ユーザーブロマガは2021年10月7日(予定)をもちましてサービスを終了します

非自非非想自
閉じる
閉じる

新しい記事を投稿しました。シェアして読者に伝えましょう

×

非自非非想自

2014-04-04 22:40
    おかしな言葉だが、意味は無い。
    先日宗教について話した時に鈴木大拙の言葉を引用したのだが、勿論私は鈴木大拙が覚った禅師であろう、などとは思っていない。鈴木大拙は言葉巧みであっただけの野禅、の人であり戯論を説く人なのだから引用出来る言葉も多いと言うだけの話なのだ。

    しかしつまるところ、人間と宗教の関係とはあれで良いのだ(それで何となく伝わるのだろう)。覚り、悟りとは何かなどスズキ的に定義するのは不可能なのである。土台明治以後、覚った人、悟った人はいない。悟っていない人から見れば嘘を嘘と見抜く事など不可能で良い。
    題名は定の内にある非想非非想処を捻った物で意味は無いと言ったが野禅師の悟りとは此の程度のもので、何ひとつ開放されるものはない。

    道元禅師も笑っておられるだろう。
    しかし現代の宗教化にはこの手の人が多いのだ。この手、と言うのはオームの基地外をも含めた最大限の私なりの皮肉である。ベラベラとおのが体験を語り、自分は某かに到っただの、見性を得ただの、果ては自分は仏陀だのと御託を並べる詐欺師が今日の日本の宗教の有り様なのである。悟った者はその内容を語らない。何故なら語れないからである。語る者は不妄語戒を犯した詐欺師ペテン師であり、地獄の猛火を2兆年落下し続けるがよろしからんwww(注1
       (注1 地獄極楽も仏道の教えではありませんがw

    宗教界が此の体たらくである。
    なるほど日本人の倫理は何処かで欠落している。自ずから倫理として生きるしかない、それが最も自由な生き方である(注2)、と見性する宗教者が欠落しているのだから宗教界そのものが倫理から隔たっているのだ。そこから手をつけようと思った私がアホなのではある。
    (注2)倫理とは道徳ではない。善悪を超えた阿留辺畿夜宇和なのだから

    阿留辺畿夜宇和、と書いてしまったが、悟りと倫理を隔てたペテン師はそれを何かしら超越的なもの、アプリオリな体験のように大袈裟に語る。しかし阿留辺畿夜宇和、つまり人があるべきように生きればそれは即仏性を生きる事であり、見性せずとも仏性なのだ。

    道元禅師はそれを
    「自らを学ぶと言う事は、自分を忘れちまう事だぜベイベ!」と申された。自分が自分が、を忘れてあるべきように生きている仏性こそが自らを学ぶと言う事なのだ。だからこその禅での行住坐臥なのである。またこの観程度が非想非非想処であり、勿論それは深く自分と言う仮相を断じる強い集中を要するが、そのような面倒臭い事は面倒臭い事が好きな人にまかせておきなはれ、と私は言いたい。

    阿留辺畿夜宇和は栂尾明恵上人のお言葉だが、その真髄は、人それぞれに因果によって、縁によって、業によって、相依によって自ずとそれぞれに生きる道はあり、それはある種どうしようもない現実の在り方なのであり、それが人と言うものであり、ならばそのどうしようもない自分のあるべきようをあるべきように生きる事が大事なのだ、と言う教えである。
    これは倫理である。そこには善悪など不要であり、人はそのどうしようも無いあるべきようを生きいている間生きる事が仏性なのだ、と言う事である。
    政治家が政治家のあるべきよう、を生きなければ「ならない」。庶民は庶民のあるべきように生きれば良い。教師は、医師は、そのあるべき生き方に忠実に生きるのが即、人の在り方なのだ。

    これが明治以前の日本人の生き様であった。
    昔の日本にだって悪人はいたし善人はいたが、このどうしようもない生の本質、倫理を破壊する事こそが大罪だと認識された。これが実際は宗教的生き方なのである。同時に、その根源的元型、は現代の日本人にも連続している。その証左は東北震災の時の被災者の生き様だろう。
    これが連続している間は日本人は日本人たりうる。
    しかしこの連続は決して手入れせずに連続させられるものではない。
    仏陀の最後の旅の過程で語られた諸々の手入れの程を理解するのは大乗の民として無駄ではないだろう。

    さて、狭心症なので本日は多分これで活動終了だろう。放送と異なって反論や質問に答えなくて良いのは楽ちんであるwww

    合唱



    広告
    コメントを書く
    コメントをするには、
    ログインして下さい。