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むか~しかいた作文(雑談きいた人向け)
古田敦也氏が“セ・リーグ3月25日開幕”に猛反対「本気ですか?」。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1538425&media_id=84
最終的には開幕は延期するしかないような気はする。
だけどね・・・。
ダルビッシュの「野球どころじゃないだろう」発言を聞いてから、
どうも気持ちがモヤモヤしてならない。
その理由についてつらつら書き連ねてみる。
そもそも選手は延期している間、
野球しないで何してるつもりなの?
ダルビッシュにしても古田にしてもその辺を全く提示していない。
ボランティアとして現地入りするつもりなのかな?
きっと邪魔になるだけだと思う。
だって、まさかプロ野球選手が瓦礫の片づけするわけにもいかないでしょう?
怪我でもしたら大変だ。
それこそプロ意識皆無って話になる。
食料や支援物資でも配って回るか?
それこそ彼らがやる必要なんてまるでないわけで、
もっと現地に慣れた人がやったほうが数倍効率がいい。
他に自分ごときの脳みそで思いつけるのは、
選手自らが日本全国を巡り、ネームバリューを利用して、
寄付を集めて回るくらいか。
それとてどれくらいの効果があるものか・・・。
社会人はそれぞれ自らが決定した役割を持ってる。
漁師さんに工事現場で重機に乗れといっても言っても無理なのだ。
だからこそ皆その役割に誇りを持つべきだと思うし、
それに付随する責任を果たすべきだ。
プロ野球選手の役割って何ですか?
野球やることでしょう。
常人では目で追うことすら覚束ない速球、変化球を投げ、
超人的な動体視力と身体能力をもってそれを打ち返し、
研ぎ澄まされたテクニックと野生の勘で捕球する。
その一連のプレーを魅せつけることでしょう。
それは選ばれた精鋭であるプロ野球選手だけの特権であることに、
誇りを持っていただきたい。
最初にも書いたけど、予定通りの開幕は厳しいと思う。
ただプロ野球選手自身がそれを言ってはいけないと思うんだ。
自分の仕事に自信と誇りを持っているならば、
やりたい、プレーしたいというべきだ。
自分たちのプレーは震災の衝撃を吹き飛ばすだけの魅力があり、
今の状況下においても行う価値があるものだというべきだ。
それを許す許さないは、周囲が判断することであって、
謙譲の美徳を表現しているつもりかもしれないが、
今はそんな場合じゃないなんて、自分で言っててどうする?
「本気ですか?」と古田は言うけれど、
こっちこそ問いたい、
本気で自分たちのプロ野球はその程度だと思っているのか、と。
開幕延期を主張する選手の中には、
こんな状況で野球をする気分にはなれないという主張をする者もいる。
まさにもっての外である。
今この時もそれこそ必死になって、
協力し合い生き抜こうと努力している人達がいる。
被曝の恐怖に耐えながらも暴走した原子炉と挌闘している人達がいる。
この人たちを支えるものは何か?
家を失い家族を失いながらも、
泥にまみれながら流木を道から除去する人々を見ろ。
土に埋もれた死体を黙々と掘り出し続ける自衛隊の姿を想像しろ。
誰も気分がよくてやってるのではない。
それが自分の役割だからだ。
自分でやらなきゃ誰がやるのだと、本気で思っているからだ。
いや、プロ野球が開幕されなくても、
その関係者以外は特段困ることはない、と主張する向きもある。
しかし逆に言えば関係者は本当に困るはずだ。
選手は年棒が保証されるかもしれないが、
球場のガードマンはどうなる?
各地の宿泊施設は?
グッズ制作の下請けさんは?
そういう人たちの生活もプロ野球選手の双肩にはかかっている。
そこまで考えるのは行き過ぎか?
こんな時に球遊びなんて不謹慎?
災害や騒乱が起こっているときには、
なんでもかんでも不謹慎だとか言いだすアホがいる。
そんな程度の低い人間は放っておけばいい。
日本人には酷な話かもしれないが、
もっと傲慢になってもいいじゃないか。
プロ野球選手よ。
自分たちが最も輝ける舞台を、自ら放棄するのだけは止めてほしい。
もっと自己主張してほしい。
俺たちのプレーを観てくれ!そう叫ぶだけの気概を見せてくれ。
何度も言うが、安心して良い、きっと開幕は延期だ。
世の中は「そういう風」にできているのだ。
長々と書いてきたが、
とにかくあまり小さくまとまったようなことばかり言うなってことだ。
元気出して行こうぜってことだ。
大体現役選手の誰一人として声高らかに開幕賛成!
って声を上げないのは異常だ。
俺が知らんだけかもしれんが・・・。
プロってのは魅せるのが仕事だろう?
「俺は試合をしたくてたまらん!俺のプレーを観てほしい!」
それくらい言える選手はいないのかね?
ちっと顰蹙は買うかもしれんが、
それくらいのほうが
「おっ!?こいつなかなかのもんだな・・・」
って思わせるんじゃないのか?
駄目って言われたらスンマセンって言えばいいんだよ。
変に格好つけたお利口さんより、
そういう選手が俺は好きだし、
プロって感じがする。
なかなか会社組織とか実社会ではそうはいかんからこそ、
そういうものを感じさせてほしい。
プロ野球という特殊な世界、
そういうのも一つの「役割」だと思うんだけどね・・・。 -
詰め込み教育~入力と出力~
さて、どろの教育講座(笑)の第二回です。
前回は教育というやや漠然としたテーマに関して述べてみました。
今回からは、その中でも「学校教育」について焦点を当てつつ語ってみます。
その前にひとつ、前回漏らしてしまっていたことを述べておきます。
日本には「教育基本法」(http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H18/H18HO120.html)
というものがあることは、誰しもが知っていますね。
全ての日本における公教育については、この法律に基づいて行われなければなりません。
公教育とは、国や地方公共団体や学校法人が行う教育として考えて、ほぼ間違いはありません。
私は教育を学校教育、家庭教育、社会教育と3つの柱に分けましたが、教育基本法にもこの文言は登場します。
ただし、これらの文言は公教育とその他との関係性を定めているに過ぎません。
私の3つの分類と教育基本法の文言は同義ではないことに注意しておいていただきたい、ここではそれだけ申しておきます。
教育基本法における「教育の目的」と「学校教育」の定義については、必要であれば皆さん自身で調べてみて下さればと思います。へえ~って感じですよ?笑
さて、詰め込み教育に関する私の持論を語る前に、私の考える学校教育とは何かについて。
学校教育とは学問に励み知識や技能を身につけさせることです。
もちろん学校において学ぶことは学問だけに限りません。
人と接し人間関係を構築する術や社会に溶け込む知恵などについて実践を通して学ぶといった重要な側面もありますが、それはやはり第一義的なものではないと思います。
それらは家庭教育や社会教育が、主な担い手になるべきであります。
なぜならば、率直に言って公教育の場においてそこまで要求するのは困難であるからです。生徒や児童全員に対して平等にそれらを授けるためには、それこそどれだけの人的、時間的、経済的コストがかかるのか、想像するだけでもわかると思います。
したがって必然的に学校とは、学問に励むための機関として、(ある程度に)特化した性質を持たざるを得ません。
それを通じて様々な経験をして、学んでいけばいいのです。
ならば学問に励むとはどういうことでしょうか?
それは第一段階としては知識を得ることです。
第二段階は知識を使えるようにすることです。
最終的には、そこから新たなものを生みだすことです。
この3段階を登っていくことが学問です。
知識を得ることが授業であるとすれば、それを使えるようにする練習が試験です。そして知識を駆使できるようになり、何かを生みだしていくこととは、多くの人間にとっては生活をすること、つまり社会の中で生きていくことであります。
新たな学術的な発見や発明をすることにつなげていけるような、そのような才能の持ち主は本当に一握りのごく少数ですよね。(まあ、それとて社会の中で生きていく様式のひとつに他ならないのですが)「詰め込み教育」とは、第一段階から第二段階の途中までを重視した教育のことです。
その対照概念として生まれたのが、第二段階から第三段階を重視した教育、つまり「ゆとり教育」です。
詰め込み教育に関する一般的なイメージですが、
機械的な暗記により知識量を増やす、試験成績が重要視される・・・
まさにその通りです。
それが学習の基本そのものに他ならないのですから。
そろそろ「詰め込み教育」に対する私の賛否についてはっきりと表明しておきます。
私は「詰め込み教育」をもっと推し進めるべきだと思っています。
なぜならば、先ほどの3つの段階を踏まねば学問の成就がならない以上、一足二足飛びに最終段階に到達することは不可能であるからです。
これを少し言い換えると、入力と出力の関係に喩えると分かりやすいと思います。
パソコンでもそうですが、入力したデータしか解析できないし呼出すことは出来ません。あまりにも当たり前のことを言うなと怒られるかもしれませんが、こんな根本的なところで勘違いがあるからこそ、詰め込みだのゆとりだのという議論が生じるのですよ。
学問である以上、知識を仕入れる作業は不可欠であり、それ抜きでは学問の習得はあり得ません。
そういう意味では「詰め込み教育」も「ゆとり教育」も根源的に詰め込みなのです。したがって、学校教育が、学問・勉学という方向性においてある程度特化し機能せざるを得ないことは必然である以上、そこでは知識の詰め込みは必要不可欠である。ここまでは理解していただけと考えて、次になぜゆとり教育が生まれたかについて考えてみます。
先ほど、詰め込み教育は機械的暗記により知識量を増やし、試験成績が重視されると述べました。これは学問において避けることが出来ないことではありますが、人間の資質や環境が一定でない以上、どうしてもその習熟度においては差が生じます。
そして、その差によって優等生と落ちこぼれが生まれます。つまり、学校教育についていけなくなる子供たちが出てきました。
また大学受験を頂点とする受験戦争のなかで夢破れ、または道半ばで息切れしてしまうものも出てきました。
そして精神的に荒んで非行に走るものや、いじめ問題などが発生してしまいました。(ただし、これら学校で起きる問題全てを詰め込み教育に押し付けるのは乱暴極まりないと思いますが・・・。)酷な言い方かもしれませんがこれはもうどの世界においても同じでして、学校教育の場においてだけではありません。人間関係においても粗暴であったり逆に口下手であったり、また空気が読めなかったりするものは、いつしか孤立していきます。仕事でもそうです。出世コースから外れたりすると寂しいもんだったりしますね。
いずれにせよそうしたことから子供たちを極力守ろうとした、それがゆとり教育の始まりです。
ただ、このゆとり教育という制度を作った側とそれを受ける側(受けさせる側、つまり保護者)の側とでは、認識に差があったのではないかと私は考えています。
まず、ゆとり教育制度を作る側とは官僚です。その他政治家や有識者等の意見も取り入れられたに違いありませんが、基本的には文部科学省の官僚であると考えれば間違いありません。
彼らの仕事は学校教育行政を司り、その目的を国家単位で成就させることです。
彼らは「ある意味で圧倒的に優秀」ですので、学習のあるべき姿も熟知していましたし、学校教育にかけられる社会的コストを増やせる限界と公教育における学校というシステムの能力の限界も知り尽くしていました。
それでいて、自らの失敗を強く恐れます。学校教育に対して懐疑の目が向けられたとき、そのやり玉に挙げられた部分を単純に切り取ってしまうことを考えてしまいました。
「知識の暗記が問題ならば、その時間を減らせばいいじゃあないか。」
「競争が嫌なら、試験の回数を減らせばいいじゃあないか。」
「学校に拘束されるのが嫌なら、授業時間を減らせばいいじゃあないか。」
この削るという作業はそれほど難しい話ではありません。
しかしそれでは、学問の習熟は覚束なくなるのは誰が考えても必然です。そこで「優秀な彼ら」は一種の詭弁を弄します。
学問とは、第一段階としては知識を得ること、第二段階は知識を使えるようにすること、最終的にはそこから新たなものを生みだすことであり、多くの人間にとって新たなものを生み出すとは修学したものを活かして生活することと先ほど述べました。
詰め込み教育はやめて、きちんと社会人として生活していくため自由な発想力と想像力を養うことを目的とした教育をこれからは取り入れていきましょう。
これこそ官僚が掲げた大いなる詭弁です。優秀な彼らは学問において入力を逃れて出力に至ることなどありえないと知っていながら(うすうす気づいていながら)も、このようなまやかしによって教育制度を変革しました
少し文部官僚に対して偏見があるのではないかと思われるかもしれませんが、私は経緯と結果から判断してこのように判断せざるを得ないのです。
ゆとり教育が始まったからといって、受験戦争は終結しましたか?公務員試験から教養試験がなくなり人物重視の採用になりましたか?何も変わらなかったではありませんか。
それが答えでしょう。もちろん物差しとしてその利便性を重視するしかなかったという側面もあるでしょうけれども、それにしても中央省庁は今も「詰め込み教育」のエリートたちで覆い尽くされているのですよ。一方、教育を受ける側はゆとり教育をどう認識していたでしょうか?
結論から言えば、この詭弁にすっかり騙されてしまっていましたね。今頃になってそれに気づいたようですが、後の祭りです。
それもしょうがないのですよ。日本は高度経済成長を経て、狂乱のバブルに差し掛かりつつあった時代、子供の親たちは少しでも良い生活を家族にさせてやろうと必死でした。
そういった中では家庭教育がおろそかになってしまうこともあったに違いないのです。そして価値観の多様化に押しつぶされそうになりながら、一所懸命子供を育ててきたのですよ。
その時に先ほどの詭弁は「効いた」と思います。ゆとり教育の掲げる総合的な教育の充実ってやつは、本来家庭において第一義的に行われるべきものです。それを公教育が担ってくれるというニュアンスはとてもとても魅力的に映ったに違いありません。でも悲しいかな、そんなことは不可能だったのであります。さて、そろそろまとめに入っていきましょう。
ゆとり教育は近年見直されました。ゆとり教育とは一種の社会実験的な要素もあったと考えています。失敗したときの被害の甚大さを考えれば、もちろん許されざる蛮行であるのは間違いありませんが・・・。
しかし、本当にこの実験は大失敗だったのでしょうか?
これを考えて今回のテーマの結びにします。
もちろん、この答えはまだ完全には出ていません。なぜならゆとり世代に当たる世代が社会の中枢に座るのは、もう少し後ですからね。
ただ事実としてあるのは、学校教育というものが学問を習熟することに特化せざるを得ないことです。
逆に言えば、そもそも学校が詰め込みを目論もうとゆとりを重視しようと、基本的な目的と到着地点はそんなに差がないということです。もっともっと大切な教育が沢山あるのです。
そのサポートがありさえすれば、何も問題はないはずなのです。
それは家庭の意識の問題かもしれません。
知識を吸収することが苦手な子供は何時の時代にもいますよ。そのサポートを行っていますか?そちらのほうが問題なのですよ。よい大学に出ていなくても社会で成功する人間はたくさんいます。広い視野を持つように心がけていますか?
自由な発想力と想像力を培うのに遅すぎるなんてことはありません。社会教育で十分カバー可能なんですよ。
でも時々「ゆとり世代は使えねえ」なんて言葉を聞く一方で、「東大出てる奴は使えねえ」なんてのも聞きますね。
もうどっちなんだよ?!って思いませんか?もう、こっからは皆さんの頭の中で考えてみてくださいよ。
私の詰め込み教育に関する「私見」はたっぷり述べました。笑
誰かきちんと読んでくれるんですかね?笑
次回は「学歴社会」について語ってみたいと思います。
因みに今回はこれ書くのにすごい時間かかりました。
実際この倍くらいの文章を書いていたんですが、実際かなり削りました。
その割に長いかもしれませんが、短く話すのは苦手なんですよ・・・。
きっとアタマくそわるいんだと思います!!
まあ、次回はサラッとした仕上がりにしたい・・・けど無理だろうなあ。笑
今週中には書き上げたいと思います。
それでは、また。
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教育について語る ◇第一回 教育とは
最近、ある常連のリスナーさんから教育に関しての質問というか、議論というか、話題提供をされることが多く、教育について語ってみたくなったので、かなり久々にブログ更新です。
但し、思い付いたことを徒然なるままに語るので、散文的になります、ご容赦を。
まあ、いつものことですね。
教育という言葉
教育とは、辞書的な意味では「ある人間を望ましい状態にさせるために、こころとからだの両面に、意図的に働きかけることである。教育を受ける人の知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、その人が持つ能力を引き出そうとすることである」(wiki教育より)となっています。
うむ、なるほど・・・とも思いますが、正直いってあまりピンときません。
これはあくまでも辞書的な概念ですので、もっと具体的に語っていきます。
教育ってなに?と問われたときに、皆さんの脳裏にはなにが浮かびますか?
① 教室で授業を受けている姿。
② 家庭で悪戯をした子供が親に叱られている姿。
③ 公園で物を壊した子供が近所のおっさんに拳骨される姿。
まあ、色々と思い浮かぶと思います。
さて、まずは教育をかなり大雑把に分類してみるところからはじめます。
1つ目は、学校教育です。
一般的に教育という言葉を使う場合、これを指すことが多いように思われます。先ほどの①にあたるものですね。塾や予備校も、基本的にはこの学校教育を補助するものです。(勿論例外も存在しますが・・・)2つ目は、家庭教育です。
これは多くの場合に躾とかそういう言葉で言い換えられることが多いですね。これは②にあたります。
3つ目は、社会教育です。
社会の一員として社会に適合し、そのなかで自身の役割を果たすために必要な事柄を教えられることです。③がこれにあたりますね。成人式や、新社会人が受ける新人研修、あるいは警察が未成年者を補導することもこの社会教育のひとつと言えます。
もっともっと細分化することも可能でありますが、あまり意味がないのでこの3つの分類をもとに話を進めます。
これら教育の目的とするところを、wikiに従い考えてみます。
Wikiではこう書かれています、「人間を望ましい状態にさせる」こと。それでは誰(何)にとって「望ましい状態」にするのが目的なのでしょうか?
・・・うむ、哲学的な話になってきましたね・・・簡単なことを難しく述べようとする癖が私にはあるような気が時々するのですが(笑)それはなるべく誤解の無いように自分の意見を正確に伝えるために敢えてそうしているところであり、決して難しい話をして相手を煙に巻き困惑させ読む気を失せさせるためではないことをご理解いただきますようお願いします。
閑話休題。
「教育」とは「社会」にとって「ある人間を望ましい状態にする」ことが目的であると、私は考えます。
また望ましい状態とは、人によって様々な捉え方があると思いますが、端的にいえば社会に利益と発展をもたらし、社会の秩序を乱さない状態であります。
※先ほどから時々社会という言葉を使っています。この社会という言葉は非常に厄介な言葉で、「群衆」や「世間」や「空気」といった言葉と対比されたり混同されたりします。難しく考えたらキリがないややこしい概念であるので、今回のブログにおいての「社会」という言葉は深く考えず直観的に受け取ってもらいたい、私の方は読者の方々の感覚が私に似通っていると都合よく考えさせてもらって話を進めます。いつか社会と世間についても語ってみたいなあ・・・。
社会に利益と発展をもたらすためには・・・
社会の秩序を乱さないためには・・・
日本において「教育」は国民の三大義務のひとつに数えられるほどに重要視され、膨大な社会的コストが割かれています。
それもこれも全て、この2つの至上命題のもとにあるといっても過言ではないと、私は信じます。
教育は ①学校教育 ②家庭教育 ③社会教育に分けられると述べました。いずれも全てがこれらの命題に帰結する以上、これらは相互に複雑に繋がっており、部分的には重なりあっています。
ここから先は、主に「学校教育」について語っていきたいと思います。ここまでの文章は言わば、前提条件の整理に過ぎません。以降、私が教育を語る際には、これらを念頭に於きつつ聞いていただければ幸いです。
さて、長くなったので今日のところは一先ずここまで!
ご質問やご意見がございましたら、コメントの方へお願いします。
続きは近日中に載せたいと思いますが、一応予告というかこれからの私の論の流れを事前にお知らせしておきます。
次回は「詰め込み教育~入力と出力~」
次々回は「学歴社会とは~学歴はモノサシとして優秀~」
次々次回は「学校教育~体罰の必要性~」
とりあえず、こんな感じでいきたいな、と・・・まあ予定は変更される可能性もありますが。笑
誰か読んでくれると・・・嬉しいなあ・・・。
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