私が最も愛する映画、書を捨てよ町へでよう
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私が最も愛する映画、書を捨てよ町へでよう

2018-11-22 21:52
    私が最も愛する映画。
    映画と私との距離が限りなく近かった映画。
    スクリーンの中と外。
    どんな事がスクリーンの中で起こっていても、いつも自分は安全な所にいる。
    感情移入出来ても、決して中の人にはなれない事に少し寂しさを感じる事がある。
    ジェット・リーになった気持ちで観て、笑ったり泣いたり怒ったりできても、私はジェット・リーにはなれない。スクリーンの中のリーが、戦いの中傷ついても、私は痛みを感じることは出来ない。


    寺山修司監督の、書を捨てよ町へ出ようは私を中の世界に連れて行ってくれた。
    小学校の図書室で,、私の指が寺山修司の本に触れた時から、ずっと彼の言葉の世界に恋をしている。
    言葉に触れる度に、迷宮譚の扉が開き、出口のない扉を今も開き続けている。


    書を捨てよ町へ出ようの冒頭に出てくる主人公の青年であるが、彼は観ている私たちを挑発してくる。
    其れまで傍観者であったはずの私たちが、いつの間にか映画の中の人と関係を持っている。
    ローラという寺山の実験短編映画があったが、其れはスクリーンの中の女に挑発され、怒った観客が女によってスクリーンの中に引きずり込まれる話だった。
    此の映画も、ローラの様に何時の間にか引きずり込まれて行くのだ。


    この青年はひとしきり自分のついていない人生と、観ている私たちを挑発し続けたかと思うと、「俺の名前は・・・」と叫び続けるがその後に続く名前は出てこない。
    私たちは最後まで、彼の口から名前を知ることは出来ない。
    では、名前のない彼は一体誰なのだろうか?
    俺の名前は・・・に続く言葉は、きっと私で、あなたの名前ではないだろうか。
    守るべきものも守れず、弱くて情けない青年・・・此れは日本人の姿、つまりは私たちの姿だったのかもしれない。

    妹がサッカー部の先輩達に犯されてもオロオロするばかりの青年。
    ボロボロな妹を只笑わす事しかできない自分の、不甲斐なさと残酷な優しさに、彼も・・・そして彼の中に自分を見た私も絶望した。
    サッカー部の先輩たちは貧弱な青年とは違って体が大きく、逞しく、欲しいものは力づくで手に入れる連中である。
    彼らは他国を表していたのかもしれない。
    コカ・コーラの瓶の中のトカゲは大きくなっても瓶を突き破って外へ出る事も出来ないという言葉が劇中でてくるが、その言葉は、まさに他国と日本の関係である。

    見世物小屋の地獄。偽物地獄。
    後ろめたさ、罪悪感、嫌悪感の中に高揚感。
    生々しさ。現実よりも更に現実味ある偽物たち。

    光と影。美と醜。正と悪。相反するものは互いがないと成り立たない。
    あなたと、私。
    自分と他者。

    虚構地獄の中に隠されたもの。
    本当より本当らしいウソ。
    ウソだけは人間によってのみ作り出される。
    本当よりも人間的。
    ウソをウソだと思わせない方法は、たった一つだけ真実を紛れ込ますこと。
    だから虚構の中に真実や真意が見え隠れする。
    ウソの中に隠れた真実を、目をそらさずに観ていると、葛藤がうまれる。
    丁度私がラース・フォン・トリア―のイディオッツを観て、自分の価値観や道徳心、正義感が揺らいで自身と対峙する羽目になった時の様に。
    イディオッツ(愚者)とは誰の事か?多分私の事だ。

    書を捨てよの、平和ボケしたヤク中の若者たちは、楽な所に逃げて平和な振りをして汚いものを見ようとしない自分にそっくりだし、田園に死すの空気を入れたがってる見世物小屋の空気女は男にだらしがなくて、入れても入れてもいつも空虚を感じてるあなたにそっくりだ。

    認めたくない自分自身の姿をスクリーンの中で観た時、傍観者でも目撃者でもなく、当事者になっている。

    ラスト、役者は演じている役から自分へと戻る。
    その時初めて私は、自身の今座ってる場所へと戻っていくのである。
    誰しもが、演じている。
    いくつもの顔を持っている。
    ならば、本当の自分とはいったい何処にあるのか?
    映画を観ている時、感じたあの感情ははたして誰のものなのか?

    何処まで行ってもついてくる自分と他人。
    私はあなたかもしれないし、あなたは嘗ての私だったかもしれない。

    映画が終わり、灯りがつけば、スクリーンは只の白い物体に過ぎない。眺めていたって、なにも起こらない。
    けれど、私たちの物語は続いていくのである。
    映画を観終わった後もずっと。その時々を時には演じながら。
    始りがあって終わりがある映画は人間の人生と同じではあるが、人生は映画の様に何時までも同じ物語ではないし、中の人みたく永遠に生き続けていくことは出来ない。
    永遠に存在し続けられないのが人である。
    自分自身の物語を演じる為に、書や映画をほっぽり出して町に出ることも大切なのである。
    そういったことをこの映画は私に教えてくれた気がする。
    私は映画の事は分からない。技術的な事も細かい事も。
    只、感じた事が全て。
    こういった映画に巡り合ったからこそ、今も単純に映画が好きで観ている。




























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