「凡庸」は「普通」じゃない
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「凡庸」は「普通」じゃない

2015-05-14 22:17
    「大阪都構想」で積極的に活動されている藤井教授の「都構想最終回」、是非ご覧ください。


    今回、藤井教授は「大阪都構想」が「大阪」だけでなく大衆」の問題と指摘されています。
    この「大衆」の問題について藤井教授は前々から三橋氏のメルマガ等で指摘されていました。
    これについて「選民意識」など、的外れな反感をもつ「アンチ」も多いようです。
    しかし、藤井教授が問題視する「大衆」、今回の表現では「凡庸(な人々)」は「普通(の人々)」ではありません。けっして「普通の人たち」を見下しているわけではありません。

    たしかに「凡庸」という言葉は「平凡でとりえのないこと」という意味です。
    しかし、「凡庸」の典型例として示されているアイヒマンがナチス政権のエリートであったように、ここで言われている「凡庸」は必ずしも「普通」ではありません
    藤井教授が用例としてあげた「平凡な暮らし」と「凡庸な暮らし」との語感を考えれば分かるように、「つまらなさ」が「凡庸」と「普通」の違いを考えるカギになります。

    現代社会では「生活のためには仕方が無い」と「会社の歯車」でいる人は多くいます。
    もとより「お上のやること」等、政治に対する無力感は広く存在します。
    その自分は取るに足りない存在である」「つまらない生活を強いられている」という鬱屈が「考えてもしょうがない」と思考を停止させます。
    その反動として、「つまらない自分」へのコンプレックスに付け込む誰かさんに吹き込まれた「ワクワク感」や「一回やってみよう」という無責任な行動に熱狂するのでしょう。
    何か大きなコトに参加している」ことで「自分はつまらない存在じゃない」と錯覚します。
    言ってみれば、退屈な授業中に、マンガの主人公になった自分を夢想するようなものです。
    夢想に責任感はありません。失敗はありません。だから無茶もやらかします。

    これは「普通」の状態ではなく、現実に対する認識が狂った、分裂的・躁鬱的な異常です。
    例えこれが数の上で"主流"でも、それは熱病に浮かされているようなもので、「正常」という意味での「普通」ではありません。「異常な状態」であり、「問題」です。
    それでも、自分だけの夢想なら害は少ないのですが、無茶振りで周囲に迷惑をかけたり、それを指摘されると、実は自覚している「つまらない自分」に引き戻されるため攻撃的になったりします。大問題です。

    「凡庸」とは自分に対する認識の歪みです。客観的な能力や社会的立場は関係ありません。
    むしろ客観的な「自分」と遊離して「自分はとりえのない人間だ」と思いこみ、思考停止することで、人は「凡庸」となります。
    駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」というように、自分の役割を果たし、地に足つけた感覚を保つことで、能力的には「普通」であっても「凡庸」ではなくなります。

    先日紹介した「26世紀青年」という映画では、現代社会の問題(あふれるゴミ、低俗番組、環境破壊など)を誇張し露にする過程を「500年」という時の流れで置き換えています。主人公は「全てにおいて平均的」で「誰がやっても同じ」仕事をする「凡庸」な人物です。しかし、500年後の社会で「思考停止した人々」に囲まれて、自分に出来ることをした結果、「普通」ではあるが世界を救う「非凡」な働きをします。

    市議会にお灸をすえる」という「マンガの主人公になった」ような夢想は捨ててください。
    市の職員の給料がどうなろうと、あなたの生活に影響はありません。
    有権者が「凡庸」であり認識が歪んでいるのでは、マトモな社会は成り立ちません。
    「大阪都構想」という曖昧な「ユメ」に浮き足立つ人は現実感をなくした「凡庸」です。
    「自分の暮らしはどう変わる」と冷静に考えることが出来れば「凡庸」から抜け出せます。
    そして、結果としてそれが、あなたの人生を豊かなものにするのだと思いますよ。

    道はそっちじゃないですよ」や、その他(ニコニコ大百科でも)で何回か書きましたが、私は雰囲気によって「知性の足りない層」が扇動され、理性的な議論が阻まれ破滅への道を進むことを強く危惧しています。私はこれまで何年も「気候変動」を否定する「凡庸な」人たちを見てきました。今回の「大阪都構想」もまた、「凡庸」の典型例として注目しています。
    私は、小さい頃に「マクスウェルの悪魔」という本を読み、社会が複雑化していくとともに人間の理解力が追いつかなくなり、やがて社会が崩壊する・・・という暗い未来予測に悩みました。
    この本はエントロピーという「乱雑さ」が宿命的に増大していく物理法則をテーマとしたものですが、藤井教授が「カオナシ」と例えた「凡庸」な「大衆」こそ、社会の情報が氾濫し、人々が「自分」を見失って行き着く状態です。
    「自分は何者か」をはっきりと認識し、出来ることをする、地に足つけた感覚が、破滅から遠ざかる道です。

    余談ですが、「大阪都構想」に賛成する大学教授たちをみても、その経歴や所属大学から生じる「無力感」がその原動力になっているのかもしれませんね。
    「特別顧問」という「特別な」言葉の響きに魅力に支配された、実に「つまらない」話です。
    大学教授として矜持をもち、人類のために優れた頭脳を用いて欲しいものです。

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