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ギックリ腰と保守
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ギックリ腰と保守

2014-07-06 13:18
    先日買い出し中に腰を捻り動けなくなった。
    注意深く歩いている。
    しかし前方を歩いていた人が予測不可能な事をして回避した。以来正確に言えば背中の筋肉を痛めたのだろう湿布で背中一面を覆って対処している。仕事も休めず(妻が臨時休業を嫌うのだ)、当然病院にも行かない。医療費の無駄である。

    予測不能ではない。
    あらゆる事態は短時間内であればあるほどある程度の予測はできるはずだ。自分の行動の数秒先を設定せずに行動する人間などいないだろう。ただ、自分と他者との間にはまさに予測外の隔たりがあるのを考慮に入れない事を迂闊と言う。
    迂闊だったので痛い目にあった。迂闊だったのは自分なので自己責任なのである。

    全てにおいて完全である、などと言う事は不可能である。
    釈尊ですら病気をされる。阿羅漢も病気、怪我、それから生じる痛さや苦しみと無縁ではないと経典でも書かれている。だからこそ様々な事に対して常に念を持っていなければならない。けどそれは繰り返されるが非常に難しい。
    大事なのは思考と現実には乖離があると言う事を自覚する事なのだ。

    先日、ある人がPCの調子が悪いと言う相談を受けた。
    何でも屋的人間なのでそのくらいの相談を解決する事はハード的な問題(壊れたとかの)以外ならどうとでもできる。マルウエアやウイルスだらけのPC内の混沌を整理整頓して回復するのは苦もない。相手が機械なのだから。
    単純な機械の故障は部品を交換したり、ソフトを訂正したり、最終的には買い替えてしまえば良い。

    近代文明とはそういう設定で動いている。人ですら上記の対処で何とでも成る、と言うのが資本主義社会の設定かもしれない。
    人は、そうだろうか?
    始めに書いた。人は自分はどうにか制御の枠内(ときとしてそれすら危ういが)に置ける。しかし当然人、とは自分の事だけを言うのではない。
    あらゆる個はそれぞれの個にとってまさに予測(予想)外の存在であるからこそ社会運営は混沌を生む。この視点が社会を考える基本である。

    如何にお花畑に育ち、半ば洗脳に慣れた民族と言えどいつまでもそうであり続けると言う事はない。保守とは人がそうである、と言う事を理解しその上で解決できる範囲内で社会を漸進的に整備し、予想可能な範囲内で対処を整え、社会の安定を保ちたいと言う人本来の願望と無縁ではないだろう。
    つまり保守的傾向は思想の左右は関係なく誰の内にもあるものである。
    政治もそういう視点で見るべきだろう。



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