• 本当はシリアスな『まちカドまぞく』

    2019-09-23 15:45

    20197月に放送開始したアニメ『まちカドまぞく』もついに今週最終回を迎えます。昨年冬季のアニマエール以来、半年ぶりのきらら作品とあって注目度も高く、ベテランの桜井弘明監督(今年還暦!)の手腕もあって好評を得ていました。自分も毎週楽しみに見ています。

    代表的な桜井弘明監督作品

    ・だぁ!だぁ!だぁ!
    ・デジキャラット ワンダフル版
    ・魁!!クロマティ高校
    ・GA芸術家アートデザインクラス
    ・斉木楠雄のψ難

    ギャグ作品に定評がある。

    しかしアニメの12話の制約上、キリの良いところまでができないのが個人的には残念です。自分もアニメにハマって原作を全巻そろえたのですが、できれば3巻の終わりまでやってほしかった! 3巻は『まちカドまぞく』の数々の謎が解かれ、タイトルの回収がされるいわば第1章完といったところなのだけど、アニメでは2巻の終わりまでなのでどうしても消化不良感があります。

    きらら系は日常系アニメの代名詞と言われるほどで、女の子たちがワイワイキャイキャイ楽しく日々を過ごす様子を描くのが黄金パターンです。まちカドまぞくもそれをほぼ踏襲し、シャミ子と桃の愉快な毎日を描いていくのですが、その背景となる世界設定はなかなかヘビーなものがあります。

    今回はアニメ組が見ることのできなかった『まちカドまぞく』のシリアスな一面を紹介します。原作ネタバレがありますので、きになった人は先にコミックスを読もう。


    闇の一族と光の一族

    まちカドまぞくの世界には「闇の一族」と「光の一族」と言われる存在がいます。闇の一族とは曰く、世界の矩(のり)から外れた者たち。異形の者、異能の者、まつろわぬ者。簡単に言ってしまえば妖怪です。例えば白澤(ハクタク)や狐狸精。シャミ子は夢魔と呼ばれる種族になります。

    それと対になる光の一族と呼ばれる概念があります。彼らは天地開闢の際の荒ぶる大魔力から生まれた神話的存在であり、今はもうすでに人の中に霧散して地上からいなくなってしまいました。しかし光の一族が生み出したナビゲーターと呼ばれる天使達は、あるじの消滅後も自動運転で働き続けました。ナビゲーターと契約した人たちは巫女や魔法少女と呼ばれ、闇の一族を討伐するごとにポイントが入り、一定量が溜まると願いが叶うというシステムです。



    光の一族と闇の一族は何千年も激しい戦いを続けていました。そして今を遡ること約5000年前にメソポタミアでシャミ子の先祖リリスが光の一族に多重の封印をかけられて邪神像に魂が囚われてしまいました。これがまちカドまぞくの物語の発端になります。


    千代田桜と吉田優子

    リリスの子孫である吉田優子は生まれつき闇の力が強くそのために5000年にわたって積もりに積もった呪いがその幼き身にのしかかり長い入院生活を送っていました。彼女は到底呪いに太刀打ちできず、子供のうちに衰弱死してしまうものと思われていました。

    その同時期に桃の義理の姉で師匠である千代田桜は光の一族の魔法少女と闇の一族のまぞくがゆるく共存できる特別な街を構想していました。彼女は魔法少女が容易に引っ越してこれるよう賃貸物件を作ったり、まぞくが安心して生活できるようにアンチ魔法少女結界を街に張り巡らしたりして、その結果、物語の舞台せいいき桜ヶ丘は正に聖域のような街に生まれ変わっていました。

    その過程で桜は病で死にかけている優子の存在を知ります。桜は妹の分まで呪いを引き受けている心優しい少女に感銘を受け、優子の命を救うために色々と尽力しました。まず吉田家の金運を健康運に変換しますが、それでも古代の呪いは強大で焼け石に水です。

    優子に魔力を与えて街を守る力を失った桜は優子の父ヨシュアと防衛協定を結びました。その後、街に"天災"があり街の工場でなんらかの戦いがありました。それにより桜はほぼ魔力を使い果たし、コアだけの存在になりかけていました。この際にヨシュアもダンボールに封印されたものと思われますが、この辺りはまだ原作でも不明です。桜の口ぶりからすると優子の呪いとは全く別件のようです。



    消滅しかけの桜の脳裏に浮かんだのが優子でした。桜は自らの魔力のコアを彼女に託し、ようやく優子を救うことができました。その後も優子は病気がちで運動のできない体ではありましたがすくすくと育ち、15歳になりまぞくとして目覚めるとかなり健康体といえるほどにまでなりました。



    千代田桃とシャミ子

    一方で、いきなり自分の前から消えてしまった義姉の行方を探しながら千代田桃(5歳)は手がかりが眠るせいいき桜ヶ丘を守る戦いを続けていました。作中ではまだ出てきていませんが、この世界には社会を混沌に導く悪の闇の一族や、逆に闇の一族ならばどんな無害でも討ち取ろうとする過激派魔法少女が存在するようです。桃は同族の魔法少女と体に大きな傷を負うほどの争いをしてまで街を守っていましたが、本人の口からは「上手くいかなかった」と述べられています。

    桃が9歳の頃にはミカンや仲間の魔法少女たちと一緒に大規模な戦いに参加しました。これによって桃たちは世界を救ったとのことです。杏里が大げさに言っているだけかと思いきや、本人も否定しなかったころから本当に桃たちは世界を救ったようです。しかしその後の桃は魔法少女のやる気を失ってしまい、徐々に変身することすらなくなってしまいました。

    そうして本編で千代田桃と吉田優子あらためシャドウミストレス優子が邂逅します。千代田桃は最初はポンコツまぞくの優子を保護・監視すべく近づきますが、徐々にシャミ子の優しい心(あと可愛いし)にほだされ彼氏を気取りだします。しかしふとしたことでシャミ子に血と共に魔力を奪われてしまったり、結界を貼り忘れたりして過激派まぞく、過激派魔法少女が街に集まるきっかけを作ってしまいます。



    平和ボケしたまぞくが多く住むせいいき桜ヶ丘は過激派にとって絶好の狩場になりえます。優子の家族たちもそのターゲットになる可能性がある。そのためシャミ子は桃と休戦、共闘同盟を結び、桃は援軍にミカンを招集し、同時にシャミ子を鍛えていきます(主にダンベルとプロテインで)。



    まちカドまぞく
    その後、探していた桜のコアがシャミ子の中にあることを桃は知ってしまいます。桃がせいいき桜ヶ丘を守っていたのはあくまで義姉を探すためであり、姉の場所が知れた今、もともと魔法少女とかまぞくとかに興味の薄かった桃がこの街に固執する理由はもうなくなってしまいます。

    他方シャミ子は、自らの中に眠る桜の記憶の残滓から「この街を守ってほしい」と頼まれていました。それを聞いた桃はシャミ子に「これからはこれからはシャミ子が笑顔になれるだけのごくごく小さな街角だけを全力で守れたら……それが私の新しい目標になる気がするんだ」と笑顔で言い放ちました。



    桃と協力して街を守ることから、桃を配下に加えて改めてまちカドを守ることに決めたまぞくシャドウミストレス優子は今日も魔力を鍛えるために奮闘中。頑張れシャミ子、いつか超強いまぞくになって千代田桜を救い、一家の呪いも解くまで戦い続けるんだ!

    



    年表

    宇宙開闢光の一族と闇の一族の戦いが始まる
    約5000年前リリスが光の一族に呪いをかけられ封印される
    10年以上前千代田桃(5歳未満)が桜を師匠として魔法少女として活動開始
    陽夏木ミカン(5歳未満)が別ルートで魔法少女として活動開始
    10年前桜と桃がせいいき桜ヶ丘でミカンと知り合う
    桜が桃を別の街に預ける
    桜が入院中のシャミ子(5歳)にコアを託して失踪
    桃がせいいき桜ヶ丘に帰還、桜を捜索するためにせいいき桜ヶ丘を守る戦いを始める
    6年前桃とミカン(共に9歳)が仲間の魔法少女と共に世界を救う
    現在桃がシャドウミストレス優子と出会う




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  • 『唯一者とその所有』マックス・シュティルナー

    2018-10-03 02:41

    『唯一者とその所有』1844)はドイツの哲学者マックス・シュティルナーによる論文である。徹底した唯名論(存在とは個々の存在だけに認められるものであり、人間一般、人類などという全体的なものは便宜的に名前をつけただけという考え)と個人主義の立場からキリスト教、国粋主義(ナショナリズム)、伝統的道徳を批判した。さらには人道主義、効用主義、自由主義、当時興隆を誇っていた社会主義運動を糾弾し、その代替として善悪を超越(しかし本質的には非道徳的でも反社会的でもない)したエゴイズムを提唱した。『唯一者とその所有』は後世の無政府主義(アナーキズム)、実存主義、虚無主義、ポストモダンの発展に大きな影響を与えたと考えられている。



    パート1

    『唯一者とその所有』の冒頭は人間の一生(子供時代、青年時代、大人時代)に基づいた三部構成の弁証法から始まる。まず実在的な子ども段階では、彼は彼の外にある物質の力によって抑圧されている。しかし年齢を重ね子どもが青年になった時、彼は精神の自己発見によって外部からの押さえつけを克服するようになっていく。しかしながら実在から観念の段階に移行すると、今度は外部でなく彼の内部にある良心、理性、妄執や固定観念(宗教、国粋主義、その他の各種イデオロギー)の奴隷になる。そして最終段階では唯一者(エゴイスト)は完全に大人となり内部、外部のあらゆる制約から解き放たれて個人として自己決定する力を獲得する。

    本書を通じてシュティルナーは人類史(古代から現代、そして唯一者の未来へ)に弁証法の手法を採用している。パート1では前者二つの社会(古代と現代)なかんずく宗教的観念に囚われた現代社会への批評を含んでいる。シュティルナーの分析は「現代人は過去の人類よりも進歩的に自由である」という考えとは真逆のものである。シュティルナーは現代社会をキリスト教や国民国家のイデオロギーなどの観念に抑圧されたものだと見ていた。

    シュティルナーの現代批評の中心には宗教改革が踏まえられている。彼によれば宗教改革は肉体的感覚と精神的感覚の境界を曖昧にすることによって宗教の領域を個人にまで拡大した(例えば宗教改革によって聖職者は結婚を許された)。また宗教改革は生来の欲望の間にある内在的相克と、それと同時に宗教的良心を生み出すことによって宗教思想を強化、集中させ、宗教をより個人的なものにした。こうして宗教改革はヨーロッパ人をますます精神的イデオロギーの奴隷にする役割を果たした。

    シュティルナーの先進的歴史観への批評はヘーゲル左派(青年ヘーゲル派)特にルートヴィッヒ・フォイエルバッハの哲学への攻撃を一部に含んでいた。シュティルナーはフォイエルバッハ哲学を単なる宗教的思考の延長だとみなしていた。フォイエルバッハはキリスト教徒は人間の存在を取り違え、全能の神の中に人間存在を射影していると論じた。しかしシュティルナーによればフォイエルバッハ哲学は神を排除するところまでは良いとしてもキリスト教の特性を無瑕疵のまま残してしまった。フォイエルバッハは人間そのものをとりあげ人道主義の規範に基づいて人間を神格化した。シュティルナーからすればこれは個人にとっての支配者がキリストから別の物に変わっただけでいまだに宗教のままなのだ。

    シュティルナーは他のヘーゲル左派に対しても、人間の外部に存在しそれを獲得するために努力が必要な人間本質の概念を定めてしまったことを批判した。アーノルド・ルーゲら自由主義者たちが市民権の中に、モーゼス・ヘスら社会自由主義者が労働の中に人間本質を見出したとき、彼らはみな人間本質を固定化し神格化するという似たような過ちを犯してしまったのである。シュティルナーからすれば人間本質は人間がいかにいきるべきかの規定を与えはしないのである。彼の目指すべきものは本質的で普遍的な目的の概念から個人を解き放つことにあった。


    パート2

    第二部では哲学的エゴイズムを通じて、現代社会の観念的束縛から解き放たれる可能性を見ていく。シュティルナーのエゴイズムとは彼が(独)Eigenheit(英語でOwnness所有、autonomy自律)と呼ぶものである。この所有とは人類の個人的、歴史的発展のより進んだ段階の特徴である。それは彼の世界観の基礎にあるものであった。

    シュティルナーのエゴイズムとは日本語の一般的用法である心理学的エゴイズム(利己主義)とは異なる概念である。またシュティルナーは狭い意味での自己中心的な倫理的エゴイズムを支持していなかった。例えばシュティルナーは物質的欲望のみを追い求めた欲深い個人の行動を取り下げている。彼にとって、そのような物質的欲望の追求は個人を単一的な目的への奴隷にさせ、自律の考えとは相容れないものであった。

    つまりシュティルナーのいう所有の概念とは個人の行動があらゆる内在、外在の制約に縛られない自己所有の形態であった。

    「他の何者にも支配されず私が私の主人であったときのみ私は私を所有する」

    自律を手に入れるために人は自らをイデオロギー、宗教、倫理、他人、果ては自らの欲望などあらゆる力から離れさせなければいけない。シュティルナーからするとEigenheitは道徳的、政治的、家庭的な義務とは交わらないものであった。

    「家庭を築くことは人を縛ることである」

    シュティルナーの無政府主義者への影響力は、このような国家の正当性の否定を根拠にしている。シュティルナーは自律する者と国家とは相反するものであり、その中にあっては恒久の平穏は決して訪れることはないとまでいう。あらゆる国家体制は専制主義が個人の自律性を上回るゆえに排除される。仮に満場一致での民主主義的決定でさえシュティルナーなのいう唯一者を縛ることはない。というのは満場一致であってもその決定は過去の意思をその時点で固定させ、国民を過去の欲望と決定の奴隷にしてしまうからである。シュティルナーは過去の行動が自律を制約しうることを許さず、約束は守らずとも良いという。彼は唯一者は「偽りの英雄主義」を求めるべきであると断じた。

    イデオロギーと制度の批判ののちにシュティルナーはエゴイスト連合という新しい社会を示する。これらの連合は互いの価値観を干渉しない自己決定を行う個人たちの一時的な集合体であり、連合における唯一の善は各個人の自己利益のみであるとされる。シュティルナーは「愛」のような人間関係は新しい唯一者の未来に繋がる考えていた。しかしこの新しい種の「愛」は唯一者が自主性を犠牲にすることもなく愛が人を幸せにする限りのものとされる。


    この記事はWikipediaの『唯一者とその所有』の英語版『The Ego and its Own』を抄訳したものです。



  • 【わたモテ考察】田村ゆりと根元陽菜の同族意識

    2018-08-27 01:30

    マンガ「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い」が去年からネット上で話題になりアニメ化から時を経ていま再び人気を博しています。僕も当時はアニメを見ていた程度でしたが最近の展開に完全にハマり単行本をすべてそろえてしまいました。

    初期はボッチの主人公黒木智子、通称もこっちが男女から「モテる」ためにキテレツな言動を繰り返してしまうギャグアニメでしたが、8巻以降は登場人物も増えて、今ではまるで青春群像劇のようになっています。

    初期とはだいぶ作風が変わったため「もこっちのハーレムになっている」と言われることもある最近の展開ですけれど、僕としてはようやく行き着く所に行き着いたんだなという感があります。

    もこっちは一年生の頃から友達や恋人を作りたいと望み、そのために色々と行動して、失敗してもへこたれずまた行動を続けていました。普通のボッチは上手くいかない人間関係を諦め、また恥をかくことを恐れてなかなか行動することができません。もこっちはその点ひと味違います。

    またこちらのネット記事でも言及されていますけど、もこっちって意外と育ちがいいんですよね。ボッチをこじらせてしまっていますけど、家庭環境に恵まれたおかげで根っこの部分で優しいんだと思います。きーちゃんを呪ったと思えばすぐにきーちゃんを助けてしまう所は地味にお気に入りシーンです。

      
    今のもこっちの周りに人が集まっているのは偶然でもご都合主義でもなく、いくら恥をかいてもなおモテようと頑張り続けていた彼女の努力が実った結果で感慨深いものがあります。

    最近の展開はハーレム化の他に「百合マンガ化が進んでいる」とも言われています。少女同士の愛情を描く百合は僕個人としても好きなので、わたモテ百合二次創作に毎日目を楽しませてもらってはいます。ですが、じゃあ公式で百合化が進んでいるかというとちょっと違うと思います。

    わたモテの人気ツートップの田村ゆりと根元陽菜はもこっちに独占欲のような感情を見せ、それがまるで恋愛感情のように思える人もいると思います。しかし2人のもこっちに対する感情とは恋愛のそれではなく、もちろん友情もあるでしょうがそれ以上に強い同族意識があるのだと考えられます。




    田村ゆりは今やわたモテのもう一人の主人公といっても過言でないほどの少女になりました。智子の高校での初めての友達であり、彼女もまた智子をかけがえのない友人だと考えているようです。時には智子に対して並々ならぬ感情を見せることがあり、読者はそこに甘い想いを感じ取り「ゆりもこ」はわたモテ二次創作のリーディングカップルになっています。

    ですが修学旅行から振り返ってみると、ゆりにとって智子は唯一無二の特別な存在ではありません。彼女にとっての特別は田中真子と吉田茉咲を含めた「4人」なのです。

    しかし、ゆりは田中真子や吉田茉咲が他の人と一緒にいても残念そうにはしますが、怒りはしません。ゆりは智子の時だけ特別に怒りをあらわにします。それは田村ゆりにとってもこっちだけが唯一「こちら側」。端的に言ってしまえば陰キャラ仲間と認識しているからでしょう。

    陰キャ陽キャ、リア充非リア、一軍二軍。いわゆるスクールカーストと呼ばれるものです。普通これらのカーストは誰かに強制されるものではなく、暗黙のうちになんとなくクラスに生まれていくものです。こんなもの後から思えば幻想のようなものですが、思春期の高校生にとっては自分がどこのカーストに属しているかは重大な問題になります。

    ゆりの目からすると真子は親友ですが同時に南小陽らキラキラ系グループに入れてもらっている陽の人間です。吉田さんはヤンキーなので完全なリア充とはならずとも陰キャラとはとても言えない存在です。



    ゆりは自分で自分が社交性の高い人間だとは思っておらず、真子や吉田さんとは違う陰の側だと自己認識しています。そして彼女は智子も同じく陰キャラだと見なしている。大事な4人であっても黒木さんだけが陰の側。「黒木さんだけが自分と同じ」なのです。



    だから田村ゆりは智子が陽の側にいくことを強く恐れ、また智子がその気を見せると遠慮なく怒りをぶつけます。 加藤さんとイチャコラしてる智子には殴りかからんとする勢いです。

      

    智子がこちら側にいるから安心できる。しかし同時に「もしかしたら黒木さんも自分と違うのではないか」という不安が常にゆりにつきまとっています。ゆえに彼女は智子の行動が気になり執着してしまうのです。

       

    そして根元陽菜もまた「あちら」と「こちら」を強く意識していた少女です。



    彼女は中学時代は地味な少女でしたが高校入学を機にデビューを果たして派手グループに入りました。以前より読者の間では入試の時にクロに触発されたのが高校デビューの原因だと推察されていましたが最近本人の口からそれが事実であったと判明しています。

    ネモは陽キャとして振舞いながらも自分の性根はオタクの陰キャだと考えています。しかし、もし陰キャだとバレた時の周りの反応が怖く本性を親友の茜にも隠して2年間過ごしていました。けれども陰キャ街道をひた走るクロに刺激されて3年次の自己紹介で自分が声優を目指しているオタクであることをカミングアウトします。

    いまどき声優志望のオタクだからといってどうということもないのですが、ネモにとってオタク暴露は手が震えるくらい勇気のいることでした。



    そんな彼女にとっての支えはクロです。もし周りのリア充たちが陰キャの自分から離れていったときにクロさえいれば少なくとも孤立せずにすむ。ネモにとってもクロは「こちら側」の存在であり、だからこそ根元陽菜もゆりと同じようにクロが陽の側、「あちら側」にいくことは許しません。クロが加藤さんにデレデレしていたら恐ろしい形相で睨みつけることになります。

    逆にいうと2人とももこっちが陰キャの側にいるのならば目くじらを立てることもないのです。その例が我らが大天使、小宮山さんです。



    さきほど田村ゆりはもこっちの高校での初めての友達と言いましたが、小宮山さんは中学時代からの腐れ縁です。年季が違います。しかし田村ゆりと根元陽菜の二人とももこっちが小宮山さんと仲良くしていてもガンスルーです。

    周知の通り、もこっちと小宮山さんの関係は仲良しこよしというわけではないのですが二人はそのことは知りません。例えばこのエピソードですと、



    あの黒木さんが学外でお茶しているという意外な場面でもゆりの嫉視はあからさまに陽キャのゆうちゃんにしか注がれていません。同じクラスと気づいているのに小宮山さんはアウトオブ眼中です。

    また学食でのこのシーンも、直後のタイミングを考えればゆりもこのハモりは聞いていたはずです。



    曲がりなりにも女子高生やってるゆりとネモ。女達の本音と建前のねちっこい世界は重々承知のはず。その上で面と向かって「仲良くない」と言い合える二人の仲を言葉通りとるほど鈍くはありません。しかし、ゆりが絡んでいくのは小宮山さんでなくネモの方です。それからの会話でも小宮山さんのことはゆりの意識にすらないようです。



    ネモはこのハモりに対しては何か思うところはあるようです。本音を言い合える友達を長く求めていたネモにとってクロと小宮山さんの関係は羨ましいものだったに違いありません。しかし加藤さんとクロが仲良くしてたときほどの激情は見せていません。



    田村ゆりも根元陽菜も小宮山さんとほとんど喋ったことはなくとも、本能的に彼女を「こちら側」だと認識していたのでしょう(実際、小宮山さんは伊藤さん以外友達がおらず便所飯の常習犯なので間違いなく陰キャなんですが)。だからクロが小宮山さんと仲良くコントしていても感情が強く揺り動かされることはないのです。

    もこっちが「こちら側」でいる限りゆりもネモも気にすることはない。けれど、ここに二人のすれ違いがあります。

    ネモにとってゆりはクロと同じく陰の者であって「こちら側」の住人です。なので、ネモはクロに近づくと同時にゆりとも仲良くなる宣言をしますし、クロとゆりが仲良くしていてもモーマンタイです。



    しかしゆりにとってはそうではない。読者はネモの本性を知っていますが、ゆりにとってネモは陰キャに絡みにきてるキラキラ系女子でしかありません。彼女にとって根元陽菜は「あちら側」の存在なのです。だから智子とネモが仲良くしていたら怒り心頭です。



    とはいえネモに悪意がないのも承知しているので憎しみを抱くこともできず、それが「別に嫌いじゃない。好きでもないけど」のセリフにつながってきます。

    こうしてみると二人のもこっちへの態度はなんだか依存的でもあります。特にゆりからは百合などではなく智子への危うい同族意識が感じられます。ネモも茜と仲直りできていなかったらそうなっていたかもしれません。

    ゆりと比べて遠足以降のネモは陰キャ陽キャを意識することは徐々に薄くなっているように思えます。オタクカミングアウトしてからネモは一番の友達である茜に無視されるようになってしまいました。恐らく彼女は「やっぱり陰キャは嫌われるのか。あーちゃんも所詮向こう側の人だったんだね」とでも思ったことでしょう。

    しかしそれは誤解であり、仲直りした後に冷静になって周りを見てみれば茜はもちろん、女子カーストトップの加藤さんも男子カーストトップの清田も陰キャ陽キャで壁なんて作っていないことにネモは気づきます。ネモだからではなくこの二人はもともともこっちにも優しいのでその心は本物です。

    実は陰キャを見下していたのはネモ自身だったりするのかもしれません。「ぼっちのプロ」とか「黒木さんには聞かなくてもいいよね?」などと、クロに対しての数々のマウンティングがそれを物語っています。ネモは陰キャに対するコンプレックスがあるからこそ、あれほどオタクカミングアウトを恐れていたのでしょう。

    しかし茜と仲直りし、加藤さんとの付き合いも深まるにつれて彼女自身の中にあった陰陽の壁も崩れていき、最近ではクロへのある意味高圧的態度も影を潜め素直に付き合えるようになっているように思えます(ただ彼女は本音を言い合える友達関係にも憧れているのでズバズバいうのは今後もなくならないでしょう)。

    一方のゆりはいまだ「こちら側」にいる智子と「4人」という壁を壊すことができていません。彼女の世界は今でもまだ「4人」なのです。今後の展開で彼女が「4人」と「その外」の間に壁がないことに気づき、ネモや加藤さんや茜(あとうっちー)たちとも仲良くできるようになってほしいところです。

    今はだいぶ大人しくなりましたが、もこっちはもともと彼氏を作りキラキラ系の友達に囲まれる陽キャの学園生活を望んでいる少女です。もしゆりやネモがもこっちが陽キャラになる、「あちら側」へいってしまうことをずっと許さないとなると、まさにタイトル通り。私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い、という事態に陥ることになります。七夕まで(あと2ヶ月)に脱処女を目指しているもこっちですが、友達に大勢囲まれても彼氏ができる日はまだ見えてこないようです。