閉じる
閉じる
×
先日、米ホワイトハウスが、ゲームの有害性を訴えるとして、ゲームの暴力的場面だけを集めた動画をYouTubeにアップするという事件がありました。米NPO「Games for Change」はこれに対抗してゲームの美しい場面を集めた動画を公開して、ゲームファンの称賛を集めたそうです。
まあ背景には、この手の事件のたびに銃規制論が盛り上がるので、そのスケープゴートとしてゲームを槍玉に上げる必要が出て来るというアメリカの事情があるわけですが、その辺はおいといて、日本でもゲームや漫画アニメ等の有害論は後を絶ちません。
こういった若い文化、見慣れない文化への攻撃は大昔からあるもので、中国でも孔子が2000年前に堕落の元だと有害論をぶちあげたのは「異民族の音楽」でした。ずっと下って明の時代などにも、白話小説(当時の口語体の小説のこと。水滸伝や西遊記なども含む)が同じような攻撃を浴びていました。
こういうゲーム有害論的な話になってくると、ゲーム支持者側からこういった意見が目立ちます。
「ゲームが犯罪を助長するなんて科学的統計に反している」
「無菌状態で育てても結局は子どものためにならない」
「子供の頃ゲームを禁止されて育って大人になってからゲーム狂になった人も大勢いる」
つまり、ゲーム(でも漫画でもアニメでも)を禁止しても子どものためになんかならない、という主張ですね。
で、そういう主張をする人たちに聞きたいんです。
「で、今まであなたがそれを教えた結果、『改心』した人がいましたか?」
おそらくいないのではないでしょうか。
それらの意見は、決して間違ってはいません。ですが決して、彼らの心に響くこともありません。理屈や科学で「ゲーム規制・禁止は子どものためになることではないんだよ」といくら教えてあげても、彼らが心を改めることはないのです。
なぜか。
「子どものためにならなかったとしても、彼らにとってどうでもいい」からです。
嫌ゲーム者は「子どものためを思って」「子どもが心配だから」「子どもにこんなものをさせられない」と言います。しかし、それは口先だけです。彼らが”子どもを持つ親”であったとしても何の違いもありません。
ゲームから逸れますが、子どものためを(本心でなく)標榜してメディアに圧力を掛けたことがはっきりしている例を挙げましょう。
ですがこれは、弁護士が「嘘ついてメディアに圧力掛けました」と堂々と書き、お仲間はそれを批判するどころか、一般に売っている本の中で「嘘の理由を言わないと不利だったワタシたち被害者!」と堂々と嘆いている内容です。
もしこのブロマガを読んでいる方に、北原みのり氏や田中早苗氏が嫌いだという人がおられるなら、攻撃にこの部分を引用して使えるかもしれませんね。あるいは拡張して「だからフェミは信用できない!」「だから女は信用できない!」などとやるのもアリでしょう。私の関知するところではありません。
なんにせよ、ばらまいた武器が使われるのを見るのは楽しいものですからねw
話がそれましたが、とにかくこのように「子どものために」「子どもに見せられない」という言葉は、本心を隠して便利に使われるものであるのです。
では、ゲーム有害論の場合、彼らの本心は何か。
彼らの場合は本当に子供への愛――ではありません。子供を心配する気持ちが強いあまりに、ゲーム有害論のような非科学的な話にも動揺してしまうのではありません。
彼らの本当の望みは、「自分は凡百の親とは違う『特別意識の高い親』でありたい」という、自己愛なのです。
ようするに個性的であろうとして中高生が奇矯な格好をしたり(いわゆる中二病)、若いビジネスマンが同僚より優れているように見せようと和製英語を多用したり(いわゆる意識高い系)するのと同じように、「アタクシは他と違うから俗悪なゲームなんか我が子にさせないザマス!」になるわけです。ただそれだけです。
仮にその結果、彼らが子育てに失敗したらどうなるでしょう。
反省するでしょうか。いいえ。単に「本人が勝手に道を踏み外した」などと、自分が責任感を負うことからは回避するだけに決まってます。
こういうと「家族愛」「子どもを持つ親」を神聖視する人々から、目をむいて反論が来るでしょう。
「そんなはずがない! 子どもを心配しない親などいるもんか! ネットでだって『もし私の子が殺されたら自分で犯人を殺す』みたいな書き込みを見るじゃないか!」
いや、しませんよそんなこと。
自分の子が殺された親の復讐殺人なんてキャッチーなもんがあったら、マスコミにせよネットにせよ、その度に大喜びで騒ぎ立てるに決まってるじゃないですか。
しょうもない理由での殺人事件というのは、実際にあります。
隣のピアノの音がうるさかったから。ゲートボールの判定で揉めたから。知人が自転車に乗っているのを見掛けて乗れない自分への当てつけだと思ったから……いや本当に、こんな事件あったんですよ?
でも、家族を殺されての復讐殺人なんてまずありませんよね。
人間はしょうもない理由で、刑罰の報復に対する恐怖をのりこえて殺人を犯すことがあります。ですが、家族を殺された恨みは、そのしょうもない理由にさえ及ばない程度の動機なのです。
家族なんて、所詮そんなもんです。
にもかかわらず「家族」が神聖化される理由は、家族愛をアピールしてみせることが「自分自身の善良さアピール」に繋がるからでしかありません。
ゲームを擁護する多くの人は、そこを間違えているのです。
ゲーム有害論は、子どもたちを心配するあまり起こる都市伝説ではありません。単に「自分は意識の高い親である」と思いたい”ナルシスト達の集合体”による都市伝説に過ぎないわけです。
SF作家、山本弘氏に『ニセ科学を10倍楽しむ本』という著書があります。主人公である「パパ」の家族やその友人との会話形式で、ニセ科学を信じているキャラクターを論破しながらニセ科学について解説していくという本なのですが、これにも「ゲーム有害論」が疑似科学の一つとして出て来ます。
ゲーム有害論の章では、「信者」役として出て来るのは主人公の義母、つまりゲームをやっている子供たちの「おばあちゃん」です。トンデモ本である森昭雄『ゲーム脳の恐怖』などを題材に取り、ゲームに偏見を持つこの祖母を説得していく形で話は進みます。
ところがこの本にも、ひとつ極めて現実的でない部分があります。
それは「論破された『おばあちゃん』がゲームへの偏見を反省し、改心する」という展開です。実際には、嫌ゲーム者やゲーム規制論者にそんなことは起こり得ません(もちろん、そんなところのリアリティを追求する本ではないですが)。
では、どうすればいいのか。
ゲーム嫌いの”子どもを持つ親”達の本音が自己愛であるなら、その自己愛を突けばよいわけです。
要するに、ゲーム有害論を信じることが「ダサい」ことであるというイメージを広めればいいわけなんですね。
ただ、この稿で筆者が言ったことをそのまんまゲーム有害論者にぶつけることも有効とは思いません。というのは、筆者は「どの親も子供のためなんか大して思っていない」と言っているからです。
「たとえ私が子どものことをちゃんと考えてなくても、でも皆そうじゃないか!」という安心感をゲーム有害論者に与えることは、おすすめできないからです。
むしろ、子どものためにきちんと勉強して有害論などに騙されない親たちは沢山いる(ことにする)、それに比べてお前はなんてクズ、と、他者と比較して差別的に罵った方がはるかに「効く」わけです。
すなわち、『ゲーム有害論者差別』を社会的に創っていくことが大事だと思うのです。
まあ背景には、この手の事件のたびに銃規制論が盛り上がるので、そのスケープゴートとしてゲームを槍玉に上げる必要が出て来るというアメリカの事情があるわけですが、その辺はおいといて、日本でもゲームや漫画アニメ等の有害論は後を絶ちません。
こういった若い文化、見慣れない文化への攻撃は大昔からあるもので、中国でも孔子が2000年前に堕落の元だと有害論をぶちあげたのは「異民族の音楽」でした。ずっと下って明の時代などにも、白話小説(当時の口語体の小説のこと。水滸伝や西遊記なども含む)が同じような攻撃を浴びていました。
こういうゲーム有害論的な話になってくると、ゲーム支持者側からこういった意見が目立ちます。
「ゲームが犯罪を助長するなんて科学的統計に反している」
「無菌状態で育てても結局は子どものためにならない」
「子供の頃ゲームを禁止されて育って大人になってからゲーム狂になった人も大勢いる」
つまり、ゲーム(でも漫画でもアニメでも)を禁止しても子どものためになんかならない、という主張ですね。
で、そういう主張をする人たちに聞きたいんです。
「で、今まであなたがそれを教えた結果、『改心』した人がいましたか?」
おそらくいないのではないでしょうか。
それらの意見は、決して間違ってはいません。ですが決して、彼らの心に響くこともありません。理屈や科学で「ゲーム規制・禁止は子どものためになることではないんだよ」といくら教えてあげても、彼らが心を改めることはないのです。
なぜか。
「子どものためにならなかったとしても、彼らにとってどうでもいい」からです。
嫌ゲーム者は「子どものためを思って」「子どもが心配だから」「子どもにこんなものをさせられない」と言います。しかし、それは口先だけです。彼らが”子どもを持つ親”であったとしても何の違いもありません。
ゲームから逸れますが、子どものためを(本心でなく)標榜してメディアに圧力を掛けたことがはっきりしている例を挙げましょう。
弁護士の田中早苗さんは、「嫌ポルノ権」という言葉を使って、公共の場の「ピンク広告」について去年の弁護士連で調査報告をしている。筆者はフェミニズムが嫌いではありません。むしろ(男から女への)「家族愛」などの陶酔に水を差してくれる場面では大好きと言ってもいいでしょう。
(中略)
「ポルノ表現が女性差別である、という風に訴えていたら、きっと時間がかかったでしょうね。今回の規制をかける時に、私は意図的に子供に見せることができない、という風にしたの。そうでなければ、なかなか変わらない。」
女性差別である、という訴えがまず通らないこの国。
そのために、子供に見せられない、という一見保守的とも思える言説を利用しなくてはいけないのだという。
(北原みのり『フェミの嫌われ方』)
ですがこれは、弁護士が「嘘ついてメディアに圧力掛けました」と堂々と書き、お仲間はそれを批判するどころか、一般に売っている本の中で「嘘の理由を言わないと不利だったワタシたち被害者!」と堂々と嘆いている内容です。
もしこのブロマガを読んでいる方に、北原みのり氏や田中早苗氏が嫌いだという人がおられるなら、攻撃にこの部分を引用して使えるかもしれませんね。あるいは拡張して「だからフェミは信用できない!」「だから女は信用できない!」などとやるのもアリでしょう。私の関知するところではありません。
なんにせよ、ばらまいた武器が使われるのを見るのは楽しいものですからねw
話がそれましたが、とにかくこのように「子どものために」「子どもに見せられない」という言葉は、本心を隠して便利に使われるものであるのです。
では、ゲーム有害論の場合、彼らの本心は何か。
彼らの場合は本当に子供への愛――ではありません。子供を心配する気持ちが強いあまりに、ゲーム有害論のような非科学的な話にも動揺してしまうのではありません。
彼らの本当の望みは、「自分は凡百の親とは違う『特別意識の高い親』でありたい」という、自己愛なのです。
ようするに個性的であろうとして中高生が奇矯な格好をしたり(いわゆる中二病)、若いビジネスマンが同僚より優れているように見せようと和製英語を多用したり(いわゆる意識高い系)するのと同じように、「アタクシは他と違うから俗悪なゲームなんか我が子にさせないザマス!」になるわけです。ただそれだけです。
仮にその結果、彼らが子育てに失敗したらどうなるでしょう。
反省するでしょうか。いいえ。単に「本人が勝手に道を踏み外した」などと、自分が責任感を負うことからは回避するだけに決まってます。
こういうと「家族愛」「子どもを持つ親」を神聖視する人々から、目をむいて反論が来るでしょう。
「そんなはずがない! 子どもを心配しない親などいるもんか! ネットでだって『もし私の子が殺されたら自分で犯人を殺す』みたいな書き込みを見るじゃないか!」
いや、しませんよそんなこと。
自分の子が殺された親の復讐殺人なんてキャッチーなもんがあったら、マスコミにせよネットにせよ、その度に大喜びで騒ぎ立てるに決まってるじゃないですか。
しょうもない理由での殺人事件というのは、実際にあります。
隣のピアノの音がうるさかったから。ゲートボールの判定で揉めたから。知人が自転車に乗っているのを見掛けて乗れない自分への当てつけだと思ったから……いや本当に、こんな事件あったんですよ?
でも、家族を殺されての復讐殺人なんてまずありませんよね。
人間はしょうもない理由で、刑罰の報復に対する恐怖をのりこえて殺人を犯すことがあります。ですが、家族を殺された恨みは、そのしょうもない理由にさえ及ばない程度の動機なのです。
家族なんて、所詮そんなもんです。
にもかかわらず「家族」が神聖化される理由は、家族愛をアピールしてみせることが「自分自身の善良さアピール」に繋がるからでしかありません。
ゲームを擁護する多くの人は、そこを間違えているのです。
ゲーム有害論は、子どもたちを心配するあまり起こる都市伝説ではありません。単に「自分は意識の高い親である」と思いたい”ナルシスト達の集合体”による都市伝説に過ぎないわけです。
SF作家、山本弘氏に『ニセ科学を10倍楽しむ本』という著書があります。主人公である「パパ」の家族やその友人との会話形式で、ニセ科学を信じているキャラクターを論破しながらニセ科学について解説していくという本なのですが、これにも「ゲーム有害論」が疑似科学の一つとして出て来ます。
ゲーム有害論の章では、「信者」役として出て来るのは主人公の義母、つまりゲームをやっている子供たちの「おばあちゃん」です。トンデモ本である森昭雄『ゲーム脳の恐怖』などを題材に取り、ゲームに偏見を持つこの祖母を説得していく形で話は進みます。
ところがこの本にも、ひとつ極めて現実的でない部分があります。
それは「論破された『おばあちゃん』がゲームへの偏見を反省し、改心する」という展開です。実際には、嫌ゲーム者やゲーム規制論者にそんなことは起こり得ません(もちろん、そんなところのリアリティを追求する本ではないですが)。
では、どうすればいいのか。
ゲーム嫌いの”子どもを持つ親”達の本音が自己愛であるなら、その自己愛を突けばよいわけです。
要するに、ゲーム有害論を信じることが「ダサい」ことであるというイメージを広めればいいわけなんですね。
ただ、この稿で筆者が言ったことをそのまんまゲーム有害論者にぶつけることも有効とは思いません。というのは、筆者は「どの親も子供のためなんか大して思っていない」と言っているからです。
「たとえ私が子どものことをちゃんと考えてなくても、でも皆そうじゃないか!」という安心感をゲーム有害論者に与えることは、おすすめできないからです。
むしろ、子どものためにきちんと勉強して有害論などに騙されない親たちは沢山いる(ことにする)、それに比べてお前はなんてクズ、と、他者と比較して差別的に罵った方がはるかに「効く」わけです。
すなわち、『ゲーム有害論者差別』を社会的に創っていくことが大事だと思うのです。
広告
コメントコメントを書く
他27件のコメントを表示