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ハリウッドは『スター・ウォーズ』を愛したが、ジョージ・ルーカス監督はハリウッドを愛さなかった
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ハリウッドは『スター・ウォーズ』を愛したが、ジョージ・ルーカス監督はハリウッドを愛さなかった

2015-12-24 21:30
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    12月14日(現地時間)にハリウッドで開催された映画『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』のワールドプレミアにて、ジョージ・ルーカス監督は、観客からスタンディングオベーションを受けた。ルーカス監督なくして『スター・ウォーズ』は生まれなかったからだ。しかしながら、今作は、初めてルーカス監督が直接的に関与していない作品である。『スター・ウォーズ』がハリウッドのDNAに不可欠な存在である一方で、ルーカス監督自身は、未だハリウッド最大の内部関係者であり部外者でもある。

    本紙ヴァラエティは、1968年に紙面にて初めてルーカス監督の名前を挙げた。南カリフォルニア大学の3年次に、全米学生映画祭で3作品がノミネートされたのだ。153のエントリー作品から46の最終候補作品が選ばれ、その中にはルーカス監督の『6-18-67(A Desert Poem)』、ドキュメンタリー作品『The Emperor』、ドラマ部門には短編SF作品『電子的迷宮/THX-1138 4EB』がノミネートを果たした。『電子的迷宮/THX-1138 4EB』は、ドラマ部門を受賞した。しかし、その後数年間は決して安泰とはいかなかった。

    フランシス・コッポラ監督がルーカス監督を指導したおかげで、1971年公開版の『THX-1138』が、米ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツとの契約を獲得した。興行成績は思わしくなく、コッポラ監督は主流の客層に向けた映画製作を促した。すると、ルーカス監督は、『アメリカン・グラフィティ』の製作をスタートした。米ユニバーサル・ピクチャーズの幹部たちは、(ルーカス、ウィラード・ハイク、グロリア・カッツが手掛けた)脚本に夢中になったのではなく、劇中の時代にヒットしたロックナンバーをサウンドトラックに使用するというアイデアを気に入った(映画は1962年の高校卒業生を中心に描かれた)。米ユニバーサルは、75万ドルの予算を投じることに同意した。

    米ユニバーサルの幹部たちは、車内の薄暗い照明と低予算の映像を好まず、直接テレビ放送してしまおうと考えた。しかし、若い観客向けの2回の試写会を経て、彼らは考えを改めた。『アメリカン・グラフィティ』は、米国内で1億1500万ドルを稼ぎ、少ない予算に対して莫大な利益をもたらした。さらに、アカデミー賞の作品賞、監督賞、脚本賞、編集賞(ヴァーナ・フィールズ、マーシア・ルーカス)、助演女優賞(キャンディ・クラーク)にノミネートされた。

    ルーカス監督は、『アメリカン・グラフィティ』で稼いだ資金をもとに、米20世紀フォックスと素晴らしい契約を結んだ。ルーカス監督は、『スター・ウォーズ』の利益の40%を得るとともに、続編の製作権、映画の商品化権を保持したのだ。今にして思えば、米20世紀フォックスの幹部が正気とは思えないかもしれないが、映画シリーズが長く続くのは当時まだ一般的ではなく、キャラクター商品が成功するのもアニメキャラクターに限定されると見られていた。『スター・ウォーズ』のキャラクター商品が成功したことで、スタジオ各社はこの方法が実写映画を含めた別の映画作品にも適用できる、とすぐに学んだ。

    『スター・ウォーズ』やスティーヴン・スピルバーグ監督の『JAWS/ジョーズ』は、マーケティングに力を入れて大規模公開される超大作映画のようなメンタリティーで製作された、と思われがちである。しかし、ルーカス監督のハリウッドへの貢献はそれ以上に大きかった。第一に、ルーカス監督はエンタテインメント業界に対して、ビデオゲーム、テーマパークのアトラクション、テレビアニメ、そしてもちろんキャラクター商品が誕生する出発点としての映画の役割を示した。

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    さらにルーカス監督は、映画の作り方も変えてしまった。『スター・ウォーズ』以前は、ミニチュアを使った視覚効果が用いられていたが、1975年にインダストリアル・ライト&マジック(ILM)が設立されると、デジタルの手法へと移り変わっていった。ルーカス監督はまた、(同社が次世代の音響スタジオと説明する)THX、そして(アニメーションに革命を起こす以前は、高性能のコンピューターハードウェア会社としてスタートした)ピクサーを創設した。

    ルーカス監督は、カリフォルニアのモデストで生まれ育ち、自動車やカーレースに夢中になり、その地域でキャリアを積むことを望んだ。1962年6月12日、ちょうどトーマス・ダウニー高校を卒業する時に、彼が運転していたフィアットに別の自動車が衝突した。シートベルトが切れてしまい、彼は車外へ放り出された。フィアットは木に衝突し、もし彼が車内に残ったままだったらほぼ確実に死んでいただろう。

    著書『スカイウォーキング―ジョージ・ルーカスの栄光と軌跡』の中で、ルーカス監督は伝記作家デール・ポロックに、「あなたにあんな体験はできないだろう。だからこそ、自分がここに存在しているのには何か理由があるはずだ、と感じることはないだろう」と、語っている。自動車に人生を捧げる代わりに、ルーカス監督はモデスト・ジュニア・カレッジに入学し、その後、映画学校に通い始めた。

    同級生らはそれぞれ、自身の進路に懐疑的であったが、ルーカス監督は自分が生まれ持った才能を信じていた。それは、『スター・ウォーズ』が懐疑的な見方をされた時にも、ルーカス監督に良い結果をもたらした。それまで宇宙を題材にした映画が大ヒットしたことはなく、1970年代のハリウッドは、コッポラ監督の『ゴッドファーザー』シリーズのような内省的な作品に興味があった。そのため、米20世紀フォックスは、『スター・ウォーズ』の成功の度合いに少々驚いた。

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    その成功をよそに、敵意を持った、あるいは無関心なスタジオ幹部、弁護士、代理人らとの取引にうんざりし、ルーカス監督はハリウッド全体の構造に怒りを覚えていた。ルーカス監督は、再び世間一般の慣習に反抗し、当初はカリフォルニア北部マリン郡にて、それからルーカスフィルムの本拠地であるサンフランシスコで撮影を行った。

    1981年、ルーカス監督は、“一身上の都合”で米国演出家組合と全米脚本家協会から退会した。1981年4月6日、本紙ヴァラエティは、「ルーカス監督がハリウッドとの最後の関係を断ち切った」と題してこの話を報じた(ルーカスフィルムは両組合に加盟したままだったが)。ルーカス監督は、アーヴィン・カーシュナー監督の名前が『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』の冒頭ではなく、終わりにクレジットされたとして、規約違反の罰金を科した米国演出家組合に不満を抱いていた。ルーカス監督は、観客をすぐさまアクションに引き込ませたいと望み、カーシュナー監督は、エンドクレジットに名前が表記されることに同意していた。

    ルーカス監督はロサンゼルスで時間を過ごし、ハリウッドの多くの業界イベントには姿を現さなかった。しかし、ルーカス監督が出席すると騒ぎとなり、『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』プレミアイベントのスタンディングオベーションはそれを思い出させるものであった。セレブリティや陰の実力者であふれるハリウッドにおいて、ルーカス監督は、未だに独りぼっちである。

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