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巌流島も大武道も、プロレスファンを切る覚悟はあるか?
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巌流島も大武道も、プロレスファンを切る覚悟はあるか?

2015-12-16 12:00
    今週のお題…………「私と『大武道』」

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    文◎山田英司(現『BUDO-RA BOOKS』編集長)………水曜日担当


     
    大武道の創刊号をざっと見。武道と銘打っている割りに純粋な武道家が登場せず、プロレスと総合関係、あとは武道と関係ない人物。
     
    このスタンスから武道を語っても、周辺を徘徊するだけで、なかなか武道の中身にまでは踏みこんでいけないのではないか。この足踏み感は、私が前回のブログで「巌流島の民主化は避けるべき」と言った理由と、根本で共通しているように思える。一言で言えば、武道や武術のいわゆるマニアックな世界の志向性と、一般の格闘技ファンの民意には、差がある、と言うことだ。
     
     
    『巌流島』でも武道性を目指す、と谷川氏は語るが、だとすると、民意と純粋な武術家の認識とのギャップに、これまで以上に苦労することになる。先端技術や基礎技術の追求と民生用に製品化されるまでに時間的ギャップがあるのは、何のジャンルでも同じだろう。武道の世界でも、武術の専門家の実戦観に、今日の格闘技ファンの実戦観は追いついていない。そこには大きなギャップがある。
     
     
    特に武術的認識が一番遅れる層が、格闘技ファンよりも「プロレスファン」だ。私が真剣勝負紛いのプロレスを糾弾した時も、プロレスファンは本当に真剣勝負だと思っていた人達がいたようだ。『大武道』のインタビュー人選は、そのあたりのファン層を狙っているようだが、彼らの実戦観をベースにしたら、最も価値観に差のある場から勝負しなければならない。
     
     
    『巌流島』と同じく、民意を足場に、武道の本質にアプローチしようとすれば、論理的矛盾に直面することになる。売れなくても、民意に添わなくても本当のことを書く、と開き直れば別だろうが、そんなことは余程、偏屈な編集者でない限り、無理だ。徐々に読者の認識をマスコミがリードしていくしかないが、それには時間もかかり、また、大変な苦労がいる。
     
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    情報の発信者が、民意に左右されない確固たる信念だけは持ち続けなくてはならない。前回、『巌流島』は独裁者がリードすべき、と言った意味も同様だ。実際、私が真剣勝負紛いのプロレスを糾弾した時も、多くのプロレスファンを敵に回したし、今日、武術の最先端理論を発表すれば、一般の格闘技ファンからさえも、反感を買う。そんな中で、実際に武術や格闘技を愛好するファン層に、常に真実はどうなのか?という問いかけをしてきた。
     
     
    実は格闘技界において、「やる側」とは意外にも、社会における前衛的な思想を持つインテリ層の様な、柔軟な思考性を持っている。常に強さを求めているからだ。だから私はこの層を読者対象に選んだ。
     
     
    私は86年頃から「フルコンタクトKARATE」と言う空手と格闘技の雑誌を作ってきたが、当時は顔面なしの極真ルールの全盛時代。そこにグローブ着用で顔面ありの新空手を特集しても、時代が早過ぎて全く売れない。次に無名時代の石井館長や正道会館を特集してもやはり売れない。しかし、やがてこの二つが結びつき、トーワ杯やK-1へ結実し、一時は顔面を叩かねば実戦空手にあらず、と言う風潮まで生まれた。
     
     
    また、一方で誕生したばかりの佐山サトル氏のシューティングを特集しても当時は売れない。しかし、ヒクソンを特集して紹介し、彼を呼んでバリトゥード・ジャパンを開催した。この大会が成功し、注目を集めると、各団体がこのルールを採用し出した。その過激さが人気を呼び、ついには「寝技で決着が着く総合ルールこそ最強」と言う実戦観が定着するまでになった。
     
     
    一般のファンの実戦観はおそらくこの辺りで停滞していると思う。しかし、私はさらに「顔面パンチは本当に有効か?」「 寝技は最強なのか?」と自分が主張した実戦観にも、それが最終結論なのかどうか疑いを挟み、今日まで模索と研究を続けてきた。その模索と研究作業こそ、武術の探求そのものだが、その結果、意外なものが見えてきたのである。
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