皆さま ごきげんよう。
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ありがとうございます。
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今年は 69回目の 終戦記念日です。
日本武道館で 開かれた  今年52回目となる 政府主催の
「全国戦没者追悼式」には、 天皇、 皇后両陛下の ご臨席のもと、 
安倍 晋三首相や 全国各地の ご遺族の方々が 計 約 6千人が、
軍人、 軍属 計 約 230万人、 一般市民 計 約 80万人の
計 310万人の 方々の ご冥福を祈るとともに 平和への
誓いを 新たにしました。

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私も 靖国神社に眠る 英霊の御霊に
手を合わせて 参拝して まいりました。
玉串を 奉納し 記帳していると ・・・

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偶然にも 元航空幕僚長 田母神 俊雄氏が お見えになり
田母神氏も 玉串を 奉納なさいました。

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尊崇の念をもって 謹んで 〝ご祈祷〟ご冥福をお祈りいたしました。
その後、 お神酒を授かりました。

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『英霊の 言乃葉』  社頭 掲示集 第十 をいただきました。

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戦火に散ってしまった 英霊の 出征時の言霊が詩集となっています。 
優秀な 日本男子が 御国のため、 家族のために
自らの命を懸ける・・・覚悟のときの 言霊が 綴られていました。 
胸が張り裂けんばかりに 涙が とめどなく 溢れました。
数詞、 抜粋いたしました お読みください。 

〝靖國の宮に帰ります
ご両親様
(前略)
大和男児に生れ、軍人となるを得、今や皇國非常の 秋に方り 邦家の為、
鴻毛にも比すべき数ならぬ この身を捧げ得るを、
宏朗は 無上の光栄と 存じて居ります。
(中略)
何れの日か 赫々たる武勲の下、
靖國の御社に 帰る事になると 存じますが、若し武勲 御気に召さば、 
忠孝の 児の一掬の香を 手向けて頂きますれば、 
私には 此の上なき 喜びであります。
(中略)
國歌 多事多端の秋、偸安も 許さざる 今日に於て、
御両親様の 御辛苦も大なるものありとは 存じますが、
宏朗の 魂魄は止りて 皇城を守り、 御両親様を 御守り
致すことでありませう。 御心 強く 思召下さい。
今となりましては 更に 申上げて 遺す言葉も御座いません。
遥かに 南溟より 御両親様の御健康を 御祈り申上げ居ります。

           陸軍中佐  岩村 宏朗 命
           昭和20年2月21日
           ニューギニア島にて戦死
           秋田県平鹿郡睦合村出身 29歳 〟

〝出陣に際して
父よ、母よ、弟よ、妹よ、そして永い間はぐくんでくれた町よ、
学校よ、さやうなら。 本当にありがたう。 こんな我ままものを、
よくもまあ ほんとうにありがたう。 僕はもっと、もっと、
いつまでも皆と 一緒に楽しく暮らしたいんだ。
愉快に勉強し 皆にうんと ご恩返しをしなければならないんだ。
春は春風が 都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ、
夏は氏神様の お祭りだ。 神楽ばやしがあふれてる。
昔はなつかしいよ。 秋になれば、 お月見だといって
あの崖下に「すすき」を取りにいったね。
あそこで、転んだのはだれだったかしら。
雪が降り出すと みんな大喜びで 外へ出て 雪合戦だ。
昔は なつかしいよなあ。 かうやって皆と 愉快に
いつまでも暮らしたい。 喧嘩したり争ったりしても
心の中では いつでも 手を握りあって ―然し
ぼくはこんなにも 幸福な家族の 一員である前に、
日本人であることを 忘れてはならないと 思ふんだ。
日本人、日本人、自分の血の中には 三千年の間、
受け継がれてきた 先祖の息吹きが脈打ってるんだ。(中略)
至尊の御命令である 日本人の血が沸く。
永遠に 栄えあれ 祖国日本。
みなさん さやうなら ― 元気で征きます。
昭和18年12月10日  
    
       海軍大尉 塚本太郎 命
       昭和20年1月21日
       中部太平洋方面にて戦死
         茨城県稲敷郡竜ヶ崎町出身 22歳 〟

〝遺書
若し子の遠く行くあらば 帰りてその面見る迄は 
出でても入りても子を憶ひ 寝ても覚めても子を念ず
己れ生あるその中は 子の身に代らんこと思ひ 
己れ死に行くその後は 子の身を守らんこと願ふ 
あゝ有難き母の思ひ 子は如何にして酬ゆべき 
あはれ地上に数知らぬ 衆生の中に唯一人
母とかしづき母と呼ぶ 貴きえにし伏し拝む 
母死に給ふそのきはに 泣きて念ずる声あらば
生きませるとき慰めの 言葉交はして微笑めよ 
母息絶ゆるそのきはに 泣きておろがむ手のあらば 
生きませるとき肩にあて 誠心こめてもみまつれ
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん
お母さん お母さん お母さん          

      陸軍歩兵中尉 立山 英夫 命
      昭和12年8月22日
      支那河北省辛荘付近にて戦死
      熊本県菊池郡隅府町出身 〟

〝遺書
進よ、 兄は戦争に行く 二度と会ふことは 出来ぬ、
進よ、 兄が戦死と聞いたなら 内の責任は 君の双肩にあり。
父母によく仕へ 立派な人間に なって呉れ。
兄の墓を建てて、呉れ、 兄が最後の願ひだ。
君は生活に苦しむといふ事が 無いと思ふが
立派に暮らして 呉れ。 何事も 打勝つと言ふ事だ。 
父母を頼む。 これから 社会へ立つのだ。 
一歩 一歩 進み行けよ。

妹 富美子へ
富美子よ、 君は勝気なるが故に 兄は心配をする、
女の道は 只 實直に 進のだ。 君の今の 病気に 負けてはならぬ、
恋愛に落ちるのでは無い、 今君の責任は 大である。
君故にお父さんは 痛感して居る、 何事も 父に打ち明けて相談せよ。
わからぬ父では無い。 早く病気を治して 良い家に嫁いで呉れ。
君の顔を一目見たいが会はずに 兄は征く、
君の花嫁姿は 何処かの地下で 手をたたいて喜んで 見て居る

                          陸軍歩兵伍長 福田 誠一 命
                          昭和14年3月10日
          支那江蘇省山後村付近にて戦死
          広島県安芸郡倉橋島村出身 25歳  〟   

こちらの 『英霊の 言乃葉』 は、 今後も 発刊され続けられるそうです。

今日 こうして日本が不戦国で 戦中とは比べ物にならない程に
豊かな暮らしができるのは 英霊方のお陰であることを忘れてはなりません。
これからも 英霊方の 最後の文を ご紹介したいと思います。


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では 皆さま 次号をお楽しみに。