人型オコジョのアニロ 第一章[お嬢様は我儘なお姫様?]パート2
ガツン!
幼稚園の二階から園児数人じゃないと運べない遊具が私の頭に落ちてきた。
その時、体操着で、頭から流れてくる血で赤く、赤く染まっていく。
誰がやったのか?それは未だに不明。だけど思い返せば誰だって家来なんてなりたいわけなくて、恨まれていてもおかしくない。
わぁ。赤くなっていくーすごーいって思った記憶はある。
先生が慌てて駆け寄ってきて、近くの病院で麻酔なしの縫合。
痛みは覚えていない。
帰宅後、家政婦達は、騒いでいたが、母は笑っていた。
小学2年の時。
その日は交通安全指導を受けた日で、道路を横断する時は、すぐに進むのではなく、「右みてー左みてー右みてー」という確認を習い、帰りは親友と一緒だった。
目前に家が。。。という所で見渡し良く広い道路を、横断する地点迄きて、早速親友と一緒に、覚えたての、「右みてー左みてー右みてー」をやってみた。
この時の記憶が曖昧で、何故か?それは未だにわからないけれど。
確かに、確認した右側。長くまっすぐ坂になっていて、遠くまで見渡せる道路・・・
キュウギュルルルッ!!!ドンッ!!!
気付いたら、白い車が視界に、まるで突然現れたかのように目の端に・・・
軽く吹っ飛んで、ゴロゴロ転がって、痛くて痛くて痛い、熱い、意味が分らない。
出血したのか?運転手の顔は?親友は?事故後車は?記憶がない。
もし、父が海外滞在中でなければ、大事になっていただろう。
恐らく、母は父に、先生に連れて行ってもらった病院と、その後改めて医者に診せて問題ナイとでも報告したんだろうと思う。
だから、未だに、その部分禿げている。
自らが招いた災難だ。誰であろうと、我儘なお姫様への制裁だったのだろう。
私には兄がいる。
母は兄を溺愛していた。反面、私には片鱗すらなく、基本、ストレスの捌け口として使用されていた。
だけど、家政婦さんがいるから、何不自由なく、母に関心持ってほしいとか、分り易く言えば、愛してほしいという気持ちすらなかった。
母も一人の人間で、色々ストレスを抱えても何も不自然ではない。
目についた私に「あんたを見るだけで苛々する。目の前から消えろ」とか「本当は産むつもりなかったけど。その辺に転がしておいても、Gぐずらないし、夜泣きもしなかったから」等々
ただでさえ、顔を合わす機会が少ない中、母が口にするのはそういう言葉だった。
だけど。私はそれに対して、悲しい?辛い?表情一つせず、泣く事もなく無表情で
「はい。わかりました」と返答し、自室へ籠るだけだった。
寧ろ。母のストレスが少しでも軽減するなら、自分は役にたっているとすら思っていた。
父はこれらの事を一切知らない。
兄は分かっていたけど、母のストレスも分かっていたから、二人の時は優しかった。
朝、家族で食卓を囲む経験もしたことがない。
私が食事をする頃、母が何をしていたのかすら知らない。
テーブルに希望した食事が用意され、食し幼稚園へは運転手と執事が同行。
父は、殆ど海外暮らしで、たまに帰ってきても、大量のお菓子や高級ブランド等のお土産を執事に預ける。
そして、偶の休みだからと、趣味である、ゴルフへ出かけ、兄や私と交わす言葉は「ただいま。沢山お土産あるから好きな物選びなさい」と「行ってくる」だけで、漠然とこの人が父親なんだという認識しかなかった。
しかし、父のおかげで、生活出来ている事は理解していたので、社交の場で、父の面汚しにならないよう、大人達相手に、何を考え、どう答えたら良いのか、結果的に、父が、良い娘さんですねと言われるよう、礼儀、振舞い、相手が望む姿、回答を常に意識していた。
自分の気持ち?そんな事優先出来る環境はなかったし必要ないものだった。
常に。相手の一挙手一投足、自己主張など重要ではない。
相手を知る事、応える事。結果を出す事。実際、父の評価、しっかりした良い娘という印象が結果で証明されていた。
それが幼少期からの日常。