【コラム】グループダイナミクスの闇 ~裏切ったら自分が殺される~
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【コラム】グループダイナミクスの闇 ~裏切ったら自分が殺される~

2020-01-24 07:05
    オウム真理教

    え?頭のオカシいカルト教団の、なんか難しい話!?
    と思われる方、確かにそうだけど、だんだん身近な問題になっていくから頑張って読んでほしい(´・ω・`)

    さて、去る2018年7月6日に、オウム真理教の教祖であった死刑囚:麻原彰晃(こと、松本智津夫)の刑が執行されたのは記憶に新しい。
    最終的に「地下鉄サリン事件」という未曽有のテロを起こした集団に属する人たち、しかし、その人たちはどこにでもいる普通の人だった

    教団に入ったのは、ささいな出来事だったのだろうと思う。
    ちょっとした悩みがあった、だとか、知り合いが入っていた、だとか。
    教団が「心地いい居場所」になってしまった時に、その人は気づかぬうちに、破滅へと向かう坂道を転がり落ち始めることになった。


    【他の人と一緒、という安心感】

    社会の喧騒から離れ、同じ理想(解脱)に向かって、同じ修行をする。
    苦労を共に分かち合う。

    非常に心地がいい環境だったろう。

    ここまでは何の問題も無かったということも安易に想像できる。
    なぜならそれは、例えば「学生が部活で、仲間とともに県大会で勝利を目指す」といったものと、全く同じだからだ。
    「あいつも苦労してんだから、俺だけ泣き言いっていられないな…」
    良いモチベーション、まさに「切磋琢磨」という言葉がふさわしい関係である。


    オウム真理教が「おかしく」なった決定的な事柄は、最初に出た死者と、その処理の仕方にあったと思う。
    教団で最初に出た死者は、1988年の9月。
    修行中に暴れだした信者を、他の信者が風呂場の水に頭を浸けて溺死させてしまった。
    ここまでは、まだ「痛ましい事故」であったが、証拠の隠滅を図った教祖の命令で遺体が焼却処理されたあたりから、全てが狂い始めた。
    極めつけは、この、「死なせてしまった」ことを苦に教団を抜けようとした信者を、教団は意図的に殺したのである。

    これが、決定的になった。

    教団全体の空気が、「(修行で)死者が出ても仕方がない」「裏切り者(裏切ろうとしたもの)は死んでもらう」に染まってしまったのだ。
    以降は、教団全体が破滅の道を突き進むことは、皆さんもご存知の通りである。


    さて


    このオウム真理教の事例において、「集団」の中で「個人」の気持ち(心の在り方)がどうなったか、改めて読み解いてみたいと思う。

    入団(集団に属する)前…何かしら悩み・不安・不平不満などストレスを感じている
     ↓
    入団…同じ目的に向かい、仲間とともに進む心地よさ。安心感。
     ↓
    死亡事故発生…痛ましい事故が起きたと感じる。※個々により感じ方に大きな差がある
     ↓
    脱会しようとした信者が、教団に殺される…もう、抜けることができないと確信する


    この、心の動き方は、「いじめ」を集団で行う人々の心情と、とても酷似していると感じた。


    集団に属する前…何かしら悩み・不安・不平不満などストレスを感じている
     ↓
    集団に入る…共通の話題。基本的に自分の意見に賛同してくれる仲間。感じる心地よさ
     ↓
    誰かを攻撃(いじめ)対象にする…「いいじゃん、やっちゃえ」「こんなことしていいのかな…」
                ※個々により感じ方に大きな差がある
     ↓
    イジメを辞めた仲間を、次のイジメの対象にする…自分もイジメ続けるしかないんだと、確信する


    オウム真理教も、このイジメ集団も、最初は悪いこと(凶悪犯罪、イジメ)をしたいと思ってはいなかったと思う。
    ただ、共通している点がいくつもあり、例えば外界と隔絶されたコミュニティであるという点、同じような思想を持った仲間だという点。
    これらの影響で、基本的に賛同の声しか上がらない環境だという点である。



    保育士が子どもを叩いた?というニュースの考察で、「エコーチェンバー効果」というものがあると紹介した。
    自分の意見に賛同する意見ばかりが周りに溢れると、自分の意見が強化されてしまうという効果だ。
    まさにオウム真理教でも、このイジメ集団でも、同様の効果が起きていたと分かる。


    【大事なのは、「異を唱える」こと】

    オウム真理教でも、イジメ集団でも、最初の段階で「おかしい」と思った時に強く異を唱えられる人がいたら、結果は変わっていたかもしれない
    イジメも、「ついやっちゃうよねw」とナァナァに済ますのでなく

    「これはさすがにやっていいレベル超えてるでしょ。どんな理由があろうと絶対にやっちゃダメだよ」

    そう言える人がいれば、本来起こらないはずである。


    【ぶっちゃけて言おうか】

    ○○○が悪口を言われた問題に繋がるんだよ(´・ω・`)

    そもそも私は「異を唱える人」であると自負してる。
    正直、空気は読まない。正しいことは正しいこと、だからだ。
    「今までやってきたから」「そうなってるから」と、悪いことを見逃してはいけないと思っている
    だから構わず言ってきたし、だから反発されることもあるし、孤立もしている。
    でも、間違ったことは言ってこなかったと、自信をもって言える。

    言われた悪口の中に、頭がいいから嫌いみたいなニュアンスのことが含まれていたが、そこに由来している。
    堅物なんだよ、融通が利かないの。
    でも、ダメなもんはダメでしょうに(´・ω・`)

    「異を唱えない」で、悪いことでも目をつぶって、ナァナァにした結果、破滅的な事件を起こした集団を知っている。
    身近にも、イジメ集団という形で見えている。

    「集団」に身を浸し、その心地よさに揺蕩(たゆた)うのは、とても気が楽だろう。
    ただ、「集団」の行き先を決めるのは、集団に属するあなたの手に委ねられているということも絶対に忘れてはいけない
    「集団」が、おかしな方向に行こうとしているときに、異を唱えることができるか。
    それができなければ、「集団」が心地のいいものでなくなるどころか、抜けたくても抜けられない事態にもなりかねない。
    もしそうなってしまったら、「集団」に属するあなたに待っているのは、『「集団」の死』か、『「自分」の死』しかなくなるんだよ。

    おかしいことには「それはおかしいでしょ」「それはやっちゃいけない事でしょ」と、言える強さを持とう。

    改めて問おう


    いま、あなたが属する「集団」がやっていること・やろうとしていることは

    「おかしなこと」じゃないですか?

    「集団」にとって、身勝手になってませんか?



    常に「正しさ」って何かを、問い続けなければいけないと思う。

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