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天龍源一郎が生きた時代/安西伸一×小佐野景浩〜『週プロ』と『ゴング』の天龍番対談〜
2015-03-18 20:26110pt元『週刊ゴング』編集長・小佐野景浩と、元『週刊プロレス』記者・安西伸一。80年代末に勃発した天龍革命当時、天龍源一郎の担当記者だった2人である。つい先日、その天龍が年内での引退を表明。ひとつの時代が終焉を迎えるにあたり、“ミスタープロレス”が生きた時代を『ゴング』と『週プロ』のそれぞれの立ち位置から振り返っていただいた。18000字にも及ぶロング対談!
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http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar740791Part7〜12までhttp://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar740792――今日は『週刊ゴング』と『週刊プロレス』の“天龍番”だったおふたりに、先日引退表明をされた天龍源一郎が生きた時代を語っていただきたいと思います。
小佐野 ……安西くんって“天龍番”だったの?
――あ、そういう認識はない(笑)。
安西 そもそもボクが天龍番か否かという話から始めると、当時の『週プロ』編集部には団体担当とか明確なものはなかったんですよ。みんなでサポートしあっていて、天龍革命後の全日本の場合は、ビッグマッチのメインの試合担当は(ターザン)山本さん、もしくはジャンボ鶴田がらみの試合は市瀬(英俊)くんで、天龍革命後の天龍さんがらみの試合はボクが書くという分担だったんです。その頃は大会数もそんなになかったから、みんなで取材してたんだよね。
小佐野 当時は団体が多くなかったからね。
安西 ただ、宍倉(清則)さんは台割(雑誌の全体構成)を決めたり、飛行機には乗りたくないということもあったから、出張はほかの記者が行ってたんだけど。ボクは新日本やUWFが多くて、市瀬くんは全日本が多かった。
小佐野 市瀬くんって『週プロ』にいつ入ってきた? 安西くんより遅いでしょ。
安西 いや、ボクと同じ時期に編集部に出入りし始めた。ほぼ同じ。
小佐野 市瀬くんが全日本の会場に来るようになったという記憶があるのは、87年の天龍同盟結成の直前あたりかな? タイガーマスク七番勝負の天龍戦を金沢でやったじゃない。あのへんから市瀬くんを認識し始めた。すごく大人しい人だったじゃない。天龍さんを取材をするのも大変だろうから、他誌だけど取材ができるように協力してあげていたんだよ。
安西 彼はとにかく馬場派だったから、新日本の会場に行くと、さめた記事を書くことがあったよね。
小佐野 市瀬くんが来る前の『週プロ』ってさ、全日本から取材拒否されていた時期もあったよね。
安西 『週プロ』は全日本から取材拒否されていた。当時の編集長だった杉山さんから「殴られたりすればいいんだよな!な!」とか言われながら、チケットを買って取材してたんですよ。一回だけだけど、間違いなくそう言われたことがあったなあ。
小佐野 そういえば、『週プロ』で『イジメられ日記』を連載してたよね。イジメられるために永源(遥)さんにチョッカイを出したりね(笑)。
安西 そうそう(笑)。あれは俺が書いてたんじゃないけどね。「全日本のレスラーからこういう仕打ちを受けた」と編集部に報告して、それをもとにフリーライターが書いて。
小佐野 面白く読んではいたんだけど、たまに読んでいてカチンをくることがあったよ。輪島さんが全日本に入ったとき、取材の統制が凄く厳しかったのね。『週プロ』は取材拒否だから論外なんだけど、俺らも輪島さんの取材は難しかった。ようやくハワイで取材ができるように馬場さんと交渉してこぎつけたわけ。
――なんでそんなに厳しかったんですか?
小佐野 馬場さんは「ダメ」の一言。ていうのは、まだ身体もできていないから見せたくなかったんでしょう。最終的にボクと『東スポ』の若い記者がハワイに行ったんだけど、そのときに『週プロ』が「馬場さんのおメガネにかなった『ゴング』と『東スポ』の記者だけは……」と嫌味ったらしく書くんですよ。
安西 ハハハハハハ。
小佐野 取材決定に至るまでにはもの凄い努力をしてるんだよ。おメガネじゃねえんだって。
安西 凄く努力しておメガネにかなったんじゃないの?
小佐野 でも、あのニュアンスは、馬場さんに気に入られて呼ばれたというものだから。
――しかし、ハワイまで取材に行くっていい時代ですねぇ。
小佐野 やっぱりあの当時の輪島だからね。でも、現地に行っても、輪島さんがどこにいるのかさえ教えてくれないんだよ。取材の何時間しか会えない。携帯もない時代から連絡も取れない。
安西 それほど、しょっぱい身体を見せたくなかったんだろうね。
小佐野 取材で1回も裸にはならなかったから。ハワイには3日間いて会えたのも数時間。まいったなと思って、ロッキー・ジョンソンが旗揚げした団体を取材に行っちゃって(笑)。
安西 その頃の『週プロ』は取材拒否の真っ只中だったので、ボク個人は当時の馬場さんや全日本にいい印象はないんですよ。あの頃、感じたのはさ、プロレスラーって、一般社会のサラリーマンと違って豪放磊落に生きているのだとばかり思っていたらさ、全日本の選手たちは馬場さんや元子さんには何も言えなくて、小じんまりとしてるなって。
小佐野 言いたいことはなんとなくなるわかる。ボクも全日本を取材し始めた頃、それまでアスリートはタバコを吸っちゃいけないと言われていた中で、マイティ井上さんは試合前にタバコを吸っていてさ。「あ、そろそろ俺の出番か」ってタバコの火を消してリングに向かうわけ(笑)。
安西 ハハハハハハ!
小佐野 それでリングに上がったら、凄い華麗な動きをして、また控室に戻ってきたら「あー、終わった終わったあ」とタバコに火をつけるわけですよ。これがプロの世界なのかって驚きでね(笑)。
安西 全日本にはそういう雰囲気の中、選手は好き勝手なことは言えないし、新日本の選手と比べたら、インタビューをしてもつまらないだろうと思っていたわけ。ところが長州さんたちジャパンプロレスが全日本を抜けて、そのときに天龍さんが正規軍を抜けて反旗を翻すという記事が『東スポ』に出たのかな。
小佐野 天龍同盟になる前ね。
安西 その記事を見て天龍さんのことが凄く気になって、栃木県の興行に行ってみたんですよ。
小佐野 小山ゆうえんちの大会。シリーズの開幕第2戦だ。
安西 そこで天龍さんに話を聞けないかなと思ってね。それまで天龍さんとはまったく話をしたことなかったんだけど、試合前に控室に行っみたら取材に応じてくれて。「鶴田、輪島と戦いたい」と言ったんだよね。
小佐野 あの人の表現だと「ジャンボのおもりも疲れたし、輪島の背中も見飽きた」という言い方だね。
安西 ボクにはそういうニュアンスだった記憶がないんだけど、「全日本でそういうことを言っていいの!?」という驚きがあったんですよ。だって、これまでの流れを大きく変える発言でしょ。しかも一回も話をしたこともなく、取材アポも取っていないボクにそんなことを話すんだから。どう処理していいかわからなくて困ったんだよねぇ。
小佐野 なるほどね。安西くんは全日本の体質をわかってるから、フライングでこの発言を載せていいのかもわからなかったんだ(笑)。
安西 そうそう。その天龍さんの発言がフライングなのか、そうやって流れができていく第一歩なのかもわからない。そもそも突然取材した人間にそんなことを言うとは思えなかったんだよね。だから、どう解釈していいかわからなかった。
――当時は選手取材をするとき団体を通さなくていいんですか?
小佐野 控室は出入り自由だったんですよ。いまみたいに立入禁止じゃなかったから、話が聞きたい選手のところに行ってたんだよね。正式にインタビューするときは、全日本の場合は必ず広報を通さないといけないというルールが決まっていた。その抜け道としては、ホテルや電話なりで話を聞くんだけど、広報には「控室で聞いた」と言うわけ。
――控室はなぜOKなんですか?
小佐野 新聞社が自由にやってるから。
――ああ、なるほど。それだと同じマスコミとして規制はかけられないわけですね。
安西 天龍さん初取材の続きだけど、「鶴田とやりたい」以外にも面白い話が出てきてね、プロレスの本質みたいなことも話してくれたんですよ。ジャンボと自分の8センチの身長差、それがいかにプロレスをする上で大きな差になるか。そういう話を2週にわたって載せたんだけど、ボクにとってプロレスラーの取材の中では最も印象に残ってるくらいの記事になったんです。
小佐野 『ゴング』ってね、どこまで行っても新日本が主役なんですよ。全日本の唯一の切り札は天龍源一郎だった。インタビューをやれば絶対に面白いし。
安西 「こんなに面白い話ができる人がなんでいままで表に出てこなかったんだろう」って不思議に思っちゃって。それで自然と天龍さんに魅入られてしまったんだよね。それまでは市瀬くんが全日本の取材をやってたんだけど、天龍さんはボクが取材するという感じになって。ボクは馬場さんや鶴田さんには、試合後のコメント以外、ほとんど話を聞いたことない。会場に行っても天龍さんの控室にしか行ってなかったから。
小佐野 その頃の『週プロ』の記者は地方に行っても、ほかのマスコミと一緒にメシを食ったりしなかったよね?
安西 しなかった。
小佐野 それは山本さんに言われてたの?
安西 いや、ボクはそうじゃなかったけど。山本さんがそう言っていたことはあったけど、俺は別に気にしてなかったな。普通に接してれば問題ないわけだから。
小佐野 ボクはきっと山本さんが「一緒に行動するな」と命令してたと解釈してたけど。実際に「他社の人間とは口を利くなと言われた」という『週プロ』の人間がいたから。誰がそう言ってたかは忘れたけど。それなのに無理矢理に誘っても、その人がかわいそうじゃない。
――安西さんは食事に誘われたかったですか?
安西 誘われたかったよ、俺は(笑)。
小佐野 ハハハハハハ!
――20数年の時を経て告白(笑)。
安西 『ゴング』や他社と付き合わなかったのは、独自の取材をしろという山本さんの考えがあったからだと思う。でも、みんなと食事もしたかったし、酒も飲みたかったよぉ(笑)。
小佐野 村社会というわけじゃないけど、俺はレスラーも記者も仲間だという意識が強かったからね。あの頃だとボクはレスラーでもないのに、天龍さんからすれば、同じ仲間扱いだったから。たとえば折原(昌夫)がボクのことを指を差して何か言うものならば、「兄弟子に指を差すな!」と怒ってね。
安西 プロレス縦社会の一員になってるのね。
小佐野 そういう上下関係にいたんだけど。あとで困ったのはその時代のレスラーは呼び捨てなのに、あとの時代のレスラーは呼び捨てじゃない。なぜならその時代に接していないからね。いまはもちろんレスラー全員呼び捨てにはしていないけど。
安西 たとえばA社B社が赤コーナーの選手に試合後のコメントを取りに行って、C社D社が青コーナーのコメントを取って、みんなでコメントをすり合わせることも、山本さんは嫌がっていたことがあったよね。
小佐野 ボクなんかは他社との付き合いがあったけど、週刊誌と新聞は競合しないじゃない。どうやったって新聞のほうが先に載るだもん。そうすると、こっちが“週刊誌の人間”ということで知らない情報を教えてくれるわけ。
――教えても先には載せないだろうと。
小佐野 たぶん山本さんは記者仲間がナアナアで取材をやってるんじゃないかと思ってたんだろうけど、当時の取材はガチンコだよ。ボクはたしかに馬場夫妻や天龍さんと仲は良かったけど、取材は予定調和の世界じゃない。たとえば、山本さんはのちに馬場さんと仲良くなったじゃない。
安西 一転して凄く仲が良かったよね。
小佐野 シリーズのオフに馬場さんに「そろそろ天龍とハンセンがタッグを組むんじゃないですか?」と向けたんだけど、何も答えてくれなかった。「じゃあ自分が思ったとおりに書いていいですか?」と聞いたら「好きにしたらいい」と。それでハンセンと天龍さんがタッグを結成するんじゃないかと書いたら、全日本は後追いのかたちで慌てて発表するような状況になって馬場さんが怒っちゃって。キャピタル東急に呼び出されたら、なぜか馬場さんと一緒に山本さんがいて「小佐野くん、ダメだよ!こんなこと勝手に書いちゃ!!」って怒るんだよ。
――山本さんは龍艦砲結成を事前に知っていたんですね。
小佐野 知っていたんでしょう。でも、ボクは何も知らないで書いたし、馬場さんにも「思ったように書きますよ」と言ってたわけだから。そうしたら元子さんが「ごめんね。あなたに否はない」と謝ってくれて。
安西 山本さんと馬場さんって急に仲良くなったよね。
小佐野 ジャイアント馬場という人間はなかなか他人を自分の枠に入れないんです。山本さんはその枠に入りたかったはずだし、入れてくれたから馬場さんの虜になったんだなって思うけど。長州さんがジャパンプロレスを抜けたときに、キャピタル東急で山本さんが馬場さんに「俺が長州を潰してやりますよぉ!」と言っていたしね。
――長州批判は馬場さんのゴキゲン取りのところもあったんですね。
小佐野 だから長州さんが新日本に戻ったときは「『週プロ』は取材拒否だ」と言っていたんだよ。長州さんは『週プロ』のカメラマンだった石川(一雄)さんのことも「石川ぁっ!撮るんじゃねえ!!」って怒鳴り散らして。あとで長州さん、「年上の石川さんのことを呼び捨てで怒鳴りたくねえんだよ」ってボヤいてて。
安西 ボクも出張で沖縄に行ったときに、大会前の夕方、長州さんとマサ斉藤さんが会場の周りでランニングしているところに近寄ったら「来るな!こいつう!!」と怒鳴られてね。長州さんが拳を振り上げたから、殴られると思って頭を抱えたら、長州さんの拳のグーがパーになって「おまえが悪いんじゃないからな」って頭を撫でられたの(笑)。
小佐野 ハハハハハハ!
安西 数年経ったあと長州さんに「沖縄でおまえを殴りそうになったとき……」という話をされて「おぼえてらっしゃったんですか?」と驚いたら「自分で悪いことをしたと思ったことは覚えてるんだよ」って言ってたよ。
小佐野 ボクも長州さんに胸ぐらを掴まれたことがあったんだけどね(苦笑)。
安西 なんで?(笑)。
小佐野 87年春の全日本のチャンピオンカーニバル開幕戦に長州さんは「出る」と言っていたの。でも、ジャパンの事務所に籠城して出場をボイコットしたんですよ。ボクは全日本の担当だったから、ジャパンの事務所を見張ってて。「写真を撮るな!」と言われるのはわかってたから、長州さんが事務所を出てきた瞬間にバシャバシャ撮ったんですよ。そうしたら「おまえ、撮りやがったなあっ!?」って怒鳴りながら長州さんが追いかけてきてねぇ。
安西 怖いなあ(笑)。
小佐野 最初は思わず逃げたんだけど、今後も仕事で付き合っていくわけだから立ち止まったら、胸ぐらを掴まれて「おまえ、俺の性格をわかってんだろ? フィルムを出せ!」と。
安西 フィルム出したの?
小佐野 「渡しますけど、ほかの写真も入ってますから壊されるのは困ります。長州さんの写真は使いませんから」と言って。長州さんも冷静になって「使わないなら返すから。今度ちゃんと取材を受けるから、今日は帰ってくれ」と。道場に寝泊まりしていた新人時代の健介が一部始終を見ていたんだけど、「絶対に殴られると思ってました……」と言ってたよ(笑)。
安西 そんなことするのって長州さんくらいだよね。
小佐野 あと、ジャパンプロレスのときに長州さんの取材を事務所でやる予定だったんですよ。締め切りギリギリだったんだけど、そうしたら取材日の朝に『ファイト』を読んで機嫌を悪くしたみたいで、約束の時間になっても長州さんが事務所に来ないんだよ。家に電話してみたら相当怒ってるわけ。「おまえ、『ファイト』の記事を読んだか?ふざけるな!」「ボクは『ゴング』で『ファイト』の人間じゃないですよ……」「うるさい!マスコミはどこも一緒だぁ!」って(笑)。
安西 ハハハハハハ!
小佐野 締め切りもギリギリだったし、「約束してるんだから絶対に来てください!」って思わず強く言っちゃったんだよ。「マズイこと言っちゃったな……」と思ったらちゃんと来てくれて。取材が終わったあとに「おまえ、シェイクハンドするか?」って言われて。「ありがとうございます」って握手しようとしたら「バーカ、嘘だよ」って言われたけど(笑)。
――取材する側も“真剣勝負”だったんですね。
小佐野 あの当時は何をやるにしても厳しかったですよ。
安西 そうそう。
小佐野 いまは控室の出入り禁止、あの当時は自由だったけど、自由なのにいろいろと掟があって厳しかった。門馬(忠夫)さんに日プロ時代の話を聞いたら、猪木さんと馬場さんは札幌でファンクスとやってインタータッグを獲られるじゃない。猪木さんはそれが日プロの最終試合で追放されるわけだけど、門馬さんは「試合後、選手と同じホテルに泊まったけど、異変に気が付かなかった」んだって。
――クーデター失敗により猪木追放が決定していたのにその空気を感じなかったと。
小佐野 裏側に気が付かないで、ほかのレスラーと酒を飲んでいたというから(笑)。このインタビューの続きと、スターダム不穏試合の謎、北原光騎、鈴木秀樹、更級四郎、柳龍拳、新木場1stリング管理人の記事が読めるお得な記事詰め合わせはコチラです!http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar760930
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原点にして頂点!MMA映画『燃えよドラゴン』■高橋ターヤンのバトル映画地獄編
2015-03-16 10:2055pt映画ライターで北米MMA事情通の高橋ターヤンがプロレス格闘技関連の映画を紹介するコーナー。今回は格闘映画の頂点に君臨するこの映画だ!
そもそも格闘技を始めるきっかけは何だったのか?
TVで放送された格闘技中継を観たこと? エクササイズ目的で近所の格闘技ジムに入門したこと?
統計をとったこともないので何がその答えとして最上位にくるのかは知らないが、その答えの一つして間違いなく上位にランキングされるものがある。それが「『燃えよドラゴン』を観たから」という答えだ。
『燃えよドラゴン』は公開されてすでに40年以上の歳月を経ながら、いまだに多くの人々を格闘技へといざない続け、多くの格闘家がその出会いと、自分がどれかけ『燃えよドラゴン』を愛しているかを語り続ける稀有な、いやワン・アンド・オンリーな映画なのである。 -
高校球児がアメリカに渡りUFCデビューするまで/松田干城インタビュー
2015-03-16 00:0055pt現在UFCに参戦中の松田干城は、アメリカのボストンを拠点に活動しているバンダム級の日本人ファイター。アメリカでMMAを学び、試合経験を積み、UFCとの契約を果たした。日本人格闘家としては異色の経歴を持っている――。――高校のときは野球をやられていたんですよね?
松田 はい。桐蔭学園の野球部でした。
――多くのプロ野球選手を輩出した名門校野球部ですよね(笑)。高校卒業後にアメリカに渡られたわけですが、どういう目的で渡米されたんですか?
松田 スポーツ科学の勉強ですね。いわゆるスポーツを学問として学ぶというか、それはコーチングやトレーナー、生理学、あとスポーツマネジメントなんかもですね。そこの分野はアメリカのほうが日本より進んでいるという事実があるのと、日本でスポーツ科学を学ぶところは限られていたんですよ。それにアメリカの大学に進学するイコール、語学の習得にもなりますので。
――アメリカ留学の話はいつ頃から考えていたんですか?
松田 高校3年生の春ですね。野球部引退直前。自分らの代の野球部は甲子園に出たんですが、一般の学生は進路のことで忙しいんですけど、自分の場合はそこまでは野球ばっかりの生活だったこともあって、何も考えられなかったんですよね。そんなときに、たまたま友達が海外留学のパンフレットを持っていて「あ、こういう道もあるんだ」と。
――そういった方面で何か仕事をしたいという考えもあったんですか。
松田 その先のことは何も考えてなかったですね。とりあえず漠然とながら日本のスポーツ界に貢献したい、世界のトップアスリートと仕事をしたいと。オリンピックに出場する選手、メジャーリーグに挑戦する日本人選手に刺激を受けていた10代後半でしたので、科学に基づいたトレーニング効果だったりを勉強して、スポーツの役に立ったらいいなという考えだったんですけど。
――それがどうして格闘技の道に進むことになったんですか?
松田 野球部を引退して留学準備をするあいだに格闘技をやるきっかけがあったんです。自分と同じように海外留学する奴が隣のクラスにもいると聞いて、じゃあ話をしてみようと行ってみたら、そいつがイスや机を教室の隅に片付けて格闘技っぽいことをやってたんですよね。面白そうだったので「まぜてくれ」って言って。
――それはなんの格闘技だったんですか?
松田 新空手です。空手着を着てグローブを付けて。サンドバックも蹴ったことないし、誰かに教わったわけじゃなくて、友達がミットを持ってのワンツーしか練習できなかったんですけど。3ヵ月後に新空手の大会に出たんです。そのときに野球でかなわなかった夢が一瞬にして実現したんですよ。それは何かというと、ボクは野球部のレギュラーメンバーではなかったんですよね。
――甲子園に出るくらい高校ですから選手層は厚いんですよね。
松田 全寮制で1年から3年までで60〜70人くらいの部員はいました。県大会まではメンバーには入ってたんですけど、甲子園になると外されちゃいましたね。「レギュラーが怪我したら出られるのに……」とか、よろしくないことを考えちゃうような感じで(笑)。
――普通に野球はうまいんですね。
松田 いやいや、全然うまくないですよ(苦笑)。いま思えば野球は合わなかったです。で、格闘技だと申込用紙に名前を書けば試合に出られるじゃないですか。それで出たら準優勝しちゃったんですよ。
――高校球児ってとにかく毎日練習するから、出場メンバーの中では一番体力あったんじゃないですかね(笑)。
松田 体力だけはありましたよね。いま思えば「なんであそこまで練習してたんだろう?」って思うくらいやってましたから。
――野球部員やサッカー部員って運動神経がいい奴がやるし、そのうえ鍛えまくっているから高校のヤンキーより喧嘩が強いですよね(笑)。
松田 アハハハハハ。冬はシーズンじゃないから、食ってトレーニングの繰り返しでしたね。秋の新人戦で早く負けちゃうと、目的のないトレーニングを春まで延々と続けますし。一冬超えると、みんなジーンズが履けなくなっちゃいますから(笑)。
――身体のサイズが変わっちゃいますか(笑)。
松田 それで、アメリカに行ったら格闘技はもうできないもんだと思ってたんですよ。英語もろくにしゃべれないし、授業についていくのがやっとじゃないかって。そうしたら、実際はみんな自由に好きなことをやってるんですよね。必死に勉強して日本に帰るというのはアメリカに行く前の価値観で。それに英語は伝わればよくて、文法や言い回しを気にしてると「あ、コイツは面倒な奴」って相手にしてくれなくなるんですよ。むしろ言葉が正確じゃなくても、フレンドリーに接したほうがチャンスに恵まれるし、アメリカ生活をエンジョイできる。英語はただのツールでしかないということに気付いて。
――それで格闘技ジムにも通ったんですね。ジムはMMAですか?
松田 ムエタイのジムです。でも、のちにMMAのジムとして有名になるんですけど、当時はバリバリのムエタイでしたね。ジムのコーチはタイでムエタイを修行して、そこのマスターにアメリカで支部を作ることを許されたんです。本格的なタイボクシングを東海岸でやり始めた、アメリカではパイオニア的存在なんですよね。
――由緒正しきムエタイのジムなんですね。
松田 練習すると、みんな褒めてくれるんですよね。野球のときは谷底に蹴り落とされて、そこからどう這い上がってくるかなんですけど(笑)。アメリカの場合は「おまえ凄いよ!」って褒めて育ててくれるんです。このインタビューの続きと、スターダム不穏試合の謎、北原光騎、鈴木秀樹、更級四郎、安西×小佐野、柳龍拳、新木場1stリング管理人の記事が読めるお得な記事詰め合わせはコチラです! http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar760930 -
ステロイドとならぶ静かなる問題「急激な減量」対策開始!■MMA Unleashed
2015-03-12 20:4055ptOmasuki Fightの北米MMA抄訳コラム。今回は「急激な減量」について!
UFCでも試合直前の失神者続出中!ステロイドとならぶ静かなる問題「急激な減量」への対策が始まる
米国のMMAシーンではいま、ステロイドなどのパフォーマンス増強剤をめぐる動向が活発になっているが、選手の安全管理という面からもうひとつ、欠かすことができない問題に、いきすぎた減量がある。つい最近のUFCだけでも、UFC Fight Night 61(2015年2月22日)でTJウォルドバーガーが試合直前の減量中に失神、エレベーターの中で転倒し頭を打って試合をキャンセルしたほか、 UFC183(2015年1月31日)ではジミー・ヘティスが脱水症状で大会当日にバックステージで失神し試合がキャンセルになっている。UFC183ではこのほか、ケルビン・ガステラムとジョン・リネカーが減量に大きく失敗、体重オーバーで罰金を支払ったうえ、体調不十分なまま試合を行なった。また、UFC177(2014年8月30日)ではTJディラショーへの雪辱とタイトル奪回を狙っていたヘナン・バラオンが風呂場で失神、転倒し頭を打って、チャンスを棒に振ったことは印象深い。
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「プロレスラーが相手を殴って怒られるなんておかしいですよ!!」■小原道由のクレイジートーク
2015-03-11 23:2055pt元・新日本プロレスの“狂犬”小原道由が吠えまくる連載インタビュー。新日本の名うての喧嘩師だった小原さんがスターダム世IV虎vs安川惡斗を一刀両断!<小原道由関連記事>ロングインタビュー http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar719107恩師・斉藤仁先生の思い出 http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar731067小原 最近は新日本プロレス以外だと、どこの調子がいいんですか?
――大仁田(厚)さんの「大花火」シリーズですかね。どこも満員らしいですけど。
小原 へえー。それは大仁田さんの団体なんですか?
――いや、詳しいことはわからないですけど、ゼロワンが運営をやってるみたいですね。
小原 あー、ゼロワン。橋本大地がずいぶん前にやめちゃいましたよね。年末のIGFで大地の試合を見ましたけど、あれは……かわいそうですよね。
――かわいそう?
小原 本人はそうは思ってないかもしれないですけど、親父の名前で食ってるとしか思えないじゃないですか。周りも「練習をしてない」という目で見てるという話ですし。まだ若いから本人は気付いてないんでしょうけど、プロレス界の悪いところは、本人にちゃんと言ってあげる人がいないんですよね。
――そういうもんなんですか?
小原 みんな悪くは思われたくないですから。そこはハッキリと「おまえはダメだ!」と言えばいいのに。大地は練習生からスタートというわけじゃなかったこともあるんでしょうけど。
――ゼロワンで大谷(晋二郎)さんがしごいたんじゃないですかね。
小原 あの身体のしょっぱさはないですよ。あの橋本の息子だってことで、周りがチヤホヤするから本人も満足しちゃってるんでしょうね。そこで天狗の鼻をへし折る人間がいればいいんでしょうけど。
――ふと思ったんですけど、日本の“二世レスラー”ってなかなか大成しないですね。
小原 というか、親父たちがよくやらすなって思いますよね。橋本さんは亡くなったあとだからべつとしても。だいたい見ればわかるじゃないですか。センスがあるかどうかというのは。
――柴田(勝頼)選手はうまくいってますよね。親父さんはそこまでビッグネームではなかったですけど。
小原 あー、勝頼は親父を超えてるし、“二世レスラー”という肩書に頼った感じはしないですよね。勝頼は凄くよくやってましたけど……なんで総合格闘技に行ったんですかね? 絶対プロレスのほうがよかったのに。
――そこは“上井文彦マジック”なんですかね?(笑)。
小原 性格的にはトンパチだからプロレスに向いてるんですよね。勝頼は若手の頃、星野(勘太郎)さんがやってた魔界倶楽部でマスクマンやってたじゃないですか。場外乱闘のときに天山(広吉)に凄く固く入れたら、天山が怒っちゃって大変だったんですよ(笑)。
――若手の頃からそんな無茶を!(笑)。
小原 あと笑ったのは、石澤(石澤常光、ケンドーカシン)のチャンピオンシップに勝頼が挑戦したときに、最後は石澤が締め落としましたからね(笑)。
――そ、それは何があったんですかね……!?
小原 俺は現場では見てないですけど、石澤が締めて終わらせたという話ですよ。勝頼が石澤を怒らせたのかもしれないし、昔のジュニアってけっこうガンガンやってたんですよね。新日本の選手が他から上がってきた選手を潰しちゃうんで、怒ってる人は多かったですし。
――ジュニアは交流戦が多かったから意地のぶつかり合いになるんでしょうね。
小原 金本(浩二)や大谷とかホント酷かったですから。みんな怪我をさせちゃって。でも「それがどうしたの?」って話です。だってプロレスラーなんだから。リングでダンスを踊ってるわけじゃないんだから、そういうことも起きますよ。
――そこで“1・4事変”小川直也vs橋本真也のときに大暴れした小原さんに聞きたいのが、先日スターダムで行われた世IV虎vs安川惡斗のことなんです。シュートマッチだの制裁試合だの言われていますが……。このインタビューの続きと、スターダム不穏試合の謎、北原光騎、鈴木秀樹、更級四郎、安西×小佐野、柳龍拳、新木場1stリング管理人の記事が読めるお得な記事詰め合わせはコチラです! http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar760930 -
名勝負の影にルールあり!? 格闘技ルール列伝■MMAオレンジ色の手帖
2015-03-11 23:1255pt格闘技ブログ「MMA THE ORANGE」の管理人オレンジがディープなエピソードをお届けする「MMAオレンジ色の手帖」! 今回のテーマは「ルール」……先月産声をあげた新格闘技イベント「巌流島」。太極拳、少林拳、相撲、カポエイラ、アメフト、セネガル相撲など耳馴染みのないジャンルの格闘技(?)をバックボーンとした選手が大挙出場。プロレス代表のミノワマンがあさっり敗北し、下馬評を覆してキック出身のブライアン・ドゥウェスが優勝して大いに盛り上がりました。その中でもマニアの注目を集めていたのがこれまでの総合格闘技とは一線を画したユニークなルールでしょう。KO・ギブアップの他、円形の試合場から3回場外に落しても勝利するという大胆な勝敗の分け方。さらに関節技・絞め技はスタンディング状態のみ有効で、グランド状態では反則になるというから既存の格闘技とは別物と考えた方が良さそうです。また、直前で見送られたようですが、場外に水を張るなんてバラエティー番組的な意見も出るアグレッシブ具合(笑)。イベント名に「公開検証」を掲げているだけに回を追うごとにルールは変更と進化をを遂げていくに違いありません。そこで今回のMMAオレンジ色の手帖は今年のキーワードになりそうな「ルール」をフィーチャー。これまで格闘技界を賑わせてきた名物ルールやまさかの特別面白ルール、そしてそこから生まれた名勝負をプレイバックしていきたいと思います。今宵もよろしくお願いします。 -
“Uと馬場”を支えた黒衣の絵描き……更級四郎インタビュー「ボクは手助けをしていただけですよ」
2015-03-08 09:57110pt更級四郎、イラストレーター。80年代90年代からのプロレスファンには『週刊プロレス』に連載されていた「ほとんどジョーク」の選者として知られる彼だが、じつは『週プロ』のターザン山本氏らとともに、旧UWFや馬場・全日本プロレスのブレーンを務めていたという。Uの格闘プロレス、四天王プロレスへ導いたともいえる“黒衣の絵描き”に当時のプロレス界を振り返っていただいた。イラストレーター・アカツキ@buchosenさんによる昭和プロレスあるある4コマ漫画「味のプロレス」出張版付きでお届けします!
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――Dropkickでは90年代に起きた総合格闘技発祥を振りかえる企画が好評なんです。
更級 へえー。(ターザン)山本さんにも話を聞いたの?
――山本さんはちょっと前にお聞きました。
更級 ああ、そう。ボクのあとに聞いたほうがよかったのに(笑)。
――山本さんはコロコロと証言が変わりますからね(笑)。更級さんは「ブレーンバスターは相手の呼吸を合わせないとできない」など、プロレスの仕組みが初めて公に書かれた佐山サトル著作『ケーフェイ』の制作に関わったり、旧UWFのブレーンだったんですよね。
更級 ブレーンというわけじゃなくてね、ボクは佐山さんや前田さんが困ってるから手助けしただけです。誰を信用するかは選手次第なんで。佐山さんとは彼が新人の頃からの知り合い。ボクはベースボールマガジンの『月刊プロレス』で若手選手のインタビューページをイラスト付きでやってたんですよ。だから若い選手から「先生」なんて呼ばれていてね。
――当時はメディアも限られていて、若手も取材される機会はあまりなかったでしょうね。
更級 それで新日本の道場で何か催し物があったときに顔を出したんですけど、そのときにカレーをよそいに来てくれたのが角刈りの佐山さん。数年経って彼がタイガーマスクになったときに挨拶されて「ああ、あのときの!」って思いだして。「タイガーマスク人気、凄いね」って言ったら「素顔はわからないですから(笑)」って。でも、関係でいえば完全に馬場さんですよ、飛び抜けて。
――あ、馬場さんとの仲のほうが濃かったんですか。
更級 当時は夜中に馬場さんから電話があったり、キャピトル東急で食事をしたりしましたよ。馬場さんに「絵を教えてくれ」って言われたり。
――馬場さんは余生を絵を描いて過ごすのが夢でしたね。
更級 馬場さんは「ピカソの凄さや良さがわからない。なんであんな評価が高いのか」なんて疑問を抱いていて。「それを話しだすと美術史の講座になりますよ」って言ったんだけど(笑)。自分の興味があることはとことん勉強したい人でした。
――更級さんが接した“人間・馬場正平”はどのような方でしたか?
更級 馬場さんは頭を手術したこともあって、ずっと死を覚悟していた人生でしたよね。いつ病気で死ぬかわからないから。
――常に死と隣合わせの緊張感があった、と。
更級 それにあの身体で目立つじゃないですか。どうしても好奇の目で見られるから、馬場さんは人前に出るのを嫌がってました。あるとき新幹線で修学旅行の生徒と一緒だったときがあって。京都に着いたら生徒から見世物的に「アポー!アポー!」と騒がれてね。教師も一緒にヘラヘラ笑って見てたもんだから「レスラーじゃなかったら教師を殴ってた」なんて怒ってましたよ。
――そもそも更級さんは、馬場さんとはどうやって親密になられたんですか?
更級 ちょっと話が長くなるんだけど……。初代『週プロ』編集長だった杉山さんが『週刊ファイト』から山本さんを引っ張ってきたんだけど。ボクが内外タイムスで連載していた競馬エッセイの大ファンで。山本さんから「ファンです!」って言われてボクも嬉しくてね。ベーマガではボクが先輩だったし、何か企画があると山本さんに仕事を頼んだりして仲良くなって。まだ山本さんが『週プロ』の編集長になる前のことですけど。
――『週プロ』初代編集長の杉山(頴男)さんはあんまりプロレスが好きじゃなかったそうですよね。
更級 プロレスを軽蔑してました。会社から命令されてたからやっていただけで。
――その杉山さんが『月刊プロレス』を週刊化したんですよね。
更級 それは週刊化したほうが売れるっていう話が販売課から出てきたから。プロレスのことを軽蔑してたんで冷たい目で見てたけど、番記者とレスラーの癒着を出さない感じで『週刊プロレス』を作ると宣言して。そのときに杉山さんから「プロレスの戯評をやってくれ」って頼まれたんですよ。でも、そんなのは面白くないし、無理。だってプロレスはスポーツではないんだから、大真面目にそんなことはできないじゃない。それだったら『週刊朝日』の山藤章二さんの『ブラックアングル』を真似した企画のほうが反響があるんじゃないかと思ったんですよ。
――それが長期連載となった『ほとんどジョーク』なんですね。読者から、ちょっと笑えるブラックユーモアあふれるプロレスネタを募集して、更級さんがイラストにするという。
更級 山本さんたちからはうまくいかないと言われましたけどね。「プロレスファンは真面目だから笑いは受け付けない」とか。でも、そんなことないですよ。だって真剣勝負だと思って見てるファンばっかりじゃないでしょ。いろんな角度からプロレスというものを見て楽しんでるわけだから、笑いのセンスもあると思ったんですよね。
――当時はプロレスを笑うなんてことはタブーだったわけですし、プロレスにブラックユーモアを取り入れることに業界内から反発はなかったんですか。
更級 何も言われなかったですよ。プロレスラーは、相撲とかほかのスポーツをやめてきた人たち多いから、自分たちを味方してくれる人に文句は言わないんですよ。でも、当時の『週刊プロレス』と全日って関係がよくなかったんです。その頃、全日本を見に行ってたのはベースボールマガジンでボクくらいで。山本さんは新日本とベッタリになっちゃってて。山本さんは猪木さん大好きでしたし。
――80年代の『週プロ』は全日本から取材拒否されていた時期もありましたね。
更級 あれは長州さんたちが全日本をやめた直後くらいかなあ。元子さんが『週プロ』との関係をなんとか修復しようとしてたんですよ。山本さんも猪木さんは好きだけど、当時の新日本は猪木さんの存在は薄くなりかけてたでしょ。
――猪木さんは選挙出馬前夜。新日本は“脱・猪木”化が進められていきましたね。
更級 新日本の連中も山本さんに対して「アイツはお金をもらいに来てるだけ」っていうことを言っていて。ご存じだと思うけど、当時のプロレスの記者はみんなそうですから。山本さんもお金は大好きだし(笑)。
――ハハハハハハ! マスコミが興行や会見に取材に行くと、当時はお車代が出るのがあたりまえだったんですよね。
更級 新日本内の山本さんの評判もよくない。そこで関係がよろしくなかった山本さんと全日本が急接近するんだけど、山本さんは馬場さんと会う際に俺のことを誘うんですよ。
――それはどういう理由があったんですか?
更級 馬場さんからすれば、新日本を追い抜くためのアイデアがほしかったんだと思うんだよね。俺はUWFでもいろいろとやっていたでしょ。
――あー、山本さんはそこで旧UWFで“実績”のある更級さんを同伴させたわけですね。
更級 俺は山本さんに「全日本を応援できて新日本を焦らせようと思える編集者を呼んで」って言ったの。「全日本がお車代1万円で新日本は2万円」とか口にする人はダメだよって。そういう感覚では面白いことはできないから。そうしたら市瀬くん(英俊、当時『週刊プロレス』記者)が来た。そこから山本さんと市瀬くんが全日本を応援していくようになったんですよね。市瀬くんが全日本のマッチメイクをするようになったりして。
――更級さんも馬場さんと親密になっていったんですね。
更級 「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させていただきます」の全日本プロレスのポスターは俺と山本さんの仕事ですよ。山本さんがコピーを考えてね。
――全日本のイメージ戦略も担っていたんですねぇ。
更級 でも、山本さんの立場は本を売ってナンボだから。ボクはプロレス業界の人間ではないし、変なこと知っても、記者みたいに書いたりはしないから大丈夫と馬場さんは信頼してくれたんじゃないかな。馬場さんの紹介で会ったのが坂口(征二)さん。全日本の選手が新日本の東京ドームに上がることが決まったとき話し合い。
――あの歴史的な会談に! 馬場さんは坂口さんの新日本社長就任祝いとして、新日本の東京ドーム大会に全日本の選手を貸し出したんですよね。
更級 馬場さんは新日本を信用してなかったですから。馬場さんが信用してるのは坂口さんだけ。坂口さんも小さいこと言ってらしいんですよ。「永源遥を貸してくれ」とか。
――永源さんを借りてどうするんですか!? 単なる里帰りですし(笑)。
更級 とりあえず坂口さんとしては下手に出て偉そうなことを言わないでいたんでしょうね。馬場さんも「永源なんかどうするんだよ。鶴田を貸そうと思ってるのに」って。坂口さんは驚いてましたよ。馬場さんの口から天龍さんの名前も出てくるから。
――まさか全日本の両横綱を借りれるとは思ってなかったんでしょうね(笑)。
更級 もともと天龍さんは新日本には出たかったんですよね。でも、あの試合後に天龍さんが「バカ負けした」と文句を言ってたみたいで。新日本(長州力&ジョージ高野)がまったく技を受けなかったって。
――天龍さんは「二度と新日本には上がらない」くらいの不満を言ってました。
更級 馬場さんは「だから言っただろう。猪木がそうなんだから、下の選手もそうなる」って。天龍さんは自分が目立てると思ったんでしょうね。でも、新日本はやりたいことをやらせてくれなくて。
――一方で木戸修&木村健悟vs鶴田&谷津嘉章の試合はそれなりにまとまりましたけど。
更級 でも、あの鶴田さんが木村健吾さんと互角にやってるのバカみたいだったよ。木戸さんに脇固めを極められたりね。鶴田さんは「出ると言った以上、新日本に合わせないといけないから。馬場さんが出てほしいならボクはその命令に従うだけです」って。
――鶴田さんはビジネスマンなんですねぇ。そのあとメガネスーパーが天龍さんを引き抜いてSWSが設立されますよね。
更級 馬場さんは信用してた人間に裏切られてしまった。馬場さんは「高千穂(ザ・グレート・カブキ)は信用できる」って言ったけど、俺は「金を積まれたら移籍する」って思ってましたよ。
――カブキさんは全日本離脱前日に鶴田さんと世界タッグの新王者に就いてましたし、それほど馬場さんは信頼してたんですね……。作/アカツキ
更級 馬場さんは凄くショックを受けてましたよ。天龍さんがやめた当時も凄く焦ってて「忌憚のない意見を聞かせてくれ」って言うから「行きたい奴は行かせたらいいし、下の奴が頑張るから」って。そのときに大仁田さんが「全日本に復帰したい」って馬場さんに言ってきたらしいんだよね。そこで復帰させたら、これまで頑張ってきた渕(正信)さんがイジケけるからダメだって止めたけど。
――渕さんは大仁田さんと同期ですもんね。そこで大仁田さんが全日本に復帰していたらFMWは生まれてなかったんですね。
更級 あと2代目タイガーマスクだった三沢さんが「マスクを脱ぎたい」って。話を聞くと、馬場さんに相談したら断られたそうなんですよ。結局、馬場さんからOKが出たみたいで三沢さんは東京体育館でマスクを脱いでね。試合後の通路で「三沢さん、よかったよ」って声をかけたら、三沢さん泣きそうでしたよ。
――谷津(嘉章)さんは「自分が脱がせた」って言ってますけど。
更級 言ったかもしれないけど、馬場さんを通して話をしてないだろうから。馬場さんが谷津さんをそこまで信用してると思います?
――谷津さんも“外様”ですからね。鶴田さんもサムソン・クツワダさんと新団体を作る動きがあって以来、馬場さんの信頼をなくしたと聞きますが……。このインタビューの続きと、スターダム不穏試合の謎、北原光騎、鈴木秀樹、小原道由、安西×小佐野、柳龍拳、新木場1stリング管理人の記事が読めるお得な記事詰め合わせはコチラです! http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar760930
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“ビル・ロビンソン最後の弟子”鈴木秀樹インタビュー「弱いプロレスラーは迷惑なだけです」
2015-03-06 20:32110pt3月1日ゼロワン後楽園ホール大会。観客が誰も言葉を発さず、息を飲み込む音さえも憚られる緊張感が会場を支配する中――、必殺のダブルアームスープレックスで船木誠勝をマットに沈めた鈴木秀樹。191センチ108キロの巨体、元UWF戦士・宮戸優光のジムでビル・ロビンソン直伝のキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのテクニックを学び、デビューの地は“なんでもあり”のIGF。現在の色彩豊かなプロレス界では絶滅寸前とも言えるかもしれない“プロレスラー”の色を持っている。そんな鈴木秀樹のプロレス観に触れてみた。
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――いやいや、元・郵便局員がビル・ロビンソンのキャッチ・アズ・キャッチ・キャンの指導を受けて、猪木さんの団体でプロデビューして、戦いぶりがあの船木誠勝や鈴木みのるに認められるってドラマチックです! 先日の船木戦も評価がかなり高いですけど、あの船木さんに「みんなお前に気を使ってんだよ!」と言っちゃうところも痺れました。
鈴木 つまり「船木誠勝はそんなに弱くてカッコ悪い選手じゃないでしょ?」ってことが言いたかったんです。船木さんの周りの選手が、ビビってるのか遠慮してるのか、腫れ物にさわるような感じなんですよね。それで船木さんの良さを消してしまってるんです。船木さんとの試合後にマスコミの人には「今日の船木誠勝は強かったですよね?」って言いましたけど、あれが本当の船木さんの姿なんですよ。試合で船木さんに何かをやったら怒られるのかなんだか知らないですけど、怖いんだったらプロレスをやめたほうがいいんですよね。
――船木さんは本当にマッドネスですからねぇ。
鈴木 そこはわかるんですけどね。試合で船木さん、ボクの目に指を入れてきましたし。
――ファッ!?
鈴木 いつだったかな。12月のタッグマッチでやったときかな。
――それは……故意に入れてきたんですか……!?
鈴木 だと思いますよ。試合はノーコテストだったんですけど、船木さんが上に乗ってきて掌底を入れてきたんです。そのときに顔を抑えつけられて、目に指を入れてきましたね。こっちも頭に来たから、船木さんの指を折りに行きましたけど。
――そうなったら折りますよね……って、鈴木選手も怖いことやってます!
鈴木 翌日、指を入れられた目の周りが真っ青になってましたけど。でも、べつになんともなかったし、やられたときは「やるな船木!」って嬉しくなっちゃいましたよ。「それがほしいんだよ。こういう船木さんがみんな見たいんじゃん」って。
――嬉しくなっちゃうって(笑)。
鈴木 そういうことをやられても、返せる技術があればいいだけなんですよ。ボクは負けた奴が悪くて、勝った奴が正しいとは思いませんけど。でも、弱い奴は正しくないと思ってるんですよ。人それぞれ強さの基準は違いますし、勝った負けたは運だと思ってるんですけど。強くなろうと努力していない奴はリングに上がっちゃいけないと思ってるんです。
――鈴木みのる選手も、鈴木さんと戦ったときに「ちょっと仕掛けたんだけど、返しやがった。いまのプロレスラーじゃ知らないやり方だ」っていう興味深いコメントを残してましたね。鈴木みのる選手が若手を認めることもかなり珍しいんですけど。
鈴木 あれ、わからないんですよ。翌日記事を見たら、みのるさんがそう言っていたことを知って。宮戸(優光)さんからも電話がありましたから。「みのるに仕掛けられたんだって?何をやられたんだよ!?」って。でも、わからないんですよね。
――へえー(笑)。
鈴木 ホント心当たりがないんですよ。ボクにとっては普通の試合で。記者の方にも「何があったんですか?」って聞かれたんですけど……。
――「面白い話はないですよ?」どころのオープニングじゃないですね(笑)。鈴木選手はプロレスラー志望じゃなかったわけですよね?
鈴木 宮戸さんのスネークピットに通ってたんですけど、最初はそんなつもりはなかったですね(苦笑)。休日に通ってるだけで。プロレスは好きだったんですよ。でも、運動ができなかったんですよね。
――それは鈴木選手が生まれつき右目が見えないからですか?
鈴木 いや、それは関係なくて。身体が大きいけど、体力がないから「俺は見るほうだな」と思って。で、郵便局に就職して3年目のときに民営化が始まって、いろいろとやり方が変わってる時期ということもあって、アルバイトがたくさん入ってきたんですよ。そこにボクくらい身体が大きい子が入ってきて。京都からスネークピットに入るために上京してきたんです。その子に「ジムに身体の大きい練習相手がいないから一緒に行きませんか?」って誘われたんですよね。
――鈴木選手も191センチありますからねぇ。それでスネークピットに通うようになったんですね。
鈴木 でも、そいつは3ヵ月くらいでジムに来なくなっちゃったんですよ。仕事には来るんですけど(笑)。ボクも1週間に1回くらいのペースですけど、そのうち楽しくなっていったんでしょうね。
――当時はどういう目的で通ってたんですか?
鈴木 ボクは英語がしゃべれないですけど、ロビンソンの教え方がわかりやすくて面白かったんですよ。それは宮戸さんにも言えることなんですけど。ボクは頭でっかちなんで、高校で部活をやらなかったのも体育会系が嫌いだからだったんです。極端なことをいうと、どんなにバカでも先輩は先輩じゃないですか。自分が尊敬できる人ならいいけど、そうじゃない人を先輩扱いしたくなかったので。
――スネークピットはそうじゃなかったと?
鈴木 2人とも教え方が理詰めなんですよね。こうでこうだからこうなるんだって納得できる。あと宮戸さんが目標を設定してくれたですよね。「ベンチでこれくらい上げてみろ」とか。そうしてるうちにプロでもないのに耳も湧いてきて、どんどん体重も増えていって(笑)。
――郵便局員なのに(笑)。
鈴木 それでもプロレスラーになる気はなかったんですよ。一瞬、総合格闘技をやろうと考えたときはあったんですけど。
――普通は腕を試したくなりますよね。
鈴木 ボクがジムに通ってたときは総合格闘技も元気だったので、そんな考えもあったんですけど、それよりロビンソンの考えに興味を持つようになったんですよね。それで昔のロビンソンの試合を見たら「あ、この動きは練習で教わった……」と気付くことが多いんですよ。
――“答え合わせ”ができたというか。
鈴木 そうなんですよ。プロレスってお客さんに見せるという大前提があるんですけど、プロレスラーの動きにはちゃんと理屈があるということがわかるんです。技術の流れがウソじゃないというか、ロビンソンに教わったことはすべてボクの中ではつながってるんですよね。たとえばドラゴンスクリュー。ボクはロビンソンからドラゴンスクリューとしては習ってないんですよ。ボクが教わったのは、片足タックルで相手をテイクダウンする中での技だったんですけど。それはよく考えるとドラゴンスクリューなんですよね。
――れっきとしたテイクダウンの技術だった。
鈴木 はい。ボクが教わったドラゴンスクリューは見栄えは悪いんですよ。LEONAくんがやってるドラゴンスクリューはボクが教わったかたちに近くて。でも、藤波さんたちのドラゴンスクリューは、お客さんのために見栄えを良くしたと自分の中では考えてるんです。プロレスにはそうやって見せるための技が多いとは思っていたし、そういう要素は必要なんですけど、基本的に理にかなった技なんですよ。
――そうやってプロレスの原典に触れる機会があったことで、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンに傾倒していったんですね。
鈴木 タイミングがよかったんです。ロビンソンは足の状態が悪くて1〜2年くらい帰ってたんですけど、ボクがジムに入ったときにまた日本に戻ってきて。ボクが教わったのは、最後の何年間の中で一番体調が良かった時期なんですよね。ロビンソン自らの身体を使って教えてくれました。
――そのときロビンソンの必殺技ダブルアームスープレックスも伝授されたんですね。
鈴木 これもドラゴンスクリューと同じで、最初にダブルアームスープレックスを教わったわけじゃなくて、分解した技をつないでいったらダブルアームスープレックスになったんです。あるとき練習が終わったあとに一般会員同士でフカフカのマットに投げ技をやって遊んでいたんです。そうしたらロビンソンが「遊んでもいいからケガをしないようにちゃんとやれ」と言ってきて。ハーフハッチという技があるんですね。相手の首を持って下から手を回して倒すという。そのハーフハッチをやったとき「相手が倒れないように堪えたら後ろに投げろ。それがダブルアームスープレックスだ!」と。
――なるほど! 人間風車もちゃんと理にかなった技なんですね。
鈴木 だからロビンソンのダブルアームスープレックスは、相手の頭を自分のお腹に当てるんじゃなくて、ハーフハッチに行ってから投げるんです。――ドリー・ファンク・ジュニアのダブルアームスープレックスはお腹に当ててまっすぐ投げるものですね。鈴木 ロビンソンのほうは相手が堪えるから投げれる体勢になるし、そのまま下に押し潰すこともできる。顔から押し潰されたら受け身は取れなくて危険です。
――ペディグリーっぽい技になりますね。
鈴木 そうです。ダブルアームスープレックスにかぎらず、コブラツイストも卍固めもその技自体を教わってなくて、「相手がこう逃げるから、こう決める」という流れの中にあるんですよ。もちろん見栄えも必要で、コブラツイストは本当はリングに寝てやる技なんですけど。お客さんに2人の顔が見えるようにするために立ってやるようになったんでしょうね。このインタビューの続きと、スターダム不穏試合の謎、北原光騎、更級四郎、小原道由、安西×小佐野、柳龍拳、新木場1stリング管理人の記事が読めるお得な記事詰め合わせはコチラです! http://ch.nicovideo.jp/dropkick/blomaga/ar760930 -
佐藤ルミナが、中井祐樹が! 柔術大会に潜入してみた■二階堂綾乃のオールラウンダーAYANO㉑
2015-03-06 11:0555pt新日本プロレスの選手イラストを描いてキャッキャしていたプオタ女子・二階堂綾乃がいつのまにかMMAジムに通いだし、試合出場を目論む模様をイラストレポートすることになった当コーナー。デビュー間近に迫った二階堂女史が柔術大会を視察……。柔術の試合出場を目論んでいる私ですが「柔術の試合ってどんなもんかな?」と思い、去る2月22日、第8回関東柔術オープントーナメント、そして同時開催の第9回全日本マスターズ柔術選手権大会に潜入してきました。
今回の会場、台東リバーサイドスポーツセンターは浅草駅から歩いて15分ほどの場所にあります。周囲にお店がないので、駅前か途中のY字路にあるセブンイレブンでお買い物をしておいたほうがいいです。
会場に着くと出入口に女子高生の格好をした推定40歳前後の女性がいましたが、この方は柔術には関係なかったようです。まず驚いたのは、会場のバルコニーまで人がぎっちぎちだったこと。まあ100試合以上あり、出場する選手だけでもかなりの人数がいましたからね。時間は朝9時から20時頃までと長丁場でした。試合は階級別、無差別があり、それぞれトーナメント式です。階級別と無差別両方エントリーすると、勝ち進めば1日に4,5試合組まれる人もいます。私は1回5分間のスパーをしただけでもへばってしまうので、なんとも過酷な大会です。
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数字で見る「メイウエザー vs パッキャオ」 史上最もリッチな試合の裏側■MMA Unleashed
2015-03-05 20:1355ptOmasuki Fightの北米MMA抄訳コラム。今回はついに実現する「メイウエザー vs パッキャオ」について。総売上の予定は4億ドル(約480億円)とか、あまりにもスケールが大きすぎて笑っちゃいます!
フロイド・メイウエザー・ジュニアは2月20日、5月2日にラスベガスのMGMグランドガーデンアリーナでマニー・パッキャオと戦うことを発表した。メイウエザー(38歳)は戦績47勝0敗、26KO、パッキャオ(36歳)は57勝5敗2分け、38KO。過去5年にわたり待望され続けていた試合、これまでに幾度となく交渉が行われながら合意に達することがなかった試合が、ついに実現することになる。
自らのSNSで第一報を報じたメイウエザーは、次のようにコメントを添えた。
「マニーと直接会って話し合った結果、ディールが成立した。ファンが見たがる試合を提供するのが私の役割だ。ボクシング史上最大のイベントになるだろう。世界中のボクシングファンは、5月2日に偉大な試合を目撃することになる。私はかつてないほど調子が仕上がっており、この試合では私の技術を存分にお目にかけ、勝ちをもぎとる。マニーは、これまで47人が失敗してきた。私に黒星を付けるという仕事に挑戦するわけだが、彼もまた失敗することになる。彼が48人目の失敗になる」
2009年のクリスマス休暇の時期に、交渉が成立に近づいたことがあった。しかしこのときはパッキャオ側のプロモーター、ボブ・アラムが、メイウエザーが要求した米国アンチドーピング機構(USADA)による抜き打ちの薬物検査プログラムの採用を拒否したことで決裂した。2011年には当時のHBOスポーツ社長のRoss Greenburgが仲介役を買って出たが、実現には至らず。2012年にはメイウエザーがパッキャオに直接電話をかけ、PPVボーナスなしの固定ファイトマネー4,000万ドルでオファーをかけたものの、パッキャオが断っている。
2013年、メイウエザーは、テレビ放送の専属契約をHBOからShowtimeに鞍替え、これによりHBOと専属契約しているパッキャオとの試合はもはや事実上消滅したと思われていた。
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