「自ら命を絶つことは許されることではないと思います」4
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「自ら命を絶つことは許されることではないと思います」4

2015-08-20 06:00

     いままで、色々と書いてきたけど、そもそも精神って何だろう。心って何だろう。って事で考えてみた。


     考える対象が漠然としていると、議論が土台のない空中戦をしていることになってしまう。


     まず、最初から考えてみよう。一番最初から。精神が生まれる前からのことを、トレースしてみるんだ。

     精神について、性善説だとかそう言うのよりも根本からだ。人の行動について、快不快を元にしているという話があるけど、それよりも前から。

     そもそも生き物に感情はあるのか。精神はあるのか。

     犬とか猫とか、そのくらいまで来るとあるだろうな。しかし、菌とかその辺りまで来るとないだろうな。

     その境界はどこなのか。

     で、たぶんなんだけど、身体的な感覚があるかないかだと思うんだ。

     脳があって、神経があって、痛みを感じるかどうか。痛みのほかに暖かい冷たい寒い暑いなどの感覚があり、認識できるかどうか。

     これが精神の根本なんじゃないだろうか。

     つまりは肉体的な感覚だ。

     肉体があり、その肉体を制御するために脳がある。脳は肉体に対応して作られるのだ。
     だから最初は肉体の感覚ができて、それから精神がつくられるんじゃないだろうか。

     まず一番最初にあるのは、生命としての危機だろう。生命の危機管理としての身体的感覚だ。

     視界に入るもののすべて、肌に触れるもののすべて、聞こえるもののすべて、味覚、嗅覚、五感すべてを使って、生命の危機管理をしている。

     その身体的感覚において、生命の危険を感じるとそれを避けようとする。避けられて危機を脱すれば安堵し、脱せられなければ脱しようともがく。もがいても脱せられない場合ストレスとなる。

     この安堵が快の元であり、ストレスが不快の元になる。快不快の根本は生命の危機を元にしているのだ。

     このぐらいだとまだ微生物レベルだ。さらに進めてみよう。

     脳が高度になってくると、危険に関するシグナルをより多く拾うようになる。

     今までは一次的な危険のシグナルだったのが、二次的三次的になる。

     たとえば、空腹になると危機を感じるだろう。単純に空腹→危機で、これが一次的な危険。空腹でなくても近くに食べ物がない。空腹ではないが、食べ物がない→空腹になる→危機で、これが二次的な危険だ。

     脳が発達してくるとこういった危機へのシグナルをひろうようになってくる。

     人間の赤ん坊ならば、しっかり世話をされなければ生命の危機があるので不快を覚える。両親がけんかをして怒鳴り声を上げていたとして。その後世話がおろそかにされる、放置されると言うことがあれば、間接的な生命の危機がある。そのため怒鳴り声そのものに危機感を覚えるようになるのである。

     こんな風にして二次的に三次的に感覚をつなげてゆく。

     そして、脳の構造から、思考というのは高速化していく。
     Aと言う状況に不快を感じたら、AをもたらすBと言う状況にも不快を感じるようになる。さらにBをもたらすCと言う状況に不快を感じるようになる。

     これら状況を何度も体験すると、Cそのものが不快の原因となる。

     C→B→A→不快 が、
     C→不快 となるのである。間が抜けるんだ。

     そして今度はCを一次的な条件として、二次的三次的な感覚がつながる。

     こんな風にして様々な状況に対して快不快を感じるようになるのだが、この辺りではまだまだ動物的な感覚だ。

     ちなみに快についてだけど、この辺りだとまだ積極的な快楽はなくて、安堵や安心という感覚に近いものだ。

     社会性を持つ動物や人間はさらにここから進む。

     社会との対話が始まり、その中で不快を感じても我慢しなければならないことを覚えたり、自己の存在を確認したりする。

     一時反抗期の辺りかな。このぐらいの子がわがままなのは、社会との距離感を学ぶためだ。今までは単なる快不快によって世話をしてもらえたのがされなくなる。この頃のわがままは社会との距離感、自己という存在の確立のためだ。

     五感を使って視た社会を映し鏡のように、自分の下行動から視た社会を対比として、写し取っていく。単純な快不快であっても抑制しなければならない状況が出てくる。

     そうした中でより複雑な感覚を持つようになってゆく。

     快不快につながる感覚は、五次的六次的になってくると直接身体の危機とは関係がないことも多い。しかしつながっている。だから様々な状況について、身体的な感覚として快不快を感じている。

     これが感情だ。無意識の連想ゲームとでも言えるだろうか。

     こういった回路が植物の根のように枝分かれして、いくつものパターンを形成していく。それらのパターンが集積されることで精神を形成している。

     生命としての安堵や危機を、快不快として、精神や感情は形作られるのである。


     精神は身体的感覚回路の集積だ。


     成長すると、とくに人間はより多くの社会と接するようになる。家族というコミュニティから、親戚、近所、学校などへ広がっていく。それによって当然、自己存在、立ち位置、扱われ方が全く変わってくる。

     最初は戸惑って何が何だかわからないが、次第にそれぞれのコミュニティにおいて回路を新たに形成する。精神に新たな世界を投影する。

     それぞれのコミュニティにおいて全く異なるルールがそこに存在している訳だが、なぜ違うのかを考えるようになる。本格的な思考のはじまりで、ここまで来ると完全に人間としての精神を形成しはじめる。

     投影された世界は、あたかも星を形成するようにぶつかり大きくなる。星としての質量が大きくなるように精神も大きくなる。またはそれぞれの世界がぶつかりあることによって、矛盾が生まれてそれに対処することによって、山や谷が生まれる。それが人間としての深みになるのである。

     これによって精神はより大きく、より深みを増していくことになる。


     この辺りは「年をとると丸くなる」という事を証明していると思う。

     ある一つのコミュニティにおいて受けた精神的衝撃は、投影した世界、つまり精神が大きいほど、相対的に減ることになる。

     ゲーム的に考えると、HP(もしくはMP)だ。
     子供の精神はまだ小さいからHPも少ない。大人はいろんな世界を知っているから、HPは多いのだ。

     たとえばHP10の子供は精神的なダメージを8受けたら残りHP2だが、HP100の大人は精神的ダメージを8受けても残りHP92になる。

     割合にすれば、80%のダメージと、8%のダメージだ。

     精神的ダメージはつまり不快であり、生命の危機につながる身体的感覚だ。強い危機感を感じれば逃げ出すための行動のたがは外れやすい。

     だから子供というのは元来キレやすいし、大人はキレにくいのだ。


     そういう意味から、「病気で一分一秒でも長く生きたいと願っている人がいるなかで、自ら命を絶つことは許されることではないと思います」と言う発言は、絶対的な間違いではないのかもしれない。

     別の世界を知ることで精神が大きくなることによって相対的にダメージを減らすことができるから。

     まぁ、単なる繰り延べにしかならないけど。

     このことについて書いたとき、たいした効果はないって書いた。

     これは昨今話題になっている「老人の幼児化」を考えてみればわかると思う。

     本来ならば「年をとると丸くなる」はずだが、最近は老人は年をとるとまるで子供のようにキレやすくなるのだという。

     今老人の人たちは、団塊の世代でバブルを生きてきた人たちだ。この人達にとって、仕事は生き甲斐であり、その人の人生の大半を占めてきた。そしてだからこそ、老後はゆっくりと静かに暮らしたいなどと考えて、定年後に閉じこもってしまうのだ。

     精神は大きくなったらそのままというわけではないのだ。絶えず新陳代謝をして効率化している。だから必要のなくなった部分に関しては捨ててしまう。その部分は小さくなってしまうのである。

     ( C→B→A→不快 ) → ( C→不快 )と言うように効率化している。
     ( F→E→D→不快 )、と言う仕事上の回路があったとして、仕事を離れて、FEDという状況がそもそもなくなってしまったら、この回路そのものが機能しなくなる。

     だから接する社会が少なくなると、精神性が次第に小さくなり、精神が小さい幼児と同じような状態になってしまうのだ。

     子供も同じように新陳代謝する。それも大人よりかなり速いスピードで。

     だから言葉によって、気休め程度に精神を大きくしたところで、長期的な効果は薄い。
     すぐにその部分は小さくなってしまう。小さくなってしまった部分は同じ言葉で新たに大きくすることはできない。一度効率化されてしまったら、効率化された部分で処理されて終わるから。

     ほとんど意味がないと書いたのはそのためだ。


     さらにここから先、ここからは宗教なんかの域に入ってしまうかもしれない。
     けれど、さらに精神の形成について書いていこうと思う。

     おさらいしておくと、精神は身体的感覚を積み重ねた回路の集積であると言うこと。
     様々な社会を経験することによって、精神は大きくなる。

     ただ、ここまでだと、人間が持っている特徴ではあるものの、人間とはまだいえないような気がする。人間を人間たらしめる特徴ではない様な気がする。

     人間の特徴は言語を使うと言うことだ。ほかの動物でも近いことはするが、概念の分解能は極端に細かい。

     人間は物事の名前をつけて、概念を明確に分解したのだ。分解した概念をそれぞれ動かすことによって複雑な思考を獲得した。

     思考は実際の体験なしに想像することを可能とさせた。
     これが、人間を人間たらしめた能力だ。

     これにより、精神はより複雑化されていく事になる。快不快に直接つながらないものにまで思考を巡らせることができるようになった。

     C→B→A→不快 だったものが、快不快とは関係なく、J→K→L と言うように。

     ともあれこれによって、学問を作り出すことに成功して、文明を手に入れた。だがこの辺りは本題からは脱線している。
     いまは精神のことだ。


     人は思考により、実際の体験ではない事柄について追体験できるようになった。

     ただ、逆にそれによって、根本である快不快が見えにくくなってしまった。

     自分とは関係のないことに対して、または体験したことのないことに対して、思考を巡らせることによって、あたかも自身の快不快と誤認してしまう。

     人は生命として生きることに迷うようになってしまった。ともいえるのかもしれない。

     ありもしないことを思考によって作り出して、信じ込んでしまう。論理が不十分であるにもかかわらず、思考を効率化してしまって、おかしな結論を事実と思い込む。

     それらをたぐれば、根本的な快不快につながっているが、思考によって見えにくくなってしまっている。

     人間の精神は、身体的な感覚の回路の外郭に、思考回路をまとっている。

     これが精神の本質だと思う。

     つまり、人の精神とは感覚と思考による回路の集積である。


     心という言葉があるけれど、私は実際には存在しないと思う。

     もちろん定義が曖昧な言葉だから、定義の仕方によって胃は存在させられるとは思うけど、すべて、ほかの既存の言葉で代用できると思う。

     人が心と言っているものに最も近いのは人の意識だと思う。

     意識というのはいわばスポットライトのようなものだ。ある部分を照らして、対比として、その他の部分が見えなくなる。

     人の精神は感覚と思考の回路の集積であるが、それらのすべてを同時に意識することはできない。いや、できるかもしれないが、難しい。

     意識とは、精神の一部分だけを集中して照らすのである。

     照らされた部分にある思考回路が動き意図せず追体験させる。こうしていろんな部分に意識を当てることによって、精神は効率化を図っている。

     心は揺れ動くものだと言うけれど、実際には意識が揺れ動いているのだ。


     あえて定義するならば、そのときそのとき意識が向いている精神(意識のライトが照らしている精神の範囲)が心といえるだろうか。


     精神= 思考回路を外郭とした感覚回路

     心 = 意識が向いている範囲の精神


     これが結論。
     もちろん私個人の見解であって、私が感じ取ってきた経験を独断と偏見で組み立てただけのものだ。ほかの意見を否定するわけではない事はここで言い含めておく。



     意識は絶えず動いているものだけど、集中をするとあえて動かさないようにすることができる。

     体が傷ついたとき、痛みを感じる。その痛みで、物事に集中できないと言うことはあるだろう。痛いとき、その痛いと言うことに意識が集中しているのだ。

     精神でも同じで、傷つくとその部分を集中してみてしまうんだ。

     そして精神は感覚と思考の回路だから、意識集中して活性化される度に効率化する。

     精神が病んでしまうと言うことは単純に思考回路がおかしくなってしまったか、もしくは感覚回路が元からゆがんでいて思考回路もゆがんでしまったか、のどちらかじゃないだろうか。

     だから精神を癒やすには、おかしくなった思考回路を修正してやるか、ゆがんだ感覚回路を修正するしか方法はないと思う。

     まぁ、思考回路がおかしくなった人は病んでいるとはいえないのかもしれないけど。
     よく見るからね。いつも怒っている人とかさ。

     こういう人は根本的に自身の精神の深いところに怒りを抱えている。そしてその怒りを何かに向けているんだ。気持ちよく怒れる何かに。

     ちょっと頭がおかしいんじゃないかという活動家なんてその例だと思う。

     末っ子のわがままと同じで、根本的に満たされない不満に対する代替行為だ。やっていることは子供と同じだ。

     こういう人は根本的な怒りを何とかしない限りひたすらに怒り続ける。
     何か一つ解決したとしても、また別の何かに怒るのだから始末に負えない。



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