
パンクラスの社長も務めた川村亮インタビュー! パンクラスが“格闘技団体”だった頃のお話を伺いました!<聞き手/ジャン斉藤>
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・【負けたら即引退試合SP】中村祥之「新日本プロレスに橋本真也の味方はいなかったんです」
――いまは格闘技とプロレスが分かれちゃってますけど、川村さんはジャンル関係なく戦ってきましたよね。
川村 やっぱりあの2人の影響はすごく大きいですよね。でも、やりたくてもオファーがなかったら何もできないので。その点はそういう状況を作ってくれてた周りに感謝したいです。
――もともとプロレスファンだったんですか?
川村 アントニオ猪木が好きでした。どうやってハマったかはまったく覚えてないですけど、プロレス名鑑を持って幼稚園に行くくらいで(笑)。
――年齢的には猪木さんはリアルタイムではないですよね?
川村 ボクらの時代は、土曜16時から新日本プロレス中継があって。
――80年代終盤以降の新日本ですね。蝶野正洋さんが「パワートレーナー」のCMをやっていたことでおなじみの(笑)。
川村 そうそう(笑)。長州力がトップだった時代でしたね。
――好きが高じてプロレスラーになろうと思ったんですか?
川村 いや、そのときはなろうとは思ってなかったですね。憧れていましたけど、あくまで別世界。なろうと思うことすら失礼みたいなイメージでしたよね。
――高校も大学も格闘技とは無縁だったわけですよね。
川村 そうですね。高校まで野球やってて、大学でアメフト。
――大学からアメフトってどういうことなんですか?
川村 これも話すといろいろあるんですけど(苦笑)。野球やりながらも、格闘技やプロレス好きでずっと見てて。アントニオ猪木が好きだったんですけど、そこから大仁田厚に走るんですよ。
――闘魂から邪道に! でも90年代のファンならありえる話です。
川村 ボクの田舎は岐阜なんですけど、年に1回、新日本プロレスが岐阜産業会館で試合があったんです。あと近くに来るのはFMW、W★INGなんですよ。競馬場前駐車場でやったり(笑)。
――デスマッチ系のライブ感はすごいんでしょうね。
川村 すごかったですねぇ。FMWも有刺鉄線デスマッチをやったりはしないんですけど、大仁田さんとポーゴが抗争してたときだったのでホントに面白くて。おもいきり大仁田信者でしたからね(笑)。
――試合後のリングを取り囲んで、大仁田さんから水をぶっかけられてましたか(笑)。
川村 そう、聖水をかけられてましたね(笑)。基本的にプロレスはどこも好きだったので、パンクラスのことも気にはなっていて。ボクって子供の頃は虚弱体質で身体も細かったんで、パンクラスの選手はみんなカッコいいなと。
――パンクラスを見たことはあったんですか?
川村 会場は行ったことなかったですけど、映像なんかで。パンクラスが気になったのは完全にカッコよさですね。パンクラスってファッション含めて洗礼されてる感じがあって。
――それこそ団体のロゴマークも話題でしたし。
川村 あのロゴはいまでもずっと変わってないですよね。船木(誠勝)さんの「ハイブリッド肉体改造法」を読みましたし。
――大ベストセラーの。
川村 ボクは身体が弱かったんですけど、高校生のときにあの本を読んでウェイトトレーニングを始めて筋肉がつき始めて。そこにはアメフトの選手のトレーニングを基本にしたって書いてあったんです。
――アメフトは船木本きっかけですか!(笑)。
川村 はい。ラッキーなことに中学校のときの担任がアメフト出身で。その先生は神奈川大学でアメフトをやってたんですよ。神奈川大学は横浜にあるじゃないですか。パンクラスは横浜にあるから、これもう運命だなと(笑)。
――すべてはパンクラスのためのアメフトだったんですねぇ。
川村 当時のボクは格闘技もやったこともない。大学の4年間で身体を鍛えて、それでも気持ちが収まらなかったら卒業後に絶対にパンクラスに入ろうと決めてました。
――アメフトの知識はあったんですか?
川村 うーん、ルールとか全然知らなかったです(笑)。
――それでなんとかなるもんですね(笑)。
川村 なんとかなりましたねぇ。高校のときから本を読んで知識をつけて練習していたら身体が強くなってたので、基礎体力はトップでクラスで。推薦に入れたんですよね。
――アメフトってけっこう危ないスポーツですよね。
川村 これは率直な感想なんですけど、格闘技をやるより痛いですし、危ないですねぇ。全力で走ってくる奴が頭からぶつかるし、それが一発二発じゃないですから。それに格闘技は1対1だけど、アメフトは1対多数になったりしますし。
――身体はケガだらけだったですか?
川村 やっぱりケガは多かったですけど、そんなに大きいものはなかったです。初めて格闘技のスパーリングをやったときに「アメフトのほうが痛いな……」って。もちろん格闘技も危ないんですけど。
――アメフトはカウンタータックルをしょっちゅう食らうわけですもんねぇ。
川村 格闘技も通じるんですけど、やっぱり見えないところから飛んでくるのがキツイですねぇ。「来る!」と思えば、かたちを作れるんですけど、見えない角度からだと失神することもあります。アフメトは究極のスポーツだと思います。
――そうすると格闘技のバックボーンとしてアメフトは向いてるんですかね。
――それで大学卒業後にパンクラスに入ろうと?
川村 そうですね。アメフトもしながら、本で調べて入門テスト用のトレーニングをやり始めていました。
――パンクラスって徐々にルールが変わってMMAになっていきましたよね。
川村 素手の掌底だったのがオープンフィンガーグローブをつけて顔面パンチOKになって。ボクはそっちのほうがいいなと思ってたんです。というのも、その頃から『ロッキー』が好きなんですね。
――川村さんといえば『ロッキー』ですね(笑)。
川村 生まれて初めて見た映画が『オーバー・ザ・トップ』。あの映画でスタローンに勇気づけられてたので、『ロッキー』も好きになるのは必然です。
――『ロッキー』ファンとしてはグローブは歓迎だと(笑)。
川村 そこまで考えてなかったですけど(笑)。イヤではなかったし、パンクラスそのものに憧れてましたから。
――パンクラスが何をやるかというよりも、パンクラス自体に憧れていたと。
川村 ああ、そういうことですね。
――90年代のパンクラスはリングスと揉めていたことはどう見てたんですか?
川村 揉め事に関してはそこまで深く考えてなかったですね。ファンとしてあんまり興味がなかったというか。
――船木さんは入団する前に引退しちゃいましたよね。
川村 ボクが入ったとき、船木さんはパンクラスのエクゼクティブ・プロデューサーでした。後楽園ホールで挨拶したくらいでしたね。
――当時のパンクラスには入門テストがあったんですか?
川村 不定期でやってましたね。大学生2年生ぐらいのときに履歴書を送って応募して。実際に「テストを受けませんか?」という連絡がパンクラスからあったんですよ。アメフトの試合と被ってたんで行けなかったですけど……。
――もしテストに受かっていたら大学を中退してたんですか?
川村 とりあえず応募して「こういう奴がいるぞ」ってアピールするというか(笑)。
――なるほど!(笑)。結局卒業後にテストを受けたんですか?
川村 そこでもボクも恵まれてて。アメフトの部室の横がボクシング部だったんですけど、ボクシング部の監督と仲良くさせてもらってたんですよ。で、就職活動も何もしなくて、パンクラスに入りたいことも誰にも言ってなかったんですけど。そういうトレーニングをしてたらだいたいわかるじゃないですか。大学卒業まであと1週間のときにボクシング部の監督に呼び出されて「オマエ、パンクラスに入りたいらしいな」と。その場で電話をかけ出して「鈴木! オマエのとこ入りたいって奴がいるからよ、見てやってくれよ」って。
――その「鈴木」はやっぱり……。
川村 鈴木みのるさんです。その監督は、以前は横浜高校のボクシング部の監督だったんですよ。横浜高校のボクシング部からは大橋(秀行)さんや葛西(裕一)さんが出てるんですけど。ボクはその監督のことをボクシングを教えてる面白いおじさんくらいにしか思ってなかったんですけど(笑)。
――その縁からテストを受けたんですか?
川村 そうですね。監督と一緒に鈴木さんのところへ挨拶に行くことになって、後日テストを受ければいいやと思ったんですけど。念のため、ちゃんと動ける服装も持って行ったんですよ。
――「いまここでテストをやるぞ!」って始まってもいいように。
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