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haiironokarasuさん のコメント

>>1>>3
この人が言いたいことは右翼左翼の問題じゃなくて
時には自分の周りで常識だと思っていたことが簡単にひっくり返ることもある
だからこそ反日左翼でもネトウヨ極右でも政治に興味がない一般人でも
一つ自分にとって曲げない主義を持ってほしいってことじゃないのか

田原さんにとっては大島さんの「自分が感じたことにまっすぐに向き合う」
その心に精神の礎である魂を感じたんだと思う
No.5
144ヶ月前
このコメントは以下の記事についています
大島渚監督が逝ってしまった。 とても怖くて、けれどいろいろ教えてくれる、僕にとって「兄貴」のような存在だった。 大島さんとは40年来のつきあいだ。 「大島渚」という映画監督が出現したとき、僕は本当に興奮した。 当時、僕が尊敬していた映画監督は、黒澤明さんだった。 黒澤さんは、映画作りのプロ中のプロである。完璧な映画を撮る。 対して大島さんは、常に新しいものに挑戦していた。 大島さんの世界に「タブー」はない。いつも体を張って闘い、全身全霊で映画を撮っていた。 大島さんの映画は、人間や社会を鋭くえぐり、それでいて美しかった。 「青春残酷物語」「日本の夜と霧」「白昼の通り魔」「絞死刑」「新宿泥棒日記」「少年」 「愛のコリーダ」「戦場のメリークリスマス」「マックス、モン・アムール」「御法度」など。 大島さんの映画に、僕はどれだけ影響を受けたかわからない。 こんな思い出がある。 僕が初めてメガホンをとった「あらかじめ失われた恋人たちよ」という映画がある。 その映画のことを、大島さんに話したときだ。 主演は、桃井かおりさんだ。彼女のデビュー作でもあった。 ある日、ロケ先の宿で、僕は桃井さんの部屋に呼び出された。 そして彼女は僕に言った。 「私は男性とつきあったことがない、キスさえしたことがない。だから、セックスシーンを どう演じていいかわからない。どうしよう」 僕はしどろもどろになってしまって、 「撮影のときに指示するから……」 と言葉を濁し、逃げるように彼女の部屋をあとにした。 この話を大島さんにしたらモーレツに怒られた。 「ばかやろー! そういうときは、手取り足取り、丁寧に教えてやるんだ!」 これは笑い話ではなく、大島さんには、きっとそれができたのだろう。 それだけ映画を撮るのに真剣勝負だったのだ。だが、僕にはできなかった。 やはり僕は、映画監督に向いていなかったのかもしれない。 大島さんの理不尽なものと闘う精神、挑戦する姿勢は、「朝まで生テレビ!」に 出てもらうようになってもまったく変わらなかった。 むしろ、より過激になったかもしれない。 昭和天皇崩御の直前、日本全体が自粛ムードに包まれていた。 そのときの「朝まで生テレビ!」は、「オリンピックと日本」というテーマで放送していた。 ところが、大島さんが異を唱えたのだ。 「いま天皇問題をやらなくてどうするんだ!」 そしてその場で、天皇問題についての議論が始まった。 実は、僕の中では織り込み済みの流れだった。 だが、他の出演者はびびってしまって核心に触れようとしない。 すると大島さんは、「皇居一周マラソンばかりしてどうする!」と揶揄したのだ。 また、番組中で管直人さんが当時のアメリカのレーガン大統領を「役者上がり」と バカにした口調で言ったことがあった。 その菅さんを大島さんは、「役者のどこが悪いんだ」と一喝した。 大島さんの力強い声と、ストレートなモノ言いは、「朝まで生テレビ!」に開放的な 雰囲気を作ってくれた。本当にありがたかった。 敗戦のとき、当時11歳だった僕は、これまで「よい」と言われてきたものが一夜にして 「悪」になるという体験をした。それまでの価値観が一瞬にして覆されたのだ。 「国家や偉い人というのは信用ならんぞ」と刷り込まれたのである。 大島さんは、僕より2つ上の13歳のときに終戦を迎えた。 多感な年ごろだった大島少年にとって、なおさら強烈な敗戦体験だったと思う。 それが、大島さんのブレない精神の礎(いしずえ)だったかもしれないと、いま僕は思う。 大島さんとの出会いは、その後の僕の人生を決定的に変えた。 だが、心強い兄貴のような存在だった大島さんが、亡くなってしまった。 寂しい、ほんとうに寂しい。 大島さんのタブーを恐れない生き方は僕にたくさんの勇気をくれた。 この大島さんの魂を引き継いでいきたい、と僕は改めて感じている。
ゲキビズ田原通信
ジャーナリスト田原総一朗、そして話題のWebメディア「現代ビジネス」、月間1億PVのサッカーサイト「ゲキサカ」の運営する「ゲキBIZ田原チャンネル」より、番組情報や企画記事などを配信します。