純粋経験と無に非ず有に非ず・無と空
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純粋経験と無に非ず有に非ず・無と空

2014-04-07 05:17
    と、色々飛ばしているのが気づかれているか否かは別としよう。前章とは趣を変えて仏教的に述してきたい。


    あえて触れておきたいが、仏教は世間とは隔絶したものではない。しかし甚深微妙と世尊がしたようにそれは一切と相依しながらその相依はいかにも見えにくい。
    この相依性を見性せずに空と有無、有、無、非有非無、を洞察する事は難しい。と言うより言語的束縛に囚われて無と空を混同して禅は無の思想だとする錯誤が生じる。禅は断言するが、現存の如何なる修行においても根幹となる悉有仏性との一体を作すである。

    作す、とはなす、と言う事だ。
    道元禅師は行仏を場とする。「門を出ればこレ草茫茫、門にいればまた草茫茫」、を仏性と言う。そこに主観の交わる分別は無い。主観無きあるがままの本質を、あるがままに作す時それを行仏と作す。
    この時経験を分別する主体が有とする方が破綻している。
    その破綻を悟とするから野禅とする。野禅をして例えば経験至上主義の近代禅者の錯誤である、と言う。経験する主体から語られる経験は作仏とならず、主張でしかない。主張は分かり易いがわかりやすさは真実ではない。

    では主体無き経験とは無か?
    ここでもまた無と経験を結びつける主体が介在する。経験主体なき無は無に非ずと言う時それは空となる。なぜなら我有るに非ず、無に非ず、だからである。経験と主体の分別、あるいは分別無きが故に無であり、それは無で非ずが故に空なのである。
    だれが世界の有を否定できよう?しかし依然として世界の空を否定する事も無を肯定する事もまた破綻するのである。
    このように世界を観る、あるいは分別せずに世界として在る(有るではない)時、初めて世界は世界として分別することも分節つするのも能わざる事と在る。

    このように世界の実相を空、つまり有に非ず、無に非ず、有無に非ず、非有無非無無として作す時、世界は俯瞰される。しかし俯瞰する主体を有無に分別すれば世界はあるがままとして現前する事は無い。
    ただ空なる世界である現象として在る者は一切智者としてある。例え、彼が言語や知能によって語りえないとしても、その洞察は世界であり、理解は智慧であり、それをして悉有仏性と作す。
    この時戯論としての形而上の論理は成立しうるのか?
    もしくは形而上の論理は世界を反映するだろうか?それは自ずから理解されるだろう、例えこの文章によって理解するだけでも。

    世界は自覚は無くとも世界である「ココロ」の有り様として真理であり、世界と「ココロ」が分節される事は無い。これをサマタ、止観における皆仏性と言い、それは一木一草もまた仏性の化生だと観ずる事の本質なのだ。

    これは超越的、つまりアプリオリな実相ではない。アプリオリな経験ではない。超越的な特権ではない。
    それゆえに 道元禅師は悟りに階梯は存せずとするのである。そこで問題であり得るのはここでも場、でしかないのだ。


    合唱















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