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倫理無き資本主義を許容してはいけない
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倫理無き資本主義を許容してはいけない

2014-03-30 10:08

    先日、古い安倍総理の発言を読んでいて驚いた事があった。と言うか驚くと言う表現は正しくないだろう、改めてガッカリした、と言うべきだ。
    それはどこかの公演での発言で、首相はゴールドマンサックスなどの提言を取り入れた政策を実行すると言う趣旨のものだった。
    言うまでもなくゴールドマンサックスは金融コングロマリットである。しかしだからと言って失望したというのではない。ゴールドマンサックスが倫理無き金融コングロマリットであると言う認識と結果を観ているからである。

    しかしそもそも金融コングロマリットに倫理など存在するのか?と言う自問にもその失望は繋がる。
    同時に現在、現代の資本主義の多くの部分はGSに代表される金融によって支配されつつあると言う現実にも認知は触れる。
    このブログではいつも金融コングロマリット批判を繰り返してきたから、読者は耳タコ状態かもしれないが、何度でも書かなければならない。金融資本主義と言う単語には実体は無い。もしくは、金融資本主義は資本主義ではない。金融資本主義等という資本主義が存在してはならないのだ。ちなみに私はサヨクのつもりは全くない。

    何故金融資本主義は資本主義ではないか、と問う人はいるだろうか?
    それは間違いなく金融の主人公が人間ではないからである。人間の存在を道具としてしか見做さない富の集中は生の否定だ。そこではネット上の額面の移動だけ、資源の略奪だけが存在し、その富が人の幸福に寄与する事は無い。人から人へ流通して初めて経済は成立するはずの基本単位(通貨)が成立しない構造が金融資本主義の正体なのである。
    その代表的な存在がGSやかつてのリーマンではないか。GSやは人には寄与しない。GSが相手にするのは企業であり、コングロマリットであり、同じように金融に依存(その移動で富を収奪する)している数字の奴隷なのだ。

    そのようなシステムを社会に欲する、と言う事は社会の倫理を破壊したいと言う事に他ならない。
    一国の首相がそうしたシステムへの助力を要請する、と言う事の意味するところは国家が社会の構成単位を人ではなく金融に譲り渡す事ではないか?
    資本主義の定義とは色々あろう。しかし私はここでは小室直樹の論を採用したい。資本主義に必須なのは高度な労働への道徳的美徳であり、資本に対する倫理である、と。
    これらの倫理が社会で最適な状態を保ち、人々がそれを認知するなら、ある程度の社会的安定性は確保されるのだと。しかし金融市場主義には倫理は採用されない。富は必然的に集中を促進し、社会的流通は阻害される。それは社会にとって破壊的な混沌の原因になる。その典型的な例がEUの失敗であり、アイスランドの失敗であり、韓国の失敗であり、支那の失敗であり、共産主義の失敗ではないか?

    社会の基本的単位が人である事を忘却した社会は必然的に崩壊する。それは歴史的に、通貨を軍事に置き換えても覇権に置き換えても理解出来る事だ。いずれの場合も人ならざる物が社会を支配的な存在になった場合に生じる必然なのだ。その反省から生まれたはずの資本主義が現代では存在を失いつつある。日本の資本家、と称する獣の正体は人ではなく独占主義者であり、通貨の奴隷であり、多様性の否定論者ではないか?

    つまり、現代社会に(世界のほとんどで)資本主義は存在しない。しかし、そもそも資本主義自体がそのような怪物を生み出す可能性を常に秘めたシステムである以上、資本主義そのものの終焉も近いと言うことなのかもしれない、と日本国総理大臣の発言を読んで感じたのである。


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