります。その意味で特に重要なのが、学校における教育でしょう。ネットの適切な使い方を学び、情報社会のいいところを使い、悪いところを避けていける能力が求められています。聞くところでは、小中高における情報教育はかなりお寒い状況だそうで、実際私も日々大学生に接していてそう思います。残念ながら今のところ、そうした教育の不足は、自分で補わなければならない状況のようです。</div>
<br /><div>ぜひ、ネットが社会の中でどんな役割を果たしているか、私たちがそれをどう使っていったらいいか、そのためにどんなルールが必要かなど、いろいろ調べて勉強してください。この問題にも「正解」はありません。だからこそ、とことん考え、どんどん議論していく必要があります。そのためにもネットは有効に使えますね。いい使い方が増えれば、ネットは全体としてより有益なものとなります。そしてそうなるかどうかを決めるのは、私たち自身です。</div>
<br /><div>いい自由研究になることを期待しています。</div>
</div></p>]]>
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                <dc:creator><![CDATA[山口　浩]]></dc:creator>
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