• 『唯一者とその所有』マックス・シュティルナー

    2018-10-03 02:41

    『唯一者とその所有』1844)はドイツの哲学者マックス・シュティルナーによる論文である。徹底した唯名論(存在とは個々の存在だけに認められるものであり、人間一般、人類などという全体的なものは便宜的に名前をつけただけという考え)と個人主義の立場からキリスト教、国粋主義(ナショナリズム)、伝統的道徳を批判した。さらには人道主義、効用主義、自由主義、当時興隆を誇っていた社会主義運動を糾弾し、その代替として善悪を超越(しかし本質的には非道徳的でも反社会的でもない)したエゴイズムを提唱した。『唯一者とその所有』は後世の無政府主義(アナーキズム)、実存主義、虚無主義、ポストモダンの発展に大きな影響を与えたと考えられている。



    パート1

    『唯一者とその所有』の冒頭は人間の一生(子供時代、青年時代、大人時代)に基づいた三部構成の弁証法から始まる。まず実在的な子ども段階では、彼は彼の外にある物質の力によって抑圧されている。しかし年齢を重ね子どもが青年になった時、彼は精神の自己発見によって外部からの押さえつけを克服するようになっていく。しかしながら実在から観念の段階に移行すると、今度は外部でなく彼の内部にある良心、理性、妄執や固定観念(宗教、国粋主義、その他の各種イデオロギー)の奴隷になる。そして最終段階では唯一者(エゴイスト)は完全に大人となり内部、外部のあらゆる制約から解き放たれて個人として自己決定する力を獲得する。

    本書を通じてシュティルナーは人類史(古代から現代、そして唯一者の未来へ)に弁証法の手法を採用している。パート1では前者二つの社会(古代と現代)なかんずく宗教的観念に囚われた現代社会への批評を含んでいる。シュティルナーの分析は「現代人は過去の人類よりも進歩的に自由である」という考えとは真逆のものである。シュティルナーは現代社会をキリスト教や国民国家のイデオロギーなどの観念に抑圧されたものだと見ていた。

    シュティルナーの現代批評の中心には宗教改革が踏まえられている。彼によれば宗教改革は肉体的感覚と精神的感覚の境界を曖昧にすることによって宗教の領域を個人にまで拡大した(例えば宗教改革によって聖職者は結婚を許された)。また宗教改革は生来の欲望の間にある内在的相克と、それと同時に宗教的良心を生み出すことによって宗教思想を強化、集中させ、宗教をより個人的なものにした。こうして宗教改革はヨーロッパ人をますます精神的イデオロギーの奴隷にする役割を果たした。

    シュティルナーの先進的歴史観への批評はヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)特にルートヴィッヒ・フォイエルバッハの哲学への攻撃を一部に含んでいた。シュティルナーはフォイエルバッハ哲学を単なる宗教的思考の延長だとみなしていた。フォイエルバッハはキリスト教徒は人間の存在を取り違え、全能の神の中に人間存在を射影していると論じた。しかしシュティルナーによればフォイエルバッハ哲学は神を排除するところまでは良いとしてもキリスト教の特性を無瑕疵のまま残してしまった。フォイエルバッハは人間そのものをとりあげ人道主義の規範に基づいて人間を神格化した。シュティルナーからすればこれは個人にとっての支配者がキリストから別の物に変わっただけでいまだに宗教のままなのだ。

    シュティルナーは他のヘーゲル左派に対しても、人間の外部に存在しそれを獲得するために努力が必要な人間本質の概念を定めてしまったことを批判した。アーノルド・ルーゲら自由主義者たちが市民権の中に、モーゼス・ヘスら社会自由主義者が労働の中に人間本質を見出したとき、彼らはみな人間本質を固定化し神格化するという似たような過ちを犯してしまったのである。シュティルナーからすれば人間本質は人間がいかにいきるべきかの規定を与えはしないのである。彼の目指すべきものは本質的で普遍的な目的の概念から個人を解き放つことにあった。


    パート2

    第二部では哲学的エゴイズムを通じて、現代社会の観念的束縛から解き放たれる可能性を見ていく。シュティルナーのエゴイズムとは彼が(独)Eigenheit(英語でOwnness所有、autonomy自律)と呼ぶものである。この所有とは人類の個人的、歴史的発展のより進んだ段階の特徴である。それは彼の世界観の基礎にあるものであった。

    シュティルナーのエゴイズムとは日本語の一般的用法である心理学的エゴイズム(利己主義)とは異なる概念である。またシュティルナーは狭い意味での自己中心的な倫理的エゴイズムを支持していなかった。例えばシュティルナーは物質的欲望のみを追い求めた欲深い個人の行動を取り下げている。彼にとって、そのような物質的欲望の追求は個人を単一的な目的への奴隷にさせ、自律の考えとは相容れないものであった。

    つまりシュティルナーのいう所有の概念とは個人の行動があらゆる内在、外在の制約に縛られない自己所有の形態であった。

    「他の何者にも支配されず私が私の主人であったときのみ私は私を所有する」

    自律を手に入れるために人は自らをイデオロギー、宗教、倫理、他人、果ては自らの欲望などあらゆる力から離れさせなければいけない。シュティルナーからするとEigenheitは道徳的、政治的、家庭的な義務とは交わらないものであった。

    「家庭を築くことは人を縛ることである」

    シュティルナーの無政府主義者への影響力は、このような国家の正当性の否定を根拠にしている。シュティルナーは自律する者と国家とは相反するものであり、その中にあっては恒久の平穏は決して訪れることはないとまでいう。あらゆる国家体制は専制主義が個人の自律性を上回るゆえに排除される。仮に満場一致での民主主義的決定でさえシュティルナーなのいう唯一者を縛ることはない。というのは満場一致であってもその決定は過去の意思をその時点で固定させ、国民を過去の欲望と決定の奴隷にしてしまうからである。シュティルナーは過去の行動が自律を制約しうることを許さず、約束は守らずとも良いという。彼は唯一者は「偽りの英雄主義」を求めるべきであると断じた。

    イデオロギーと制度の批判ののちにシュティルナーはエゴイスト連合という新しい社会を示する。これらの連合は互いの価値観を干渉しない自己決定を行う個人たちの一時的な集合体であり、連合における唯一の善は各個人の自己利益のみであるとされる。シュティルナーは「愛」のような人間関係は新しい唯一者の未来に繋がる考えていた。しかしこの新しい種の「愛」は唯一者が自主性を犠牲にすることもなく愛が人を幸せにする限りのものとされる。


    この記事はWikipediaの『唯一者とその所有』の英語版『The Ego and its Own』を抄訳したものです。



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  • 【わたモテ考察】田村ゆりと根元陽菜の同族意識

    2018-08-27 01:30

    マンガ「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い」が去年からネット上で話題になりアニメ化から時を経ていま再び人気を博しています。僕も当時はアニメを見ていた程度でしたが最近の展開に完全にハマり単行本をすべてそろえてしまいました。

    初期はボッチの主人公黒木智子、通称もこっちが男女から「モテる」ためにキテレツな言動を繰り返してしまうギャグアニメでしたが、8巻以降は登場人物も増えて、今ではまるで青春群像劇のようになっています。

    初期とはだいぶ作風が変わったため「もこっちのハーレムになっている」と言われることもある最近の展開ですけれど、僕としてはようやく行き着く所に行き着いたんだなという感があります。

    もこっちは一年生の頃から友達や恋人を作りたいと望み、そのために色々と行動して、失敗してもへこたれずまた行動を続けていました。普通のボッチは上手くいかない人間関係を諦め、また恥をかくことを恐れてなかなか行動することができません。もこっちはその点ひと味違います。

    またこちらのネット記事でも言及されていますけど、もこっちって意外と育ちがいいんですよね。ボッチをこじらせてしまっていますけど、家庭環境に恵まれたおかげで根っこの部分で優しいんだと思います。きーちゃんを呪ったと思えばすぐにきーちゃんを助けてしまう所は地味にお気に入りシーンです。

      
    今のもこっちの周りに人が集まっているのは偶然でもご都合主義でもなく、いくら恥をかいてもなおモテようと頑張り続けていた彼女の努力が実った結果で感慨深いものがあります。

    最近の展開はハーレム化の他に「百合マンガ化が進んでいる」とも言われています。少女同士の愛情を描く百合は僕個人としても好きなので、わたモテ百合二次創作に毎日目を楽しませてもらってはいます。ですが、じゃあ公式で百合化が進んでいるかというとちょっと違うと思います。

    わたモテの人気ツートップの田村ゆりと根元陽菜はもこっちに独占欲のような感情を見せ、それがまるで恋愛感情のように思える人もいると思います。しかし2人のもこっちに対する感情とは恋愛のそれではなく、もちろん友情もあるでしょうがそれ以上に強い同族意識があるのだと考えられます。




    田村ゆりは今やわたモテのもう一人の主人公といっても過言でないほどの少女になりました。智子の高校での初めての友達であり、彼女もまた智子をかけがえのない友人だと考えているようです。時には智子に対して並々ならぬ感情を見せることがあり、読者はそこに甘い想いを感じ取り「ゆりもこ」はわたモテ二次創作のリーディングカップルになっています。

    ですが修学旅行から振り返ってみると、ゆりにとって智子は唯一無二の特別な存在ではありません。彼女にとっての特別は田中真子と吉田茉咲を含めた「4人」なのです。

    しかし、ゆりは田中真子や吉田茉咲が他の人と一緒にいても残念そうにはしますが、怒りはしません。ゆりは智子の時だけ特別に怒りをあらわにします。それは田村ゆりにとってもこっちだけが唯一「こちら側」。端的に言ってしまえば陰キャラ仲間と認識しているからでしょう。

    陰キャ陽キャ、リア充非リア、一軍二軍。いわゆるスクールカーストと呼ばれるものです。普通これらのカーストは誰かに強制されるものではなく、暗黙のうちになんとなくクラスに生まれていくものです。こんなもの後から思えば幻想のようなものですが、思春期の高校生にとっては自分がどこのカーストに属しているかは重大な問題になります。

    ゆりの目からすると真子は親友ですが同時に南小陽らキラキラ系グループに入れてもらっている陽の人間です。吉田さんはヤンキーなので完全なリア充とはならずとも陰キャラとはとても言えない存在です。



    ゆりは自分で自分が社交性の高い人間だとは思っておらず、真子や吉田さんとは違う陰の側だと自己認識しています。そして彼女は智子も同じく陰キャラだと見なしている。大事な4人であっても黒木さんだけが陰の側。「黒木さんだけが自分と同じ」なのです。



    だから田村ゆりは智子が陽の側にいくことを強く恐れ、また智子がその気を見せると遠慮なく怒りをぶつけます。 加藤さんとイチャコラしてる智子には殴りかからんとする勢いです。

      

    智子がこちら側にいるから安心できる。しかし同時に「もしかしたら黒木さんも自分と違うのではないか」という不安が常にゆりにつきまとっています。ゆえに彼女は智子の行動が気になり執着してしまうのです。

       

    そして根元陽菜もまた「あちら」と「こちら」を強く意識していた少女です。



    彼女は中学時代は地味な少女でしたが高校入学を機にデビューを果たして派手グループに入りました。以前より読者の間では入試の時にクロに触発されたのが高校デビューの原因だと推察されていましたが最近本人の口からそれが事実であったと判明しています。

    ネモは陽キャとして振舞いながらも自分の性根はオタクの陰キャだと考えています。しかし、もし陰キャだとバレた時の周りの反応が怖く本性を親友の茜にも隠して2年間過ごしていました。けれども陰キャ街道をひた走るクロに刺激されて3年次の自己紹介で自分が声優を目指しているオタクであることをカミングアウトします。

    いまどき声優志望のオタクだからといってどうということもないのですが、ネモにとってオタク暴露は手が震えるくらい勇気のいることでした。



    そんな彼女にとっての支えはクロです。もし周りのリア充たちが陰キャの自分から離れていったときにクロさえいれば少なくとも孤立せずにすむ。ネモにとってもクロは「こちら側」の存在であり、だからこそ根元陽菜もゆりと同じようにクロが陽の側、「あちら側」にいくことは許しません。クロが加藤さんにデレデレしていたら恐ろしい形相で睨みつけることになります。

    逆にいうと2人とももこっちが陰キャの側にいるのならば目くじらを立てることもないのです。その例が我らが大天使、小宮山さんです。



    さきほど田村ゆりはもこっちの高校での初めての友達と言いましたが、小宮山さんは中学時代からの腐れ縁です。年季が違います。しかし田村ゆりと根元陽菜の二人とももこっちが小宮山さんと仲良くしていてもガンスルーです。

    周知の通り、もこっちと小宮山さんの関係は仲良しこよしというわけではないのですが二人はそのことは知りません。例えばこのエピソードですと、



    あの黒木さんが学外でお茶しているという意外な場面でもゆりの嫉視はあからさまに陽キャのゆうちゃんにしか注がれていません。同じクラスと気づいているのに小宮山さんはアウトオブ眼中です。

    また学食でのこのシーンも、直後のタイミングを考えればゆりもこのハモりは聞いていたはずです。



    曲がりなりにも女子高生やってるゆりとネモ。女達の本音と建前のねちっこい世界は重々承知のはず。その上で面と向かって「仲良くない」と言い合える二人の仲を言葉通りとるほど鈍くはありません。しかし、ゆりが絡んでいくのは小宮山さんでなくネモの方です。それからの会話でも小宮山さんのことはゆりの意識にすらないようです。



    ネモはこのハモりに対しては何か思うところはあるようです。本音を言い合える友達を長く求めていたネモにとってクロと小宮山さんの関係は羨ましいものだったに違いありません。しかし加藤さんとクロが仲良くしてたときほどの激情は見せていません。



    田村ゆりも根元陽菜も小宮山さんとほとんど喋ったことはなくとも、本能的に彼女を「こちら側」だと認識していたのでしょう(実際、小宮山さんは伊藤さん以外友達がおらず便所飯の常習犯なので間違いなく陰キャなんですが)。だからクロが小宮山さんと仲良くコントしていても感情が強く揺り動かされることはないのです。

    もこっちが「こちら側」でいる限りゆりもネモも気にすることはない。けれど、ここに二人のすれ違いがあります。

    ネモにとってゆりはクロと同じく陰の者であって「こちら側」の住人です。なので、ネモはクロに近づくと同時にゆりとも仲良くなる宣言をしますし、クロとゆりが仲良くしていてもモーマンタイです。



    しかしゆりにとってはそうではない。読者はネモの本性を知っていますが、ゆりにとってネモは陰キャに絡みにきてるキラキラ系女子でしかありません。彼女にとって根元陽菜は「あちら側」の存在なのです。だから智子とネモが仲良くしていたら怒り心頭です。



    とはいえネモに悪意がないのも承知しているので憎しみを抱くこともできず、それが「別に嫌いじゃない。好きでもないけど」のセリフにつながってきます。

    こうしてみると二人のもこっちへの態度はなんだか依存的でもあります。特にゆりからは百合などではなく智子への危うい同族意識が感じられます。ネモも茜と仲直りできていなかったらそうなっていたかもしれません。

    ゆりと比べて遠足以降のネモは陰キャ陽キャを意識することは徐々に薄くなっているように思えます。オタクカミングアウトしてからネモは一番の友達である茜に無視されるようになってしまいました。恐らく彼女は「やっぱり陰キャは嫌われるのか。あーちゃんも所詮向こう側の人だったんだね」とでも思ったことでしょう。

    しかしそれは誤解であり、仲直りした後に冷静になって周りを見てみれば茜はもちろん、女子カーストトップの加藤さんも男子カーストトップの清田も陰キャ陽キャで壁なんて作っていないことにネモは気づきます。ネモだからではなくこの二人はもともともこっちにも優しいのでその心は本物です。

    実は陰キャを見下していたのはネモ自身だったりするのかもしれません。「ぼっちのプロ」とか「黒木さんには聞かなくてもいいよね?」などと、クロに対しての数々のマウンティングがそれを物語っています。ネモは陰キャに対するコンプレックスがあるからこそ、あれほどオタクカミングアウトを恐れていたのでしょう。

    しかし茜と仲直りし、加藤さんとの付き合いも深まるにつれて彼女自身の中にあった陰陽の壁も崩れていき、最近ではクロへのある意味高圧的態度も影を潜め素直に付き合えるようになっているように思えます(ただ彼女は本音を言い合える友達関係にも憧れているのでズバズバいうのは今後もなくならないでしょう)。

    一方のゆりはいまだ「こちら側」にいる智子と「4人」という壁を壊すことができていません。彼女の世界は今でもまだ「4人」なのです。今後の展開で彼女が「4人」と「その外」の間に壁がないことに気づき、ネモや加藤さんや茜(あとうっちー)たちとも仲良くできるようになってほしいところです。

    今はだいぶ大人しくなりましたが、もこっちはもともと彼氏を作りキラキラ系の友達に囲まれる陽キャの学園生活を望んでいる少女です。もしゆりやネモがもこっちが陽キャラになる、「あちら側」へいってしまうことをずっと許さないとなると、まさにタイトル通り。私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い、という事態に陥ることになります。七夕まで(あと2ヶ月)に脱処女を目指しているもこっちですが、友達に大勢囲まれても彼氏ができる日はまだ見えてこないようです。







  • 資本論の価値論についての雑感

    2018-07-29 22:15

    最近ふとマルクスの資本論を読み返しています。昔はよく開いていたけれど、読み返すのはだいぶ久しぶりになりました。通読するのではなく第1章だけど精読している感じです。

    マルクスの資本論は難解とよく言われますが、実際のところ大著ではあっても全体として資本論は理解不可能ではないと思います。格式高い文体を維持しつつも資本論はあくまで労働者のための本なので、研究レベルの精密さを目指すならともかく、きちんと文章を追っていけば僕のような独学者でも、なるほどそういうことが言いたいのだなと徐々にわかるようになってきます(あくまで大体ですが)。

    しかしこの1章だけはなかなかに難しい。資本論が読破困難といわれるゆえんは、もちろん単純に分厚いとか西洋風のレトリック(修辞技法)が日本人にはきついとか色々理由があるんですが、その要素の一つに読者が一番最初に取っ組み合うことになる第1章「商品」が資本論全体の中で一番難しいというのがあるでしょう。

    このことはマルクス本人も資本論の序文で述べています。

    なにごとにおいても始めが難しいという諺は全ての学問にあてはまる。だから本書でも、商品の分析を含む第1章がもっとも理解が難しいところだろう。

    むしろマルクス的には第1章以外は難しいところなんてないぞとすら言っています。

    だからこの価値形態に関する節を除けば本書で分かりにくいと苦情を言われるようなところはないはずである。

    それが事実かはともかく、第1章「商品」はその名の通り、社会で取引される商品を扱っています。ごぞんじの通り資本論は資本主義をとことん分析した研究書です。医者が人間を研究する際に細胞を観察するように、マルクスは資本主義を研究するべく商品(労働生産物の商品形態あるいは商品の価値形態)に目をつけたのです。

    1章「商品」は四つの節に分かれていて1節、2節では使用価値と交換価値、第4節ではフェテシズム(物神崇拝)について扱っています。しかし何と言っても一番難しいのは第3節の「価値形態または交換価値」です。この節ではマルクス本人がいうには一番難しい、しかし資本論全体の基礎となる価値形態論が解説されています。

    価値形態論とは、労働を源泉として生まれた価値(労働価値説)が形を変えながらいかにその価値を実現(現象形態に至ら)させるか。そしてそれを元に第二章の交換過程で価値が貨幣形態へ変態(メタモルフォーゼ)する道のりを辿ることによって「なぜ私たちはお金を出せば商品が買えるのか?」という商品社会の大きな謎に挑んでいくことになります。

    それまでの経済学(マルクスがいうところのブルジョワ経済学)ではお金が価値があるのは当たり前の前提として扱われていましたが、マルクスは資本論の中でこの常識に挑むことになります(「常識を疑え」はマルクスの口癖)。

    価値形態論は非常に抽象的でまたその裏にはヘーゲル思弁哲学の影響があり、どうにもわかりづらいものがあります。

    ヘーゲルの『論理学』全体をよく研究せず理解しないではマルクスの『資本論』、とくにその第一章を完全に理解することはできない。したがって、マルクス主義者のうちだれひとり、半世紀もたつのに、マルクスを理解しなかった!(レーニン)

    資本論の価値論は抽象度が高く(神秘のヴェールに包まれている)ためパッとイメージしづらい。けれどもここを理解しないことには資本論全体を誤解してしまう可能性があります。

    ところで先日『日経Biz Gate』のウェブニュースでこのような記事を読みました。

    マルクス『資本論』は何を間違えた?~商品の価値を決めるのは労働量ではない~https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO3064412017052018000000?channel=DF020420183710&page=2

    マルクスの資本論を批判する短い文章です。「マルクスは生産に必要な労働量が等しいパンと野菜は等価値であるという。しかし等価値であるなら交換する意味がないのではないか」という疑問はもっともです。等価値でありながら不等価値である不思議。そもそも私たちの経験からいっても頑張って商品を作った(労働量を投入した)からといって評価される(市場価値が生まれる)わけではないことは自明でしょう。


    ①なぜ等価値であるはずの商品は交換されるのか?


    もちろんその答えは資本論の中にあります。マルクスは資本論第1章の冒頭から、商品には二種類の価値があると言います。それは使用価値と交換価値です。使用価値とは商品を実際に使用することで役に立つ価値です。例えばパンや野菜なら食べてお腹を満たすことができるので価値があります。

    交換価値とは市場において他人と他の商品と交換してもらえる価値です。今の社会では物々交換は滅多になく、貨幣と商品を交換することになります。パン屋さんにとってパンを貨幣という商品と交換してもらえるので価値があるということです。

    興味深いのは、使用価値がどれだけ高くても交換価値が低かったり、逆に交換価値が高くても使用価値が低いということがありうることです。アダム・スミスはこれを水とダイヤモンドのパラドックスと言いました。つまり水は人間にとって必要不可欠なものですが、売るとなったら大した交換価値を持ちません。一方ダイヤモンドはそれ自体はただの光る石ですがその交換価値は絶大です。

    この二種類の価値は人間の労働によって生まれます。しかしそれぞれ二つの労働はそれぞれこれまた二種類の労働によって発生するのです。それは具体的有用労働と抽象的人間労働です。具体的有用労働とは実際に働いていた工程をいいます。パン屋さんなら小麦を仕入れ、仕込みをし、生地を捏ね、焼き上げる。それが具体的有用労働です。

    具体的有用労働は使用価値を生み出します。パンの仕込み、焼きなどはすべて最終的に生み出されるパンの品質に直結します。そして具体的有用労働は交換価値とは関係がありません。お客にとって価格(≒価値)以外にパン屋さんが具体的にどう働いたかというのは問題ではなく、同じ労働時間ならばパン屋さんが気合いをいれて労働をしてもパンが安くなるわけではありません。ただ美味しいパンならお客さんが来てくれるので交換価値の実現可能性は高くなるでしょう。

    抽象的人間労働とはその商品に含まれた労働量になります。商品の交換が行われる際に関わってくるのはその商品を生産するのに人間が発した時間とエネルギー、すなわちどれだけ労働したかという抽象的な指標であり、この指標はパンの品質とは違って商品をいくらまじまじと観察したところで発見することはできません。

    さて「なぜ商品は等価値でありながら交換が行われるのか?」の答えですがこれは商品は交換価値は同じであっても使用価値が違うからです。上の記事の筆者は具体的有用労働と抽象的人間労働をごちゃまぜにしてしまったことから誤解してしまったのです。

    パンを食べたい人と野菜を食べたい人がいれば使用価値の違う二つの商品は等価の抽象的人間労働に基づいて交換されうるでしょう。社会において使用価値の産地がバラバラであることを社会的分業といいます。パン屋さんはパンを焼き、八百屋さんは野菜を売る。そして各自が別途必要なものはそれぞれを生産している人から交換してもらう。それが分業社会です。

    社会的分業がなければ商品生産、ひいては資本主義社会はなりたたないとマルクスは言います。(逆に、分業が行われていれば必ず商品生産になるとは限りません)

    社会的分業は商品生産の実存条件である。

    さて記事の中からもう一つ。


    ②「なぜ消費者は労働量を調べずとも等価であると考え商品の交換をすることができるのか?」


    こちらは第14節「商品の物神的性格とその秘密」からヒントを探していきます。

    労働価値説などと言ってみても、労働者が頑張って働いたからといって必ずしもその価値がマーケットで認められるとは限りません。パン屋さんの焼いたパンは触ってみればフワフワで食べてみれば美味しい。その使用価値は五感によって容易に理解できます。しかしそれがいざ市場において商品になった途端、その価値は目に見えず耳に聞こえぬ超感覚的なものとなります。

    確かに交換価値は労働を源泉にして生み出されますが、労働がそのまま市場価値として現れるわけではありません。そして先ほども言った通り商品を色々観察したところで価値はどこからも発見できません。価値とは目に見えないため社会的関係の中で価値は形態を次々と変えて紆余曲折を経てようやくその価値を見出す(現象させる)ことになります。交換価値はその形態の一つなのです。

    価値それ自体は一種の宗教のようなものです。マルクスはこれを物神崇拝(フェテシズム)と言いました。俗に性癖の説明としてうなじフェチとか指フェチなどと言いますがそれと同じ意味の語句です。まあそれはともかく商品は労働を注入されたからといって市場において当たり前に価値が認められるわけではなく、商品が貨幣になるために「命がけの跳躍」を行わなければなりません。

    記事の筆者がいうように、市場での交換は「あなたの商品は労働2時間分ですね。私の商品は4時間分なのであなたの商品2つと私の1つを交換しましょう」とはなりません。マルクスがいうのはその逆。私的労働の産物である商品が交換が行われることによってはじめてそれが価値であるものとわかるのです。価値があるから交換されるのではなく、「交換」が先で「価値の現象」が後なのです。

    商品の交換比率は最初はどれも偶発的です。それまで社会に全く見られることのなかった商品はどのように価格をつけていいのかわかりません。今の日本でもITサービス等で新規性の高いものは価格変動が激しいでしょう。ですがやがて慣習的に一定の比率に落ち着いていきます。しかしそれは商品の客観的な性質(つまり内在する労働量)から決まるのではなくて、交換が終わったあとにその商品の中に含まれていた労働の価値が実現するのです。

    いくら一生懸命作った商品でも市場で価値がつかなければそれは無意味なものです。つまり生産者はこの運動を制御することはできず、むしろ市場の運動によって制御されてしまうことになります。商品の交換あるいは商品の価値というものは自然科学的なものではなく常に社会的なものであります。マルクスのいう労働価値説とは労働時間が等しいものが市場で交換されるというものではなく、市場で行われた商品の交換を分析し二つの商品に投入されていた労働量を社会的労働量として計っているわけです。



    ベーム・バーヴェルクの『マルクス体系の終結』はダニエル・ベルの『イデオロギーの終焉』などと共に優れたマルクス批判の古典として研究されてきました。そこでは確かに労働価値説への適切な批判がされています。しかしベーム・バーヴェルクは単純に労働価値説の否定=マルクス経済学の破綻と考えていたようですが、マル経のすべてが労働価値説に立脚したものではありませんし、また労働価値説が成り立たないとしても商品に投下された労働量を定量分析することが無意味ということにはなりません。

    さらに記事でも触れられているジェボンズ、メンガー、ワルラスらの限界革命です。この理論的革新によって経済学は数学と結婚を果たし近代数理経済学が誕生したと言われます。彼らが生み出した効用価値説は人間の心理に基づいて価値が決まるので主観的価値説といいます。これに対してマルクスの労働価値説は労働量が価値を決めるので客観的価値説といいます。

    ミクロ経済学で習う効用価値説ですので最新の学説で正しいと思われてしまいがちですが、効用価値説もまた労働価値説と同じように批判検討にさらされています。効用価値説はそれが成り立つために非現実的な仮定を置かなければいけないため、特殊条件下でのみ成立する限定的な価値論なのではないかというのがその主たるものです。いずれも絶対的に正しい定説とは言えないのです。



    「価値とは何か?」という疑問は一見簡単そうに見えて、アリストテレスの古代ギリシャの時代から議論されている深淵なテーマです。その課題を哲学から経済学が引き継ぎ今でも多く価値論に関する研究がでています。他のところでも散々言っていますが資本論自体は19世紀の古い本であり、その限界は明らかです。200年も前の本で無謬のまま現代でも読まれるものなんてありえません。研究者の不断の努力によって過去の研究は日夜欠点が発見されています。しかしそれで過去の古典をナンセンスだというのはそれこそナンセンスです。

    限界を踏まえた上で学の原点に立ち返ることのできる書籍。それこそがクラシックというものじゃないでしょうか。