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「舌を守る」
「舌を守る」
3月に地元の教会で転入式をやっていただけました。役員による諮問会も受け、正式な教会員となれるまで半年かかりました。6年前にそこに通っていたころは高齢者が多く礼拝もどちらかといえば形式的で静かでした。
数年前、新しい牧師さんが着任されました。賛美を朗々と歌われます。
牧師先生いわく「私がきたばかりの頃、ここの礼拝はお通夜のようでした」。
私もそれは感じていて足が遠のいていましたが、今はリバイバルが起きています。信徒が増え、その半分が若者です。(教会にもよりますが福音派でも「リバイバル」という言葉は使うそうです)
「福音派は油注ぎがない」と思われているようですが、一概にそうと言えません。
礼拝堂の大きな十字架に向かって全員がきちんと声を出し、心のこもった素晴らしい賛美が捧げられます。ハモったときの感動は体が震えるほどです。主の臨在を感じます。聖霊が泉のように湧き上がって満たされるのです。
牧師先生は厳しい中にもユーモアのセンスのある方です。
けれど、特筆すべきはやはり牧師夫人の存在です。ひとりひとりに声をかけ、手を握って話をされます。信徒ひとりひとりに対するケアを怠りません。
2回目くらいの礼拝後、牧師夫人が「あなたが来て下さったのは神様からの贈り物」と言ってくださった言葉は一生忘れられないでしょう。
ある日の礼拝前、牧師夫人に「今日はお父様は?」と尋ねられ、「連れてきたかったけど、母が」と言いかけると、夫人はすかさず「お父様の体調が心配だから来させなかったのですね」と結びました。
実は、私は「母が父を教会に行かせることに反対で邪魔するんです」と不平まじりのせりふが喉まで出掛かっていました。牧師夫人はそれを察して、私の口から悪い言葉が出るのを止めたのです。非常に聡明なかただと思います。
最後まで聞いてから言葉で注意するというやり方は世の中多いと思います。でも、牧師夫人のふるまいによって私は反省させられました。
人を悪く思ったり悪く言うことを神様は喜ばれません。
聖書では「自分の舌を守る」ことが重要視されています。
「自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです」(ヤコブ1:28)
「心に満ちていることを口が話すのです。良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆる無駄な言葉について、裁きの日には言い開きをしなければなりません。あなたが正しいとされるのは、あなたの言葉によるのであり、罪に定められるのも、あなたの言葉によるのです。」(マタイ12:34~)
「自分の口と舌とを守る者は、自分自身を守って苦しみに会わない。」(箴言21:23)私の口の言葉と心の思いが御前に受け入れられるものとなりますように
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砕かれること
砕かれること
クリスチャンの[あるある]w
・愛のない人ほど、やたら「愛しましょう」と強調する。
・人を赦せない人ほど、「赦しなさい」と声高に語る。
・自分が悪いのに「赦します」と言う(謝らない)。
・「悔い改めよ」が口ぐせ。
・自己肯定が強く、人の言葉に耳を貸さない。
・批判されることはすべて迫害。
・偏狭になって社会全体が見えていない。こういうクリスチャンばかり見ていると「キリスト教ってやだわー」って感じる人が出てくるのではないでしょうか? ねーw
でも、どうか一部の枝や、なっている実だけ見て、毛嫌いしないで下さい。
人を見たら確実に躓きます。
いろんな仏教徒がいるように、クリスチャンにだってさまざまな人がいるのです。世捨て人みたいな変てこクリスチャンにならないためには、常に地域社会やノンクリスチャンと交わる必要があります。
なぜなら、クリスチャンが目指しているのは修行をして山奥の仙人みたいになることではありません^^;
イエス様も使徒パウロも問題を抱えている人々や異邦人らに積極的に関わってきた歴史があるからです。信仰的な良い本も少なくありませんが、本には出来ないのが人のプライドを砕くことです。
高慢な人は、いつもトラブルの原因を他人のせいにします。自分が間違いを犯したなどと絶対に認めません。
人が成長するためには人が必要で、しかも、自分に耳障りの良くないことを言ってくれる人でなければなりません。
そういう指摘はときには気分を害します。反論したくもなりますが、ぐっとこらえなければなりません。それはありがたい友です。宝です!
憤慨して縁を切りますか?
いえいえ、だめよ~、だめだめ。(←古っ)
神さまはプライドを嫌われます。
「主よ、私のプライドを砕いて下さい。聞く耳を与えて下さい」と祈りましょう。
神さまに嫌われるくらいなら、痛い言葉を受け入れましょう。
へりくだる人にはどんどん人が集まります。
砕かれた人には自然と人がついてきて、離れません。人間関係をよくするために必要なことは相手を変えることではありません。
まず自分を変えること、主によって、また人によって自分を変えられること。
もし、人間関係が変わらないなら原因は自分自身にあるかもしれません。
それが「プライド」です。
そのプライド、木っ端微塵に粉砕しきってしまいましょう!あざける者を責めるな、おそらく彼はあなたを憎むであろう。知恵ある者を責めよ、彼はあなたを愛する。知恵ある者に教訓を授けよ、彼はますます知恵を得る。正しい者を教えよ、彼は学に進む。(箴言9章)
(「知恵ある者」とは叱責を受け入れることができる謙虚な人。聖書はへりくだることを教えています)。
「光の中にいる」と言いながら、その兄弟を憎む者は、今なお、やみの中にいるのである。兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである。(1ヨハネ2:9-11)」「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。
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「肉に属する人」にならないために
(長文ですが読んでいただければ幸いです)
使徒パウロは、「肉に属するクリスチャン(肉的な人)」は「ただの人(救われていない未信者)と同じ」と言っています。
肉に属する人というのは、霊は与えられているのに、霊に従って生きることができておらず、この世の考え方や価値観に影響をうけて生活しています。つまり、クリスチャンとして霊的に幼い状態にとどまっている人です。
この「肉」という言葉は誤解され乱用されているケースも少なくありません。たとえば、「お酒を飲む人は欲があって肉的」「タバコがやめられない人は肉的」「豊かに暮らしたい人は肉的」「恋愛したい人は肉的」など、表面的なことだけ取り上げて批判するのは誤りです。
「肉的」の意味はそれだけではありません。律法主義や心の伴わない善行も含まれるのです。
もし、お酒を飲む人が肉的と非難されるならば、コーヒーを毎日飲む人も肉的と言えます。(※コーヒーは依存性があり、アドレナリンの分泌を促すためテンションがあがります)
人が人を肉的と決めつけて裁くのは神様のみこころでしょうか?「あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか」(Ⅰコリント3章3節)
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから」(マタイ5章9節)
霊的に成長した人々は「一致に向かう傾向」があります。
教会はキリストのからだです。その各部分が愛のうちにしっかりと結び合わされていきます。独りよがりな信仰や分裂分派とは対照的です。批判されるとムキになって言い返す、なにごとも自分の考えや思想や感情を優先し、その言い訳に「霊的な意味」という言葉を多用する、自分を不愉快にする人をたやすく排除する、そういった愛のない行いに「一致」があるでしょうか?
「一致」といっても、ここで気をつけたいことがあります。誤った教えや解釈に盲目的に「アーメン!」と同調することは一致ではありません。
肉的な人の信仰の特徴は、「クリスチャンはこうあるべき」「こうでなくてはならない」という自分で作った律法でがんじがらめになります。
いうなれば「律法的な信仰」です。
「御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです」(ローマ人への手紙8章4節)ここにある真理があります。
努力のみで神の律法の要求を満たそうとしていませんか?
私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、律法からは完全に自由にされました。「罪と死の原理から解放された」わけです。
神の愛、イエス・キリストの十字架と復活を信じているのに、罪悪感に苦しむ人もいます。そこから抜け出せないならば、それは「御霊に属する人」でなく「肉に属する人」として歩んでいるからです。欠点だらけの自分自身がイエス・キリストによって100%受け入れられているという恵みを信じきれていない状態ですが、厄介なことに自分ではそれを意識していません。
神様からの恵みや祝福を受けきれていない、他の人のように証がほしいという強い欲求から、ぽっかり開いた穴を何らかの形で埋めようとし、その結果、律法的な信仰に陥ることになります。パリサイ人や律法学者は、人の表面的なことに執拗なまでに固執し、心は神の御旨から離れていました。
たとえば、隣人を愛さなければと思っているのに妬み、不満、怒りなどのネガティブな感情を感じることがあるとします。そういったときに、何をするかというと自分が作った律法を守ることに力を注ぎます。
自分で作った律法とは、たとえば、毎日決めた時間にしっかりとディボーションしたり、聖書を最低1章は読むとか、伝道者ならば毎日きまった時間に伝道をし、それが無事にできれば、「今日は祝福がある」と安心するのです。
「肉的な生き方」とは、堕落して罪の影響を受けている人間の性質ですが、単に飲酒や喫煙や異性がどうのという問題より、究極的には「生き方が自己中心的」ということになります。
その自分の律法を遵守するためには、途中で来客や電話があったり急用が入っても、自分がすべきと確信していることを優先します。そのため、人との関わりをないがしろにする、そして愛よりも自分の律法を大事にするのです。
何かを守れば祝福されるという考え方こそ、律法的な信仰そのものということに、なかなか気づけないのです。
そのような自分で作ったきまりで自分を縛るのは、強迫性障害にも似ています。自分の律法に固執して生きていくと、必ずといっていいほど他人を裁くようになります。
「自分は知識がある」「自分は霊的だ」と思っているクリスチャンほど、他人を見て「あの人は未熟だ」「あの人は肉的だ」などと裁きます。
そういう感じ方をすることは、キリストの心から離れています。
人の一部分しか見えないのに決めつけたり、自分より劣ると見てしまう高慢さを神様はもっとも嫌います。
「人はうわべを見るが、主は心を見る」(第一サムエル16:7)霊的に成長しているクリスチャンは、自分のものさしで測って他の教会やクリスチャンの悪口を軽々しく言わないものです。
また、「自分こそが油注ぎがある」などと吹聴しません。
自分で自分を褒めて高ぶるものは神様によって低くされるのです。自分なりの律法を守り他人を裁く、それはもう「御霊の一致」とは反対方向に向かうのは当たり前です。
こんなふうに書くと反論もあるでしょう。「こうしなければというものがないと、人間は自分を甘やかして楽な方に向かってしまう」と。でも、そうではありません。
「こうでなくては」と縛りつけて自分や人をコントロールすることこそが肉的なのです。
「こんなにも自分を愛してくれている神様の御心にそって仕えたい」と心の奥底から思い、喜んで自然にそうできるのが、御霊に属する人の姿です。ベビークリスチャンのころはそれでも仕方ありませんが、10年、20年と律法的な信仰のままではいつまでも霊的成長はないでしょう。
「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る」(ローマ人への手紙12章2節)
人間関係は常に平穏ではありません。誤解されたり中傷されたりすることもあります。そんな時に自己中心的な心で見てしまうと、傷ついて心のバランスを崩します。「信じていたのに裏切られた」、「自分はクリスチャンなのに怒ってしまった」「赦さなければならないのに赦せない。自分はダメなクリスチャンだ」「神様は信じるけれどクリスチャンは嫌い」と結論づけてしまうとしたら、これは肉の心で見た自分です。
では、キリストの心で見るとどうなるでしょうか。神様に受け入れられていると信じているので動揺しません。ただ、事実と原因に心が向き、どう行動したらよいか知恵が与えられます。
自分を嫌っている人がいると知っても、神様には愛され守られていることを知っているので心が平穏でいられます。
「こうでなくてはならない」という考え方を持って信仰生活を送っているのであれば、それは苦しいものとなるでしょう。
主がいつも共にいて下さり、ありのまま愛して下さっているのに、なぜ苦しむのですか?
聖書の本質をつかみましょう。
律法的な信仰は捨てましょう。御霊にしたがった健全な信仰であるために。
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