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【編集長:東浩紀】ゲンロンβ34【梅原猛 生命の哲学】
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【編集長:東浩紀】ゲンロンβ34【梅原猛 生命の哲学】

2019-02-23 01:43
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     ゲンロンβ34【梅原猛 生命の哲学】
     2019年2月22日号(テキスト版)
     編集長=東浩紀 発行=ゲンロン

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    ◆◆◇◇ 目 次 ━━━━━━━━━━━━━━━━━

    1.『新記号論――脳とメディアが出会うとき』いよいよ刊行!
    2.【特別先行掲載】『新記号論――脳とメディアが出会うとき』第2講義「フロイトへの回帰」より 石田英敬+東浩紀  
    3.【特別掲載】梅原猛インタビュー「草木の生起する国」 梅原猛 聞き手|東浩紀  付録:梅原猛氏をしのんで(東浩紀) 
    4.正義は剰余から生まれる――いま哲学の場所はどこにあるのか(後) 國分功一郎+東浩紀
    5.つながりロシア 第5回 ウラジオストク――隣国ロシアの窓口 河尾基 
    6.世界は五反田から始まった 第2回 「逓信病院」 星野博美
    7.アンビバレントヒップホップ 第17回 『Act Like You Know… ―演じる声に耳をすますこと―』 吉田雅史  
    8.展評――尖端から末端をめぐって 第6回 「オブジェを消す前に ―松澤宥 1950-60年代の知られざるドローイング」展によせて 梅津庸一   
    9.五反田アトリエからのお知らせ 藤城嘘(カオス*ラウンジ)
    10.ゲンロンカフェイベント紹介
    11.メディア掲載情報
    12.編集部からのお知らせ
    13.編集後記
    14.読者アンケート&プレゼント
    15.次号予告


    表紙:京都にある梅原猛の邸宅、密語菴(みつごあん)にて対談する梅原猛と東浩紀。撮影=新津保建秀(2012年)


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    『新記号論――脳とメディアが出会うとき』いよいよ刊行!

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     3月4日より、弊社の新刊『新記号論――脳とメディアが出会うとき』(石田英敬+東浩紀、定価2800円)が全国の書店にて発売となります。本書は2017年2月から11月まで、足掛け3回にわたってゲンロンカフェにて行われた石田氏による講義『一般文字学は可能か』(聞き手:東浩紀)をまとめたものとなります。現代思想と認知科学の最先端が軽やかに結びつき、ときに著者の二人による丁々発止のやりとりもある刺激的な内容は、放送時に大きな反響を呼びました。活字化が待望されていた一冊です。
     今号のゲンロンβでは、そんな『新記号論』の一部を先行掲載いたします!
     掲載するのは「第2講義 フロイトへの回帰」の末尾、精神分析と脳科学が「夢」を媒介にして交差する箇所です。同書には似たような交差の瞬間が多数あります。本編発売にご期待ください。

    【写真:2017年5月24日に行われた第2回講義の様子 撮影=編集部】

     現在、『新記号論』の予約販売はゲンロンショップ(直販)とAMAZONで受け付けております。
     ゲンロンショップをご利用の方に限り、3月3日(土)24時までのご予約で通常400円(税込)の国内送料が無料になるキャンペーンを実施しております。お早めにお申し込みください。

     ・ゲンロンショップで予約購入する
     https://genron.co.jp/shop/products/detail/215

     ・アマゾンで予約購入する
     https://www.amazon.co.jp/dp/4907188307


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    【特別先行掲載】『新記号論――脳とメディアが出会うとき』第2講義「フロイトへの回帰」より 石田英敬+東浩紀
    石田英敬 @nulptyx
    東浩紀 @hazuma
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     ●デジタル時代の夢と権力――「夢の危機」と「夢見る権利」


    石田英敬 さて、今日はここまで徹底して「文系」的というか、哲学的な話でしたが、最後にすこし脳科学の話もしたいと思います。
    東浩紀 やはりもうひとつ話題があるのですね(笑)。楽しみです。
    石田 いまなぜ「フロイトへの回帰」なのか。その具体的な問題として「夢」というテーマを取り上げましょう。
     フロイトは一九〇〇年に『夢解釈』を書きましたが、それから一世紀を経て、いまデジタル時代になって「夢」の解読がアクチュアリティを持ってきています。そこで、夢のテクノロジー化がどのような問題を突きつけているのかを考えてみたい。というのも、ぼくはじつは、「夢とはなにか」をもういちど考えないと、いまの世界の問題は解けないと思っているんです。夢の問題を通じて、フロイトの重要性が浮かび上がってくる。そういう構図でお話しします。
    東 夢のテクノロジー化ですか。
    石田 はい。近年、しばしば議論に挙がる本に、アメリカの文化学者ジョナサン・クレーリーの『24/7 眠らない社会』[★1]があります。アメリカ軍で行われている、眠らずに活動しつづけるための訓練の描写から始まる本書は、二一世紀は二四時間×七日の資本主義になりつつある、つまり資本主義が「眠り」の領域まで侵食していることに警鐘を鳴らすものです。その意味で、現代は「夢見る権利」が危機に晒されている時代です。
     ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』[★2]もまた、睡眠を破壊する「拷問」のテクノロジーの開発の話から始まっています。カナダの大学で行われたショック療法の研究です。「昼と夜」の区別をズタズタにすることで、昼夜の「交替」が廃絶されて、「ホワイトアウト」の世界が訪れる。そうして人格が「初期化」される。眠りの時間を与えない体制は、破壊的なテクノロジーによってドライブされる可能性があるわけです。
     他方で、テクノロジーの発達によって、「スリープ・モード」で待機しているコンピュータマシンにヒトの眠りの活動が接続され、夢がスキャンされ解読されるということも起きつつあります。たとえば、日本の国際電気通信基礎技術研究所(ATR)内の研究グループは、睡眠中のヒトの脳活動パターンから見ている夢の内容をあるていど解読することに成功し、『サイエンス』誌のオンライン版にも掲載されています。研究室のホームページには、その概要がつぎのように紹介されています。


      この研究では、機能的磁気共鳴画像(functional magnetic resonance imaging,FMRI)装置を用いて睡眠中の脳活動を計測し、被験者を覚醒させ直前の夢の内容を言葉で報告させる手続きを繰り返しました。一般的な物体(「本」、「クルマ」等、約20の物体カテゴリー)の有無を脳活動パターンから予測するパターン認識アルゴリズムを構築し、睡眠中の脳活動を解析することで、夢に現れる物体を高い精度で解読することができました。また、夢内容の予測には、実際に画像を見ている時に活動する脳部位のパターンが有効であることから、夢を見ている時にも、画像を見ている時と共通する脳活動パターンが生じていることが分かりました[★3]。


     つまり、夢の内容を被験者に報告させ、それと脳の波形のパターンとマッチングさせるわけですね。そして、そのデータをためていくと、脳活動のパターンから、女の顔が見えたとか、ビルが見えたとか、クルマが見えたといったことがわかるという。
    東 寝ているひとの夢をリアルタイムで解読しているのですか?
    石田 厳密に言えばリアルタイムに「解読」ではないですね。レム睡眠のときにヒトは(動物も)夢を見るということはわかっているので、そこで被験者を起こして、つぎつぎとデータをためていくという方法を取っているみたいです。データを蓄積するとかなり予測可能になるという結果が出ている。だから厳密に言えばリアルタイムで「予測」あるいは「推測」していることになる。かれらの研究はユーチューブでも確認できます。
    東 うーむ!こんな研究がされているとは驚きです。これはどのような応用が想定されているのでしょう。
    石田 いま見たように、ぼくたちの社会はますます眠らなくなると同時に、眠っているあいだすら、マシンと常時接続して夢が解読されるようなところまで進んできている。それは、ドゥルーズ的なコントロール社会[★4]を超えたハイパー・コントロールな社会というものが、技術的な射程に入っていることを意味します。
     さらに数年前には、グーグルによって、人工知能に夢を見させる「ディープ・ドリーム」のプロジェクトが話題になりました。イギリスの『ガーディアン』紙は、このプロジェクトを「そう、アンドロイドは電気羊の夢を見るのだ Yes, androids do dream of electric sheep」という見出しで報じています[★5]。これはAIに映像を与えると、夢をジェネレート(生成)するというものです。
    東 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』はフィリップ・K・ディックの有名な小説のタイトルですが、ディックもこのような夢にはうんざりかもしれませんね。
    石田 これらはまだどれも萌芽的な取り組みです。けれども、いずれ機械学習させて、ビッグデータを蓄積するという話になるでしょう。そうすれば精度がどんどん上がっていきます。だから、夢のデコーディングが社会に実装される可能性は非常に高い。夢を「解読する」つまり「書き取る」ことができるようになれば、夢を見させたり、人工的に書き換えるプロジェクトが当然進んでいくでしょう。夢のなかにコマーシャルを流すようなことさえ、夢ではないかもしれない。
    東 夢の読み取りは、プライバシーの究極の侵害とも言えます。
    石田 ハイパーコントロール社会においては、こんな夢を見たからおまえを逮捕するということだってないとは言いきれません。
    東 たしかに、性犯罪の常習者などではありうるのかもしれません。たとえば夢のなかで子どもに性犯罪を行う願望が見られたら、逮捕はしないまでも関係機関に通報し、要注意人物に指定するといったことです。これからの時代だと、世論もそのような処置に肯定的である可能性があります。性犯罪の前科がある人間は、定期的に夢判断機関みたいなところに送り込まれるというのも現実的かもしれません。二〇世紀生まれの人間としては断固抵抗したいところですが、そのような状況はいまの人権では想定されていないでしょう。
    石田 だとすれば、「夢の危機」に対して、「夢見る権利」を人権に書き込むことを真剣に議論することさえ必要かもしれない。ハイパーコントロール社会では、ハーバーマスの言う「生活世界の植民地化」[★6]やフーコーの「生政治」[★7]が、眠りと夢という領域のなかにまで食い込んでくるわけだから。
     フロイトは「夢とは願望充足である」と言いましたが、テクノロジーによる夢の解釈が人間による解釈に取って代わられる状況を、フロイトならどう考えるでしょうか。決してフロイト主義者ではないぼくが、それでも「フロイトへの回帰」を主張しているのは、「夢」の解釈をめぐる認識論的なせめぎ合いが、これから拡がっていくだろうと予測しているからです。


     ●夢と現実の決定不可能性


    東 なるほど。無意識の可視化があらたな技術により可能になるなかで、今後は「無意識の欲望に対する責任」といった問題が発生してくるだろうということですね。たしかにそんな問題はフロイトは考えもしていなかっただろうし、現代哲学に照らしてもぱっと回答は思いつきません。そもそも責任の問題系と、無意識や欲望といった問題系は結びつきにくい気がします。すこし調べてみたいところです。
    石田 そのときに人文学者としては、夢についてこれまでどんなことが問われたのかということを考えなければならないわけです。たとえば、フーコーの最初の仕事は「ビンスワンガーの『夢と実存』への序論」だよね。これは、ビンスワンガーの『夢と実存』という現存在分析の本にフーコーが序論をつけたもので、ぼくが日本語に訳しました[★8]。
     フロイトが『夢解釈』でいまのフロイトになったのと同じように、フーコーがいまのフーコーになったのは、『狂気の歴史』からだと一般的には考えられています。だから、そのあとの人文学者は、「狂気とはなにか」「監獄とはなにか」「権力とはなにか」「性とはなにか」といった問題を、フーコーに倣って考えてきました。
     でも、フーコーはそれよりまえに、「ビンスワンガーの『夢と実存』への序論」を世に問うています。二〇世紀にフーコーが立てた知と権力とテクノロジーの問題は、デジタル時代にはさらに強い強度で問われる必要があります。そのときに、フーコーの最初の著作がヒントになるかもしれない。「夢と権力」「夢と資本主義」というあらたな問題設定をする力が、いま人文学者に求められているわけです。
    東 フロイトと同じく、フーコーも読み直す必要があると。フーコーは、その著作以外では夢について語っていないんですか。
    石田 『性の歴史iii 自己への配慮』[★9]で、ギリシャにおけるアルテミドロスの夢占いの話をしています。これはフーコーの最後の本ですよね。つまりフーコーの仕事は「夢と実存」で始まり、「夢占い」で終えられている。フーコーってそういうひとなんです。
    東 おもしろい。そういうふうにフーコーを見たことはありませんでした。
    石田 夢の問いというのは、ある意味で、意識や心の問題よりむずかしい。だって、夢の「エビデンス」はどこにあるのかと考えると、非常にむずかしいでしょう。最近の人工知能論のような「機械は心を持てるか」といった問題は、すべて意識をベースにして考えられています。つまり、いまあなたがどういう意識を持っているかという問いを立てれば、心についての答えが見つかるだろうと考えている。これは、現在、「意識していること」がエビデンスになるからです。でも、夢にはそういう明証性はない。
    東 デカルト的な意味での明証性がない。夢には「いまここ」の経験が欠けている。
    石田 そう。その場合、たとえばドリームデコーディングが発達したときに、「あなたが見た夢はこれでしょう?」と人工知能が言ったら……。
    東 反論可能性はないですね。なにを示されても、そうかもしれないという気持ちになる。
    石田 同時に、それは実証可能でもない。いま見ている夢ではないから。
    東 なるほど。これはまたおもしろい問題ですね。「いまここ」の明証性がないところでの責任……。デカルト的明証性といえば、フッサールは夢についてなにか語っているんですか。
    石田 たぶん多くは語っていないけれど、「像意識」とか「想像力」との関連で扱ってはいる。かれはフロイトにはすごい興味を持っているんです[★10]。
    東 「過去把持」や「現前性」の概念を展開するうえで、本来なら夢の話は考えるべきものだったはずですね。たいへん刺激的です。ぼくもいままで夢について考えたことがありませんでした。デリダはどうだったかしら。
    石田 デリダ・フーコー論争[★11]では、デカルトの『省察』に出てくる夢のステータスが問題になっています。深入りはしませんが、これは、真理のステータスやエビデンスとはなにかということについての論争なんですね。まず『狂気の歴史』のフーコーは、デカルト的な理性は狂気を排除することで成り立つと主張しました。それに対して、狂気と夢との差とはなにか、そんなにきれいに狂気と理性の分割線は引けますかとデリダはかれらしくねちねちと批判しました。それが最初の論争なのですが、さらに一〇年後にフーコーが、じつはおれも夢については一家言があってねえ、夢と狂気はデカルトにおいてぜんぜんちがうのだよ、というような具合に激辛の反論を加えるという、けっこう泥仕合的な論争です。お互い勝手なことを言い合い、どっちが勝ったというようなことはない。まあ、すべての論争はそんなものでしょうが。
     夢の解読はすばらしい研究だし、ぼくもすごく興味を持っています。でもそのつぎに控えているのは、デリダ・フーコー論争で問われていたような夢のステータスであり、真理のステータスという問題です。夢と現実の境はどこにあるのか。夢と現実の決定不可能性とはなにか。
     夢は昼の覚醒の世界から不在となった状態で経験し、そして覚醒してから思い出す、というのがこれまでの人類の生活だったわけですよね。つまりは、夢については、それについて忘却したり思い出したり、解釈したりということが、意識の現前性ではなくて、不在から出発して行われる存在だったわけです。だからこそ、人々は夢の意味を幾通りにも解釈したり、忘却したり思い出したりすることができた。夢の解釈は実存の重要な領域を占めてきたわけです。
     ところが、マシンが本人の目覚めよりまえに夢をデコーディングし、起きたとたんに夢内容の「エビデンス」を突きつけるようになると、夢内容の遅延とか決定不可能性とかという本質的に解釈学的な次元が消えてしまう。人間は、想像力の本質的な原動力としての夢の決定不可能性を喪失しますよね。
    東 だとすると、人文学はいまのうちに夢の哲学的地位を確定させる必要がある。そうでないと、文学や芸術の領域が本質的に奪われることになる。
    石田 そうなんです。だから、これからは、あらためて「夢の文化」を再考する必要に迫られるはずです。根本美作子さんの『眠りと文学』[★12]が源氏物語や谷崎潤一郎を扱いながら述べているように、人間が夢について育んできた文化では、夢と現(うつつ)の区別が不確かで決定不可能な状態を見出すことはむずかしくありません。こうした夢の文化というものから夢の機能を見直すことも、人文知のだいじな役割でしょう。
    東 フロイトの再読から、ずいぶん遠くまで来ました。
    石田 いや、これこそがまさにフロイト的問題なんですよ。そしてまた前回の講義でも見たような古代人の記号とも関係している。
     フランスの著名な神経科医ミッシェル・ジュヴェが発見したレム睡眠もまた、夢と現という問題系と接続しています。レム睡眠の「レム REM」は、「Rapid Eye Movement(急速眼球運動)」から取ったもので、レム睡眠のあいだは、運動中枢はオフになっていますが、眼球は忙しく動きつづけ、脳も覚醒状態にあります。そして、さきほど言いましたように、夢はレム睡眠時に見ることがわかっています。

    【図20:ラスコーの洞窟に描かれた鳥男の絵(左) https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lascaux_01.jpg  Public Domain】

     図20は、ラスコーの洞窟に描かれている、有名な鳥男の絵です。この形象がなにを意味しているのかは大きな謎とされていますが、ジュヴェはこれをレム睡眠の夢として読み解いています。レム睡眠中には勃起することが知られていて、鳥男も勃起しています。したがってこの絵は、クロマニョン人が空を飛ぶ夢を見ているというのです。レム睡眠はまた、眠っているのに脳は覚醒状態にあることから「パラドキシカル・スリープ」とも呼ばれます。つまり、覚醒と睡眠、脳と体、現前と不在、意識と無意識が複雑に捻れて幻覚が起こる状態です。

     ここでこそフロイトの問題が回帰します。フロイトは、今日も講義で見たように、最初は神経学的な知見をベースにして、テクノロジックに心の装置をモデル化しようとしていました。しかし、それに続いた夢解釈、そして精神分析の歩みは、まさに人生の意味の決定不可能性とともにあったのではないでしょうか。先述した「無意識はシネマトグラフィーのように構造化されている」という命題を思い出してください。フロイトの心的装置においては、ひとが睡眠に入ると、興奮が運動性と切り離され、感覚末端(知覚)へと向けて「退行」することで、幻覚的な夢の像の投影が引き起こされることになっていました。フロイトのそのような「夢の過程」の理論は、まさにレム睡眠を説明しているかのようです。
     以上のうえで最後に結論を言えば、ぼくには、意識を問うよりも夢を問うほうが、人間の根本的な条件が逆にあぶり出されてくるはずだという予感があります。それは「人工知能とはなにか」を問うこととも深く通底しているはずです。
     といったところで、今回もさすがに時間かな?
    東 はい、時間です。このやりとりも二回目ですね(笑)。続きは次回に回させてください。(『新記号論』へ続く)


    構成=斎藤哲也
    註=石田英敬・編集部・(石田作成の註に関しては、註の後に(石田)と記した。特に表記が無い註に関しては編集部が作成)


    ★1 ジョナサン・クレーリー『24/7――眠らない社会』、岡田温司監訳、石谷治寛訳、NTT出版、二〇一五年。 
    ★2 ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン─――惨事便乗型資本主義の正体を暴く』、幾島幸子、村上由見子訳、岩波書店、二〇一一年。 
    ★3 「睡眠中の脳活動パターンから見ている夢の内容の解読に成功」URL= https://bicr.atr.jp/dni/research/睡眠中の脳活動パターンから見ている夢の内容の/
    ★4 ドゥルーズは晩年の「管理と生成変化」「追伸――管理社会について」(『記号と事件』、宮林寛訳、河出文庫、二〇〇七年)において、フーコーが『監獄の誕生』(一九七五年)で論じた「規律訓練型社会」(人々が訓練によって規律を内面化した社会)に代わり、「管理社会」が到来しつつあると指摘した。規律訓練型社会が規律訓練(ディシプリン)によって人々の内面をつくり替えるのに対し、コントロール社会ではあらゆるものがデータ化され、それにもとづく環境の操作によって内面とは無関係に人々が管理される。 
    ★5 URL= https://www.theguardian.com/technology/2015/jun/18/google-image-recognition-neural-network-androids-dream-electric-sheep 
    ★6 ユルゲン・ハーバーマスは、政治や経済といった社会的「システム」によって人々の私的な生活(「生活世界」)が植民地化されていることを批判し、システムとは異なる、コミュニケーションにもとづいた公共性の必要を論じた。 
    ★7 「生政治 biopolitique」はフーコーが晩年に論じた概念のひとつ。『性の歴史ⅰ 知への意志』(一九七六年)の終盤に登場し、同時期のコレージュ・ド・フランスの講義の中心となった。近代以前の権力が殺すこと=死によって機能していたのに対し、近代における生政治では、人口を安定的に維持・拡大し、人々を生きさせる権力(=生権力)が機能しているとされる。のち、ジョルジョ・アガンベンやアントニオ・ネグリらの思想に引き継がれた。 
    ★8 ミシェル・フーコー「ビンスワンガー『夢と実存』への序論」(石田英敬訳)、『ミシェル・フーコー思考集成i 狂気・精神分析・精神医学』、蓮實重彦、渡辺守章監修、筑摩書房、一九九八年、七七-一四八頁。 
    ★9 ミシェル・フーコー『性の歴史ⅲ 自己への配慮』、田村俶訳、新潮社、一九八七年。 
    ★10 フッサールの現象学ではもっぱら覚醒した意識が考察の対象となる。そのために夢が考察の中心となることは稀である。とはいえ、想像、像意識をテーマとするフッサール全集の巻(Phantasie, Bildbewusstsein, Erinnerung. Zur Ph anomenologie der Anschaulichen Vergegenwartigungen. Texte aus dem Nachlass (1898ー1925). Husserliana, Band XXIII, Den Haag, Martinus Nijhoff, 1980. 『想像、像意識、想起』未邦訳)では、夢における意識の現在がどのような成り立ちをもつのかという「準ー現前化」に関する考察を随所で読むことができる。夢の問題を発展させたのはフィンクやビンスワンガーら、フッサールの弟子たちの世代である。
     他方、フロイトとフッサールの間には、一九世紀末のウィーン大学で同じようにブレンターノの講義に出席し、同じ一九〇〇年を刊行年としてそれぞれ『夢解釈』と『論理学研究』を出版して独自の境地を開き、一方は無意識の問題、他方は意識の問題を究めていったという興味深い平行関係がある。相互の仕事への参照は刊行物について皆無だが、近年のフッサール研究では、想像や像意識のほか、欲動や情動、自我の受動総合に関して、フッサールがフロイトの仕事を念頭に執筆を続けていたことが明らかにされつつある。(石田) 
    ★11  デリダ・フーコー論争とは、デリダの「コギトと狂気の歴史」(『エクリチュールと差異』、合田正人ほか訳、法政大学出版局、二〇一三年、六一-一二三頁)に端を発する論争のことを指す。デリダはフーコーの『狂気の歴史』における、デカルトの「コギト」が狂気を排除していたとする解釈は『狂気の歴史』再版に際して反論「私の身体、この紙、この炉」(増田一夫訳、『フーコー・コレクション3』、ちくま学芸文庫、二〇〇六年、三九一-四四四頁)を加え、両者は長きにわたって決裂することとなる。 
    ★12 根本美作子『眠りと文学――プルースト、カフカ、谷崎は何を描いたか』、中公新書、二〇〇四年。 


    石田英敬(いしだ・ひでたか)
     一九五三年生まれ。東京大学教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。専門は記号学、メディア論。著書に『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)、『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)、編著書に『フーコー・コレクション』全六巻(ちくま学芸文庫)ほか多数。

    東浩紀(あずま・ひろき)
     一九七一年生まれ。思想家、作家。ゲンロン代表。著書に『一般意志2・0』(講談社)、『弱いつながり』(幻冬舎)、『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン、第七一回毎日出版文化賞受賞)など。


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    特別掲載 梅原猛インタビュー「草木の生起する国」 

    梅原猛

    聞き手=東浩紀 @hazuma
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     今年一月、哲学者の梅原猛氏が九三歳で亡くなった。梅原氏は西洋哲学の研究から出発し、仏教、古代史とフィールドを広げ、「梅原日本学」と呼ばれる独自の地平を切り開いたことで知られている。国際日本文化研究センターの創設に携わり、アカデミズムの基盤整備に尽力する一方、戯曲や歌舞伎の脚本を手がけるなど、分野を超えた業績は枚挙に暇がない。
     ここに再録したのは、いまから七年まえ、震災から一年を経た二〇一二年三月に京都の梅原猛邸において収録した、梅原氏への東浩紀によるインタビューである。震災と原発事故に対する思いに始まり、梅原氏の哲学的来歴、そして洋の東西を超えた「人類哲学」の可能性について、四六歳の年齢差を超えて交わされる会話は、いま読み直してもたいへん刺激的である。同インタビューの初出はゲンロン発行の『日本2・0』(二〇一二年、在庫僅少)。
     梅原氏の晩年の思想を多くの読者に知ってもらいたいと思い、ここに遺族の許可を得て再掲載した。東浩紀が時事通信社配信で発表した追悼文も、あわせ掲載する。あらためて梅原氏のご冥福をお祈りしたい。(編集部)

    【写真:撮影=新津保建秀】


     ●文明の災い


    ――今日はインタビューを受けていただき、ありがとうございます。
     ぼくは梅原先生の本が個人的に好きで、かなり読ませていただいております。いままでは自分の仕事と接点を作るのが難しかったのですが、昨年(二〇一一年)、東日本大震災直後に梅原先生が「原発事故は近代文明そのものが起こした災いである」と発言されているのを拝見しまして、その真意についてぜひ伺いたいと思いました。今日はその話から出発し、先生がこの十数年温めておられる哲学の構想の全体を改めて概観するお話をいただければと思います。よろしくお願いいたします。

    梅原猛 よろしくお願いします。お話のとおり、原発事故はひとつのきっかけになりました。いま、ヨーロッパをはじめとする先進国はほとんど、エネルギーの何割かを原子力に頼って文明を作り上げている。だから、原発事故によって文明そのものが問われているのだと思いました。また、わたしの生まれは仙台で、母方は石巻の渡波(わたのは)というところなのですが、ここは大震災でたいへん大きな被害を受けましたので、とてもひとごととは思えませんでした。さらに、被災地の悲惨な光景は、わたしの戦争中の体験に重なるものがありました。
     わたしは旧制高校二年生のとき、名古屋の東北地区にあった三菱重工業の工場で勤労奉仕をしていて、そこで空襲に遭いました。そのときたまたま仕事をさぼって友達とおしゃべりしていて、友達と同じ防空壕に入ったら、空襲が終わって外に出ると、もともとわたしが入るはずだった防空壕に弾が直撃していて、なかにいた人はみな死んでいた。防空壕のなかで座ったまま青白くなって死んでいた中学生をいまでもありありと思い出します。
     そしてあの戦争に深い疑問を感じていた。わたしは入隊しましたが、外地に行けず、本土防衛隊として九州にいました。当然米軍の空襲があり、わたしは死ぬものと思っていました。しかし広島と長崎に原爆が落とされて終戦となり、わたしは命長らえました。それで、原爆で被害を受けられた方たちに対する後ろめたさのようなものがわたしのなかにずっと残っています。
     東日本大震災復興構想会議に特別顧問として参加するときにも、震災で亡くなった方に対するそのような思いがありました。そしてそのような体験によって戦後考え続けてできた自分の哲学を、思い切って語ろうとする勇気を得て、二〇一一年の一〇月から一二月にかけて、京都造形芸術大学の東京学舎で「人類哲学序説」と題して講座を行いました。
     ではわたしの哲学とはどのようなものか、戦後からいまに至るいきさつまでさかのぼってお話ししたいと思います。
     
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