セントラルリーグCSファイナルステージ、レギュラーシーズン1位の巨人に四タテを食らわし、阪神タイガースを球団史上初のCS制覇に導いた和田豊監督(52)。しかし、2011年オフの監督就任直後から、チームは予想外の苦戦を強いられ、初年度である2012年は5位、2年目の昨年はレギュラーシーズンこそ2位で終えたものの、CSであっさり敗退するなど、思うような結果が残せず、これまで、彼の監督としての手腕はお世辞にも良い評価を得ているとは言いがたいものであった。しかし、試合後の談話で時折覗かせるように、和田はいくら苦しい境遇に置かれても、決して腐ることなく、チームを勝利に導くために、コツコツと地道な努力を続けてきたのである。
84年オフのドラフトで日本大学から3位指名を受けた和田は、かつて、安打製造機としてチームを牽引した名遊撃手・藤田平の背番号6を与えられ、1年目から内野の控えとしてベンチ入りを果たす。しかし当時の阪神は球界一二を争うほどの選手層の厚さで、88年に村山監督が抜擢するまで、レギュラーの道は遠かった。それでも和田は堅実な守備と、送りバンドや右打ち、そして出塁に欠かせない選球眼を地道に磨き、徐々に頭角をあらわしていく。決して結実したとは言いがたいが、「チームのためにできること」を模索した結果、脚力を生かす目的でスイッチヒッターに挑戦したことさえあった。
その後、磨きに磨いた選球眼と、バットコントロールの巧みさなどから、主に1番、2番を任されることの多かった和田は、後ろに控える強打者のために、自身の成績を省みることなく、ひたすら出塁することを徹底し、文字通り、相手投手から嫌がられる、実にいやらしいバッターへと成長していくこととなる。ランナーのいるときは最悪でも進塁打、あわよくば相手守備の穴を狙っての華麗な右打ちを、そして、二死走者なしで立つ打席においては、直前に打席に立っていた投手がコンディションづくりを行えるよう、自身の打席を犠牲にしても、ひたすらファウルで粘って時間を稼ぐ。現役時代の和田は、チームメイトへの信頼を胸に、絶えずこうした地道なフォローと、自己犠牲を黙々と重ねて、チームの勝利に貢献し続けてきたのである。
そうした和田の野球へのスタンスは、監督となった今でも変わることはない。若手選手の勇み足を批判することは滅多になく、不振にあえぐ中心選手には、その傍らに寄り添い、二人三脚で不振からの脱却を目指す。喜怒哀楽をあまり表には出さず、マスコミやファンからの批判は自身が吸収し、ただひたすらに選手を信じて、勝つための努力を無言で積み重ねていく...この2年間、和田と同様に批判の対象とされ続けたベテラン・福留が、節目節目で若手を叱咤激励し、また、自身を起用し続けた和田に報いるがごとく、CSで快打を連発したのも、絶えず和田が積みかせねてきた選手との信頼関係あってのものだと言えるのではないだろうか。
阪神がCSファイナルで見せた下克上劇は、和田の生き様からすれば、あまりに鮮烈で、一見、不似合いすぎる派手な勝利として、多くの人々の目に映ったことだろう。しかし、その鮮烈な快進撃を生み出しているのは、現役時代から黙々と続けられている、こうした、和田のあまりに地味で、生真面目な勝利への努力なのかもしれない。
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