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yamatochanさん のコメント

朝鮮人は自大主義だから、日本に負けたとなったから清国属国旗を掲げて、日本を貶めだしたという話



No.6
37ヶ月前
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その1.すずさんの正体とは? 2016年キネマ旬報ベストテン映画をはじめ様々な映画賞でも評価された アニメ映画 「この世界の片隅に」 。 戦中・戦後の広島の呉を舞台に、戦争や人間関係に翻弄されながらも、必死に生きていく主人公「すず」の姿に多くの人が感動したようだ。 この作品の良い所は色々あるが 私が最も驚き凄いと思ったのが、 観た人の多くが感想で 「今も昔も変わらない」 と語っていた所だ。 今までこうした第二次大戦を扱った作品で 「今も昔も変わらない」なんていう感想が出るは 初めてではないだろうか? 同様に戦争の被災者を扱ったアニメ作品として「はだしのゲン」や「火垂たるの墓」といった作品があるがこの二つの作品を 観た人の多くが「戦争悲惨だ」「昔は大変だった」という感想をよく耳にした。 しかし本作の「この世界の片隅に」では 「今も昔も変わらない」 という言葉が出たのはなぜだろう?   それはこの作品独特の作り方や設定に理由があるように思うのだ。 よく言われるのが徹底して描かれた風景の描写、漫画版の風合いや雰囲気を、 見事に再現しているように見える。        (リアルな背景)        (溝の幅を計る片淵監督らスタッフ※左の場所ではないと思う) 次にこれもよく言われるが、描かれた人々の表情や仕草だ、戦火に翻弄されるだけでなく、 普段の生活の姿を自然に描く事により戦争下で生きる人々をより、実感できたのでは ないだろうか? そしてもっとも、大きいと感じたのが現代人の私たちのと戦時中の呉との 橋渡しとなったのが、主人公「すずさん」の現代的な気質ではないだろうか? どこかおっちょこちょいで人に気を使い、 はにかみ反省する「すずさん」の姿に自分を重ね 共感を感じた人は多いはずだ。 現在は核家族化が進み嫁ぎ先の家族や親族との関係に悩む事は昔と比べ減ったであろうが、 友人関係や職場での人間関係に悩む人は変わらず多いだろう。  さらに最近ではラインやSNSなどで、いつでも他人との繋がりを感じる分、むしろ昔より他人を感じ窮屈さを感じる人もいるのかもしれない。 嫁ぎ先の呉で、息苦しさを感じながらも 自身の取り巻く様々な風景や物 などを スケッチし 絵にする事で現実と 向き合おうとする「 すずさん」の姿は、 現代のSNSや インスタグラムなどを使い、 自身の生活風景を切り取り整理し自身や周囲を 捉えようとする、現代人の気質と重なる部分が あるように思うのだ。 (インスタグラム) 感じの良い、風景や小物などを 見せ合いっこするアプリ。 自身の生活の中にある小物を可愛らしいくみせたり、 日常の風景を詩的に抽出 しするなどする。 そして、楽しい事や嬉しい事などは大きく見せ。 辛い現実はなにか別の物に置き換えたりするなどして 心の安定を得る姿はまさに現代のSNS女子と近いものを感じる。 最近よくある顔の形を変形させ、美人にみせる アプリなどはそうした欲求を満たす代表例のように 思うのだが。しかしこういう考え方は辛らつ すぎるかもしれない。 (↑クラウドファンディングの特典で 配られたすずさんからのはがき)                                         (顔の目や輪郭を補正する自撮りアプリ、動物などの                        耳や鼻なども付けられ楽しいらしい) そうした画像を通して現実と向き合うという性質を好む現代人を 「この世界の片隅に」 ではすずに 「絵を描く事の好きな女性」 という、 設定に巧みに取り入れる事により、戦時中と現代との感覚の相違を 減らす事に成功したのは見事であり、現代大衆の気質をよく 捉えているように思うのだ。 そう すずさんの正体は「カメラ女子」だったのではないだろうか。               (これはスマホだけど) その2.「この世界の片隅に」の物語の本質 次にこの映画と言うより、この作品「この世界の片隅に」の漫画版と映画版を含めて、   なにを訴えていたのだろう?正直私にはよくわからない。私自身の理解不足せいなのだが、 だからと言って評論家や他のブロガーらの評論を読んでもイマイチ得心できない部分がある。 しかし手がかりはあると感じた。それはこの作品でも象徴的なシーン。 それは終盤、すずが玉音放送を聴いた直後に涙を流し、苦悶していると目の前に朝鮮旗が はためいており、日本が朝鮮人を抑圧していた事を思う場面だ。 この場面に原作と映画ではセリフが変わり、漫画・映画版の製作者の苦心が伺える 原作では 「この国から正義が飛び去ってゆく・(中略)・それがこの国の正体かね」 映画では 「飛び去ってゆく・・・うちらのこれまでが。(中略)じゃけえ暴力にも      屈せんとならんのかね。」 どちらのセリフも、敗れた日本とすずとの関係性をよく捉えていると思う。 だがそれが逆に変なのだと私は感じる、あまりにも達観した視点に違和感を感じるのだ。 すこし頼りなく、うっかり者のすずさんにしては、あまりに見識があり客観的でもあり理解力のあるセリフを、さらに端的に言っているように感じる。 まるで戦前戦後の歴史に精通し、時代を俯瞰しているような感じさえする。 果たして当時の人々にこうした視点や感想を持ちえたのだろうか? 参考に著名人らが玉音放送を聴いた時の、心情を語った証言を調べてみると。 作家・三島由紀夫: 蝉がうるさい!敗戦しても破滅的な何かが訪れない事に拍子抜けした 女優・扇千景  : 負けるとは思わなかった、すごい悔しい 詩人・高村光太郎: 負けて武器も無くなるから、心を強くせねばならない   学者・柳田國男 : 感情の荒ぶりが止まらない、38℃の熱が出た ※証言を省略し短くまとめ紹介しています※ もちろんどの人もすずとは境遇や状況も違うのだが、最も近い状況だと私が感じた証言が 「どくとるマンボウシリーズ」などを書いた北杜夫の体験だ。 「どくとるマンボウ青春記」より 高校1年の当時、学徒動員され工場で玉音放送を聴く事になった、すると友達が嗚咽してるのを見て敗戦を感じた、みんなが肩を落とし解散すると、朝鮮人労働者が「万歳」と 騒ぎ始めた。当時は朝鮮も日本の一部で同胞だと思っていたので喜ぶ朝鮮人労働者に 口惜しい気持ちになった。 ※証言を省略し短くまとめ紹介しています※ と語っている。北杜夫はその後、大学卒業し作家活動を通じて日本に弾圧された朝鮮人の 証言を知り、当時の「万歳」の意味が理解できたと語っている。 この時点でようやく北杜夫とすずは近い認識に至ったように思う。 このようなに、すずに終戦でのあの感想は異様なのである。だがそれゆえ あの部分にこの物語の「本質」が込められているのではないだろうか? 違和感があろうと、入れなければならない理由があったのだ。 その事はまた次に書きたいと思います。 後編 この世界の片隅に感想その3「片隅でも世界」 に続く
日々、考えた事や、勉強した事を書いていきたいです。