HitoShinkaが原作との落差世界一のクソ映画をレビュー(1)
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HitoShinkaが原作との落差世界一のクソ映画をレビュー(1)

2018-06-20 08:55
    『デビルマン』(2004年版)だと思った人、正直に手を挙げなさい。
     はい、正直でよろしい。残念ながら今回取り上げる作品はそれではありません。『ドラゴンボールEVOLUTION』でも、もちろん『エアベンダー』でもありません。

    『ネバーエンディングストーリー3』
     筆者はこれが、原作との落差という意味では世界一のクソ映画であろうと思っています。
     理由としては

    1. 原作が神作中の神作である。
    2. おおまかに原作の前半が1作目、後半が2作目に当たるという構成であり、3作目は勝手な話をでっちあげている。
    3. その話が酷い。
    4. その話がしょぼい。
    5. その話が原作設定無視である。
     が挙げられます。
     有名な話ですが、この映画シリーズには第1作目にして、原作者が非常に不満を持って訴訟を起こしたというエピソードがあります。
     単品で見れば、第1作目は及第点をつけられるファンタジー映画でした。というか十分良作でした。原作で描写されていたファンタジー世界を、上映時間と当時の映像技術の許すかぎり、映像で表現しようとしていました。キャストが滅茶苦茶大根でもありませんでしたし、脚本も(2や3との整合はともかく単体では)矛盾だらけなわけでもありませんでした。セットやメイクも丁寧にされていたと思います。
     それにもかかわらず原作者が訴訟を起こしたのは、映画版が削ったり改変したりした部分こそが、原作『はてしない物語』の一番骨格となる設定であり、なおかつその部分こそが、作者が原作に込めたメッセージだったからなのです。この問題について詳しくは、ホッケらの『「はてしない物語」事典』の「映画」の項が分かりやすくまとめています。
     
     ここでは一部だけ紹介します。
     たとえば原作では、ファンタージエンのものは決して人間界に出て来ることはできないとされています。
     だからこそ虚無に浸食され消えつつあるファンタージエンを救う使命を負った少年アトレーユは、救いである人間のところに絶対に辿り着けないにもかかわらず、そうとは知らされずファンタージエンの中を彷徨わなければなりませんでした。現実世界の人間の子に本を読み進めさせ、ファンタージエンの危機を伝えるためには、その本のなかで冒険が起こることが必要だったからです。よくあるように使いのだれかがポンと人間界に出てきて「お願いバスチアン!ファンタージエンを助けにきて!」というわけにはいかないのです。このアトレーユの旅の部分が原作前半であり、これを元にしたのが映画の1作目です。
     そして原作後半、ファンタージエンに来てからの主人公であるバスチアンは、その想像力によって新しい物語を供給するという役割を得ます。ファンタージエンを虚無から救うとはそういう意味です(新しい物語を作るのですから、映画の様にオープニングと同じ姿で復活するのではありません)。彼が新しい物語を考えること=ファンタージエンでそれが実際起こるということであり、平たくいえば願い事が叶うのです。作中ではアウリンというメダル型のアイテムに願うことでそうなります。1つとか3つなどとケチ臭いことも言わず、バスチアンが多くの願うたびにどんどん願い事は叶えられていきます。
     しかし願い事は、彼の人間界での記憶を引き換えにしていたのです。ファンタージエンを虚無から救った救世主は、願いごとを続けることでファンタージエンに数多の新しい物語をもたらしますが、それによって全ての記憶を失う前に、人間界に帰らなければなりません。
     さもなければ記憶も知性も想像力も失い、”元帝王たちの都”でただ文字を出鱈目に組みかえて遊び続けるだけの無限の猿と化すのです。どんなファンタジーも人間の現実の記憶をもとに創造されるものだからです。

     これらの、そもそもアトレーユやバスチアンがなぜ困難な冒険をしなければならないのかの根幹にかかわる設定に、作者のメッセージが込められているわけです。
     ファンタジーは人間の精神生活を豊かにするものであり忘れてはならないが、かといってファンタジーに耽溺しすぎて現実を忘れることもあってはならない。またファンタジーは、現実を直接なんとかしてくれるものでもない。あくまで現実は現実として立ち向かわなければならない。そういう信念が『はてしない物語』の設定と絡み合っています。
     この信念からすれば、本の中からドラゴンが出てきていじめっ子たちをやっつけてくれるなどという1作目の《ハッピーエンド》はもっての外なのです。

     2作目では、原作の設定がさらに無視されます。

     古本屋にいるバスチアンに対して、本の中から声が聞こえてバスチアンを直接呼んでくれるのです。じゃあアトレーユの冒険要らんかったやん。
     そしてファンタージエンに虚無が出て来ていることも、アウリンで願い事が叶うことも前作で言われていたのに、バスチアンはまるで初めて聞いたように説明を受けています。
     さらにバスチアンが虚無に対して「虚無」と名前をつけるシーンまであります。
     繰り返しになりますが、ファンタージエンが虚無に飲まれるというのは、物語そのものが消えるということです。だからこそ物語の外の世界の人間に助けを求めなければならなくなるのです。しかしバスチアンがファンタージエンのものに名前を付けるというのは、物語を作る行為です。そうすると虚無=「物語・ファンタジーがなくなってしまうこと」という設定が根本から崩れてしまい、物語の悪役つまり立派な構成物のひとつになってしまいます。
     実際、映画2では記憶の問題も虚無の問題も、魔女サイーデを倒せば解決したことになってしまいます。しかし、一応は「バスチアンが願い事をすると記憶が引き換えになる」というリスクが描かれており、原作とは違うながらも設定と絡めた問題解決も用意しています。

     ともあれ、バスチアンは2のラストで再び人間世界に帰ってきました。
     その1年半後――


     という設定で取ってつけられた後日談が
    『ネバーエンディングストーリー3』
     なわけです。

     では見ていきましょう。
     バスチアンのお父さんは再婚し、バスチアンにはニコールという新しい妹と、シュワちゃん似の新しいお母さんができました。


     そして義妹ニコールは、別に萌えゲーではないので無条件に慕ったりはしません。
     そもそもバスチアンは原作からすでに内向的で本に傾倒しがちな少年、いわゆるギークです。アメリカンティーンエンジャーの妹が友達に自慢できるイケてるお兄さんとは対極にあるタイプ。初めて一緒に学校に行く兄のファッションがご不満な様子。
    字幕
    (ニコール)そんな格好で学校へ?
    (バスチアン)なんで?
    (ニコール)超だもの
    (バスチアン)超?
    (ニコール)超ダサい 超イモい 超カッコ悪い
          超よ
    (バスチアン)超か
           超でキメる
     なんだこの会話。
     いや本当にこうなっています(カッコは筆者)。超なんなんだよ。
    日本語音声版
    (ニコール)その格好で学校にいくつもり?
    (バスチアン)なんで?
    (ニコール)それダサいよ
    (バスチアン)ダサい?
    (ニコール)そんな恰好で何よダサいに決まってるでしょ! 何よ、もう!
    (バスチアン)ダサい……なるほど
     うんこっちなら解る。字幕何があった。
     ともあれバスチアンは付け焼刃ながら妹のため、ファッションを超でキメ直しました

         ありし日のバスチアン(1作目)⇒

     超に続く言葉は「サイヤ人」だったようです。
     しかしあまりにも超だったためか、バスチアンは転校早々、校内の不良グループに目をつけられてしまいました。
     彼らが今作の敵です。


     はい今回の敵は「学校の不良グループ」なんです。
     世界を消し去る虚無でも、奸智に長けた魔女サイーデでも、邪悪な巨竜スメーグでも奈落の群集者イグラムールでも人狼グモルクでも闇の奥方ガヤでもなく、不良グループ(5人)です。
     彼らがこの『はてしない物語』映画3部作のラスボスということになりました。
     用務員さんに退学をちらつかされて普通にビビってるあたり、見た目ほども突き抜けた無法者でないのが泣けてきます。

     彼らに追っかけられたバスチアンは、図書室にあった「はてしない物語」を開きました。そして本を開いて「僕をファンタージエンへ!」。
     原作ではファンタージエンに行く者は、新しい物語の創造者となるために”女王幼ごころの君”につける新しい名前を唱える、という必要がありました。しかし今作では「行きたいと言えば行ける」――お手軽になったものです。
     
     さて、ファンタージエンといっても広大です。
     バスチアンがワープしたのは、ある森の中で、そこで小人の家を踏み抜いてしまいます。
     1と原作に登場したエンギウック博士とウーグル婆さんです。エンギウックは”南のお告げ所”の研究者、ウーグルは医術や薬草学に長けており、アトレーユにおいて重要なアドバイスと治療を施してくれた地霊小人(今だと「ノーム」と言った方が通りが良いでしょうか)の夫婦です。上述『「はてしない物語」事典』によると、「かつては男性と女性にそれぞれ割り当てられていた2つの知識のタイプをあらわしている」そうです。彼らは夫婦隠者と呼ばれており、その呼び名は原作で一章のタイトルにまでなっています。
     ですが今作においてその知恵は見る影もなく、ただの爺さん婆さんと化しています。

     しかしエンギウックは家を踏み抜いた不届き者がバスチアンであると気付きます(彼がその知恵を発揮する唯一の場面かもしれません)。
     バスチアンはエンギウックの記述を「読んだこと」があるだけで、1でも2でも原作でも彼に会った描写はないのですが……そこは画面外で会ったと脳内補完しましょう。

     そして人間界で本は開いたまま図書室にほっぽらかしてあるわけですが、それを不良たちは見つけてしまいます。
    (不良ボス)やつが この本を読んで思い通りにできるなら
          俺たちの思い通りにもなるはずだ
     というわけでファンタージエンを彼らは荒らし始める――具体的には森の中を火花が飛びまわったり天気が悪くなったりする――のですが、彼らはファンタージエンにやってこないし、本に何かを書き入れているわけでもありません。
     ただ彼らが本を持ってドヤ顔で笑っていると、具体的に何もしなくともなぜかファンタージエンを火花が飛び散るという雑な悪描写となっております。

     さてバスチアンは、そしてファンタージエンの人々はこの事態にどう立ち向かうのか?
     全世界の人々が愛するファンタジー最高傑作のひとつ『はてしない物語』――その映画3部作の最後の冒険が、いま始まる(無責任な盛り上げ)!!



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