努力について(幸関記:16)
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努力について(幸関記:16)

2018-03-17 14:46

    幸福に関する記述(努力について):16

     「幸福に関する記述」とは少し違うかもしれないけれど。
     努力について書こうと思う。

     「努力は必ず報われる。」
     というけれど、本当だろうか。

     少し前までネットでも話題にはなっていたけど。

     努力しても意味がないとか、無駄だとか。色々と。
     まぁ実際努力をしても報われるわけではない。
     私も色々と努力はしてきた方だと思うけど、報われたことなんてないし。

     けれど、たぶんやり方がおかしかったのだと思う。


     単刀直入に言うと、結局は「運」である。
     報われるかどうかはすべてが運次第だ。
     その時いた環境、時代的な状況、その他諸々の要素に左右される。
     努力をしていたかどうかはほとんど関係ない。

     今まで私が経験してきた事から導き出された答えだ。



    ○努力とは

     まず努力とは、
     「目標を掲げ、到達のために邁進すること。(wikipedia)」
     らしい。

     上記の説明から考えられる部分は二つ。
     前半の「目標を掲げる」と、後半の「到達のために邁進すること」。

    ●「邁進すること」

     まずは後半部分の「邁進すること」から考えてみよう。

     邁進するとはどういうことだろうか。
     実際の努力の「行為」をすることは邁進することだろう。

     バットを振るにしても、ボールをけるにしても、小説のために文字を書くにしても、一つ一つ小さな行為の積み重ねである。
     この一つ一つの積み重ねが「行為」だ。

     何かしらの行為をすることは、価値を支出することである。
     価値には主に「金銭」の他に、「時間」や「体力(能力)」がある。
     時間をかけることも、体力や頭脳を使うことも価値の支出である。
     (この三つはとりあえず私が重要だと思う価値で、捉え方によって様々な価値を導くことができる。)

     つまり「邁進する」と言うことは「価値を支出する」と言うことだ。


     また、価値を支出すると言うことは通常何かしらの見返りを求めている。
     努力の行為をしている時はすぐに返ってくる見返りはない。

     ここから「我慢する」という事も努力に含まれるのだと思う。

     我慢するということは、一時的な苦痛に耐えることだ。
     苦痛というのは、『幸福に関する記述』における「不幸(=不満、不安、トラブル)」に時間的概念を加えたときに出てくる概念である。

     肉体的精神的な不満や不安が継続すると「苦しい」になる。
     肉体的精神的なトラブルは「痛み」になる。

     つまり「邁進する」ということは、「価値の支出を継続し(時間的概念)我慢する」と言い換えることができるだろう。


     価値の支出であれば、『幸福に関する記述』の記事で(幸福な支出)と(それ以外の支出)について書いたが、その内容が使える。

    ************
     幸福な支出
     ・見返りを求めないこと。
     ・対象の(幸福)のためにすること。
     ※受け取りを強制しないこと、快楽ではないこと。
    ************

     幸福な支出については定義したのでここでは省く。
     幸福な支出以外には何があるだろう。

     単純に思いつくのは
     ・不幸の回避
     ・快楽
     ・他人の不幸(シャーデンフロイデ)
     ・自分の不幸
     このくらいだろうか。

     「不幸の回避」は、安心のためにするもの。
     「快楽」は(不幸)の隠蔽、ごまかしである。
     「他人の不幸」は快楽に含めても良いかもしれない。他人を利用して自らの不幸を隠蔽しようとしているのだから、似たような物だと思う。
     「自分の不幸」はそう多くは見かけないが、「かわいそうな私」という自己憐憫に酔っている人がやる努力だ。わざわざ努力をして自分をさらなる不幸に追い込もうとする人もいる。

     他にも導こうとすればあるかもしれないが、とりあえずは以下四つ。
     ・幸福
     ・不幸の回避
     ・快楽(シャーデンフロイデ含む)
     ・不幸
     となる。


    ※いったんまとめ
     「邁進する」=「価値の支出を継続し、我慢する」

     価値の支出の方向に対していくつかの分類ができる。
     幸福、不幸の回避、快楽、不幸など。


    ●「目標を掲げる」

     とりあえず、「邁進する」についてはこの辺りにしておく。
     次は前半部の「目標を掲げる」について考えてみよう。

     目標は努力をする上で重要だ。
     しかし多くの人は闇雲な努力をして目標をそもそも立てていなかったり、明確でない漠然とした目標を立てていたりする。

     目標を立て、明確化する。
     目標はいわば到達点であり、目的地である。
     どこに行くかわからない状態では本来動きようがない。

     目標を立てた上で、目標の到達のために「行為」をする。
     行為 → 目標
     となる。

     目標の奥にはさらなる目標がある。
     というよりも、なぜその目標を立てたのか、目標を立てた目的だ。
     行為 → 目標 → 目的
     となる。

     こうなると目標というのはただのステップで、奥には必ず目的があるはずだ。

     例えば、「英語の勉強」で考えてみよう。
     単語の勉強は       単語を使った文を作るためだ。
     単語を使った文を作るのは 英語の文章を作るためだ。
     英語の文章を作るのは   実際に英語を使えるようにするためだ。
     というように、段階は続いていく。

     ミクロな視点に立てば、目標は目的と同じだ。
     一つ一つの行為は目標を達成することを目的としている。
     目標を達成した時点で次の目標が視野に入り、それが目的となる。
     また、達成した目標は次の目標を達成するための行為となる。

     行為 → 目標(目的)
          行為 → 目標(目的)
               行為 → 目標(目的) のようになる。

     マクロで見れば目標は単なるステップで大きな目的に向かって進む。

     行為 → 目標1 → 目標2 → 目標3 ・・・ 目標x → 目的


     目的の奥には更に大きな目的があり、終わることはない。
     目的は山の頂のようだが、頂(仮)であって(仮)が外れることは恐らくない。
     または概念的な方向性の目的になっていく。

     行為も細かく分けようと思えばいくらでも細かく分けることができる。
     単語を書いて覚える場合、
     机を片付ける → ノートを出す → ペンを出す → ノートを開く → ・・・
     のように。

     ノートを出す「目標」のために机を片付ける「行為」をする。

    (小行為+小行為+小行為+小行為+・・・)=行為
    (行為+行為+行為+行為+・・・)    =目標
    (目標+目標+目標+目標+・・・)    =目的

     単純に、行為目標目的は「タスク」と言い換えることもできるだろう。
     行為目標目的の違いはタスクの段階の違いだ。


    ※いったんまとめ
     行為と目標、目的は概念的には同じ。
     目標は比較的小さいステップ、目的は最終の到達点。
     行為は目標よりも小さいステップである。

     行為、目標、目的は単純に「タスク」と言い換えられる。
     支出する価値(時間金銭体力)が大きくなるごとに呼称が変わる。


    ●努力とは

     さて、努力にでは行為がなければ元も子もないが、目標を達成した時は目標の内容が新たな行為となる。

     行為とは「邁進すること」だ。
     「邁進する」=「価値の支出の継続し我慢する」であり、価値の方向性で分類できる。

     目標が新たな行為となるならば、目標についても価値の方向性で分類できる。
     「行為」「目標」「目的」、それぞれについて価値の方向性で分類できるはずだ。

     直接価値の支出ができるのは「行為」だけだが、「目標」「目的」についても方向性を分類することはできる。
     行為 -(価値の支出の分類)
     ↓
     目標 -(価値の支出の分類)
     ↓
     目的 -(価値の支出の分類)
     となる。

     通常「努力」といった場合、行為における価値の支出は本人にとってネガティブである一方で、目標や目的の価値の支出の分類はポジティブになる。

     「努力」とは
     「ポジティブな価値のためにネガティブな価値の支出を許容し継続すること」
     である。

     ネガティブとは苦痛である。苦痛とは「幸福に関する記述」記事での(不幸)の継続。
     まれにわざわざ不幸になるために努力している人もいるので一般化する。

     (努力)=(ある価値のために苦痛を受け入れ継続すること)


    ※いったんまとめ

     努力とは、ある価値のための苦痛を受け入れ継続すること。

     行為目標目的について、それぞれ価値の支出の方向性で分類できる。


    ●目的の人称

     更に進めて考えてみよう。
     最終到達点(仮)または概念的方向性である目的について。
     努力をする上で目的は最重要だ。

     原因論目的論という考え方は、今の行動を過去からみるか未来から見るかで大まかに分けられる。
     反射的行動に関しては原因論のことが多く、意識的な行為に関しては目的論である事が多いと個人的には思う。
     努力に関しては意識的な行為であるから目的論だ。

     すべての行為には必ず目的がある。
     努力するにあたり目的を正確に認識することだ。

     そして突き詰めていくとどの領域に目的があるのかということに行き着く。
     領域は「人称」で分類できる。(『幸福に関する記述』の記事から)

    ******
     (一人称):自己領域で完結する。
     (二人称):既知の他者が介入する。(プライベートの関係の他者。)
     (三人称):未知の他者が介入する。(既知でもオフィシャルの関係の他者。)
    *******

     先の英語の勉強の例から考える。

     単語の勉強は       単語を使った文を作るためだ。
     単語を使った文を作るのは 英語の文章を作るためだ。
     英語の文章を作るのは   実際に英語を使えるようにするためだ。

     となるが、そもそも「何のためにするのか」が目的となる。
     欲求と言ってもいいかもしれない。

     先に見据えるのが「英会話ができるようになりたい」だとしよう。
     ただこれはまだ最終点の目的とは言えない。
     「なぜ?」を答えが出なくなるまで繰り返してみると良い。

     例えば、更に深く追求したとき、
     ①「いろんな文化の人々と接したい。」→「自分が楽しいから」
     となるならば、目的は「自分が楽しむ」である。
     ②「できるようになったらほめられる」→「ほめられたい」
     目的は「ほめられる」だ。
     ③「英会話ができたらすごいと思う。」→「人からすごいと思われたい。」
     目的は「人からの承認」である。
     ④「英会話ができたら就職に役立つ」→「より高い収入が欲しい」
     目的は「収入」である。

     ①の場合は他の誰も介入していないので「一人称」となる。
     ②の場合はほめてくれる誰かを想定しているので「二人称」。
     ③の場合は明確な他者を想定していれば「二人称」、想定していないならば「三人称」である。
     ④の場合は金銭という価値は社会的な価値の尺度であるから「三人称」である。

     この分類が関係するのは「報われるかどうか」である。

     「努力は必ず報われる」なんて言うけれど、それだけでは言葉足らずだ。
     多くの格言などの言葉はインパクトが出るように、いくつもの条件を言葉の中から省いてしまっている。


    ・一人称の場合
     完全な自己の領域内では、楽しかったり嬉しかったり、何を苦痛と感じるか、一生を通じて変わることはあまりない。
     強烈な経験によって変わることはあるだろうが、普通に生きている範囲なら変わらないだろう。


    ---------------
    余談
     表面上は変わる可能性はあるが、そもそも自己領域内の好き嫌いは社会の枠に当てはまることはない。
     どうしても社会の視点から見ると社会の既存の枠組みに当てはめてしまう。
     例えば絵が好きだったのが、興味を失って手芸に趣味が変わるということはよくある事だ。
     社会からの視点で絵から手芸に「好き」が変わったと見れる。しかし、それは社会の枠組みでの判断だ。
     その人の「好き」は「色を使用して創作する」という事なのかもしれない。
     社会的に評価される枠組みではないが、個人の枠組みは社会の枠組みには当てはまらない。
     だから絵から手芸に興味が移ったのは二次元から三次元へ成長したと捉えることが出るだろうし、他の捉え方もできるかもしれない。
     本人からしたら同じ事をしているだけかもしれない。
     本人すらもその枠組みを明確には知らないだろう。
     「好き」を追求していけばより無駄を省き純度の高い「好き」になっていく。
     しかしその「好き」は大抵社会の枠組みに当てはまらない。
    ---------------


     自分とは一生つきあっていくことなり、自分の特性はあまり変わらない。
     だから、目的の本質は変わらない。
     目的が一人称である場合、例え目標がクリアできず断念したからといって、努力が無駄になることはない。
     向かう目的とはいわば山の頂である。
     山頂に向かうルートの内、行けないルートを見つけた、つまり苦手を発見したのだ。
     今後の苦手を避けるのに役立つし、苦手を避ける別のルートはいくつもあるだろう。
     山頂に着きさえすれば良いのだ。

     目標をクリアしようがしまいが長い目で見れば必ず糧になるはずである。
     自分の領域を目的にした場合、報われないことはない。
     「一人称」の努力は必ず報われるのである。


    ・二人称の場合
     誰かのため、またはその誰かからの特別な報酬を求める場合。
     「一人称」と同じように、相手が求める物も相手にとっての「一人称」であるから、相手の欲の本質は社会の枠に当てはまらない。
     本当の欲望もある程度言葉を使って表すことができたとしても、社会の枠を借りなければ表現することができない。
     文字も言葉も社会の枠の一種である。
     正確な欲望が完全な形で伝わることはないだろう。
     掲げた目標を達成できたとして報酬が受け取れるわけではない。

     また、その相手とはずっとつきあっていくわけではない。
     その相手との関係性は長い目で見れば、必ずどこかで切れる。
     関係が切れたら終わりだ。
     二人称が完全な形で報われることはない。
     報われるとしても一時的である。
     関係が切れた時点で報われることはなくなる。

     相手にとっての欲望は、本人にとっての欲望ではない。
     だから、関係が切れたら本人にとっては無用の長物となる。
     (欲望が大まかに一致していれば使えるだろうが、自らの欲望で行ったのならば「一人称」である。)

     「二人称」の努力は必ず報われるわけではない。
     関係が深ければ深いほど報われる可能性が高くなるが絶対ではない。
     相手との関係が終わった時点で報酬はなくなる。


    ・三人称の場合
     三人称の欲望は更につかむことができない。
     そもそも三人称は直接関係することができない(社会)である。
     社会の欲望は言葉を介して表現されることもなく気まぐれに移り変わり続ける。

     比較的読みやすいトレンドは皆が読めるので、競争率は高くなる。
     社会は欲望を語らないし、推察できるものは皆が読んでいるので競争が激しい。

     どんなに努力してもトレンドを読めなければ報われないし、読めたとしても激しい競争に勝たなければならない。
     生半可な努力では太刀打ちできないだろう。
     競争が激しいからといっても社会は気まぐれである。
     目標と達成できたとして全く評価されないのも珍しいことではない。

     報われる可能性は低い。


    ・注意点
     なお、一人称に人称三人称は大まかな領域である。
     領域に着いては『幸福に関する記述』の記事で書いたけれど、領域が変わってしまえば答えはまるきり変わってしまう。
     捉える領域が異なる変数は同じ数式に入れることはできない。
     一人称の条件で数式を作るとき、二人称の変数も三人称の変数も数式に入れてはならないので、必ず答えは一人称の答えになる。
     一人称の努力の数式の答えは必ず一人称の報酬になると言うことだ。

     前述した報われるか否かというのは、それぞれの人称においての報われるか否かと言うことだ。

     「一人称」での行為は必ず「一人称」の報酬で返ってくる。
     「二人称」は「二人称」に、「三人称」は「三人称」で返ってくる。

     「一人称」での行為の報いが「金銭(三人称)」で返ってくることはない。

    ---------------
    余談
     「人称」の報酬について、世の中では間違えている人が多いと思う。

     例として
    ・専業主婦(夫)の家事が年収に換算すると○○円、なんて議論。
     大きな社会から見れば夫婦で一つの領域としてみる。
     夫婦二人の関係に着目しても二人称だ。
     そこに三人称の価値である「金銭」が介入してしまっている。
     家事は夫婦の領域内で行われている限り金銭的価値はゼロだ。
     家事に価値がないのではなく、「金銭」の価値を過大評価しすぎだ。
     金銭は万能の価値ではない。
     こういうことを言っている人は、子供の頃に「テストで百点を取ったらお小遣い」というような賞罰教育を受けてきたのだろう。
     二人称の努力の報酬は二人称である。
     夫婦のことなのだから相手方からの承認(賞賛、労い、感謝)が基本的な報酬だろう。
     または冷め切った夫婦の場合、「金銭的報酬の分配」などを報酬とするかだ。
     夫婦は社会的に一つの領域としてみるので、夫が得た金銭的報酬も夫婦共同の所有である。(家事に直接「金銭」という価値が発生するわけではない。)

     この議論を複雑化しているのはもう一つ、周りからの圧力がある。
     家事に対して報酬云々の話題が出ると言うこと自体、家事に対して不満がたまっている証拠だが、根本は必ずしも夫ではない。
     社会の同調圧力、姑、友人か、ニュースやネットの情報に踊らされる。
     社会がこうすべきだと言うことを宗教のように盲信している。
     特に最近は「科学的根拠」を神のように崇めている人が多い。
     がんばったとしても求めてきた相手は三人称であり、その三人称に対し価値の提供をしていない。
     故に報われることはない。


    ・仕事で「やりがい」を与えようとすること
     最近の日本では多い気がする。
     仕事において「やりがい」を重要視させようとする年配の人がとても多い。
     私から言わせれば、搾取の言い訳以外の何物でもない。
     「やりがい」は一人称である。
     幸福と同じで「やりがい」は個人が勝手に感じる価値であり、他人が与えられる価値ではない。
     三人称に対して行われた仕事の報酬は三人称で払うのが当たり前である。
     三人称での報酬は「金銭」か「社会的承認」ぐらいだろう。
     「社会的承認」は三人称での社会的承認なので、未知の誰かからの承認である。
     広く多くの人々に賞賛されるような承認でなければ釣り合わないだろう。
     仕事先取引先での賞賛は二人称なので三人称の報酬にはならない。
     三人称での社会的承認は例えばニュースになるような賞賛である。
     そういった名誉がないのなら三人称の対価は「金銭」ぐらいしかない。
     (私が思いつかないだけかもしれないけど)
     三人称での仕事に対し、一人称や二人称の報酬で済ませようというのは詐欺である。
     三人称(社会)での相手の存在を認めないのと同じため、人間の社会的な部分(人権)への最大の侮辱、冒涜だ。
     「やりがい」という一人称すら外から強制したら、その人間の魂とも言える部分も踏みにじることになる。
     一人称を強制し三人称での存在を認めないというのは完全に奴隷として扱う(人間存在の否定)と言うことだ。
     必ずしも人権の侵害とは言えないところが卑怯である。
    ---------------


    ※いったんまとめ
     努力には必ず目的がある。
     目的については「人称」で分析できる。
     人称は「一人称」「二人称」「三人称」で分けることができる。
     報酬が得られる可能性は「一人称」「二人称」「三人称」と遠くなる程低くなる。
     得られる報酬はそれぞれの「人称」に応じた報酬となる。



    ○総合まとめ

     (努力)=(目標を掲げ、到達のために邁進すること)
         =(ある価値のために苦痛を受け入れ継続すること)

    ●特性
    ・(行為、目標、目的)=タスク
     行為目標目的は「タスク」と言い換えられる。
     支出する価値(時間金銭体力)が大きくなるごとに呼称が変わる。

    ・行為目標目的について、各々価値の支出を分類できる。
     価値の支出は幸福な支出の他に、不幸の回避、快楽、不幸などのための支出がある。

    ・達成する目標が大きくなるほど苦痛が大きくなる。

    ・目的は「人称」で分析でき、人称が増えるほど報酬を得られる可能性が小さくなる。

    ・報い(報酬)は価値の支出をした目的の人称と同じ人称で返る。




    ○努力の仕方
     コレを踏まえてどういった努力が良いのか考えてみよう。

     →次の記事に続きます


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