第2部から読んでるんですが、ザンス山田さん面白いですねw楽しそうな人生でいいなあw
巌流島についても色々示唆にとんでいました。
時代の空気感がもう最強を求めてない。
暴走族が珍走団と呼ばれるのと一緒で、今の時代格ヲタなんてキモヲタ扱いだ。
時代は「どちらがより面白いか」。
異種格闘技戦なら「相手の良さを殺しあう」んじゃなくて「相手の良さを生かしあう」形を作っていかなきゃいけない。
「寝技主体のブラジリアン柔術」じゃなくて「立ち技主体の日本武道」こそこれから求められるもの。
相撲なんかでも「ダウンしたらもうそれでやられてるんだよ」という意味ではあのルールは理に適ってる。
セネガル相撲なんか「素手で殴りあう、足タックルもある相撲」でド迫力。
アフリカでは常に4万人の観客を動員し、テレビ中継も大ブームで選手は億単位で稼ぐ。
子供の頃からグレイシーの様に皆練習してる。
とにかくガタイが凄い。相撲みたいなアンコ型じゃなくて筋肉の塊の巨漢がゴロゴロいる。
これを何とか生かす方向に持っていければな。
K-1にとっての極真、総合にとってのグレイシーの様に「核の格闘技」となり得るだろう。
K-1や総合がブームになったのはその根底に思想や哲学があったから。
今の雷神はただの寄せ集めでそれがない。
たとえどうやってもPRIDE以上の興奮と熱は生まれないよ。
テニスの錦織やラグビー日本の様に「UFCでトップクラスに通用する日本人」が出てくるまでブームは無理だ。
別の方法を考えた方がいいよ。
黒船グレイシー、UWF、プロレス、PRIDE4強、桜庭、五味、吉田・・・etc。
PRIDEの時の時代のうねりは本当に凄かった。時代に即していた。
同じことをやってももうあの興奮は取り戻せない。
もう「次のステージ」へ行くべきだよ。
雷神が変化球で目先を変えたいなら「集団戦」に踏み切ることだな。
ロシアでやってた様に舞台も障害物ありで。
セネガル相撲
http://ganryujima.fightlabo.com/news/20150225n_12
ロシア集団MMA
http://www.youtube.com/watch?v=5WqizUW22vE
試合場は「ロープでも金網でもない透明強化アクリル板で囲った直径9.1mの円形リング」を導入すべき。名称は「サークリング(サークル+アクリル+リング)」。
血や汗が付着したら上から水を流して下で受ける水洗トイレ方式。これなら「くすまない」。
昔ロシアで似た様なものを使用していたが未来感が半端無かった。これを今日本でやればオクタゴンが古臭く見えるのに。
名称もピッタリだし、ロープはどうしてもMMAという競技の性格上合わない。ドントムーブとかマジでやめて欲しいよ。
9.1m=アマレスマットと同じ大きさ=アメフトの10ヤード=土俵の2倍の広さ(30尺)。床は固め。
リングに集音器を設置して迫力を増し、電光掲示板を活用してポイント表示もする。
いずれ通路型金網闘技場でのタッグ形式によるジム対抗集団戦も行なう。試合場の特許も取る。
UFC日本大会は余りの静寂さで話題になったなー
A「俺の方が強い!」
B「いや俺だ!」
世間「お前ら邪魔だからどけ!」
これが今の時代。もう最強はやり尽しちゃったな。
グレイシー柔術は「相手の持ち味を殺す護身術」だった。
ではこれからの時代に求められる巌流島の「思想」とは何であるべきか?
答えはもう出ている。
「相手の持ち味を生かす処世術」「活人剣・殺人剣」「活殺自在の異種格闘技戦」「プロレス型格闘技」だ。
これこそ「どの格闘技の選手も輝ける公平な異種格闘技戦」という巌流島のコンセプトを反映する思想であり、
人生にも通じ、世の人々に求められるものだな。
今週のお題…………「私と『大武道』」
文◎山口日昇(元『紙のプロレス』編集長/現『大武道』編集長)………火曜日担当
全国3千万人の『厳流島』ファンの皆さま、こんにちは。
ワタクシ、山口日昇という者です。
『大武道!』(東邦出版)という本を出しました。
元『格闘技通信』編集長であり、元K-1プロデューサーであるサダちゃん(谷川貞治氏)と、元『紙のプロレス』編集長であり、元ハッスル代表のボクの、W編集長という体制です。
第一特集は「"恥"を知る!~現代にとっての"恥"とは何か!?~」。
社会的には失敗し、とーーっても恥ずかしい2人が(詳細は各自調査)、今回は「"恥"とは何か!?」を探る旅に出ています。
夏前に企画した段階では「前田日明vs山田英司~あの"女子便所説教事件"20年目の真実~」という超危険対談を組もうとも思ったんですが、ザンスさん(山田英司氏)に協力要請をしに行ったら、
「協力はしますよ。かといって、前田日明との対談なんてやりませんけれどもね~」
と一蹴されてしまいました。
ザンスさん、もしかして"達人"?
「前田日明vs山田英司」の一戦は今回実現できませんでしたが、今回、ザンスさんには第二特集の「TATSUJIN~はたして達人はこの世にいるのか~」に出ていただいて、ひと味違う"狂いっぷり"を見せてくれています。
いやぁ、おもしろいわ、ザンスさん。
その他の内容や概要については先週も触れたので思いきり省きますが、サダちゃんとボクの中には「これからの格闘技シーン、とりわけ日本の格闘技シーンにおいては、"武道"という概念が絶対に必要になってくる」という考えが通底にあったり、サダちゃんのやっている『巌流島』とボクが来年やろうと思っているコンテンツのヘソの緒が、"武道"という概念で繋がっていたりした中で、とにかく我々も"武道"という概念と向き合えたり掘り下げたりしていける媒体、"武道"という概念を知りたい人の入口になれるような媒体が欲しいということで、今回の発刊になりました。
では、なぜいま"武道"なのか!?
『大武道!』も、おもしろくないと読者の方々に判断されれば、これ、すぐになくなってしまうわけです。
つまり、コンテンツをつくる側にとっても読む側にとっても、「おもしろいか」か「おもしろくないか」がすべてです。
しかし、すべてとはいっても、その「おもしろいか」か「おもしろくないか」の間にはいろんな要素や局面が絡んできます。
「売れるか売れないか」
「続くか続かなないか」
「おもしろいけど売れない」
「つまらないけど売れた」
ということだったりですね。
物事には二者択一のようでいて、常にその間の"グラデーション"が見え隠れします。
その見え隠れするものが、思想や哲学だったりするわけです。
そして実験や過程や矛盾も含んで見え隠れする"総合的なもの"が、じつは「おもしろいか」「おもしろくないか」の判断材料になったりもするわけです。
例えば「強いか」「弱いか」の間だったり、「勝つか」「負けるか」の間にも、じつは"グラデーション"があり、"総合的なもの"があるはずです。
でもいまは単純にその競技・カテゴリーの中での「強い弱い」や「勝った負けた」だけの局面しか見えてきません。
人間にとって"闘う"ということは、とてつもなく大きなことで、生き方そのものに関わってくることだと思うんですが、"なぜ闘うのか?"の部分が一向に見えてこない。
「絶対に負けられない闘いがそこにはある」みたいなことよく言うけど、いったい絶対に負けられない闘いがいくつあって、勝ったり負けたりしたあとに、いったいどうなんのさ? というのも一向に見えてきません。
かつてボクは、もう25年くらい前になりますけど、"世の中とプロレスする雑誌"というキャッチフレーズで『紙のプロレス』という雑誌を立ち上げました。
その頃の"プロレス"にも「勝ち負け」や「強い弱い」や「八百長か八百長じゃないか」や「美しいか狂ってるか」の間に"グラデーション"、つまり思想や哲学が見え隠れし、実験や過程や矛盾も含んだ"総合的なもの"としての厚みとおもしろさがありました。
現在の「プロレス」は概念的な部分で"総合的なもの"ではありません。
「プロレス」は「プロレス」で終わり。
現在の「総合格闘技」も、総合という文字はあるものの、"総合的なもの"でありません。
「総合格闘技」は「総合格闘技」です。
だから、"格闘技"あるいは"闘い"というものを捉えるときに、現在の「プロレス」や「総合格闘技」では、何かが足りないのです。
その何が足りないかの鍵が"武道"にはたくさんあると思います。
格闘技や闘いを"総合的なもの"として捉えていくときの鍵が"武道"にはまだまだあると思うのです。
抽象的になっちゃいましたが、そんなこんなを伝えていくために、『大武道!』、続きます!
よろしくお願いします!
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