純粋精神論批判・経験と主体
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純粋精神論批判・経験と主体

2014-04-07 04:27


    西田哲学では無、と言う事が重要なファクトに有る。現代においては佐伯啓思の西田哲学への傾斜や多くの哲学上の体系として引用されもするが、では無の境地とは如何なる哉是?

    そもそも、禅においての無、は何もない事ではない。
    禅における無とは是に非ず、非ずに非ず、我にあらず、我非ずに非ず。
    無無きに非ず、無有るに非ずと言う。
    無有るならば常見、無しとするも常見。無の経験は無上であり、無の経験そのものは当然無我であり、経験は非ず、なのである。如何なるや是悉有仏性?と言う時、「如何」、と言う何かは非ず、「是」、と言う時是即色、つまり是はコレに非ず、コレ無きに非ずなのであるから、経験する主体もまた非ずなのだ。では「悉有仏性」における悉有とは何か?それは経験する主体無きが故に仏性は経験主体、つまり個に非ず、また経験主体在らざるが故に悉有仏性なのだ。

    上記の論理は四句分別と言う仏道における論理の演算的進行を理解する時明らかになるが、それを経験主体である人が理解の範疇において知見するに非ず。なのである。
    つまり、禅に限らず、経験と言う者の主体が存在する時、そこに純粋な有は無い。これは経験そのものにおいて見出される。我、と言う主体の有るがままに純粋な何かを経験する境地を工程する事は出来ない。
    しかし一部上記の論を無視する者はこうした我と言う主体が経験する経験を境地と誤認する。そこに自他の有が有る時経験は無い。経験とは我なく生じ、我なく滅する。
    しかし我々は経験を得る。
    あらゆる経験は純粋か否かに限らず、有るに非ず、無きに非ざる。それ故に経験は記憶される。が、それを純粋とか不順とか分別する時それは言語と言う限定された物の枠に束縛される。故に束縛された経験は純粋な真理を語る事は出来ない。これをして無記、あるいは錯誤と言う。

    故に、尚且つ有ろうことか、無を経験する事など不可能である。
    では無を見性した禅師はそれを如何に語りうるか?
    これに関して道元禅師や近代哲学者である井筒俊彦はかく語る、
    「意識ではなくそのものである無との同一化してある事を悟りと言う」(注1と。

    (注1 道元禅師・正法眼蔵、井筒俊彦・意識と本質

    悟りとは最初に記した如く、在るに非ず、無に非ず、場としての、機としての、活としてある状態であり、そこにおいて見、そこにおいて動き、そこにおいて生じる「性質」であり、それは有で非ず、無に非ずなのである。
    それを哲学と言う形而上の論理に書き換える、のは不可能だ。
    何故このような錯誤が生じるか?と言えば哲学が主体者の言語において束縛されるからである。経験の否定が成されない経験の肯定は非ずと見性する時経験は生きた主体そのものの状態となる、少なくとも公案としては、なのだ。

    では例えば西田幾多郎の哲学は真か偽か?と問うなら、偽とせざるを得ない。偽と言うに憚るなら戯論とする。
    西田哲学が西洋哲学と東洋哲学の融和、など可能なはずもない。何故なら西田は西洋哲学的思考における禅に束縛されているからだ。それ故に西田自身、自らの哲学は完成しえざると自戒したのではないだろうか?

    つづくw

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