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【第1話】宮城県仙台市/津波が襲ってから10日後の避難所を訪れた
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【第1話】宮城県仙台市/津波が襲ってから10日後の避難所を訪れた

2012-11-21 20:00
    2011年3月11日、東北を襲った大地震の直後、仙台市若林区荒浜の人たちは、地元の荒浜小学校に一時避難をした。すぐに10メートルを超える津波が襲い、荒浜地区全体を呑み込み、荒浜小学校の校舎は浸水して孤立した。それから10日後、ヘリコプターで救出された人たちが集まっていた避難所を訪ねた。そこには、荒浜にあった町内会の一つで町内会長を務めていた早坂勝良さんがいた。

    取材者:渋井哲也

    取材日:2011年3月21日

     
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     東日本大震災の発生から10日後の3月21日、私は仙台市内の避難所を取材した。仙台の沿岸から約10キロ離れた八軒中学校の校舎内に行くと、水や食料などの多くの支援物資が山積みになっていた。この避難所の責任者は、仙台市若林区荒浜の5つある町内会の一つで町内会長をしていた早坂勝良さんだった。

     「私どもの地域は(宮城県仙台市若林区)荒浜で海岸に接していたところです。仙台市唯一の海水浴場で、深沼海水浴場がありました。夏になりますと、仙台市の住民の方々が夏の涼を求めて集まる海水浴地帯なんです。地名が深沼と荒浜とありますが、同じで、(現在の)仙台市の地名でいうと荒浜というところです。
     生まれも荒浜です。子どもの頃から海に飛び込んで、泳いでいました。今も地域の愛着なり、あるいは、海に対する気持ちはある。まさか、こういう形になるとは思っていませんでした。浜の恵みをいただいて生活していた方々、漁業と、陸の恵みをいただいて生活をしていた方々、米づくり、畑づくりをしていた農業と、あの地域は半農半漁という地域だったんです。ところが、漁業はだんだん廃れてきたんです。以前は、あの浜辺から船が出ていたんです。それも時代とともになくなった。農業の方は一瞬にして再起不能の状態になっています」

     仙台市荒浜地区は、仙台市の南東部に位置している。江戸時代から明治時代にかけて運河が一続きになった「貞山運河」がある。仙台藩の伊達政宗が最初に開削を命じたものだ。約60キロにも及ぶ日本最長の運河だ。海岸には深沼海水浴場があり、多くの仙台市民が訪れる場所にもなっている。その海岸には数メートルの堤防がある。住宅地との間には海岸防災林としての松林があった。

     「あの地域は堤防で津波が来ないようにしている。ところが、津波によって完全に川と一緒になってしまった。海の水が引くと、引き潮となり、海と川が同じになってしまった。槌が流されて、土手も松林もなくなったんです。松の木を投げ倒した。
     貞山運河という川があります。伊達政宗が物資を運ぶために、北上のほうから亘理のほうまで掘った運河がある。大きな津波がきても、ここで止まるだろうとは思っていた。こっちまでこないと思っていた。私の家は、運河から内陸側になる。そこで昔、水浴びをし、貝を採ったりしていた。最近では、川があふれたり、水が汚れたりしていた。その川と、やっぱり、海は私達の心のふるさとだと思います。荒浜から海をとったら、何もないわけですから。
     私の家は、学校から見ると、土台しかない。屋根もなにもない。見に行っても土台しかない。もう諦めしかない。でも、みんな家がない。影も形もない。そういうのに、浸っている暇はない。同じような状況の方々と一緒にやっていくしかない。
     まだ家には行っていない。見に行くのなら、ここに避難しているみなさんも一緒。私だけ単独で行くというのも、ちょっとはばかる。また、実際、行くのも自転車しかない。行政側が、マイクロバスを用意してくれればいいとは思うが、それはない」

     中央防災会議では「想定宮城県沖地震」を前提にした防災計画を立てるように関係の県には通知している。宮城県沖は数十年に一度大きな地震が襲う。しかし、これほどの大津波は近年にはなく、「仙台平野には津波はこない」といったムードが漂っていた。
     例えば、昭和三陸津波(1933年)のときは、仙台市は5m以下だった。2005年の宮城県沖地震でも、津波はほとんど確認されていない。しかし、貞観地震(869年)のときも(当時の海岸線から)内陸へ数キロほど津波がやってきているし、江戸時代でも仙台平野にも津波が襲って来ていることが記録されている。

     「だいぶ、大昔には津波はあったけれど、何十年と住みついてきた。津波は松林の近くまできたというのは事実としてありました。しかしながら、あんなものすごい勢いで、いわゆる外国の津波をテレビで見るかのようになものを経験したことはない。防災訓練とか、津波訓練とか、毎年行っています。消防や若林区の主催でやっています。集合場所に集まって、訓練が終わったら、小学校の校庭に来て、壊れた家から人を救出する方法とか、仮設トイレのつくり方とか、あるいは、けがをした人の救助の仕方、人工呼吸の仕方などは参加していた人はしていました」

     そんな海岸線で津波が来たときの備えは避難することだ。指定避難所は荒浜小学校だった。

     「津波がくるときは、私どもの地域住民は、荒浜小学校に避難する、という「申し合わせ」があります。ですから若林区の区民生活課のほうから津波の警報が起きたときには、指定避難所の荒浜小学校に避難する、ということになっていたのです。それは全戸数に知れ渡っておりました」

     住民たちの多くは津波警報が鳴ったとき、小学校へ避難した。また、荒浜新町の住民の中には、小学校よりも近い防災センターに逃げたという人たちもいた。しかし、津波警報が6mと聞くと、2階しかない防災センターでは心配だったこともあり、結局、荒浜小学校へ避難していた。

     「津波警報が鳴り、『6mの津波が来ます。すぐに避難してください』という広報がでました。警察や消防関係者ほか、いろんな方々が『とにかく逃げろ』『早く避難しろ』と言っていました。そのため、避難を始めたんです。町内にも警報機があったんです。ラジオでも、NHKだと思いますが、『6mの津波ですから、海岸地帯に一切いかないで、避難してください』と言っていました。
     避難する方法としては、(内陸側に)車で逃げるというものと、避難所の荒浜小学校に逃げるの二通りありました。ですから、車で逃げる場合は、相当遠くの方へ逃げることになります。津波という想定を頭に浮かべながら遠くへ逃げようと。そして、小学校はコンクリート造りで、5階が屋上です。6mの津波ですから、屋上まで行かなくても、3階や4階の教室に、三々五々、みんな避難してきたわけです」
     
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    2011年3月22日、瓦礫が散乱する仙台市若林区荒浜地区 
     
     早坂さんは街中にいたため、身の安全は確保できる状態だった。しかし、町内会長としての責任感、使命感からか、街中から海岸線に向かった。つまり、津波に向かうことになったのだ。

     「私は地震の時、街中にいたんです。孫と買い物に出かけていました。孫はお店に買い物へ行きましたが、私は車の中にいました。そしたら車がものすごく揺れたんです。『これは大きな地震だ』と思って、車内のラジオをかけたんです。地震や津波の情報を伝えていた。たまたま孫の両親がこちらに向かっていたので、孫を両親に預けたんです。私だけ単独で、荒浜小学校へ向かっていたんです。
     町内会長だったものですから、『避難する人たちが、必ず、荒浜小学校に来る』と思ったんです。みんなが車で逃げており、信号などで数珠つなぎになって逃げているところに、逆の海岸に向かって行きました。責任もございましたので。そして、セブンイレブンの駐車場に車を止めて、小学校に入ったんです」

     まさに危機一髪だ。セブンイレブンの駐車場ということは、小学校よりもやや内陸部であるが、徒歩で数分の距離。そのセブンイレブンは津波にのまれ、跡形もなくなっていた場所だ。かろうじて、駐車場の跡や建物の残骸などを見ると、「ここにセブンイレブンがあったのか」と想像することができるくらいになっている。もし、遅れていたら、早坂さんも津波に飲まれる可能性があったということだ。

     「みんなが避難して来た場所は、普通の民家よりは高いところにあるので、(海岸のほうが)見えるわけです。突然、津波がやってきました。私は津波をこれまでテレビなどの外国の報道で見ておりました。あれよりもまず、見たこともない状態で押し寄せてきました。ものすごい音、バリバリ、バリバリという音と土煙、水煙、それからモノが流される、家が流されているのです。津波の枕、いわゆる津波の先端にいろんなものを巻き込みながらどんどん小学校に向けて押し寄せてきたわけです。
     私もそれを眺めていたんですが、『学校に寄って来た。自分たちも危ない』と思い、ベランダから見ていた人たちも中に入り、じっと我慢しておりました。その間、波が通り過ぎていきました。そして一段落したら、それなりに、周りを見たら、水位が高くなっていました。いろんなものが瓦礫となり、車やら、なんやらが学校の周りに浮かんでいました。
     私は3階にいたんです。2階にいた人の話では、膝まで津波がきたので、 それ以上くるといけないと、 机に飛び乗ったのです。息を飲むというのはこういうことだと思います。言葉にならなかったですね。我々、何十年と生活してきて、初めての体験じゃないですか。なかには避難しなかった方もいるわけですよ。それはなぜか。こんなに大きな津波がくるわけがない。来たって、これほど大きなものではない。安心というか慢心という気持ちを持たれていた方々もいたんじゃないでしょうか」

     荒浜には10メートルを超える津波がやってきた。海岸防災林の高さを越えてしまっていた。実は、この海岸防災林には、避難に役に立った部分もある。防災林はクロマツだが、津波後も残っている場所がある。倒されなかった場所は過去に盛り土をした上で植林がされたのだ。
     一方、海岸の砂に直接植林をしていた場所は、倒れてしまっている。仙台空港付近の北釜地区では、海外防災林が津波から一定程度、住民を守った。それによって避難する時間があった、という。深沼海岸の近くではほとんど残っていない。ほとんどが押し波で倒された格好になっている。そのため、避難は時間との勝負だった。
     体育館は全壊している。避難所は小学校の校舎内だけだった。それも2階までは津波によって浸水したため、3階で過ごすしかなかった。

     「避難民は区域ごとに別れました。荒浜北、荒浜南、荒浜東、荒浜西、荒浜新町の5区あります。その区域の方々が、教室ごとに別れ、避難することにしていました。暖をとる方法はありませんでしたが、毛布がありました。といっても3人に1枚とか、あるいは2人に1枚という程度だった。毛布の下に段ボールを敷いたりしていました。その段ボールは、もともと毛布を入れたものです」

     しかし、荒浜は一体が津波で浸水していた。仙台付近は仙台東部道路が「堤防」の役割を果たし、そこが津波浸水エリアの境界線となった。そのため、広大な被災地域のために、避難している人たちを捜すのに時間がかかっていた。

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    行方不明者の捜索をする警察。2011年3月22日、仙台市若林区荒浜 

     「だんだん暗くなっていきました。救助隊のヘリが小学校の屋上にやってきました。ヘリコプターで救助だというので、私どもも「やっと救助されるんだなあ」と思ったのです。そのときに、各区の避難民の人数を数えたら、263人いました。その人たちを救助をいっぺんにするかというとできません。
     そのために、まずは未就学児、小学生、中学生、高校生と、子ども優先にしました。そして、具合の悪い人、障害者、高齢者の女性、高齢者の男性という順にトリアージしました。これがヘリで救助してもらう順番づけです。
     その順番でヘリに救助していただくが、ヘリは一機飛んで来て、3人が救助されるといった程度でした。ヘリからロープが降りて来て、救助するのです。それで次のヘリが来るんです。しかし、荒浜だけが被災しているわけではないために、救助ヘリはいろんな避難所を回ってくるんです。
     ですから、2時間経って、ヘリがくるという間隔でした。3人救助できるヘリだったり、5人が救助できるヘリのときもありました。200人以上いるのに、そんな状況です。次のヘリがくるのに2時間、3時間経ちます。そうした中で、私どもは救助されるのを待っていたんです」

     津波被災地は仙台市だけではない。岩手県から千葉県までの広大なエリアが被害を受けている。そのため、自衛隊や消防、警察の救助活動は難航している。他の都道府県からの応援で入るものの、津波浸水エリアが広くて、思うように救助が進まない。そのため、孤立した避難所でも、電気や食料がないまま、待つしかなかった。

     「子どもたちも寒い。毛布だけではどうにもならない。残っていた先生方は教室のカーテンを外したり、あるいは、暗幕を外したりしながら、子どもたちを廊下に寝かせて暖をとるようにしました。とにかく、教室の中から暖かくなるものを持ち出して、廊下にいる子どもたちに与え、救助を待ったのです」

     ようやく救助ヘリが到着する。時間が何時なのかを覚えている人はほとんどいない。「暗くなっていた」ことしかわからない。

     「ヘリがくると音がします。「来た!」という声があがります。しかし、まだ子ども達は残っています。「まだ、高校生までいかないの?」とつぶやく声も聞こえました。夜は、寝るに寝れない。着の身着のままですから、大変な状態です。そして、朝方になり、やっと病気の方、高齢者まで回ってきました。救助される方が多くなってきましたが、朝の7時、8時になると、陸路から救助隊がやってきました」

     救助ヘリが来ても、避難民全員を救助するには時間がかかる。それだけ、救助活動が拡散していたのだ。そのため、津波による浸水が徐々にひいてきたときに、歩いて避難するグループも出て来た。

     「『腰まで濡れても歩ける人、いろんな瓦礫があるので、多少、けがをしてもいいという人、一緒に歩きますから、避難の準備をしてください』と救助隊員が言ったのです。『俺も歩く』『私も歩くわ』。そのとき40人くらいが名乗り出た。それは、なぜか。ここにいたのでは、一回3時間待ち、4時間待ちです。一日20人か30人しか救助されない。それでは何日ここにいるかわからない状態です。
     食べ物もアルファ米しかない。アルファ米も温水があれば暖かくなるが、何もない。水はペットボトルしか備蓄がない。あの備蓄水を50食分のアルファ米に入れましてね。ドクドクと。お米を炊くと150分かかりますと。これは腹がすいても止むをえない。乾パンみたいなものはありました。
     でも、それをポリポリ食べても、配食されればなくなります。ということで、食糧も限定されているから、それほどない。いつまでいるかもわからない。そしたら、陸路を歩いてでも、避難したほうがいいと判断された方が多かったんじゃないでしょうか」

     「これ(長い紐)に伝わって、これに出てください」

     救助隊が示す紐を目印しに、40人ほどが救助されていった。しかし小学校の昇降口は瓦礫の山。昇降口の南も北も簡単には出て行けないような状況だった。材木を片付けて、歩けるような通路を作って、出て行った。

     学校内では構内に設置されている消化用ホースが放置されていた場所が多かったが、それは避難用のロープとして使われていたのだ。そのホースに捕まって、歩いて避難する。しかし、海水にぬれることを覚悟できても、足下には何があるかわからない危険な状態ではあった。それにもかかわらず、徒歩で避難したのは、それだけ切羽詰まっていたということになる。

     「ヘリで救助されるときは、ブラブラしているもの、手荷物はダメでした。ペットはダメ、という制約があったわけですね。でも、リックサックはいいですよ、ということになった。ヘリでつり上げてもらうために、ブラブラしたものは危険です。そのため、ペットのいる方は後回しです。ただし、犬をだっこすれば脱出できると思った人は、歩いていった人もいました。歩いてもいけないという人は、犬も一緒に残ったのです。
     まだまだ救助されない人がいる。午後3時すぎに救助ヘリが来ました。ところが、屋上じゃなく、地面に降りたんです。水が引いて来きたからです。荒浜地区は全滅という風景でした。ヘリコプターはいますぐ全員を救助するという方針になりましたが、残っている人は120人ほどいました」

     「順次、みなさんを救助します」

     救助ヘリからそうした声が聞こえた。翌日には荒浜小学校に避難している人がいることが伝わり、次々にヘリがくるようになった。

     「ヘリコプターは次から次へと降りて来たんです。そのヘリには3人乗り、5人乗り、8人乗りのものもありました。どこへ行ったかと思うと、自衛隊の霞目駐屯地です。そこへ行っては降ろし、行っては降ろしの繰り返しをしていたんです。あそこに避難した人は全員救助された。最初は何日かかるかはわかりませんでしたが、そうやって救助されたのです。12日の夕方、暗くなりかけのころでした。4時半ごろでしょうか。
     津波当初は、パニック状態です。電話は全然通じない。携帯電話はだんだん電池がなくなります。そのうち、電池切れです。方法はなにもございません。ヘリで救助されて、八軒中学校に世話になりました。この地域の方々が避難されていました。その方に、「充電器を貸してくれない?」といい、貸していただいて、差し込み口が10個ぐらいあるものとか、メーカー共通の充電器を貸してもらいました。それを変わる変わるみんなで使っている状態です。だから、当初、連絡手段は何もないんです」

     こうしたようやく避難所での生活が落ち着きを取り戻していた。避難所は混乱し、また、緊張や不安でピリピリした空気が漂った。そのため、一部の避難所では、「報道陣立入り禁止」の張り紙まで出されていた。

     「もう10日が経ちます。消息が分かって来て、なかには遺体で発見されたという連絡が入るんです。近所でみんな生活していました。お互いに情報交換しながら、「どこどこの家にお世話になってる」とか入ります。車で逃げた方がどこにいるかわからないんです。とにかく命をいただいたわけです」


     
    [取材]渋井哲也(しぶい・てつや)
    1969年、栃木県生まれ。長野日報社記者を経てフリーライター。自殺やメンタルヘルスやネット・コミュニケーションなどに関心がある。阪神淡路大震災以来の震災取材。著書に「自殺を防ぐためのいくつかの手がかり」(河出書房新社)など。ビジネスメディア「誠」( http://bizmakoto.jp/ )で、「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」を連載。
    渋井哲也の「てっちゃんネル」
    http://ch.nicovideo.jp/channel/shibui
     
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