【第1章】

 その日も、朝から静かな一日だった。

 午後の陽光が小さな窓を抜け、傷んだ木床を容赦なく炙る、静寂に包まれた兵舎。 歩を進めるたびガチャガチャと鎧が擦れ、頼りなさげに廊下が軋むその先に、古ぼけながらも見慣れたドアが私を迎えてくれた。いつものように手甲に魔力を籠め、丸いドアノブをゆっくりと捻る。なんの抵抗もないままに限界まで回るそれは、留守中、この部屋に侵入を試みた不届き者が存在しないことを告げていた。

 その身を室内へと預け入れると同時に、肺に溜まった陰鬱とした空気をふぅっと吐きだし、ドアを閉める音でそれをかき消す。さきほどまでの鉄と汗にまみれた臭気は薄れ、薬草の類を乾燥させた香気が漂うこの部屋は、グリフォンが軽く寝がえりをうてる程度には広い。窓から入り込んだ陽射しの向こうには寝室へと続く扉が見え、その手前を、よく磨きあげられた木製の執務机が遮っている。

 古書や魔法書が押し込められた書棚、薬液瓶が乱雑に並ぶ作業台などを横目に、それまで左手を占有していた書状の束を机上に叩きつけると、幾度目となるか分からない溜息がまたこぼれた。


 しばしの沈黙ののち、視界の端でなにかが動いたような気がした。反射的に視線を向けた先にあったのは、曇りがかった鏡台に映りこむ自身の姿。やけに赤々とした重装甲の全身鎧、それに似付かわしくないエルフ特有の長耳、そして緑の長髪の根本には、夢魔や淫魔の象徴とされる巻角がその人物性を表すように捻じくれ、どちらかといえば長身の背丈をさらに後押ししている。

 ひどい顔だな、と思った。蓄積した疲労と不満をただ表に出るに任せた顔。加えて、人々に忌み嫌われる魔族の角。何度これを斬り落とそうとしたことか知れない。ふと「それでも女のつもりか」と誰かに言われたことを思いだしたが、そいつには後ほどキッチリと【ご挨拶】に伺ったところまで記憶を巡らせると、薄ら笑みを浮かべていた鏡の中の顔にまた嫌気がさし、我に返った。


 机上にばら撒かれた書状に視線を戻す。いわゆる報告書と呼ばれるそれの、所属と官姓名の記入欄に目がとまった。

 所属、帝国聖騎士団。
 秘匿名、不落。

 この簡素な文字の並びが、今の私をあらわすすべてだ。詳細な部署区分も階級もなければ、私がもつ本来の名前すらもここでは必要としない。それは私としても都合が良いことだが、聖騎士団などという絢爛な名称には未だ慣れる気はしない。さらに言えば、この報告書の内容だ。城内清掃、倉庫整理、害獣駆除など、およそ聖騎士に似付かわしくない任務の数々が並ぶ。それ自体は些末なことだが、それらがすべて欺瞞に満ちたものであると知る身からすれば、なんとも夢のない話だと思う。

 不意に、廊下が軋む音が聞こえた。その少し後に、二回、三回、一回と特徴的に鳴らされるドアノック。漏れそうな溜息を堪えながら同じようにノックを返すと、ドアの隙間から一枚の紙片が捻じ込まれ、訪問者は何を言うでもなくその気配を消した。紙片には緊急の文字とともに要人救出の任務内容が綴られており、その最後はこう締めくくられていた。

『……報告書への記載は【巡回警備】とすること。なお、この指示書は読了と同時に消滅する』
 
 声を出す暇もなく、紙片は閃光を発して燃焼四散した。十秒ほど視界が失われる中、聖騎士団とは何なのかその定義の再構築を試みたが、乾いた笑いが込み上げそうだったので考えるのをやめた。




【第2章】

 沈みかけの日に周囲が赤々と染まる頃、隣国との国境近く。この付近一帯は深い森に覆われており、一本の街道だけが頼りなさげに国同士を繋いでいる。そこから少し外れに分け入った先、人の肩幅はあろう樹木の影。認識阻害の魔法結界に身を潜めながら、私は指示書の内容を思い返していた。

 要人救出、対象は帝国の高官ゴードン・ゴルトマン。以前一度だけ見掛けたことがあるが、歳相応の交じり白髪と顔の皴、そしてまっすぐ射抜くような力強い眼に、それまでの経験に裏打ちされたであろう信念と精神性を感じたものだ。しかし高潔で知られる彼を、それゆえに帝国内部では煙たがる者も多い。そんな彼が何者かに拉致され、その命と引き換えに高額な身代金の要求があったのだという。

 事件の解決にあたっては帝国上層部でも意見が割れたらしいが、馬鹿正直にカネを払えば相手がつけあがるだけとする判断のもと、偽金を持たせた交渉役を単身突入させての殲滅救出作戦に決まったそうだ。それはそれで大した馬鹿さ加減と思うが、だからこそ聖騎士団の、それも魔族混血の私にこの任務がまわってきたのだろう。上手くいくならそれで良し、失敗するなら厄介者のゴルトマンは消え、その責を私に取らせる。性根の腐ったお偉方や反魔族主義連中が考えそうなことだ。そんな思惑が見え透いてなお、親愛なる我が聖騎士団長さまがそのまま任務をお通しなさったのは、信頼が厚い証拠と考えるほかない。

 ほどなくして、夕日の赤が宵闇に呑まれていった。小鳥のさえずりは虫の音に消え、優しく揺れていた枝葉が大袈裟にざわつき始めると、まとわりつくような湿った風が吹き抜けていく。身代金引渡しに指定された古い坑道跡はすでに目視圏内だ。頃合いと見て私は、魔法結界の解呪を済ませた。


 廃坑道の入り口は、かつての賑わいを想像するのも難しいほどに荒れ果てていた。打ち捨てられたであろう何かの金属片や木材、くり抜かれた岩壁ですらが、みな等しく腐食腐朽し自然物に呑まれつつある。犯人側の指示によれば、ここで松明か照明魔法いずれかを灯りとし、しばらくその場に留まれとのことらしい。後者を選んだ私の頭上には、爆炎魔法を球体状に押し固めたものが煌々と浮かんでいる。こんな状況下ではただ照らすだけの光源よりも、いつでも炸裂させられる攻撃的なものの方が良い。その時のための防護魔法ももちろん展開済みだ、それらを使ってはならぬとの指定は受けていない。

 やがて、坑道奥からわずかな風の流れとともに、湿った砂利を踏み鳴らす音が聞こえ始めた。次いで、松明の灯り。ゆらゆらと、しかし規則正しく近付くそれは、一度こちらを見据えたであろう動作を経てなお戸惑う様子もなく、ゆっくりと迫ってくる。そして、焦げた木の香りがいっそう強くなったところで、その歩みは止まった。

「……まさか、あんたが来るとはな」

 聞こえてきたのは、粗野ではあるが無骨さは感じない、かすれた男の声。どうやら私を私として認識しているようだが、欠片も狼狽える様子が見られないのが気に掛かった。人質を手にした優位性によるものか、それとも、それほどまでの戦力と人数を揃えているのか。

「私では不満か?」
「いや上等だ、入ってくれ」

 促されるままに入り口をくぐると、照明代わりの爆炎球がようやく坑道内を燈色に照らした。男はすでに背を向けており顔はよく見えなかったが、無造作に首元まで流した頭髪と革を基調とした各種装備は、いかにも山賊然とした佇まいだ。男は、ところどころ枝分かれする通路を一切の迷いなく先導していく。しばらくの後、男が喋り始めた。

「さすがは音に聞く『不落』さまだ、こんな状況でも静かなもんだな」
「なにか喋った方が良いのか?」
「普通の神経してたら、不安を紛らわそうと口数が増えるもんさ」
「世間話は苦手でな」
「そうかい、まぁその度胸は認めるぜ。だが……こっちはどうかなッ」

 男は瞬時に踵を返すと、上体を捻る動作から松明を横薙ぎに投げ付けてきた。回転する燃焼部は一瞬のうちに視界全体を明滅させ、かと思えばすでにそれは目前に迫っている。避けようと思えばできないことはない、この程度の不意打ちならば過去にいくらでも経験してきた。だがこの狭い通路で回避行動を取ったとしても、前もって展開していた防護魔法のどこかに当たることは避けられない。ならば、このまま動かずとも問題はない。

 パァンと弾けるような音とともに、防護壁の妨害を受けた松明は火の粉を撒き散らしながら空を舞う。その向こう側、光源を1つ失い暗闇となった視界の奥から、腰だめに短刀を構えた男が突っ込んでくるのが見えた。ギラついた眼と、噛みしめた歯を剥き出しにしたその表情は、心なしか笑っているような気さえする。この攻撃手段は非常に厄介なものだ。石ほどの重みしかない短刀でも、体重を乗せれば強力な貫通力を得る。すでに勢い付いた突進を止めることも難しく、下手にいなせばそのまま組み付かれて滅多刺しだ。そしてここは両隣を岩壁が陣取っている。だからこその、防護魔法でもあるわけだが。

「防壁だよりか、舐めるなよ!」

 男は、それでもお構いなしとばかりに突撃を敢行してくる。そして、短刀の切っ先が防護壁に触れた瞬間、その理由が分かった。バチバチと瞬くような青白い閃光とともに、防護壁に亀裂が走っていく、つまりこれは──。

「防壁破りの解呪刀だ、俺を甘く見過ぎたな!」

 短刀から広がる亀裂は勢いを増し、全体にまで行き渡ると、防護壁は硝子が割れるような音を立てて砕け散った。青い残光が男の表情をさらに印象深く浮き上がらせ、やはりそれは笑っているように見えた。男は、私との間に空いたほんの少しの距離を限界まで踏み込み、一度は止まった突進に最後の加速を乗せる。その手に妖しく輝く短刀は、私の心臓を標的にまっすぐ突き出された。

「これが『不落』か!? この程度も凌げねぇようじゃぁ、どの道……ん?」

 突き立てたはずの短刀。しかし違和感を覚えたのか、男は呆気に取られた表情で手元を確認する。そこにあったのは、青白い閃光とともに防護壁に沈み込む短刀だった。男が『あっ』と言うや否や、私はその手首を捻り上げ後ろ手に回し、そのまま岩壁に叩きつけて押さえ込んだ。

「舐めてなどいない。念入りに準備をしてきただけだ」

 防護魔法の多重展開は、一般的には不可能とされている。だがそれは、単一展開式のものが広く伝わっているだけであり、私の用いるそれとはそもそものモノが違うのだ。大体、解呪刀一本で私を殺れると思っているのなら、それこそ甘く見過ぎているという話だ。舐めているのかね。

「わ、わかった、俺の負けだ! 降参だ、降参……!」

 呆れるような降伏宣言でむしろ清々しさすら感じるが、まだ人質の安否も掴めぬ今、戦力も不明な相手の神経を逆撫でするのは得策ではない。私は拘束を解いた男を適当に投げ捨て、燃え転がる松明を拾い上げた。後ろで男の声がする。

「……や、やけにあっさりじゃねぇか。いいのか、またやるかもしれんぞ?」

 私は手にした松明を、岩壁にもたれ掛かる男に突き出した。逃げ場なく壁に後頭部を打ち付ける男。その眼前で燃焼部分が空中をコツコツと叩き、その度に軽く火の粉が舞い落ちた。先ほどとは違う形式の防護魔法を男に施してやったのだ。外からは当然ながら内からの干渉にも対応する優れもの、その内部に、私が照明代わりとしていた爆炎球を放り込んで。男も、それが何を意味するのかは早々に理解したようだ。

「案内を続けろ。妙な真似をすれば、今度はお前自身が照明魔法になる」

 男は何か言いたそうではあったが、気まずそうに頭をかきむしると、何も言わずに歩き出した。