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92さん のコメント

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92
気仙沼の魚かー、あまり縁が無いけど取り寄せとか出来るのかな?
No.1
147ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
震災当時、茨城県で大学生をしていた小野寺明日菜さん。卒業後の就職先は、津波被害で大きな影響があった気仙沼市。震災の影響で2か月遅れとなった入社式に立った小野寺さんは、社会人としてのスタートを被災地で迎えた。 取材者:島田健弘 取材日:2011年9月12日 ■プロローグ……3ヵ月遅れの入社式   「無事入社の日を迎え、感謝と安心の気持ちでいっぱいです。採用を取り消さない決断に感謝しています。私たちにできることは一日も早い会社や地域の復興と活性化に力を尽くすことです。一日も早く三陸の商品を全国に届け、震災に負けない気持ちを発信したいです」  これは2011年5月28日、株式会社阿部長商店の平成23年度入社式で代表してあいさつをおこなった小野寺明日菜さん(23)の言葉だ。小野寺さんは現在、経営企画室で先輩社員の指導のもと、必死で仕事を覚えている真っ最中だ。  阿部長商店の入社式は同社が経営する宮城県南三陸町の「南三陸ホテル観洋」で開かれた。阿部長商店は震災により業務のほとんどが停止しても、社員の雇用を守り、内定の取り消しもしなかった。2011年の新入社員は30名。小野寺さんはその代表としてあいさつをした。 「入社の案内がきて、入社の意思がありますと返事をしたら、入社式で代表あいさつをしてほしいと連絡が来ました。私を指名した理由はわからなくて、ただ頼みやすかったのかなと思うんですけど……。この時は例年にないくらいの報道陣が集まったらしくて、すごく緊張しました」  小野寺さんは震災当時、卒業式を待つばかりの大学生だった。地震を、気仙沼ではなく、通っていた大学のある茨城県で体験した。    あいさつする小野寺さん ◆友達とお別れもできなかった卒業式  地震があった日はまだ大学生で、気仙沼にはいませんでした。大学は茨城県にあり、14時46分はちょうどアルバイトをしている居酒屋のお昼のランチの時間が終わって、帰ろうとしていたところでの地震でした。  最初はいつものことかなと思っていたんですけど。だんだん揺れが強くなってきたので、これはまずいと思って外に出たらビルもすごく揺れていました。私のいたところは震度6を記録したそうです。その後、電気が通らなくなったので信号も止まって、テレビも見られなくなって、何の情報も入ってきませんでした。  たまたま、道に停まっていた車の運転手さんがカーナビでテレビを見ていたので、見せてもらったら、「宮城県に大津波警報」だと。実家が気仙沼なので家族は大丈夫かなと思ってケータイで連絡しても通じなくて、すごく怖かったです。ただメールのほうは繋がって、「いまから避難する」と連絡が来たので、無事は無事なんだなと安心しました。   そのころは学校の授業も終わっていて、あとは卒業式だけという状態だったんですけど、卒業式はなくなりました。会場になっていた武道館の天井が落ちて使えなくなってしまって、規模を小さくして教室でやることになったんです。袴を着ることも楽しみだったんですけど、レンタルを気仙沼でしたので送ってもらえなかったので、どっちみち着れませんでしたね……。それで3月23日に教室でテストの返却みたいに卒業証書を配られて終わりで、友達とも最後のお別れができませんでした。 ◆小さいころから何度も行っているところなのに、どこを走っているかわからない  実家はけっこう海から離れたところにあるんです。それなのに避難するってどういうことなのってびっくりしました。  それからしばらく連絡もとれなくて、テレビを見ると気仙沼は火の海だとか、街が壊滅状態だとか、いい情報がまったくありませんでした。  両親は避難所となっていた気仙沼高校に避難したのは2日間だけだったそうです。ほとんどの避難者は自分の家まで流されてしまった人たちだったようで、家が残っているウチは3日目から家で生活したと言っていました。でも、電気もまだ通じませんし、断水しているし、かなり大変な生活だったようです。  私が気仙沼に戻ってきたのは4月10日です。地元が被災して、引っ越しもできなくなったのに、不動産会社には「次の人が来るからこの日までに出ないと困ります」と言われて、父がトラックで来てくれたので、とりあえず荷物だけを全部詰め込んで引っ越しました。帰ったら、家は無事でしたが床下浸水していました。  一番不安だった時期は、一人暮らしをしていて家族とも連絡がほとんどとれなかったころです。父方の祖母が行方不明だったこともあって、毎日ネットにアップされる避難所のリストを見て名前を探したり、見たくないんですけど、亡くなった人の名前を調べたりしていました。  ただ、帰ってくるまでは探せば見つかるんじゃないかなという気持ちがどこかにあって……。だけど、実際に流された祖母の家に行ってみると、なんにもないんです。お皿の一枚もなくて、柱などがガレキの山になっていてどこを探していいのかわかりませんでした。  行方不明になっている人が見つからないのも、これではしょうがないなと帰ってから実感しました。祖母の写真は昔のウチにあった何枚かしか残っていないんですよね。  まだ祖母は見つかっていないんですけど、区切りをつけようという祖父の意向で、7月の後半にお葬式をあげました。  私は小さいころから海が大好きで、夏でも冬でもふと海に行きたいなと思う時があるんです。その祖母の家が大谷海水浴場のそばだったので、小さいころから毎年夏は必ず行っていました。大学生になっても、帰省のたびに遊びに行っていました。  車で行ったんですけど、小さいころから何度も行っているところだったのに、あまりの景色の変わりように、今どこを走っているかわからないんです。まだ道路のガレキが除かれただけの時期だったので、Uターンもなかなかできないし、ガレキ以外はなにもないし……。それから、もうあそこには行っていません。 小野寺明日菜さん(撮影:二村晃弘) ◆気仙沼のほうが住みやすいし、お魚も美味しい  仕事はすでに阿部長商店に内定が決まっていて、今年の2月にも研修旅行でロシアに一週間も連れて行ってもらったりもしました。内定をもらった時、気仙沼での最大手の会社なので、すごく嬉しかったのを覚えています。けど、会社とも連絡がとれなかったのですごく不安でした。メールなら読めるときに読めるだろうと総務部人事課あてに、私は引っ越しが決まらなかったので、もしかしたら入社が遅れるかもしれませんと送ったんです。そうしたら「入社は延期になります」と返事がきて、それからはずっと連絡待ちでした。  待っている間は内定取り消しになるかもという心配もすごくありました。でも、気仙沼に戻ってきて、テレビにたまたま阿部社長が映っていて「雇用は確保する、ひとりも解雇にはしない」と言っていたのを見て、だったら大丈夫かなと思って、入社案内が来たゴールデンウィークまで実家のお手伝いをしながら待っていました。  実家は飲食業ですが、水道が早めに復旧したので、4月1日には再開していました。  就職は気仙沼でするつもりでした。一人暮らしのほうが楽といえば楽でしたけど、気仙沼のほうが住みやすいなと思いました。それに実家も気仙沼だし、いつかは戻ってくるんだろうなとはずっと思っていましたから、気仙沼で仕事を探そうと思うようになっていましたね。  それと大学時代に近所で食べたお魚が全然おいしくなかったんです。気仙沼だったら美味しいお魚がたくさんあるのに、この人たちはなんでこんなに美味しくないお魚を食べてるんだろうとショックをうけました。それで美味しい魚を食べてほしい、みんなに届けたいと思うようになったんですね。  阿部長商店の名前は小さいころからずっと知ってて、大きい会社だということもわかっていましたし、運よく、縁があって内定をいただいたので戻って来ました。 ◆いま友達が来てもどこに連れて行くんだろうって思っちゃいます  復興にはまだまだで、道が通るようなってからはほとんど進んでない気がします。もちろん漁港の町ですから港の復興を最優先でやっていましたから、漁港は復活し、サンマ漁もカツオ漁もはじまりました。震災直後は火事で燃えて真っ黒になった船が打ち上げられていたり、港に船が沈んでいたりしましたから、そのころと比べるとだいぶきれいになったと思います。  でも、生活はまだまだですね。たぶん、復興したと思えるのは観光客が普通に来てくれるようなったらだと思います。いまの状態だと友達が遊びに来てくれても、連れていくところがないんです。特に夜になると真っ暗になるし、若い人が遊ぶところもありません。大学にいたころは「気仙沼はすごくいいところだから、いつかおいでよ」と友達に言っていたんですけど、いま来てもどこに連れて行くんだろうって思っちゃいます。震災以前だったら、夏は大谷海岸で海水浴できるし、気仙沼港にくれば美味しいお魚も食べられるし、案内するところはいくつもあるんですけど、いまはご飯食べるところもないんですからね。  阿部社長が雇用を確保した理由に、いまは工場が被災してほとんど仕事もないけど、工場が再開したときに、経験者がいないとすぐ稼働できないからだと聞きました。内定を取り消さなかったのは、震災があったにもかかわらず気仙沼で仕事をしようという若い力は、今後大事になるからだったと。若い人って本当になにもすることがないんですよ。このままでは仕事がないから、みんなどんどん外にでて人が減っちゃうと思うんです。そうするともっと街が寂しくなるんですね。だからといって外から人を呼ぼうにも仕事も住む場所もない状態で。だから、早く誰でも住みやすい町に復興してくれるといいなって思います。 ■エピローグ……いろんな所に行ってみたい  震災後に阿部長商店が開発した新商品に気仙沼ふかひれスープがある。小野寺さんは入社早々、そのパッケージのデザインや販路を考える部署に配属されたという。ベテランから新人までかかわって開発したふかひれスープの売り上げは好調だそうだ。再開した観光施設「気仙沼お魚いちば」やインタネーネットサイトの「うまい!三陸 気仙沼お魚いちば」では人気商品として販売されている。  しかし、小野寺さんの好みはフカヒレスープよりも、さばの味噌煮だという。さばの味噌煮は「三陸海彩 三陸惣菜詰合せ」として「さんまの生姜煮」「ぶりの生姜煮」「ぶり大根」と一緒に販売されている。  小野寺さんに、これからの夢を聞いた。 「これから、国内外問わず、仕事・プライベート問わず、いろんな所に行ってみたいですね。私は旅行が好きで、地図からその国のことを知りたいと思って、大学では人文学部社会科学科で地理学を専攻しました。だから、大学時代も海外旅行を何度かしてたんですね」 ※フカヒレスープをはじめ阿部長商店の商品は以下のサイトで購入可能です。 「うまい!三陸 気仙沼お魚いちば」   [取材]島田健弘(しまだ・たけひろ) 1975年生まれ。オンラインマガジンのライターを経てフリーライターに。現在は、月刊誌、週刊誌、Web媒体などで、政治、経済、ビジネス、サイエンス、アニメ、漫画、声優などのジャンルで取材、執筆をおこなっている。  
東日本大震災 証言アーカイブス
「自由報道協会 有志の会 被災地支援プロジェクト」による東日本大震災の証言記録です。同プロジェクトは、2012年12月末日をもって解散となったため、このブロマガの更新も終了しました。ご支援いただいた皆さまには、ありがとうございました。