ノート日暮酒 第六回「青春とか夏とかそういう幻影」
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ノート日暮酒 第六回「青春とか夏とかそういう幻影」

2019-10-17 20:16
    一か月以上ぶりですねどうもらくやです。
     例によってブロマガの更新が空いてしまって申し訳ないです。その間何をしてたかと言うとまあ会社を辞めるためのまあそういうことを色々してました。それ以外だと主にポケモンをやっておりました。ウルトラサンはXをやっていた時に比べて熱中度で言えば低かったんですが島の並びとポケモンの種類的に旅パの時点で割と考えてパーティを組まないといけないし、ポケモンライドがひでんマシの代わりになっているのでパーティの中に秘伝要員を考えなくても良いので旅パでもガチめの構成を組みたい僕好みのゲームでした。RR団のシナリオは難易度も丁度良く、最後にサカキがミュウツーを出してきたあたりで「は?」とキレそうになり、その上メガシンカまでしてきたので「いや勝てるか!」とブチギレました。知っての通りミュウツー対策はミュウツーが一番なので対策せずに挑んだ一回目は普通に負けました。二回目でタスキとか色々試行錯誤してなんとか勝ったレベルです。
     とまあポケモンの話を色々してきたわけですけど、ゲーム機の進化に伴ってポケモンの青春モノの要素が濃くなってきた気がします。容量が増えてポケモンの種類や戦闘のルールやメガシンカやZわざなどのシステムだけでなく、ストーリーも作りこみが出来るようになって大人がやると青春を叩き付けられるというか、どうしても戻れない青春時代の幻影を追わせてくれるようになってきたと思います。
     今更言うことではないんですけど、僕は「青春」とか「夏」とかそういう概念に弱くて、年々耐性も下がっていて今ではゴリゴリ4倍弱点になって、さながらズルズキンにムーンフォースといった具合です。最近のポケモンをやってない人にも分かりやすく言うとバンギラスにかわらわりですね。
     と、話題がズレましたがとにかくアニメでもマンガでもラノベでもよく描かれる「青春」や「夏」に対して原因がコンプレックスがなのか何なのかは定かではありませんが、僕はそういうシチュエーションに対してぼんやりとした憧れを捨てきれずにいます。だから日常系と呼ばれるアニメや学園モノのゲーム、あるいは主人公が青少年の作品に執着があって、戦争モノのFPSや歴史モノのシミュレーションゲームにハマれないはその手のゲームが不得手であることに加えて、壮年の男が主人公で海とか花火のない場所で戦っているっていう状況にカタルシスを感じられないからです。仮にそれが戦地にも関わらず水着イベントとか色恋の絡むイベントがあったりすれば出来るのかもしれません。多分戦場のヴァルキュリアとかなら出来るんだろうなあって根拠のない漠然とした自信はあります(相当時間はかかると思いますが)
     そもそも夏とか青春に対する憧れってどこから来てるのかと探っていくと、やっぱり見ていたアニメが大きく影響しています。入道雲を見るとAIRを思い出して泣いてしまうという話は色んなところでしているんですが、映画ドラえもんが大抵夏休み中の話なのも深く関係しているんでしょうね。きっと夏休みって冒険するもの、友達とどこか遠くに行くものって認識を持っている人は僕以外にも沢山いるはずです。多分そういう影響で今旅行好きになっているんだと思います。今のところ友達とじゃなくて一人で行ってますけどね。
     ここからは本題の夏とか青春に幻影を持つことのマイナスを書いていこうと思います。恋愛シミュレーションゲーム(正しくはそのアニメ化作品)の影響を受けて生きてきた僕にとっては、恋愛は全力疾走好き好き押せ押せっていうものではなくてお互いに好きだけど踏み出せない関係が理想だと思っていたり、ひと夏の不思議な思い出に憧れて夏の終わりに何の意味もなく人前から姿を消したくなったり、無意味に空を見上げてボーっとしている自分に酔ったりと衝動的に何か気持ち悪いことをしているわけです。その状態が普通になってきて日常の一部になって、日頃から青春の幻影を抱えて暮らしていくと青春を過ぎた今の自分を枯れ木の様に感じてしまうのです。言葉の意味を調べていくと青春の次には盛りとなる朱夏がやってくるわけですが僕の中では青春というのは10代のうちの輝きで、今の自分は青春を無駄に消費して何も実らなかった枯れ木なのです。だから今更青春の真似事をして取り戻そうとしてしまいます。口では「日暮酒はらくやとくろつめの青春のアーカイブ」と言っていますが心の奥底では青春という言葉に違和感を持っています。一番しっくりくる言葉で言うなら若気の至りのアーカイブなのかもしれません。
     そして子供のころにフィクションで築いた青春の幻影は大人としての経験によって否定されていきます。僕は学生の頃生徒会の一存が好きで、新刊が出る度に電車に乗って街のアニメイトまで買いに行って、コミカライズも全シリーズ読んだりとドハマリしていました。

    (5年以上前の作品なので大丈夫だと思いますが一応この先ネタバレです)

    シリーズ最終巻生徒会の十代で主人公杉崎とヒロインの離別イベントがあります。それも卒業や転校という学園モノにしてみれば不可逆の離別と言ってもいいでしょう。でも勿論フィクションですから、転校しても卒業してもヒロインと杉崎は固い絆で結ばれていました。と締めくくられるわけですが、現実ならこの後2,3年はそういう関係も続くでしょうがきっと生徒会メンバーが就職したあたりで彼らの絆は「あの時は楽しかった」と綺麗な青春の思い出に形を変えていくでしょう。勿論そうでない場合もあります。それに物語は大人になった彼らを描かずに閉じられています。それでも大人としての僕は彼らのその後を、むしろ大人になった彼らの姿の方がより容易に想像出来てしまいます。青春の輝き、夏の太陽の幻は時として今の僕に暗い影を落とすことがあります。自分を枯れ木のように感じたり、主人公たちの掲げる不滅の絆に懐疑的になったりするのはきっと自分が光源に背を向けているからなのでしょう。青春の真似事をしてしまうのも、きっと背を向けて自分の影の形ばかり気にしているからでしょう。輝きに向かっていれば自分の影を見ることもその影に枯れ木を見出すこともなくなるはずです。

     これからもフィクションで作り上げた青春とか夏とかそういう幻影は僕の心の中に残り続けるでしょう。僕が輝きに背を向け続けるのであればそれは影と同じく壁や地面に自分を縛る枷であり続けます。しかし振り向いて輝きに正対すれば幻でも太陽は太陽なのでひとつの生きる糧になるのかなと今思いました。本当に今思いつきました。だからまあこの世のあらゆる物事に対して変に大人ぶって遊ぶ必要もないんでしょうね。
     とりあえず、前々から行きたい行きたいと言っているキャンプに連れて行ってもらおうと思います。バンガローに止まってバーベキューをして「のび太の結婚前夜」を見たいです。連絡はらくやまで、よろしくお願いします。
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