• マレビトの会『長崎を上演する』に関する断想(と過去の呟きまとめ)

    2015-08-16 23:48

    2015年8月14日~16日に立教大新座キャンパスで行われた、
    複数の作者による全20戯曲から成る、マレビトの会『長崎を上演する』を観ました。
    http://www.marebito.org/ ←全戯曲が閲覧可。

    過去に4回にわたって断続的に行われた上演会は2回観れていて
    (このエントリーのラストに呟きまとめました)、
    改めて今回、新作の戯曲も含めて全貌を観ることができ、
    これは大変なものを観た、という感慨を新たにしています。
    まとまっていない文章ではありますが、ひとまず考えたことを
    メモ代わりに書き込んでおきます。事実誤認や改訂があれば後日。
    ちなみに3月末に愛知芸術劇場で2日間にわたり再演(?)されるようです。

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    「長崎」は遠い。舞台上で語られるように、どんなに便利になった現代においても、物理的に、そして心理的に、「長崎」は遠いのだ(戯曲「交通難民」)。だからその地の、時を隔てた「記憶」が遠いのは、もはや自明のことである。この「遠さ」に対する真摯さが、『長崎を上演する』には満ちている。

    私たちは、過去の亡霊たちが複数のレーンから、観客席に向かって次々に投げるボーリングの球を受け止めることは出来ず(戯曲「鷲尾がみた長崎」)、また過去に(戯曲「生徒たち」内で語られる、上演にこぎつけられなかった未遂の戯曲の元になったかもしれない「漫画原作者」に象徴される「原点」――言わば1945年8月9日に)投じる手紙も届いているかどうかは分からない。しかし、耳の奥に「聞いたことのない」風の音は聞こえるし(戯曲「鷲尾~」)、戸惑いながらも知らない人間の墓参りさえもする(戯曲「坂の上の兄妹」)。

    おそらくだが、演出の松田正隆さんはデュラス――あるいはデュラス/レネの『ヒロシマ・モナムール』は意識していると思う(と言うのも以前に草月ホールであったデュラスの『ナタリー・グランジェ』『トラック』上映の客席で松田さんをお見かけしたから)。あるいは『インディア・ソング』から身体を消し去って記憶だけを語った『ヴェネツィア時代の彼女の名前』にもう一度身体性を取り戻そうとしている、とも言えるかもしれない。

    そんな試みに立ち会う、役者と観客、つまりは私たちがいる位置には、あの教室の机のように(戯曲「生徒たち」)、かつて誰かがそこにいて、知らない誰かの記憶と二重写しになっている(だから、これは重要な点なのだが、「お前じゃなくていい」という言葉と共に犯される女性の描写があるように〔戯曲「ソウル ミーツ ボディ」〕、そうした偶有性は時に暴力性を帯びるということにも、この作品は自覚的である。戯曲「神林の行方」でも、何の変わりもなく生きている登場人物が、いきなり行方不明扱いにされて困惑している)。しかしその誰かを私たちは知らない。ベンヤミンが言う通り、私たちには出会わなかった「姉」たちがいる。

    私たちが耳を傾けるさまざまな声のなかに、いまでは沈黙してしまっている声の谺が混じってはいないだろうか。私たちが愛を求める女たちは、もはや知ることのなかった姉たちをもっているのではなかろうか(浅井健二郎訳「歴史の概念について」)

    そしてまた私たちもいずれ、その「姉」になる。劇中、時間軸がフッと飛んだように感じられる箇所があって、その場面では幽霊のような夫婦がゆっくり移動している。そして長崎の風景を撮っていた(はずだった)カメラマン・鷲尾も、時にその実体性があやふやになる(戯曲「鷲尾がみた長崎」。ちなみに冒頭で書いたボーリングのシーンは、戯曲ト書きによれば鷲尾が迷い込んだ、亡霊であふれる森である。作者は異なるが、戯曲「水辺の森公園」に出てきた夫婦と同じ演者が配役されており、夫が「また、君とあえるなんて思ってもみなかった」と呟くことから、彼らが未来を漂う亡霊のように感じられる)。今・ここにいる人間も、いつか誰かの「見知らぬ姉」になる。未来におけるそのことを引き受けながら、現在において、過去の「見知らぬ姉」を纏うこと。そうした「見知らぬ姉」を纏いながら、戯曲「あるバーにて」のカウンターのように、そして観客席のように、それぞれ勝手に、並列に在る私たち。

    そこで重要になるのが、松田氏が言うところの「マイム」の演劇、「演劇の皮膚」ーーひとまず筆者なりに言い替えさせてもらえば「素振りの素振り」という多重性、その無限の後退に賭けるという試みだ。長崎で高座に上がる落語家を演じるということは、「長崎にいる人」と「落語家」という二重性が役者に課せられる(しかし完全に自分に同化させてはいけないというこの困難を、役者さんは見事に引き受けていた)。また、非常に繊細な手続きを積み重ねて行われた「解剖」のシークエンス――原作の厳密な解釈(の必要性の有無)で揺れる、本読み稽古中の劇団を舞台に、女性の腹に刃をあてる「解剖」の身ぶり(を行う”役者”役の役者)を観客に見せる――では、「素振りの素振り」とも言うべき行為がなされていて、その無限の後退の果てに顕ち現れるリアリティ=引き裂かれている女性の肌こそが「演劇の皮膚」なのだろうと思う。

    「長崎」からのこうした「遠さ」、言わば無限の後退にこそ可能性を見出している『長崎を上演する』最終日では、印象的な「裂け目」が連続して現れた。松田正隆本人の手による戯曲「信平とみ緒」、そして「フレンチレストラン」だ。ミヒャエル・ハネケ『愛、アムール』への返歌のような「信平とみ緒」のラストであらわれる窓、そして「フレンチレストラン」のラストで少年が見つめる壁にかかる風景画は、遠く遠く閉じられていく長崎に穿たれた小さな穴=通路であり、僅かに開かれた「裂け目」である。その「裂け目」から微かに放たれた「記憶」の満ちる空間が、続く戯曲、そして『長崎を上演する』の最後に置かれた「追悼施設にて」である(これも松田作)。

    「追悼施設」とされる、しかし観客からは何も見えない空間に、登場人物たちは現れ、佇み、そして去る。台詞は、ほぼない(観客は聞き取れないが、戯曲によれば、舞台奥で警備員が一言「あちらが爆心地になります」と来訪者に案内しているのみである)。その微かな「記憶」の粒子が漂う空間――それは私たちが生きる現実そのものだが、そこでは私たち観客も演者からじっと見つめられる、しかしそこに私たちはいないかのように。つまり、私たちも『長崎を上演する』のラストでは「亡霊」になっている。この並列性。「遠さ」からの、断絶からの、微かなる接続。そこに『長崎は上演する』の本懐がある。


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    以下は過去の『長崎を上演する』にかんする呟き


    『長崎を上演する』④(2015.3.28-29 ※筆者は29日のみ観劇)
    http://www.marebito.org/nagasaki_20150328.html

    マレビトの会『長崎を上演する』第4回①。問われているのは、徹底して「“顔”の偶有性」。現在に生きる私たちの顔には、ふとした瞬間に「火ここになき灰」(デリダ)としてのナガサキが張りつく可能性がある。俳優(の身体)は、瞬間瞬間この偶有性に左右される存在で、観客もそこから逃れられない。
    https://twitter.com/editdisco/status/582153985806598144

    マレビトの会『長崎を上演する』第4回②。「生徒たち」での席の位置の問題、「信平とみ緒」での認知症、「ソウル ミーツ ボディ」で襲われる女性の偶有性(彼女じゃなくてよかった、ということ)。こうした宙吊りの空間に、本当に僅かな瞬間だけ、ナガサキという「火ここになき灰」が呼びこまれる。
    https://twitter.com/editdisco/status/582156700808921088

    マレビトの会『長崎を上演する』第4回③。その偶有性の時間/空間からは、観客の私たちも逃れられない。ラストの「追悼施設にて」で、俳優が展示物を見るように観客を眺める時、私たちの顔にも、「火ここになき灰」としての、遠く離れたナガサキ(の記憶)が張りついてしまっているはずなのだ。
    https://twitter.com/editdisco/status/582157646309900288

    マレビトの会『長崎を上演する』第4回④。これは非常に困難な戦いだ。かつて松田氏と対談していた諏訪敦彦氏の映画『H story』は、現在における歴史の「希薄さ」からヒロシマの記憶へ逆説的接続を試みたが、その『H story』でさえ広島が舞台だ。ナガサキから遠く、遠く離れること――。
    https://twitter.com/editdisco/status/582159149431050240

    マレビトの会『長崎を上演する』第4回⑤。「長崎を再現/表象する」というより、現在の私たちが宙吊りにされる偶有性の空間に、ごく稀に、遠きナガサキの記憶=「火ここになき灰」が呼びこまれ、一瞬だけ舞うのだ。『愛、アムール』への返歌のような「信平とみ緒」で、外部へ繋がる一つの窓の意味。
    https://twitter.com/editdisco/status/582161668127399936

    ※つぶやきはないが上演会①(2013.9.22)も観劇
    http://www.marebito.org/nagasaki_20130922.html



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  • EP-4「[klʌ́b] RADIOGENIC」、菊地成孔×大谷能生「JAZZ DOMMUNISTERS」

    2013-05-19 22:39

    昨晩2013年5月21日、
    EP-4の東京公演@恵比寿リキッドルームを訪れた。
    1980年代京都の「クラブ・モダーン」での夜たちを
    復活させるということで、
    会場には著名な文化人たちの姿もちらほら……。
    http://www.liquidroom.net/schedule/20130518/13714/

    往時の空気はまったく体験していない筆者も、
    EP-4のステージングは十分に楽しめた。
    異様に解像度の高いファンク。
    その焦点として機能する、佐藤薫のなんともいえない艶。
    ツイッターでも見かけたが、
    じゃがたら/江戸ハルミを思い出したという人も、
    自分だけではないようだった
    (もっとも、演奏後の周囲の漏れ聞こえてくる声から察するに、
    今回の演奏は、昔のEP-4をリアルタイムで
    体験した世代の間では賛否両論だったようだが……)。

    そして、他の豪華な出演ミュージシャンたちのうち、
    ベストアクトだったのでは、と思わされたのが、
    菊地成孔×大谷能生のラップ/ジャズDUO「JAZZ DOMMUNISTERS」。
    個人的には、ここ最近のSIMI LAB、THE OTOGIBANASHI'S、
    あるいはTAKUMA THE GREATらの楽曲を聴きながら
    なんとなく感じていた、「ラップを中心に、音と言葉の関係が
    大きく変わってきているのでは?」という雑感がさらに強く抱かれたライブだった。
    菊地・大谷両氏の、テクストのリーディングにしても、ラップにしても、
    ほとんど「音響」と化しており、
    その狭間から時折、意味判別が可能な言葉が漏れ聞こえてくる。
    KILLER-BONGのまさに「音響」的なラップのことを考えれば、
    大谷能生がラップ・アルバムを発表した
    BLACK SMOKERの系譜にも連ねることができるだろう。
    ツイッターで情報をくださった方によれば、
    アルバムのリリースが予定されているとのこと。
    これは楽しみだ。
  • アニメ『琴浦さん』は90年代的トラウマを払拭した。

    2013-04-26 23:271
    アニメ『琴浦さん』が画期的だったのは、
    話題にもなった通りやはり、
    いきなり「いい最終回だった」とタグがついた、
    あの伝説的な初回放送だった。
    主人公の少女・琴浦春香のトラウマが、
    性的妄想の権化と言える真鍋の存在によって
    いっきに霧散する様子は、
    僕たちを驚かせたものだった。

    しかし、すこし落ち着いて考えてみたいのは、
    僕たちはこれまで長い間、あのような
    「トラウマ」がアニメ全話/全編を支配するような
    作品ばかりを消費してきたのではなかっただろうか。
    『ヱヴァンゲリヲン』しかり、
    『少女革命ウテナ』しかり。
    主人公のインナーワールドの刷新=「革命」だと言う論理のもと、
    視聴者は何時間もかけてその道程を追いかけた。

    しかし『琴浦さん』は、
    そのような「トラウマ」は初回放送30分で霧散する、
    と説いたのだ。
    しかもその後のこの「トラウマ」は何度となく回帰するが、
    だがそれはこれまでのような方法ではなく、
    各30分の放送の中でその都度「トラウマ」は
    打破されていく、という斬新な手法だったのである。

    何時間もかける必要はない。
    90年代的な「トラウマ」は、30分でカタがつく。
    そのテーゼを、幾度となく『琴浦さん』は反復し続けた。
    アニメの出来云々は置いておき、
    まずはこの点に、本作の特性は見出すことができるのではなかろうか。