• No.045 祭祀の籠目 9.大和朝廷の籠目 (4)  「大國魂神社基準の籠目」

    2020-02-27 11:43
    あらすじ 律令時代の各国国府をはじめとして、著名神社などの位置とよく一致する「生田神社基準の籠目」と「大國魂神社基準の籠目」(2つを合わせて「大和朝廷の籠目」と呼んでいる)。「大國魂神社基準の籠目」の導出の経緯と評価を行なう。

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    子午線の間隔を正確に決める

    前回示したように、図1のように関東には東西に等間隔に著名な神社や国府が配置されていることが分かりました。


    図1:関東の等間隔の子午線


    数値的にどの程度等間隔か計算してみましょう。

    試しに完全に等間隔な子午線を計算し、各拠点の位置との誤差を算出します。

    表1の(A)の子午線経度は各拠点の実際の経度です。

    表1の(B)の算出子午線経度は基準点を筑波山とし、子午線の間隔が 0.31253473度 とした場合の計算によって算出した経度です。

    すると、誤差が1%程度に収まるほど規則的に列んでいることが分かります。

    この誤差は子午線の間隔が 0.31253473度を100%とした場合のズレ量を%で示しています。


    表1:関東の拠点の位置と計算によって算出した等間隔点とのズレ量


    経度を見ると筑波山がズレ量がなく(経度の計算上の基準点のため)全体の基準点のように感じますが、筑波山山頂は結論から考えると方格の交点にはなりません。

    各地点から実測(マップ上でサンプルした座標)は表1内のA列の値ですが、作図上は計算に基づいたB列の値を使用します。

    これは完全に幾何学的、規則的に作図することて、図の恣意的な変更を避けるための措置です。

    筆者がマップ上で作図する籠目は、現代の地図上に現代の計算精度で規則的に作図しますが、同等の意図が古代人にあったとしても、その結果はその時代の測量精度やさじ加減によってズレが生じるということは念頭に置いてください。

    あくまで配置に規則性が見られるということを示すための基準線を引くための作画であって、当時の意図などを再現するためのものではありません。

    以上のようにして、経線については基準点と間隔が分かりました。


    緯線の間隔を求める前に

    次は緯線についても規則的な配置があるか確かめていきます。


    図2:籠目状方格のパターン


    筆者が着目している籠目状方格のパターンは図2のようになります。

    簡単に言うと昔の方格図や方眼図法といった地図(図3)のうち、緯線の間隔と経線の間隔の比が 1:√3 となるもので、地図の南北線(経線)が正確に南北となっているものです。


    図3:方格図の例:禹跡図(wikipediaより引用)


    図2のようなパターンから、経線間の距離を1/√3倍して緯線間の距離を出せばいいように思いますが、それだけでは済みません。

    経線間の距離は緯度によって異なるからです。

    また距離は地図ツールの計算方法に依存するため、緯度経度を使用して求めたいということもあります。

    ではどのように求めるのか?

    まずは正距円筒図法(方格図、方眼図法)のくせを知る必要があります。

    現代の地図図法でもっとも近い方式のものを正距円筒図法といい、世界地図で現わすと図4のようになります。


    図4:正距円筒図法の世界地図(脚注1を使用)


    メルカトル図法の世界地図(図5)と比較して、高緯度が南北に圧縮され、緯線が等間隔になっているのが分かります。


    図5:メルカトル図法の世界地図(脚注1を使用)


    何故、正距円筒図法や方眼図法(方格図)なのかという話は「古代の測量技術について」のシリーズを参照してください。

    No.019 古代の測量技術について  ~その1~
    No.020 古代の測量技術について  ~その2~
    No.029 古代の測量技術について ~その3~
    No.030 古代の測量技術について ~その4~
    No.032 古代の測量技術について ~その5~
    No.033 古代の測量技術について ~その6~

    正距円筒図法は図4を見れば分かるように、高緯度になるほど横に引き延ばされるという欠点を持った地図です。

    球体の表面を平面で表現する地図は全て何らかの歪みが生じます。

    メルカトル図法も高緯度になると大きく表示されるという欠点を持ちます。

    図4の正距円筒図法では、具体的には北緯30°においては横方向に1.15倍引き延ばされてしまいます。

    特に高緯度地方では使いにくいので、世界地図でなければ横幅を縮めて補正して使用します。(正距円筒図法を使用するメリットとしては南北の距離が正確であることが上げられます)

    緯度N度において縦横比が1:1になるように補正した正距円筒図法を、「標準緯線N度の正距円筒図法の地図」といいます。


    図6:標準緯線35度の正距円筒図法の世界地図(脚注1を使用)


    図6は標準緯線35度の正距円筒図法の地図で、図4の赤道を基準にした地図を経度方向に約0.82倍したもので、日本付近では縦横比がほぼ1:1になり、大和朝廷の籠目ではこのパラメータを使用します。

    標準緯線35度とする理由としては、大和朝廷の中心だった奈良盆地南部から京都の緯度が北緯
    34.4度~35度あまりであることが上げられます。

    北緯34度と北緯35度では経線の間隔が距離で1%ほど変わってしまうので、このあたりは改善の余地があるかもしれません。

    ここで疑問になるのは、古代に使用された方格図と現代の正距円筒図法がほぼ同等として、標準緯線のような概念が当時あったのか?という点です。

    基準となる緯度の北方は(基準となる緯度と比較して)経線の距離が短くなり、南方は長くなるという形で現れたハズです。

    「大和朝廷の籠目」が神社などの拠点の配置と良く一致するという結果は、古代の日本人がこのような測量上の特徴について気付いていたことを窺わせます。


    緯線の間隔の求め方

    さて、緯線の間隔の計算に戻りましょう。

    経線の間隔は北緯35度を基準にする場合、以下の式になります。


    緯線の間隔(度)=経線の間隔(度)x(0.820063385)÷√3


    (0.820063385)は図6の0.82のことで

    (緯度35度における経度1秒の長さ(m))/(赤道における経度1秒の長さ(m))
    =25.358/30.922 ≒ 0.820063385

    で得られます。

    コレは地球を球体と考えた場合のCOS(35度)= 0.819152044.. でもかまわないのですが、地球は完全球体でないため、wikipediaより経度1秒の緯線の長さを取得し計算しています。

    緯線の間隔(度)= 0.31253473 x (0.820063385)÷√3 = 0.147973887


    この間隔で、関東の主要な拠点の位置を測ると、大國魂神社の緯度を基準にした場合、緯線の間隔のほぼ整数倍に位置していることが分かります。(表2)

    ズレ幅が子午線のときと比べて大きくなっていますが、地図上で示すと図7のようになり、関東内の拠点数に対して、合致するケースが少ない気がしますが、緯線の間隔の計算は筆者の意図通りで良いように思えます。

    表2:関東の拠点の位置と計算によって算出した等間隔点とのズレ量(南北方向)



    図7:表2の各神社を図示した場合の位置(緯線は手作業で作図)


    大國魂神社基準の籠目

    このように求めた「大國魂神社基準の籠目」は次のパラメータからなっています。

    経度の中心 筑波山山頂 東経 140.1082167 度 実際の山頂より東に調整
    緯度の中心 大國魂神社 北緯 35.6674139 度
    経線の間隔 0.31253473 度
    緯線の間隔 0.147973887度

    図7を見ると、等間隔の緯線、経線の両方で交点に位置しているのは、大國魂神社と貫前神社になります。

    前回述べたように、大國魂神社は埼玉古墳群の真南に位置し、この籠目を発見するきっかけにもなっていますので「大國魂神社基準の籠目」と呼ぶことにしました。

    以上のパラメータにより、方格図を作図し、緯線と経線の交点を結ぶ斜線を引くと図8の図が得られます。

    (斜線部分は正距円筒図法(方格図)では、図上で直線となりますが、グーグルマップなどのメルカトル図法では直線とはなりません。図8を含めて斜線は微妙に曲線になっていますが、これは筆者の意図通りで間違いではありません)


    図8:大國魂神社基準の籠目


    図8のグーグルマップ版はこちら
    (表示後「主要拠点」と「生田神社基準の籠目」のチェックを外してください。
    グーグルアカウントへのログインが必要です)


    大國魂神社基準の籠目を見てみる

    さて、筆者は結果を知っているので、「神社などの拠点が籠目の線上に位置する」と言ってきましたが、本当にそのようになっているのか確かめてみましょう。

    関東の主要神社の特徴をヒントにして、全国的に一定の規則で作図したのが図8ですが、そのようなやり方で、「神社などの拠点が籠目の線上に位置する」なんてことが起きるのでしょうか?

    グーグルアカウントのある人は是非上記のリンクからグーグルマップ上で確認してみてください。(画像版のほうもクリックすると拡大表示されます)

    以下の図では特に国府、総社、国分寺について籠目に良く合うもの(今回は目視で判断)をピックアップして図示しました(図内十文字のマークの場所)。

    そのうち、「大國魂神社基準の籠目」の緯線や経線に良く一致するケースはその緯線や経線を太線で示してあります。

    各拠点が整然と籠目に合う位置に配置されていることが分かると思います。


    図9:大國魂神社基準の籠目(東北)


    東北は律令国数が少ないため、国府、総社、国分寺について取り上げるとケースが少なくなります。

    しかしながら、出羽国総社、陸奥国国分寺、佐渡国総社が籠目付近に立地します。

    籠目の子午線と一致するのは出羽国総社のみです。


    図10:大國魂神社基準の籠目(関東)


    関東は国府、総社、国分寺に絞ると一致しない拠点が多くなります。

    上野、下総はニアミス、安房、相模はまったく一致しません。
    (那須国府が表示範囲外で取りこぼしました。)

    ですが、等間隔に列ぶ様子や同緯度に列ぶ様子がよく分かるケースになります。


    図11:大國魂神社基準の籠目(中部)


    これまでは関東の拠点の分布を元に「籠目」の存在を予測したので、拠点の位置と合致してもある意味当然でしたが、この図11は「元々拠点に規則性が存在しなければ、合致するはずがない例」になります。

    作図した籠目が「予測値」であるとしたら、籠目との合致具合は「予測計算が実情に合っている」ことを示します。

    図内では越後国総社、能登国総社、加賀国総社、甲斐国総社、美濃国総社が良く一致します。

    このうち越後国総社、図11の下野国総社と甲斐国総社は武蔵国総社と同緯度に列んで存在します。

    良く合うケースがある一方、越前、信濃は全く合いませんし、越中はニアミスになります。


    図12:大國魂神社基準の籠目(東海)


    中部の例と重複がありますが、東海道の各国(伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆)の拠点は全く一致しません。

    むしろ、この方が「普通」で、神社などの拠点の位置が自然発生的で、測量などによってお互いの配置が操作されていないならば、等間隔に引いた緯線や経線と合うわけがありません。

    例えば大國魂神社基準の籠目の緯線はほぼ16kmに一本の間隔で引かれていますが、緯線からの距離500mが「一致する」と考えると、緯線を中心に1kmの幅に入るケースが一致となります

    すると、拠点の配置が作為的でないならば、1/16の確率で「緯線と一致」となります。

    律令国は68カ国として4カ所あまりが「緯線と一致」なるはずですが、ここまで見てきただけでこの数を超えています。(国府、総社、国分寺が同じ場所にあると考えた場合)

    「大國魂神社基準の籠目」に合う/合わない地域が偏っている件については、後日取り上げるとして次の地域を見てみましょう。


    図13:大國魂神社基準の籠目(近畿)


    図13を見ると、緯線や経線に関して規則的な位置に立地していることが分かります。

    一方、「大國魂神社基準の籠目」に合わない例も多く、山城、若狭、摂津、河内、丹後、伊賀、播磨は合いません。

    この点については東海のケースと同様、後日取り上げます。


    図14:大國魂神社基準の籠目(中国)


    中国地方を見ると、山陽道以外は良く一致するようです。

    特に美作は丹波と同緯度、石見は近江と同緯度で、しかも緯線の最小間隔で並んでいます。

    籠目状方格が実際に存在すると考え得る良いケースです。


    図15:大國魂神社基準の籠目(四国)

    四国は4カ国の4つの拠点が大國魂神社基準の籠目の緯線か経線に一致するケースになっています。

    ここまでのケースを見て、多くの拠点が規則的に計算された大國魂神社基準の籠目の位置に合致することがよく分かっていただけると思います。

    中心点の経度、中心点の緯度、経線の間隔、緯線の間隔の4つのパラメータによって、これだけの拠点があらかじめ計算可能というのは偶然ではありえません。

    大國魂神社基準の籠目、あるいはそれと同等の「拠点を地理的に規則的に配置する意図があり、その測量が可能だった」からこそ、大國魂神社基準の籠目が拠点の位置を合致するのだと、筆者は考えています。


    図16:大國魂神社基準の籠目(九州)

    九州の例も、筑後国総社、日向国総社、薩摩国総社が籠目の緯線と良く一致し、(当時の)日本の南端まで、籠目に総社の位置を合わせる配慮が行なわれていると考えられます。

    同時に今回の「大國魂神社基準の籠目」の緯線間隔などのパラメータの精度が良いことも現わしています。
    (あくまで現代の地図上での話で、地殻変動の影響がどの程度あるかは筆者には不明です)

    特に肥後国国分寺や日向国総社はその敷地を籠目の軸線が通るほど良く一致しています。
    (もちろん、ノーコンピッチャーが「手が滑って」ど真ん中ストライクを投げるような、「結果が良くなる誤差」である可能性もあります)


    おわりに

    全体を通してみると、「大國魂神社基準の籠目」は畿内から遠い地方の拠点、国府、総社、国分寺のいずれかと良く一致します。

    しかしながら、一致しない一宮、式内社も相当数あり、これだけでは「籠目」のような考え方があるとは断定できないでしょう。

    筆者も全国的に籠目と拠点の位置が合うと分かって驚きましたが、その反面、一致しない地域が偏在することに疑問を感じました。

    「大國魂神社基準の籠目」には図17中の生田神社を通る経線や図18中の出雲大社を通る緯線が入っていないので、そのような軸線が重要だと考えていた筆者には拍子抜けでした。


    図17:生田神社を通る経線

    図18:出雲大社を通る緯線


    ならば、これらを含んだ「籠目」がまだあるのではないか?ということで再チャレンジとなったのが「生田神社基準の籠目」です。

    既に図8のグーグルマップ版で示してありますが、内容の紹介は次回以降とさせていただきます。


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    脚注1:地図投影法学習のための地図画像素材集を使用



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  • No.044 祭祀の籠目 8.大和朝廷の籠目 (3)  関東の等間隔の子午線

    2020-02-19 14:18
    あらすじ 律令時代の各国国府をはじめとして、著名神社などの位置とよく一致する「生田神社基準の籠目」と「大國魂神社基準の籠目」(2つを合わせて「大和朝廷の籠目」と呼んでいる)。まず「大國魂神社基準の籠目」の導出の経緯について解説。

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    籠目探しの着眼点

    筆者が籠目を発想する以前には、図1や図2のように、各拠点が同緯度や子午線上にきれいに列ぶケースが気になっていました。


    図1:神社や律令国の拠点が同緯度に列ぶ状況
    図2:神社や律令国の拠点が子午線上に列ぶ状況

    関東周辺については図3のようになります。

    図3:関東周辺の拠点が列ぶ状況

    図3の拠点のうち、諏訪大社ー秩父神社ー鹿島の大宮神社の例は「諏訪大社基準の籠目」で取り上げましたが、それ以外の場所は「諏訪大社基準の籠目」とは一致せず、筆者としてはきたい外れでした。

    そこで、残された拠点が「諏訪大社基準の籠目」と似たパターンの別の籠目を形成してないかと思いつきます。

    図4:諏訪大社を中心とした祭祀線

    「諏訪大社基準の籠目」は図4に示される神社等の配置を発想の元としていて、等間隔の経線、等間隔の緯線、方位角60度の線(寅申線)、120度の線(辰戌線)からなります。

    模式的に示すと図5のようにパターン化され緯線の間隔:経線の間隔が1:ルート3になります。(より正確には緯度により比率と方位角は変わりますし、正距円筒図法でないと直線になりませんが、ここは単純化して示して起きます)

    図5:日本型方格の類型

    このようなパターンは以下の2つのパラメータが分かれば機械的に計算して作図することが可能です。

    1.中心となる拠点(=等間隔な緯線と経線の交点)の緯度、経度
    2.経線の間隔、または、緯線の間隔のいずれか1つ

    (経緯としては図12のようなパターン化は「諏訪大社基準の籠目」と「大和朝廷の籠目」を作図して評価した結果分かったことで、それまでは試行錯誤がありましたが、単純化のためKのように説明しています。)

    ですから、隠された籠目の分布を探す場合は「拠点の等間隔の配置」を探すこと、「交点となる拠点」を探すことが重要な要素になります。


    関東の籠目探し

    籠目のパターンを見つけるには「拠点の等間隔の配置」を探すことが手がかりになります。

    同時に拠点は「直線上にならぶ傾向」がありますので、図1や図2のように直線的に列ぶ状況も手がかりになります。

    このうち関東を貫く日本の子午線をピックアップすると図6のようになります。

    図6:関東を貫く2つの子午線

    これらの子午線を手がかりに籠目のパターンがないかどうか確認していきたいと思います。

    まずは2つの子午線上の拠点について見ていきましょう。


    関東の西の子午線

    「関東の西の子午線」は図6において、日光二荒山神社(男体山)、埼玉古墳群、大國魂神社、江ノ島を通る南北軸線です。(本稿の説明上、便宜的に使います)


    日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ、日光市)

    主祭神:大己貴命(おおなむちのみこと、男体山(二荒山))
    他:田心姫命(たごりひめのみこと)、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)

    男体山(二荒山)をご神体として大己貴命を祭神とする神社で、日光市内に本社、中禅寺湖半に中宮祠(ちゅうぐうし)、男体山山頂に奥宮がある。

    このうち子午線付近にあるのは中宮祠と奥宮で、関東の西の子午線は男体山を貫く子午線となっている。

    男体山山頂の奥宮付近には男体山山頂祭祀遺跡があり、奈良時代以降の遺物が出土している。


    埼玉古墳群(さきたまこふんぐん、行田市)

    埼玉県行田市にある大型古墳群。

    古墳の規模と造営年代(5世紀後半から7世紀初めごろまで)から、律令国制以前に秩父を除く武蔵国を支配していた武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)が関わっているのではないかという説がある。

    古墳群内の稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」には金で象嵌(ぞうがん)された115文字の銘文が刻まれており、銘文中の「辛亥年」は西暦471年あるいは531年に当たると考えられている。


    大國魂神社(おおくにたまじんじゃ、府中市)

    主祭神:大國魂神(おおくにたまのかみ、大国主神と同一神とされる)
    相殿神:小野大神、小河大神、氷川大神、秩父大神、金佐奈大神、杉山大神
        御霊大神、国内諸神

    律令時代の武蔵国総社で、相殿神には武蔵国一宮~六宮の祭神を祀る。

    由緒によれば、第12代景行天皇41年、大神の託宣によって創建され、天穂日命(あめのほひのみこと)の後裔が武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)に任ぜられ、祭祀を司った。


    江ノ島(えのしま、藤沢市)

    西の子午線の最南端は江ノ島で、相模湾湾岸で唯一の陸続きの島である江ノ島は当然祭祀の対象となっていて、島内に江島神社が祀られている。

    江島神社の祭神は多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)、田寸津比賣命(たぎつひめのみこと) の宗像三女神

    明治時代の廃仏毀釈以前は弁財天が祀られていた。


    まずは地理的な配置の観点から、拠点の関係性について考えてみましょう。

    以上の拠点が子午線上に列び、古代人によって祭祀の対象になっていたと仮定すると、西の子午線は男体山や江ノ島といった地理的な基準点を軸として、武蔵国造一族によってその祖先や大国主命(大己貴命、大國魂大神)が祭祀されてきた中心軸である、と考えることができます。


    図7:埼玉古墳群二子山古墳より男体山
    (中央の起伏部、カシミール3Dによるシミュレーション)


    「関東の西の子午線」が中心軸であるというのは、地図の作図上のことだけではなく、実地で実感できる事実です。

    実際、埼玉古墳群の二子山古墳より、真北を眺めると図7の眺望が得られます。

    見て分かるとおり男体山が突出していて、特定の山を祭祀の対象としていた古代人にとって重要な山であり、その山を真北に眺める位置である「関東の西の子午線」は重要な軸線であったことが窺えます。

    年代が奈良時代以降になりますが男体山山頂祭祀遺跡のように男体山は信仰・祭祀の対象で、埼玉古墳群の位置・眺望を考えると古墳時代に遡って信仰の対象になっていたことは容易に想像できます。

    このような信仰・祭祀に重要な軸線上に「武蔵国造」が関与する埋葬地(古墳や墳丘墓)と祭祀地(神社)が位置することは偶然とは思えません。


    地理的な関連性は以上に述べたとおりですが、祭祀上、祭祀氏族上の関連性があるか見てみましょう。

    大國魂神社の伝承では武蔵国造は出雲国造と同じ祖先(=天穂日命)をもち、大国主命(大己貴命、大國魂大神)を祀ってきました。

    武蔵国造が活躍したであろう古墳時代やその後の律令時代を含め古代においては祭政一致で、統治と祭祀は不可分であり各律令国の国府でも、国内の有力神社への参拝などの祭事が行なわれました。

    国内の神社の参拝でも、当時としては距離があるため、逆に各所の祭神を一カ所に集めて(=合祀)国府としての祭事はそこで行なおうという施策が行なわれます。

    このような合祀のための神社を総社といい、武蔵国の総社が大國魂神社ということになります。

    そのような武蔵国国府での祭祀の拠点である大國魂神社の創設は、景行天皇の時代に遡り、武蔵国造の一族が関与していたと神社の伝承では述べられています。

    「関東の西の子午線」では「武蔵国造の一族」と「大国主命(大己貴命、大國魂大神)の祭祀」という点で共通性があるように思えます。

    日光二荒山神社の祭神は大己貴命でした。


    稲荷山古墳金錯鉄剣銘

    一方、古墳群内の稲荷山古墳の埋葬氏族は武蔵国造の一族であるという説が存在します。
    (通説のようですが、筆者には出典が分かりません)

    その説の根拠は稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘文にあります。

    これは古墳群内の稲荷山古墳から出土した鉄剣に金で象嵌(ぞうがん)された銘文で、「稲荷山古墳出土鉄剣銘」として有名です。
    辛亥の年七月中、記す。乎獲居臣(ヲワケの臣)。上祖、名は意富比垝(オホヒコ)。其の児、多加利足尼(タカリのスクネ)。其の児、名は弖已加利獲居(テヨカリワケ)。其の児、名は多加披次獲居(タカヒ(ハ)シワケ)。其の児、名は多沙鬼獲居(タサキワケ)。其の児、名は半弖比(ハテヒ)。其の児、名は加差披余(カサヒ(ハ)ヨ)。其の児、名は乎獲居臣(ヲワケの臣)。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支鹵大王(ワカタケルの大王)の寺、斯鬼宮(シキの宮)に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。
    引用文1:稲荷山古墳金錯鉄剣銘(wikipediaより引用)

    銘文に登場する獲加多支鹵大王(ワカタケルの大王)は諱(いみな)が「大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)」である第21代雄略天皇であろうとされており、辛亥年を西暦471年あるいは531年とする根拠の一つにもされています。

    これは現在のところ、古代の天皇(大王、おおきみ)の実在性を示す最古の第一級史料となっています。

    他には銘文以外の史料で見当たる名前は乏しく、上祖である意富比垝(オホヒコ)のみが、第10代崇神天皇の時代の四道将軍の一人として登場する大彦命(おおひこのみこと)ではないかという説があるだけで、埋葬氏族を武蔵国造の一族と文章から直接断定することはできません。
    (大彦命は皇族であるため、意富比垝=大彦命ならば、武蔵国造が天穂日命の後裔で出雲国造と同系統であるとする伝承とは一致しないことになります)

    しかしながら、関連性を窺わせる史料は存在します。


    武蔵国造の乱 

    「日本書紀」安閑天皇元年の条にある武蔵国造笠原直(かさはらのあたい)の同族内の争いに関する記事です。
    武蔵国造笠原直使主(おみ)と同族小杵(おき)、国造の地位を巡って相争い、数年経っても決着しなかった。小杵は気性が荒く反抗することがあった。高慢であり従順であることがなかった。上毛野君(かみつけののきみ)小熊(おぐま)と密かに通じ、救援を求めた。このようにして使主を殺そうと謀をした。使主はその謀に気付き逃走した。京まで出頭しその事情を訴えた。朝廷は裁断し、使主を国造とし、小杵を殺害した。国造となった使主は畏まってこれを喜び、そのまま済ますことをよしとしなかった。謹んで国のために横渟(よこゐ)、橘花(たちばな)、多氷(おほひ)、倉樔(くらす)の4カ所の屯倉(みやけ)を置き奉った。この年甲寅(推定西暦534年)。
    引用文2:日本書紀 武蔵国造の乱記事

    武蔵国造の地位にあった笠原直(かさはらのあたい)は現在の埼玉県鴻巣市笠原付近を本拠にしていたと考えられています。

    この地区は、地理的に埼玉古墳群の南東10kmほどの位置にあり、年代的にも「金錯鉄剣銘」は西暦471年あるいは531年、「武蔵国造の乱」が西暦534年で近いことから、埼玉古墳群の埋葬氏族は武蔵国造の一族であろうとする根拠になっているようです。
    (通説になっているようですが、筆者には出典が分かりませんでした)

    「金錯鉄剣銘」における乎獲居臣(ヲワケの臣)の父、加差披余(カサヒ(ハ)ヨ)と「かさはら」の音が似ていることも論拠の一つになっているようです。

    埼玉古墳群と大國魂神社、および武蔵国造の関連性は以上のとおりですが、筆者はこれらが意図的に南北に配置されただろうとみています。


    関東の東の子午線

    「関東の東の子午線」は図8において、出羽国総社、那須国国府、三和神社、筑波山、上総国総社を通る南北軸線です。(これも本稿の説明上、便宜的に使う名前です)


    図8:関東の東の子午線

    総社神社(そうじゃじんじゃ、秋田市)

    祭神
    総社宮:
     大己貴神(おおなむちのかみ、大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名)
     八重事代主神(やえことしろぬしのかみ)
     味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)

    神明宮:
     天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
     豊受比売大神(とようけひめのおおかみ)

    律令時代の出羽国の総社で、西暦724年(元亀元年)に大己貴神の神勅により創建されたとする。

    現在地は江戸時代に佐竹氏が常陸国から移封された際に旧社地が居城とされたことによる移転先となっている。(この点、筆者の調査不足でマップ上にプロットされているのは現社地となっている)

    旧社地は関東の東の子午線より1.2km東に位置する現在の千秋公園で、他の例と比べて軸線からのズレが大きい。


    那須国国府(なすのくにこくふ、栃木県那珂川町)

    律令制以前の国造がおかれていた時代、下野国の北部、那須地域は那須国が置かれ、那須国造が支配していた。

    この拠点はその時代から下った奈良時代のものとされ、正確には現在は「那須官衙遺跡」といい下野国国府の下部施設であり、律令時代の「那須国国府」ではない。(国府の位置データに含めため、便宜上「那須国国府」としてマップ上にはプロットしてある)

    しかしながら、4kmほど北には飛鳥時代の古碑である「那須国造碑」が実在し、西暦689年(永昌元年)ごろにはこの地域を那須国造である那須直(なすのあたい)一族が支配していたこと、奈良時代にはこの拠点が那須地域の官衙として機能していたことは確実。

    なお、那須国については「先代旧事本紀」にも記述があり、第12代景行天皇の時代に「建沼河命の孫の大臣命」が那須国国造になったとされる。


    三和神社(みわじんじゃ、栃木県那珂川町)

    祭神:大物主命
    (おおものぬしのみこと、大国主神(おおくにぬしのかみ)の和魂(にぎみたま)とされる)

    推古天皇の時代に大和国の大神神社から勧請して創建され、那須氏(※)によって維持された。(※国造の那須直の後裔かどうかは諸説ある)

    那須国国府の2kmほど南、日光二荒山神社とほぼ同緯度に位置する。



    筑波山(女体山)(つくばさん(にょたいさん)、つくば市)

    筑波山は西側の男体山(標高871m)と東側の女体山(標高877m)からなり、「関東の東の子午線」の基準にはるのは女体山のほう。

    山頂および山麓にある筑波山神社を中心に、関東において信仰の対象となってきた。

    女体山山頂から5kmほど南には、常陸国筑波郡の役所だった
    平沢官衙遺跡が立地している。

    信仰の対象としての筑波山については、次項「筑波山神社」で述べる。


    筑波山神社(つくばさんじんじゃ、つくば市)

    主祭神は以下の二柱

    筑波男ノ神(つくばおのかみ)伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と同神、男体山の神。
    筑波女ノ神(つくばめのかみ)伊弉冊尊(いざなみのみこと)と同神、女体山の神。

    筑波山神社は以下の3カ所の神殿がある

    男体山本殿 男体山山頂
    女体山本殿 女体山山頂
    拝殿 山腹


    由緒によると、第10代崇神天皇の時代、物部氏と同族の筑波命(つくはのみこと)が国造に任じられ、一族によって祭政一致で筑波山神社に奉仕した。

    同様の記事は「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」にも見られ、国造に任じられた筑波命が紀の国と呼ばれていたこの地域を筑波国と改名したとされる。

    「常陸国風土記」においては富士山と対比するエピソードが見られ、気高く他者を寄せ付けない富士山の神に対して、温和で歌舞や宴で賑やかな筑波山の神の様子が示されています。

    「万葉集」においても「筑波嶺(つくばね)」として多くの歌で詠まれ、古来から信仰を集めてきたことが窺われる。


    戸隠神社(とがくしじんじゃ、市原市、上総国総社推定地)

    祭神:
    思兼命(おもいかねのみこと)
    天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)
    表春命(あめのうわはるのみこと)

    祭神は長野の戸隠神社の勧請とされる。

    近隣に「上総国分寺跡」があり、字が「惣社」であることから上総国総社として推定されている。

    総社と国府はセットで立地するが、上総国国府は未発見。

    仮に総社の位置が別だっと場合は、拠点の位置が「上総国分寺跡」が「関東の東の子午線」上の拠点となる。



    「関東の西の子午線」は武蔵国造と大国主命に対する信仰という関連性がありましたが、
    「関東の東の子午線」は「国府や官衙の位置」でそろっています。

    総社は国府の関連施設として機能していて、筆者が扱う縮尺で考えるとほぼ総社の位置=国府の位置と考えて差し支えありません

    地理的配置から考えると、もちろん筑波山への信仰があったとは思いますが、神社の祭神から考えると、筑波山神社以外でそれは窺うことができていません


    国府は国によって設置された拠点ですから、それらが高頻度で地理的に規則的に配置された状況からすると、国が意図して規則的に配置してきた可能性が出てきます。


    実際、以下の図3(再掲)において、信濃国分寺、上野国総社、下野国分寺、酒列磯前神社は、ほぼ同緯度に列んでいて、「そういう意図があったのでは?」と思わせてくれます。


    図3:関東周辺の拠点が列ぶ状況(再掲)

    もちろん、筆者の主張は「日本の神社などの拠点は規則的に配置されている」というものなので、このような例がもっと出てくる訳ですが、「関東の東の子午線」「関東の西の子午線」の例は関東の籠目を発見するきっかけになりました。


    関東に配置された等間隔の子午線

    これまで述べてきたように、2つの子午線が関東を貫いてます。(図6、再掲)

    図6:関東を貫く2つの子午線(再掲)

    一方、籠目状方格は図5(再掲)のようなパターンを持っています。

    図5:日本型方格の類型(再掲)

    図5に見られる子午線(南北線)のパターンが図6のように現れているのであれば、他にも等間隔の子午線が存在し、その子午線に良く合う位置に神社などの拠点が分布するハズです。

    以下の図3(再掲)を見ると、ちょうど関東の2つの子午線の中間に下野国国分寺が位置していることが分かります。

    図3:関東周辺の拠点が列ぶ状況(再掲)

    とりあえず「関東の2つの子午線」の半分の間隔で、等間隔に子午線を引いてみましょう。

    図9:関東の等間隔の子午線

    すると図9のように、特定の神社や国府が等間隔に引いた子午線が重なるのが分かります。

    図中の点はあらかじめ調査対象としている拠点の分布を示していますが、その分布の密度からして、規則的に引いた子午線と位置が一致するというのは、偶然であるならかなり確率の低い話になることは分かっていただけると思います。

    西の方から見ていきましょう。

    榛名神社 上野国六宮
    貫前神社 上野国一宮
    赤城神社 上野国二宮(三夜沢赤城神社、大洞赤城神社、二宮赤城神社 とも論社)
    下野国国府
    静神社  常陸国二宮
    玉崎神社 下総国二宮(論社)

    これらの拠点は等間隔に引いた子午線から最大で600mほど離れているケースもありますが、図9のスケールの限りでは等間隔に分布しているといって良いでしょう。


    拡大して確認するには是非グーグルマップ版を参照してください。

    グーグルマップではこちらを参照して下さい。
    (第42回で紹介した「大和朝廷の籠目」へのリンク、グーグルアカウントへのログインが必要)

    以上のような等間隔に拠点が配置された状況から、どのように「大國魂神社基準の籠目」に至るのかは次回にしたいと思います。


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  • No.043 祭祀の籠目 7.大和朝廷の籠目 (2)  「諏訪大社基準の籠目」の評価

    2020-02-03 02:16
    あらすじ 律令時代の各国国府をはじめとして、著名神社などの位置とよく一致する「生田神社基準の籠目」と「大國魂神社基準の籠目」(2つを合わせて「大和朝廷の籠目」と呼んでいる)。その導出の経緯について解説。まず「諏訪大社基準の籠目」の評価を行なう。

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    「諏訪大社基準の籠目」に至る経緯と評価

    以下は前回の繰り返しもありますが、お付き合い下さい。

    図1,2のように各拠点が同緯度や子午線上にきれいに列ぶケースが散見されたため、筆者は著名な神社などの古代の拠点は規則的に配置されているのではないかという発想を得ました。

    図1:神社や律令国の拠点が同緯度に列ぶ状況

    図2:神社や律令国の拠点が子午線上に列ぶ状況

    まずは図1の諏訪大社ー秩父神社ー鹿島神宮がだいたい同緯度に列ぶことをきっかけとして、図3のような菱紋状の配置が存在することに気づきます。

    図3:諏訪大社を中心とした祭祀線

    これは鹿島の大宮神社がそれを中心にして以下のような配置となっていることから、重要な拠点と考えられるからです。(図4,図5、詳しくは第40回参照)

    夏至の日の出の方角   鹿島の沼尾神社(常陸国風土記で鹿島神宮の社の一つとされる)
    夏至の日の入りの方角  筑波山
    冬至の日の出の方角   鹿島の坂戸神社(常陸国風土記で鹿島神宮の社の一つとされる)
    冬至の日の入りの方角  船橋の入日神社(船橋の意富比神社の元宮)
    東           鹿島神宮の東の一の鳥居
    西           大生神社の鳥居(鹿島神宮の元宮という説がある)
    南           鹿島神宮の西の一の鳥居
    北           鹿島神宮の北の一の鳥居(戸隠神社の鳥居)

    図4:鹿島の一の鳥居と大生神社

    図5:鹿島の大宮神社と筑波山、船橋の入日神社の位置関係

    これは拠点から見て方位角60度の線(寅申線)、120度の線(辰戌線)が古代の人々にとって重要なラインだっただろうという発想によります。

    真北、真南、真東、真西、および寅申線、辰戌線が古代人にとって重要であるという例は世界各所に見られるので、特に筆者が証明する必要もないでしょう。

    このような傾向は、諏訪大社から見て方位角60度の方角にある妙義神社とその周辺にも見られました。(図6)

    図6:妙義神社と周辺の神社の配置

    以上のようにして、図3のようなパターンが全国的に展開しているかどうかの、いわば確認手段として作図したのが「諏訪大社基準の籠目」になります。(図7、グーグルマップ版はこちら、グーグルアカウントでのログインが必要)

    図7:諏訪大社基準の籠目

    図7(およびそのグーグルマップ版)を見ると、引かれた方位線(諏訪大社基準の籠目)の近くに神社などの拠点が散見されることが分かります。

    このような籠目の近傍に位置する拠点は、古代人が地理的に幾何学的な配置にこだわる傾向があったとするならば、諏訪大社や秩父神社、鹿島の大宮神社、妙義神社、入日神社を創設・配置したのと同じ配慮によって設立・創建されたかも知れません。

    一方、「狭い範囲において特定の方角にこだわる古代人の特性があったとしても、特定の地点が広範囲に幾何学的に分布するというのは偶然だ」と考えるのは無理のない自然なことです。

    このような考えに対して反論するならば「偶然よりも高頻度で籠目の近傍に立地する」ということを証明しないとなりませんが、図7程度の規則性では説得力がないのも事実です。

    実際に図7の子午線や同緯度線は図1、2のものとあまり一致せず、筆者の期待した結果となりませんでした。


    「諏訪大社基準の籠目」が期待外れに終わった要因

    そのような結果となった要因を考えると、「各拠点の設置経緯」という要因が浮かび上がってきます。

    図8:対象となる神社などの拠点

    「国内の神社などの拠点が、地理的に幾何学的に規則的に配置されている」というのが筆者の主張ですが、この主張の元データとして作為が行なわれないよう、一定の基準でプックアップしたのが図8に示す拠点になり、既出の図やグーグルマップにもプロットされています。

    図8のマップ上の各拠点は第38回にも示した通り「式内大社、律令国国府推定地、律令国総社推定地、律令国国分寺推定地、律令国一宮等推定地、元伊勢伝承地」であり、時の政府=大和朝廷によって設置されたものがほとんどでしょう。

    筆者は元伊勢伝承は箸墓古墳と同時期と考え3世紀頃と想定しています。

    律令制は8世紀ごろからですので、「3世紀~8世紀に大和朝廷によって設置された、あるいは、追認された拠点」が図8の拠点ということになります。

    対して「諏訪大社基準の籠目」と一致する拠点はどういった経緯を持つか考えてみましょう。

    「諏訪大社基準の籠目」の中心点である諏訪大社は建御名方命を祭神としています。

    日本神話の大国主の国譲りにおいて、建御名方命は天津神のトップである天照大御神の要求に抵抗する勢力で、言わば「敗軍の将」にあたります。

    現代にまでに至る皇統は天照大御神の子孫で、古代の天皇に属する政体が大和朝廷ですから、神話が古代の出来事の仮託であるとするなら、建御名方命を祀る集団と(より古い時代の)大和朝廷とは対立関係にあったと言えます。

    そうだとすれば、「諏訪大社基準の籠目」と「大和朝廷によって設置された拠点」が一致しないというのは当然あり得る話です。

    そうすると「諏訪大社基準の籠目」の例では、「大和朝廷によって設置された拠点」と元々あまり一致しないケースについて調べていたことになります。


    「諏訪大社基準の籠目」以外の籠目探し

    これは良くありません。「大和朝廷によって設置された拠点」のデータを使って「大和朝廷の籠目」を探す必要があります。

    ここで疑問なのは、そもそも「大和朝廷の籠目」があるのか?というところです。
    (※まだ「諏訪大社基準の籠目」しか発見できていなかった時点の話です)

    図7のように子午線や同緯度線以外に寅申線、辰戌線を含む籠目の線上に拠点が配置されているというのは諏訪大社を中心とした拠点の配置において見られたもので、「大和朝廷によって設置された拠点」でこのような配置になるという保証はまだありません。

    しかしながら、寅申線に列ぶ配置は図9や図10のような例もあり、図1や図2のように子午線や同緯度線に直線的にならぶ例がありますので、「大和朝廷の籠目」があるとと仮定して探してみることにしましょう。

    さらにその「大和朝廷の籠目」が「大和朝廷によって設置された拠点」と良く一致するのかどうか確かめてみたいと思います。

    図9:神武天皇陵周辺の方位線

    図10:西日本の方位線

    おわりに

    本題は「大和朝廷の籠目」なのですが、解説が長くなりそうなので、ここで分割します。

    前回と同じような内容になってしまい申し訳ありませんが、順を追って説明していますので、しばらくお付き合いください。

    次回は「大國魂神社の籠目」の導出経緯について説明します。

    早めに投稿しますので、しばらくお待ちください。


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