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【サンプル記事】永井秀彦
.今回のインタビューは、永井秀彦さんです。
永井さんは、1980年代初頭、ポスト・パンクムーブメントの時代から、音楽活動をされていらっしゃいます。
永井さん、久保田亮さん、中村達也さんの3人で結成された”ザ・ショッカーズ”からはじまり、”HIDE&BILLY”、”バケラッタ”、そして現在は”ぶどう÷グレープ”として活動されております。
ご自身の活動を振り返りながら、当時交流のあった方や場所、聴いていた音楽など、お話いただきました。
聞き手 : 村田和一
_____永井さんは1980年代初頭からバンド活動をされており、非常に長い活動歴をお持ちです。1980年代初頭といえば”東京ロッカーズ”の直後のポストパンク〜ニュー・ウェイヴの時代かと思います。当時の音楽シーンは、非常にエキサイティングなものだったのではないでしょうか。
永井 : 高校一年生の時、Sex Pistolsを聴いて、身体が痺れたような感じになった。それはその音楽が好きとかキライとかいうレベルじゃなくて、ある種の啓示みたいなもので、とにかく「こうしちゃいられない」と、ソワソワし始めたんだ。特に楽器も出来ないのにね。イギリスから次々出て来るパンク、新しい流れのバンド、そしてそれらに影響を受けた日本のバンドも活動し始めて、それらを聴きまくってたんだけど、とにかく情報が少なかった。音楽誌も保守的であまりそのへんは紹介されてなかったんだな。
_____この時代に、永井さんはどのようなきっかけで、ご自身の音楽活動を始められたのでしょうか ? そして永井さんにとっての最初のバンド”ザ・ショッカーズ”は、久保田亮さん、中村達也さんという錚々たる面々から構成されました。彼らとはどのように出会い、バンド結成となったのでしょうか ?
永井 : 学校でもパンクやニュー・ウェイヴなんかを話題に出来る友達なんて、ほとんどいないから、一つ先輩のベース弾き久保田亮が同じ音楽にハマってると知って、すぐにつるむようになった。必死でギターのコードを覚え、修得するより前のめりな感じでオリジナル曲を作っては、久保田亮とカセットに録音したりしてね。怖いもの知らずにも、それらをパンク、ニュー・ウェイヴ系のバンドをプロモートしていた名古屋のイベンターに送ったんだよ。何がどう間違ったのかそのデモテープが意外にも気に入られて、ドラマーの中村達也を紹介してもらった。彼もパンクにはまっていて、自分が活躍出来そうなバンドを捜していたんだね。それが僕の最初のバンド「ザ・ショッカーズ」だよ。
_____その「ザ・ショッカーズ」の結成が1981年。当時は、どのようなバンドと共演されたのでしょうか ?
永井 : 前述のプロモーション会社がバンドの事務所的な役割だったので、ぽっと出のバンドながらメジャーバンドの前座を務めるのが活動の中心だった。ルースターズ、S-KEN(東京ロッカーズの重鎮)、イミテーション(exサディスティック・ミカ・バンド、今井裕のバンド)、白龍(よくVシネマで怖い役やってる)、ノーコメンツ(日本のスカバンドの先駆け)、なんかとやったな。怖いもの知らずの十代だから、当たり前のように強気で演奏してたよ。
_____その翌年には、S-KENさんのプロデュースのもとレコーディングを開始されました。これは残念ながら発売に至らなかったのですね。
永井 : S-KENにシングルをプロデュースしてもらえる事になって、名古屋から出向きました。目黒のマッドスタジオね。当時はちゃんとしたスタジオでレコーディングするなんて、月に行くくらいの事だったから(笑)さすがに緊張したけど、とても良い仕上がりになった。タイトルは「骨なし魚のフライ/何を背負ってるの」。その後、事務所とケンカして、結局リリースされなかったんだ。マスターテープはどうなったんだろう。あれはちょっともったいなかったな。スタジオにはその後、くじらで活躍する杉林さんが遊びに来てくれて助言してくれたし、レコーディング直後に浅草でS-KENとやったライブでは、楽屋にMODSの森山さんが居たりしてさ。若造の僕らはちょっと舞い上がってたかもね。
_____そのシングルは、ぜひ聴いてみたかったですね ! その後、バンドはメンバーチェンジをされたのですね。
永井 : 第一期ショッカーズの後は何人かメンバーが入れ替わり、最終的にはキーボーディストを加えた4人編成、オリジナルメンバーは僕だけという形に落ち着いていくんだよね。浮き沈みしつつも、もう一度、盛り上がりのピークはあったよ。
_____そしてメンバーチェンジ後にオムニバス「DANCE & BEAT’85」に参加されます。これは名古屋のライブハウス「ELL(エレクトリックレディランド)」が1978年に始動した、ライブハウスと同名のELLレーベルからのリリースですね。このオムニバスには、ザ・ショッカーズ以外にどのようなバンドが参加されていたのでしょうか ?
永井 : ELLレーベルからのオムニバスは、それまで幅を効かせていたメタル勢に変わって、徐々にシーンを揺さぶり始めたビート系のバンドを中心としたアルバム。僕らに加え、The Rolling Live、The Newz、Moral、Bronx。80’後半あたりは、みんなELLで大活躍してた。
_____ザ・ショッカーズの収録曲は何という曲でしょうか ?
永井 : ショッカーズは「墓場でPAN PAN PAN/やくそく」の2曲で参加。一時期は、バンドより、「墓パン」と呼ばれたその曲の方が、浸透度が高かったんだ。前述の「骨なし」もそんな感じ。墓パンやってるバンド、骨なしやってるバンドって紹介されてた(笑)。時期毎に強烈なオリジナル曲でクサビを打つというような感覚は、この頃からずっと今まで続いてると思う。シングル切るみたいな雰囲気で、アルバムから強烈な一曲をPVにしてる。
_____この時期になりますと、初期の頃とはだいぶ異なる顔ぶれのバンドとの共演をされていたのでしょうか ?
永井 : その時期、周りにいたバンドに共通するのは、皆、もともとはパンクムーブメント以降の音楽に触発されて始めたっていう事だね。なので、最初期の頃からやたら顏を合わせる間柄ではあったよ。フリクションだのスタークラブだのラモーンズのライブに行くと居合わせるみたいな。ほぼ同時期にバンドをスタートさせて、その後、それぞれの音楽的方向性がよりはっきりして、ELLでしのぎを削り合うようになっていくんだ。
_____永井さんは、この頃にラジオ番組のパーソナリティをされていたそうですね。
永井 : ラジオは、ELLがスポンサーの番組で1年1ヶ月、喋ってた。ELLに出演してたバンドの曲を中心にかけてたな。地元バンドもイケてるのがいっぱいいたし、売れる前のユニコーンとかBUCK-TICKとか来てて、刺激的だったよ。ジョニーサンダースが来たときはニューヨークパンクの特集を組んだりしてね、楽しかったな。番組のテーマ曲は「墓パン」と「やくそく」(笑)。
_____そして1990年、トランジスタ・レコードより、ザ・ショッカーズ初のCD「触角の唄」がついにリリースされました。全7曲入りのアルバムですが、リリースされたことによるバンドとしての感触や、バンドを取り巻く環境というものは変わっていったのでしょうか ?
永井 : トランジスタ・レコードからCDを出した頃は、実は、もうバンドの人気ピークは完全に過ぎていて、テンションも低かったからあまり印象が良くないんだ。トランジスタは、バカ売れしてるハウンドドックや尾崎豊の事務所、MOTHERの子会社だったから、落ち目のショッカーズといっても、レコーディング費用だけはしっかりかけてくれた。ヤマハのリゾート地、合歓の里にあるスタジオで、録音よりはただ遊んでた印象のほうが強いな。その頃になると同期のバンドは中途半端にメジャーに行ったり、解散したり。ELLでも新勢力の元気な若手バンドに押されはじめて、辛い状況だった。
_____約10年近く活動してきた、ザ・ショッカーズですが、その後どのようになっていくのでしょうか ?
永井 : 引き潮のようにお客さんは減って行き、メンバーも不仲になり、もうショッカーズはどうにも先がない雰囲気になってたね。それでもELLだけじゃなく、京都の拾得、横浜ビブレにあったライブスクエアなんかが見捨てずに、応援してくれてたな。期待には応えられなかったと思うけどさ。解散ライブと銘打ってのライブは無かったけど、一応最後になったのが、1991年大晦日、多くのバンドが出演するELLでのオールナイトライブへの出演。象徴的だったのは、客席にオリジナルドラマーであった中村達也がいて、急遽、最後の曲に飛び入りする事になったんだ。ショッカーズ最後のライブ、最後の曲でね。その時、達也はブランキージェットシティがブレイクして時の人になってたから、その時だけ会場が盛り上がってしまい、まあ複雑な気持ちではあったね。ドラマーは達也に始まり達也で終わったわけだ。ともかく自分は先が見えないし、不甲斐なさでいっぱいだったよ。
_____ザ・ショッカーズが終焉を迎え、新たに「HIDE & BILLY」の活動がスタートします。どのような経緯、コンセプトで「HIDE & BILLY」は始まったのでしょうか ?
永井 : バンドが無くなっても音楽活動を止める気はなく、半ば意地で、同じペースでブッキングしてた。だからそのまま、ショッカーズで鍵盤やってたビリー藤原と2人でも出来るアコースティックなスタイルでHIDE & BILLYを始めたんだ。デビューライブはミスチルとの対バンなんだよね(笑)。パンク的なシンプルさとは別の「ウタ」への原点回帰が出来たから、ヒデビリの活動は意味のあるものだったよ。
_____「HIDE & BILLY」としての作品のリリースはあったのでしょうか ?
永井 : トータルでアルバム1枚分くらいのレコーディングはしたけど、リリースはしなかったな。そういえば、2010年くらいになって、ショッカーズ最初期の事務所社長と和解したんだけど、その人がHIDE & BILLYの音源をやたら気に入って、それらを「ヒデヒコ」という名義に変えて、ネットで売りたいと言って、独自に売り始めた。でも大した宣伝力じゃなかったし、それほど動いてないんじゃないかな。
_____岡崎八曜舎のお話を、ぜひ聞かせてください。
永井 : HIDE & BILLYも当初は古巣のELLを中心にライブをやっていたんだけど、周りはロックバンドばかりだから、アコースティックユニットはイマイチ馴染めない感じがしたんだよな。対バンしても、どうしても音圧感で負けちゃうし。でも逆に2人でお互いの楽器を持って出かければ、軽いステップで何処でも演奏が出来るメリットはあった。岡崎八曜舎は、愛知県の城下町、岡崎の駅裏、線路の脇の目立たない場所にひっそり存在するハコ。十畳くらいの、畳ばりで、靴を脱いで入らないといけないもんだから、友達の部屋でやるみたいなもんだったよ(笑)。ヒッピーくずれみたいなマスターがやってた。裸電球の照明だし、電車が通る音で演奏が妨害されちゃうような、ひどい環境だったけど、自分達も落ちぶれていた頃だし、わりとしっくりくる感じはあったよ。70’sからやってる店で、友部正人さんや高田渡さんをはじめ、フォークの大御所はほとんど出演してるだけあって、実際、お客さんが入って演奏が始まるとお店オーラみたいなのがちゃんと感じられるから不思議だったな。
_____HIDE & BILLYのその後の活動は、どのようになっていくのでしょうか ?
永井 : しばらくは毎月、八曜舎でやってたから、それを楽しみに集まってくれるお客さんが定着していって、それなりに楽しかったけど、やっぱり、ドラム、ベースを入れたバンドスタイルも恋しくなってきてね。名古屋のハコでやる時はリズム隊を入れて、演奏すようになっていった。HIDE & BILLY with Q-van Tacosなんていう名前でやってたな。どうしてもロックバンドスタイルな磁力に引っ張られてる感じだったよ。
_____アコースティックデュオからバンドスタイルに戻っていく、という過程での自然な流れだったのですね。1995年に「バケラッタ」がスタートするわけですが、これは結成というよりも自然な変化・流れによるものだったのでしょうか?バケラッタのメンバーは、どのように集まっていったのでしょうか ?
永井 : HIDE & BILLYのリズム隊は流動的だったから、パーマネントなメンバーが必要だと思った。現役感を保つために、若い2人を見つけた。ちなみにその内1人は、今も腐れ縁が続いて、ぶどう÷グレープでも叩いている、村上太一だよ。最初はHIDE & BILLY &アイドルズなんて名前でやってた時もあったな。僕がアコギからエレキに持ち替えて、HIDE & BILLYの曲から、どんどん新曲へと移行して行って、自然にバケラッタというバンドになったんだ。
_____アコースティックデュオからバンドスタイルに戻り、やはりライブ熱は高まったのでしょうか ?
永井 : 確かに平均年齢が下がり、バンドスタイルになって、より元気なライブをやり始めたんだけど、今から思うと、バケラッタ当初はまだまだ吹っ切れ感がなかったな。
_____1997年にアルバム「スペイン」がリリースされます。1995年のバケラッタ結成からアルバムまで、順調に一直線な勢いある流れだったのでしょうか ?
永井 : きっかけは、ビリーの家で古いアナログシンセを見つけたあたりかな。ちょうどその頃、世の中のシンセサイザーはすべてデジタルに移行していて、1980年前後や、それ以前のアナログシンセなんて、誰も見向きもしなかったんだ。それが逆に新鮮に思えた。ポリシックスなどから始まる、ニューウェイヴ・リバイバル以前の事だからね。ともかく、その古いシンセを鳴らしてみたら、ショッカーズ初期の感性にぐーんと引き戻されて、やりたいことが明確になったんだ。すぐに「コレクション」や「VIVA TV」といったバケラッタの代表曲となる曲を始め、ソリッドな新曲がどばっと出来て、レコーディングをスタートさせた。それが1stアルバム「スペイン」にまとまっていくんだよ。某メジャーレーベルのディレクターがそれをやたら気に入ってくれて、リリースの雰囲気もあったんだけど、上層部からダメが出たようで、最終的には老舗インディーメーカー、VIVIDからの発売となったんだ。
_____VIVID SOUNDといいますと、名盤復刻のレーベルという印象がありますので、そこからバケラッタのアルバムがリリースされるというのは、当時としては珍しかったと思います。
永井 : そうだね、VIVIDは復刻盤に力を入れてた。日本の70’sあたり、はっぴいえんどやムーライダースのアナログ盤とかやってた事に気を引かれたよ。VIVID制作の音源リリースはそんな中にぽつんぽつんとあるだけだったね。彼らの特殊なお眼鏡にかなったわずかなアーティストだけが、所属してるって感じだった。バケラッタは没になったメジャーレーベルディレクターの強いプッシュもあったおかげで、契約まですんなりいったよ。初めてVIVIDを尋ねた時は、自社ビル最上階にわりと立派なスタジオがあるのを見てびっくりした。
_____松井さんが加入されたのはこの時期でしょうか ?
永井 : 松井加入はもう少し後だね。1stの「スペイン」その後、マキシシングル「コレクション」を経て、そろそろ2ndの制作に入るという頃、やめた菊池に変わって加入したんだ。
_____4月にアルバム「スペイン」、10月にマキシシングル「コレクション」と同年で作品を連続リリースされました。当時の永井さんにとってのバンドの手応えは、いかがでしたでしょうか ?
永井 : ライブのテンションも高くなり、新しいシンパが増えてきた時期だね。ライブハウスでも、最前線で頑張ってる若い奴らと再び絡む事が出来るようになって刺激的だった。「スペイン」の中の「VIVA TV」という曲が名古屋の有力FM局で頻繁にながれて、その週の問い合わせチャートでは1位になったんだ。確かに害のないJポップの中で異彩を放っていたよ。そんな事もあって「スペイン」はそこそこ売れた。でもレーベルが欲をかいて「VIVA TV」を含むマキシシングル「コレクション」を出したのは失敗だったな。全4曲中、2曲がアルバムとかぶってるわけだし。
_____そして翌年にはセカンドアルバム「フロイコ」がリリースされます。かなりハイペースでのリリースかと思います。当時は楽曲制作がのっていた時期だったのでしょうか ?
永井 : その時期は曲作りもノッていたよ。ビリーが小さなレコーディングスタジオを持つようになったから、時間をたっぷり使って実験的な録音をしながら、曲を完成させていけた。ちょうど、1st録音の時期に生まれた長男が、2nd録音の頃には鳴りもののオモチャで遊ぶようになってたから、それらをサンプリング&ループさせて、曲を作っていくのも楽しかったな。それが「フロイコ」にまとまっていく。
_____この頃に、山田ミドリさんが加入されますが、ミドリさんはキーボードということで、楽器がビリーさんと被ります。その辺りはどのような経緯だったのでしょうか ? 1998年の「フロイコ」リリース当時のことを教えてください。
永井 : 「フロイコ」に関しては1stからバケラッタイチオシできたディレクターが担当を外され、リリース前は波乱含みだったよ。マスターはメジャー会社でも打診されて、発売も半決まりだったけど、結局ポシャった。最終的にはVIVIDからの発売になったけれど、ほとんど宣伝もされず、売れなかったよ。ビリーはショッカーズの頃から、音を録る、エンジニア寄りのやつだったんだけど、その頃は自分のスタジオを持ち、それが仕事になり、徐々にバケラッタの活動と並行する事が困難になっていったんだ。そこで、自分は録る側に専念するという事で、キーボードの代役を見つけてきた。それがミドリちゃん。天然不思議ちゃんの登場によって、それまでになかったPOPな領域に引きずり込まれたよ。
_____翌年1999年には、サエキけんぞうさんプロデュースのオムニバス「DRIVE from 2000」に参加されます。サエキけんぞうさんから、直接お誘いがあったのでしょうか ?
永井 : ミドリちゃんが入って、バンドに馴染んだ頃だったな。いいタイミングでサエキけんぞうさんから連絡がきた。直接の電話だったよ。サエキさんはロックシーンの新しい動きにとても鼻が利く人で、ニューウェイヴ・リバイバルというのかな、同時多発的に表れた、POLYSICS、SKYFISHER、SPOOZYS、MOTOCOMPOといったバンドに注目してた。そして名古屋にはバケラッタがいるって、耳に入ってたんだね。オムニバスアルバムに参加させてもらい、その後に行われた、関連ツアーやイベントはすべて価値のあるものだったよ。
_____この時点で、永井さん、村上太一さん、松井保浩さん、山田ミドリさんという「次のバンド」の楽器隊が勢ぞろいしています。ここからどのように、バケラッタから「ぶどう÷グレープ」へ移行していくのでしょうか ?
永井 : DRIVE from関連も一段落して、定期的で安定したライブ活動を続けると共に、ちょっとした空虚感に取り憑かれだしたんだな。さあこれからバケラッタをどうしていこうかっていう時、どうも自分の中で先のイメージが湧かなかったんだ。年寄りがやってる重鎮アンダーグラウンドバンド的なポジションに落ち着いていくのは、イヤだなと思ってたよ。バンドをやり出してから、その時点で約20年。ずっと、オリジナル曲を作っては、自分が歌ってきて、それが当たり前になってたんだけど、ふと、誰かに歌わせてみたら、とひらめいた。出来れば若いヤツがいい。女の子にすれば、また曲のバリエーションが広がるな。なんて、思惑を始めた。メンバーに相談してみたら、唐突な意見だったようで、みんなに反対されたけどね(笑)。
_____約20年ちかく、永井さんが歌うことが当たり前だったところから、そのアイデアはみなさんビックリするでしょうね(笑)ではそこから女性のボーカリストを探し始めるわけですね。メンバー探しというのはなかなか大変だと思います。ましてや、一番先頭に立つバンドの顔ともいえるボーカルです。
永井 : 最初はミドリちゃんと僕の立ち位置を入れ替えて、彼女に真ん中でシンセ弾きながら、歌ってもらおうと思ったんだよね。曲もそれ用のを作って、一度、実験的にライブもやったな。ミドリちゃんのキャラは個性的だし、声もヘンタイPOPな方向でイケると思い、僕としてはそのカタチで進めたかったんだけどね。ミドリちゃん自身がフロントでやるのは無理だと弱気になってたからそれで終わっちゃったんだ。その後、若い女の子のボーカルを捜し求めて、四苦八苦。20人以上は会って話したり、声を聴かせてもらったりしたよ。メジャーレーベルのディレクターにオーディションに落ちた個性的な子なんかを紹介してもらったりしてさ。でも、なかなかピンとくる子に出会えなかった。
_____ミドリさんがフロントというのは今となっては大変貴重ですね。観てみたかったです ! その後のボーカル探しは、まだまだ続いたのでしょうか ? 運命の出会いはすぐにやってきたのでしょうか ?
永井 : くみんこは、実は、女性ボーカル捜しを始めて、一番最初に気になった子なんだ。同じスタジオ、隣り合わせの部屋で、バケラッタと彼女がやっていたバンドがリハをしてた。ギターアンプというのは、なんらかの加減でラジオのように音を拾ってしまう事があるんだけど、まさに求めていた女の子ヴォイスが聴こえてきたんだ。隣の部屋で歌ってる子の声だということが分かった。それがくみんこだったという訳。リハ後、どんな子かチェックしたところ、第一印象は自分より背が高いなという事。まったくセコイ話なんだけど、ステージ上、僕の横で自分より背の高い女性が歌うって事に抵抗があって、結局声はかけなかったんだよね。その後、ボーカル捜しに一苦労した後、念のためみたいな感じで、くみんこのバンドのライブに足を運び、はじける彼女を観たら「ああこれだ ! 」って、背に高さなんか、もうどうでもよくなってしまったんだ。声をかけて、強引にスタジオに呼んだよ。
_____永井さんの懸念されていたことを、軽くすっ飛ばしてしまうような衝撃だったのですね !
永井 : 衝撃というには、その時のくみんこは荒削り過ぎたけど、ダイヤの原石的な感触はあったよ。
_____スタジオにくみんこさんをお招きし、その後すぐにバンドに加入されたのでしょうか ? お話からしますと、くみんこさんは別のバンドに在籍されていますが。。
永井 : 他のバンドに在籍してる人を誘う時は、「そのバンドもやってればいいから、こっちもちょっと手伝ってみてよ〜」なんて声をかけるけど、すぐにこっちオンリーになるだろうな、って、心の内では考えてるもんだ。まあ実際、そうなったね。バケラッタで鍵盤やってたミドリちゃんは、その頃、わりと行き詰まっていて、フロントボーカルが代わるというバンドの大きな変貌タイミングで、リタイヤする事になった。これは痛手だったな。運の良い事に、くみんこがやっていたトロアボアというバンドの鍵盤、小島勇司くんが有能だったんで、一緒に引っぱりこんだ。これがぶどう÷グレープのスタートだよ。
_____ミドリさんがリタイアし、くみんこさんと小島さんが加入されました。この段階でバンド名を「バケラッタ」から「ぶどう÷グレープ」に変えられたのでしょうか ?
永井 : 何人かのボーカルを試してた頃には、どんどんニューバンドのコンセプトがはっきりしてきて、バンド名も先に決めてたんじゃなかったかな。
_____「ぶどう÷グレープ」という名前は、かなり個性的だと思います。この名前に至るには、どういったエピソードがあったのでしょうか ?
永井 : 子供が幼稚園から帰ってきて「僕はぶどうぐれーぷ」なんだよって、言ったんだ。よくわからないけど「ぶどうぐれーぷ」っていい響きだなと思った。結局それは「ぶどうグループ(ぶどう班)」を聞き違えただけの事なんだけど、そのままバンド名にしたんだよ。真ん中の「÷ 」はしばらくしてから付けたんだ。シンプルな数学記号をバンド名に使ったら目立つし、インターネットで検索する時に山梨県の葡萄園とかに引っ掛かからずに、すんなり見つけて欲しかったからね。
_____かわいらしいエピソードがあったのですね。ぶどう÷グレープ結成から、すぐに永井さんの40歳記念ライブが行われたようです。これは永井さんのこれまでのバンド、ザ・ショッカーズ、HIDE&BILLY、バケラッタ、そしてぶどう÷グレープ、すべてのバンドのメンバー皆さん集まって行われたのでしょうか ?
永井 : そう。勢いに任せて、自分の歴代バンドを結集させたんだけど、当日になって、それがどんなに大変な事かよくわかったよ。僕だけがリハから本番にかけてずっと演奏しっ放し。楽器を変え、衣装を変え、息を付く暇もなかったから大変だった。まあイベント自体はとても盛り上がったし、昔のメンバーと久しぶりに演奏出来たのは嬉しかったな。いろいろとあらためて感じる事も多かった。演奏スタイルは変われど、自分のやってる音楽の根底はずっと一貫しているんだなとかね。あと、長く応援してくれてるファンの人達がいてくれて、ホントにありがたいと思った。この時の大変さを忘れ、また50才で、同じような記念ライブをする事になるんだ(笑)
_____結成〜40歳記念ライブときて、少し間をおいて2005年にファーストアルバム「恋人はこうしてつくる」がリリースされます。翌年にはセカンドアルバム「そこから☆でてきなさい」と続きます。ファーストアルバムがリリースされるまでの期間は、ライブを中心とした諸々の準備期間のような感じだったのでしょうか ?
永井 : そういえば、40歳ライブの頃には、シンセのミドリちゃんが戻ってきたんだ。でも、そろそろファーストアルバムを、という大事な時に、ドラムのタイチが脱退するという事件が起きて、窮地に立たされたんだよ。バケラッタからの変化に戸惑っていたんだろうな。彼はサードアルバムから復活する事になるんだけど、その時は引き止められなかった。で、近場にいたミホちゃんという、小柄で可愛らしいキャラからは想像出来ないパワフルなドラマーがいて、彼女に手伝ってもらう事にしたんだ。
_____ファーストアルバム「恋人はこうしてつくる」はフラワーカンパニーズの鈴木圭介さんや、SIXの清野誠治さん、ママスタジヲの小泉大輔さんなど多彩なゲストを迎えて制作されました。ファーストアルバムでこれだけのゲストをお招きできるバンドはそうそうありませんから、インパクトのあるリリースだったのではないでしょうか。
永井 : アルバムリリースの話をVIVIDに持っていったら、予想外の快諾だったから、急ピッチでバンドをまとめて、録音に入ったよ。それまでのぶどう÷グレープは地元周辺でライブをやって、カセットの音源を売るだけだったし、まったくネームバリューも無かった。だからちょっとした、奇抜さが欲しいなと思って、後輩的な知り合いにゲスト参加を頼んだんだ。あまりそんな所で先輩カゼを吹かしたくないんだけどさ。圭介の歌、誠ちゃん、小泉くんのギター、みんなばっちりキメてくれたよ。
_____続くセカンドアルバム「そこから☆でてきなさい」では、サエキけんぞうさんが作詞で参加されます。これは1999年の「DRIVE from 2000」からのご縁かと思います。今度は作品に直接参加されるわけですが、どのような経緯から参加へのお話に繋がっていったのでしょうか ? またサエキさんの参加により、作品として得られたものはどのようなものでしょうか ? 余談ですが、サエキさんといえば、私は高校生の頃にその存在を知りまして、「歯医者のロッカー」ということで千葉県松戸市の歯医者さんでありながらパール兄弟という、とても個性的な方という認識でした。実際のサエキさんは、永井さんからみてどのような方なのでしょうか ?
永井 : サエキさんは、ほんとに多彩な事を精力的にやってる人。芸歴の長い大先輩であり、実績もいっぱいあるのにとてもフレンドリーな立場で接してくれるんだ。刺激的なアイデアも豊富で、ひょいと僕達の世界を広げてくれる。たまに無茶振りもあるけど、それに食らいついて行く事でバンドの実力も上がった気がするよ。セカンドの「ボタンを押し直せ」はサエキさんとの初共作曲だね。近頃はシングルカットという雰囲気がなくなっちゃったけど、アルバムのアピールに先陣を切らせるキャッチーな曲は必要で、それをPVにする事で前面に出してる。「ボタン」は良い起爆剤になったと思うよ。
_____2005年の1stアルバム、2006年の2ndアルバムと続いて、2007年には3rdアルバム「おとなたち×こどもたち」がリリースされます。2ndアルバムに続き、サエキけんぞうさんが作詞で参加されていらっしゃいます。そしてこの年、サエキさんのパール兄弟と東名阪ツアーをされていらっしゃいます。レコーディングでの関わりと、ライブを一緒にまわられるのとでは、関わり方が異なると思うのですが。
永井 : パール兄弟のギター、窪田さんもベースのバカボン鈴木さんも、日本のミュージシャンとしては一流であり大先輩なわけで、共演するのは、そりゃ、プレッシャーだったけど、やるからには喰ってやるくらいの気合いでステージに上がったよ。ベタで体験出来た彼らのライブだけでなく、ライブ後の打ち上げでの、いろんな音楽の話はほんとに刺激的だった。その時のパール兄弟のドラマーは宮川剛くん(THE BOOMや忌野清志郎のバンドで活躍)で、彼とは歳もわりと近いし、バカ話ばかりで呑みまくり、朝まで盛り上がって楽しかったな。ともかく長い事シーンに生き残ってるロックミュージシャン達は、皆、超タフだなあと思った。窪田晴男さんが2014年にプロデュースする、あがた森魚さんのアルバム「浦島64」のツアーで、名古屋でのバックをぶどうが務めさせてもらう事になったのも、不思議な縁だなと思うよ。
_____あがた森魚さんのツアーのバックを務められたのには、そこからのご縁があったのですね。この年、リクルート社タウンページのCMソングに採用されていらっしゃいます。CM採用でいきなりリクルート社のというのも、なかなか凄いことだと思います。
永井 : タウンページのCMはサエキけんぞうさんからだよ。彼が作詞する事になっていて、僕に作曲の依頼が来た。唄と演奏もぶどうにやって欲しいって。もちろん二つ返事でOKしたんだけど、その後が大変だったよ。イケてそうな曲を数曲プレゼンしたんだけど、代理店の担当からなかなかGOが出なくてさ、ようやく曲が通った時には、ヤケ気味になってたな。でもそのCMがオンエアされ、自分達の曲がTVから流れた時は嬉しかったよ。「たからのしまへ」という曲。あのCMだけで終わるのはもったいない名曲だと思うよ(笑)。
_____翌年2008年には、なんとUSAツアーを敢行されます。これは非常に好評だったと伺っております。バンドとしても相当にエキサイティングなツアーだったと思いますが、当時のお話をぜひ聞かせてください。
永井 : USAツアーはとんでもない体験だった。まずテキサス州ダラス、アニメコンベンションでのライブゲスト。3,000人のお客さんが最初から最後まで地響きのような大熱狂。ステージ後は物販スペースに長蛇の列。その時は、何故 ? とか分析する間もなく、ただサインに追われてた。ぶどう÷グレープを呼んでくれたアメリカのレーベルが、しっかり根回ししてくれていたから、その後の、サンアントニオ、ニューヨークでのライブハウスステージでも最初から、ぶどうを観に来てくれたお客さんが盛り上がった。それがその他のお客さんにも伝わって、会場全体の熱気が予想外に高まっていくという、スバラシイ公演になったよ。ライブ後は呑んで騒いで、、まあ、うかれ気味だったわけだけど、リーマンショック直前の時期だったからかな。その後がうまく続かなかったんだ。
_____この大成功のUSAツアーの年に、USA編集盤のベストアルバム「JUICE!」がアメリカで発売されます。これには日本盤のどれにも入っていない、あの「F・N・T!」が収録されています。私が当時レーベルを運営しておりましたときに、ぶどう÷グレープに共演をお願いし、東京でライブをご一緒させていただいたのですが、この曲を目の当たりにしたときの衝撃は今でも忘れられません。「なんてバンドなんだ!」と本当に衝撃でした。
さすがにこの「F・N・T!」の国内リリースは難しいですね(笑)
永井 : アメリカのレーベルが編集したベスト盤は面白かったね。普段日本でのライブで評判の良い曲とは、ちょっと違う選曲がされてた。「F・N・T!」、「ふんにょうたん」という曲はふざけて作り、音源はレコーディングスタジオではなく、いつものリハスタジオで僕がマイクを立てて簡単に録音しただけのものなんだけど、アメリカ人には予想外のウケ方だったな。ライブでは「CRAP! PISS! SPIT!」という英訳したでかいプラカードをかかげて、オーディエンスにも一緒に歌えるよう煽ったから、場内大合唱になったよ。残念ながら「F・N・T!」は国内盤には収録されてないな。(笑)
_____そしてこの2008年はリリースラッシュで、クロード・フランソワ・トリビュートアルバム「CLO CLO MADE IN JAPAN」への参加や、4thアルバム「愛もれ」、そしてミニアルバム「FIVE HITS & DUST」と次々に作品が続きます。当時のバンドの状況を教えてください。
永井 : トリビュートアルバム「CLO CLO MADE IN JAPAN」ね。フランス人の大御所歌手クロード・フランソワに関しての知識はなかったけど、サエキさんの誘われて、カバーしたよ。指定された曲を聴いた時は、ぶどうの雰囲気とは随分かけ離れてると思ったけど、録音してみれば結局はぶどうワールドに収まってしまうんだよね。こういう誘いは、躊躇せずに前向きにやってしまえばいいんだ。やる前のクソ不安要素なんか、やり終えて得た充実感に消し飛ばされてしまうんだからさ。確かにこの時期は早いペースでリリースしていたよね。まだ配信売りが定着していなくて、まだCDが売れる時代の末期か。。バンドはアメリカツアー帰りでテンション上がってたし、僕も創作エネルギー満載だし、とにかく頑張ってたな。
_____翌2009年には5thアルバム「秘密ギャラリー」がリリースされます。ここまで毎年アルバムをリリースされ続けていらっしゃいます。これまででもすでにかなりの楽曲数となりますが、永井さんはかなり多作で、そこから厳選されているのでしょうか?もしくは、あらかじめ絞り込んだ中で作り上げていくのでしょうか ?
永井 : 作曲に関しては、家でギターを抱えて、じっくり、なんて事はまず無いな。ふと思いついたアイデアを、スタジオで試しながら、その場のインスピレーションでを膨らませて行くのが好き。それはドラムのビートからだったり、ベースラインからだったり、コーラスからだったり、いろいろだね。ノイズみたいなのがきっかけになって作り始める時もあるしさ。時々、自分の身体から吐き出したい音楽のアイデアを抑えきれない感じになって、メンバーのメイワクも考えず、スタジオで実験みたいな雰囲気から曲を作っていく。そういうのが楽しいんだ。逆に既存曲の反復練習には少しも集中出来ず間違えてばかりなんだけどね。
_____作曲自体はいろんな手法があると思います。スタジオでセッションしながら作られる方や、ご自身でかなり固めていかれる方など、いろいろあると思うのですが、永井さんの場合は、普段どのように作曲されていらっしゃるのでしょうか ?
永井 : 初期段階の原曲アイデアみたいのは管理出来ない程あるよ。たまに気まぐれにランダムに聴くとスゴいのをいくつも見つける。でもアルバムの制作に入る時は結局、その近場で試してた曲が中心にまとめられていくな。新鮮なものの方がリアルに感じられるし、昔やったのを整理しながら聴くのってめんどくさいし(笑)。
_____2010年には、永井さんにとって一番最初のバンド「ザ・ショッカーズ」をオリジナルメンバーで再結成されています。このタイミングでの再結成はどのような経緯でしょうか ? そして永井さんにとって、ここでの再結成はどのような意味を持つものだったのでしょうか ?
永井 : その頃、ぶどう÷グレープが新宿でライブをやった時、うまい具合に初代ショッカーズのメンバーが居合わせるというタイミングがあったんだよ。ベース久保田亨、ドラム中村達也、と僕の3人が揃うのは27、8年ぶりくらいだったはず。せっかくなら、という事で、その日、2曲だけ飛び入りで演奏させてもらったんだよね。サエキけんぞうさんも居たから、司会してもらったな。30年も前に演奏していたオリジナル曲なんだけど、もう身体が覚えてる感じで、昨日まで一緒に演奏してたかのように気持ちよくバシッと合った。その夜は当時ショッカーズに関わっていた懐かしい友達がやってるバーに呑みにいったりして、昔話やなんかで盛り上がったんだ。どうせなら地元名古屋でちゃんとワンマンでライブを、という事になって、数回やったよ。当時のオリジナル曲群が再び生き返って、それらは色褪せていなかったし、新曲も作って演奏した。楽しかったし、自分の基本スタイルはブレてないんだなと確信出来た。まあ懐古主義ではあるんだけど、その時期にはそれが重要だったんだなと思うよ。自分の、今の立ち位置を知るためには、時には過去を振り返る事も重要だと思うんだ。
_____2011年には、なんどミドリさんが卒業されてしまうのですね。。
永井 : キャラの強いミドリちゃんは、ぶどうの重要な部分を担ってたし、やめると決まった時は、悩んだね。寿退団だから、仕方ないしさ。ミドリちゃんには結構無理言って、次の74(ナホ)ちゃんが決まるまで、引っ張っちゃったよ。
_____2012年には6thアルバム「彼の名前を思い出せない」がリリースされます。そしてこのタイミングで、永井さんの50歳記念ライブが行われました。2002年の40歳記念ライブは、とても大変だったと仰っていましたが、50歳記念ライブはいかがでしたでしょうか ?
永井 : 40歳記念の時、オール自分のバンドで4対バンというのはヘビー過ぎだと学んだから、50歳の時はぶどう÷グレープ、ヒデ&ビリー、ショッカーズの3つでやった。それでも大変だったけどさ。新しい若いお客さんから、30年近く応援してくれてるお客さんまでが、同じライブハウスで盛り上がってくれるって、ホントにありがたい事だよ。
_____そして同年にUKツアーを敢行されます。ブライトン、ロンドン、マンチェスターの3公演だったわけですが、2008年のUSAツアーと比べて、いかがでしたでしょうか ? ライブ以外のところで、いろいろ大変だったようですが。
永井 : UKツアーは、3ヶ所ともライブハウス規模で、アメリカの時みたいに、大きなお金が動かないから、超貧乏ツアーだったよ。ローディーや運転手とか雇えないから、重い機材と大型スーツケースを持っての電車移動だからね。ホテルも劣悪な環境。でもライブ自体はとても盛り上がったから十分だね。対バンのUKバンドを完全に喰ってしまったし、CDもいっぱい売れたよ。イギリスは戦略考えてきちんと攻めれば、絶対面白くなりそうなんだ。このバンドならではの珍道中で、笑いも苦労も満載だった。このツアーで新メンバーの74ちゃんを含め、バンドの絆がより深まったんじゃないかな。
_____2012年に続いて、2013年再びイギリスへ行かれたのですか ?
永井 : イギリス初ツアーでライブをやった3ヶ所、特にマンチェスターとブライトンからは、来年も来いと、強いオファーがあったから、ちょっと無理して再び同じ街を廻ったんだ。やはり、超貧乏ツアー。なんとか生きて帰れた(笑)。1年前に来てくれたお客さんが再び応援しに来てくれたし、CD売れたし、ライブはやっぱり盛り上がった。で、やれば勝てるなという確信を持てたけど、その場だけでの盛り上がりだけじゃなく、もっと根底から変えてしまうような大きな所を見据えて今は水面下で計画中という感じだな。
_____2013年には本を出されます。「経済に負けないロックバンド人生 -反省時間は終わりにしよう-」というタイトルです。永井さんほどのキャリアのある方の書いた本ですので、反響は大きかったのではないかと思います。そして永井さんの音楽生活においても、この本を出されたことは大きかったのではないかと思います。このタイミングで本を書かれた経緯を教えてください。
永井 : まさか自分がエッセイ本を出すなんて、夢にも思っていなかったよ。以前、サエキけんぞうさんの本が発売になった時、地元の書店でトーク&サイン会があったんだけど、その時、司会的な事をやって欲しいと出版社の人に頼まれてね。僕の喋りに興味を持ってくれたようで、その出版社の担当者から、今度は大学のゲスト講師を頼まれたんだ。それを引き受けて何度か目に、講義で永井さんが話しているような事を本にまとめて出版したいと言われたんだ。十代、パンクロックからの影響で曲を作り始めた頃から、イギリスツアーあたりまで長い芸歴の中から印象的だった事を書き綴った本だよ。執筆中も楽しんでたし、実際に製本されたもの手にした時はホントに嬉しかった。
_____いま音楽をやっている若手の方、これから音楽をはじめてみようとしている方にも、とても面白い本だと思います。
永井 : このエッセイ本というのは、まあ、なさけない事に、売れているアーティストのサクセスストーリーではなく、むしろそこからは程遠い、ダメなバンドマンの与太話でもあるわけだ。単にライブハウスシーンで、浮き沈みしながら音楽を続けている自分の足跡を綴ったものだからね。地方都市のロックバンドを始めた僕が、微力ながら前向きに続けて来て、たくさんの曲を発表し、50歳近くになって海外公演する、そんな悪戦苦闘ぶりを笑って読んでもらえれば十分だよ。
_____30年以上の長きにわたって音楽活動をされてきた永井さんから、いままさに音楽活動をされている皆さんや、これから音楽をはじめようとしている皆さんへ、アドバイスはありますでしょうか ? 30年以上も継続的に活動されるというのは、音楽に限らずどんな世界でも本当に難しいことだと思います。
永井 : 違法コピーがあたりまえになり、著作物による収益が見込めない現在の状況では、音楽を生業にするのは困難になってきているだろうね。なんだか夢が無い。でも、どこまでいっても、音楽は素晴らしいコミュニケーションの手段だから、外に向けて自分の音楽を奏で続けていけば、そこには大きな可能性が広がっていくはずだよね。そんなスリリングな旅みたいな活動を楽しんでいければ、人生が豊潤なものになると思うよ。
_____そのように楽しみながら活動してこられたのが、永井さんの長きにわたる活動の秘訣なのですね。その永井さんの「もうすぐ死ぬのかも、と思わず手のひらの生命線を確かめてしまった。こんなアルバム作ってしまったから。うひひ。。」というコメントを掲げた、ぶどう÷グレープの最新作にあたる7thアルバム「アムステルダム」が2014年にリリースされました。この最新作は、バンドとしても会心の一枚に仕上がったということですね ? このアルバムからのPV「きみの知らないうれしいいっぱい」はYouTubeでも観れますが、一聴して耳から離れませんね。印象的な楽曲です。
永井 : この時期は、鍵盤が74ちゃんもバンドに馴染み、確実にサウンドががっちりしてきただけじゃなく、過酷なUKツアー2本を経て、そこから学んだ事も多くて、アルバムの制作に入るにはピッタリだったと言えるね。「アムステルダム」は全般的に暗いトーンの曲でまとまっているんだ。あまり聴き手の事を気にせず、とにかくやりたい事を録音していった結果そうなった。自分達が選曲しアレンジした曲を録音していくわけだけど、途中からは何かに導かれていくような感じだったな。某メジャー音楽誌のライターはその年の最高傑作だって公言してたよ。ほら、くそU2だとかサザンだとか、とにかく全世界でリリースされた中でって話だよ(笑)。名古屋のあるCDショップでは発売後約1年経った今も、ヘビロテ中だし。次が大変だな(笑)。
_____それは大変ですね(笑)そんな傑作をリリースした翌年である今年2015年は、ぶどう÷グレープCDデビュー10周年です。節目となる一年ですが、何か秘密裏に企てていらっしゃるのでしょうか ?
永井 : 取りあえず、年の初めには、1stアルバムセッション直前あたりに録って、未発表だった「I'll」という曲を、希望者に無料でプレゼントしたんだ。今年は小刻みに作品をリリースして行こうと思ってる。配信シングルとして2曲ずつ。2〜3ヶ月毎くらいに出したいな。で、いずれはアルバムにまとめたい。第一弾は3月リリースの「4321火をつけろ」と「残酷なやさしさ」という曲だよ。
_____リリースタイミングが多いのは、ファンにとって嬉しいですね。楽しみにしております ! さて、フォーカムではゲストの皆さんに、良い音楽を教えていただこうということで、永井さんにとっての大切な一枚を教えていただきたいのですが。
永井 : ロックにハマるきっかけとなったThe Beatles、それからもっとたくさんのアーティストを知るきっかけを与えてくれたThe BandのLast Waltz(映画とそのサントラ盤)、自分が曲を作りバンドを始める衝動を与えてくれたSex Pistols。それが僕にとっての3大衝撃音楽体験といえる。大切なアルバム一枚というなら、高校生の時、久保田亨(ショッカーズのベース、その時は学校の先輩)の部屋で出会った「The Slits」のデビューアルバム「Cut」を上げたい。
Sex Pistolsが出てきて、その 圧倒性に突き動かされたかのように、イキの良いバンドがその後ニョキニョキと出てきた。Pistolsのファッションや音楽性をそのまま真似したフォロワー的なパンクバンドは多かったけど、Pistolsの型破りなパッションを自分流に昇華させて、オリジナリティー溢れるユニークなサウンドを作り上げていくバンドも少なくなかった。僕が特に影響を受けたのは「The Slits」。Pistols周辺にいた女性3人が組んだバンドなんだが、パンクのサウンドとは程遠い、若干レゲエの影響のある、毒気を感じるPOP ?? な雰囲気を持ってるバンド。曲のメロディーだけなぞれば、童謡みたいにも感じる。1stアルバムの「Cut」はまずジャケットにもビビった。裸体に泥を塗りたくった原住民のような3人。そして恐る恐るレコードかけた時、最初は、これってロック ? いったい何だ ? と戸惑いはあったものの、すぐその斬新性に心打たれ、すっかりハマったしまった。彼女達3人はおそらく楽器の経験も少なく、シロウト同然だったのだろう。そういう余計な音楽的蓄積のない人達が自由に主張した結果を絶妙なタイミングでパッケージ出来た素晴らしいアルバムだと思う。シロウトっぽいとはいえ、アルバムはマトゥンビというレゲエバンドのリーダー、デニス・ボーヴェルがプロデューサーを務めているし、上手なゲストドラマーのチカラで完成度の高いものに仕上がっている。当時、ギターもろくに弾けないのに、とにかく何かやりたいとエネルギーを持て余していた僕にとって、このアルバムは天啓のように響いたよ。
_____The Clashもそうですし、Sex PistolsもやがてはPublic Image Ltdとして、レゲエ〜ダブへと傾倒していきます。Patti Smithのライブで意気投合したアリ・アップとパルモリヴによって結成されたThe Slitsも、初期は荒々しい典型的なパンクサウンドを演奏していたようですが、デビューアルバムである「Cut」では早くもダブの要素を取り込みましたね。久保田さんの部屋で「Cut」出会った後、永井さんもすぐに購入されたのでしょうか ?
永井 : 僕が高校生の頃は、パンク、ニューウェイヴのカッコイイアルバムが目白押しでリリースされていて、その割に月々の小遣いは5千円あるかないかくらいだったから、近場の人が買ってたら、自分は他のを買って貸し合う、みたいな感じだったね。だからその時「Cut」は買ってない。廃盤になったあと、イギリス旅行に行った友達に買って来てもらったな。
_____その後、永井さんはリスナーとしてダブの方面へも向かったのでしょうか ?
永井 : ダブへの関心は強かったよ。初期ショッカーズ、幻のシングルレコーディングでも取り入れたよ。録音された音をコラージュさせる遊びはビートルズの時代から、デジタル技術の進んだ現在まで、多種多様だけど、あの頃はダブが先端だったね。
_____現在、永井さんはリスナーとして、どのように音楽を楽しんでいらっしゃいますか ? CD、アナログ、ダウンロード、YouTubeなどいろんな方法がありますが。
永井 : 音楽リスナー的な部分に関しては、けっこう物持ちの良い方で、古いものを捨てられないんだよね。高校生の時、ラジオからエアーチェック(死語?)したカセットテープとか持ってる。カセットやレコードを聴ける環境は整っていて、それらを聴くし、ダウンロードした音源をiPodで聴くし、CDやMDも好きだよ。それぞれ良い特性があるわけだし、時代時代に応じてパッケージされたその時の意味あいも大事だと思う。古いメディアを捨て去る事はない、と思って多様に楽しんでいるよ。
_____ところで、現在の永井さんの楽曲制作に、最も影響を与えているアーティストは誰でしょう ?
永井 : なんだかんだで、ずっと聴き続けて来たのはJAH WOBBLEだな。楽曲制作に直接的な影響があるわけじゃないけど、彼のブレないスタイルと、つねに真面目に遊びながら音楽作っている姿勢には大いに感化されてるよ。わりと最近のではPERFUME GENIUSを気に入ってる。
_____JAH WOBBLEといえば、PILの初期メンバーですね。そうえいば、ジョン・ライドンはCANが好きで、かなり意識していたと思いますが、のちにウォブルがホルガー・シューカイやヤキ・リーベツァイトと共演していくようになるのは、興味深いですね。PERFUME GENIUSはダークでアンビエントな世界観が魅力的ですよね。ここまでお伺いして、永井さんにとりまして、「DUB」というのは非常に大きな要素なのですね。
永井 : DUBそのものより、当時そういった斬新な手法を取り入れて、新しい音楽を作り出していた、アーティストに影響を受けたね。
_____私も個人的に、オリジナルそのものよりも、そちらの方が受け入れ易いです。永井さんは現在の音楽シーンを、作り手側として、聴き手側として、どのように捉えていらっしゃいますでしょうか ? 音楽業界を悲観的にいう声も少なくはないのですが、私個人的には過渡期だと思っており、かなりポジティブに捉えているのですが。
永井 : いつの時代も、あらゆる場所で、人間にとって音楽は必要なものだったし、今もこれからもそうだ。スタイル、方法、手段は時代と共に変わっていく。今は今のやり方で楽しんでいけば良いと思うよ。
ちょうど配信でシングル2曲をリリースしたばかり。レコーディング終了後、音源はすぐに発売され、すぐに購入者がアップした感想を見る事が出来る。こういうスピーディーさや、リスナーとの近い距離間みたいなものが良い刺激になってるね。
_____先にも触れていただきました配信シングル「4321火をつけろ」と「残酷なやさしさ」が3月5日にリリースされました。それぞれに色違いでジャケットがあり、そしてまったく異なるテイストの曲です。ジャケットは何かの文字を隠しているように見えますが ?
永井 : epという文字が隠れてる。当初はバンド名とepという文字が入ってるだけのデザインだったんだけど、商品スタイルを特定させてしまう文字が入っているのはNGらしく、iTunesから認可されなかったんだ。それで、今回のデザイン担当マツイ÷グレープがブチ切れて、上からぐちゃぐちゃに塗りつぶしてしまった。でも、かえってそれが、カッコよかったから、今回のジャケットに決まったんだよ。
_____「4321火をつけろ」は、ぶどう÷グレープのらしさ全開のポップチューンに仕上がっていると思います。
永井 : 14曲入りでコンセプト感もある、前作アムステルダムに渾身の力を注いだために、リリース後、しばらくは次作へのアイデアが湧いてこなかったんだ。ちょっと緩んだ感じになってたな。だから、あえてバンドを始めた頃の初期衝動に任せて勢いで作ってしまう感じを思い出し、シンプルでストレートでエネルギッシュな曲でリフレッシュさせたかったんだよ。
_____「残酷なやさしさ」は趣が異なり、私はこれにもぶどう÷グレープらしさをひしひしと感じます。独特な外し加減といいますか、この曲をすました涼しい顔をして演奏している皆さんの画が浮かんできます(笑)
永井 : 反対にこの曲はぶどうのアバンギャルドポップな部分が全面に出てるね。毒気とカラフルさのせめぎ合いをバランスよくまとめる。さしずめ、僕の役割はサーカス小屋の団長みたいな感じだね。
_____今後も小刻みにリリースの予定ということでしたね。そちらも楽しみにしております !
永井 : 3ヶ月毎くらいに、シングル2曲づつの配信リリースをしていくつもり。5回くらいは続けたいな。
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