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言葉はつぎつぎ死んでいく
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言葉はつぎつぎ死んでいく

2021-03-04 21:57
  • 9

ある言語文化というものは、その言語のネイティブよりも非ネイティブの方が、当該言語が織り成す文化の特徴や性格について敏くある、ということがまま見受けられるらしい。

「日本人より日本人らしい」という賛辞が外国人(非ネイティブ)に贈られる光景は、まさにそういうことであると思う。

といっても考えてみれば当たり前で、あるものの美しさを認識するには、そのものに対して客観的な目線を持てる立ち位置が必要で、つまり日本語の美しさを把握するには、日本語からある程度遠い距離を獲得できる外国語話者の方が、日本語しかできない人よりもより有利なのである。

カナダ出身のマルチリンガルの落語家、桂三輝が、日本語の美しさの真髄は敬語表現にある、というふうなことをとあるインタビューで語っていた。

日本語は表現が長くなればなるほど丁寧になる、短くなればなるほど失礼になる、というのは当人のネタにもなっているが、そのインタビューで彼が例に挙げていた言葉は「お足元の悪い中お越しいただき恐れ入ります」というもので、そこでは言葉の長さよりもむしろその視点の繊細さに言及していた。

相手の足元に目線を落とし、そこに言及して感謝の念を申し上げるというのは、英語にはない日本語独特の繊細な意識の発露である、その繊細さがほんとうに美しい、と言う。

*********

日本で舗装が生活道路にまで普及するのは戦後の高度経済成長期を待たねばならなかった。

それまでは、生活道路どころか国家の背骨たる幹線道路までがほとんど砂利道という有様で、自分が学生の時分には「道路族」云々という政治の話題もあまり喜ばしい場面ではなかったのだが、そもそもの始まりを言えば、ほんの少し前まで劣悪な道路事情の改善は胡散臭い利権談合ではなく、遥かに真摯な政策課題だったのである。

戦後でさえそうなのであれば、落語が成立した江戸時代の下町などは言わずもがな、道路はほとんどすべてがよくて砂利道、下手をすれば畦道で、雨が降ればたちまち一面泥である。雨天時の歩行は劣悪を極め、足元を泥まみれにせずに済むのは馬上の身分か籠を常用する旦那衆ぐらいだったろう。

だから、雨の中、わざわざ外出して寄席にやってくる町民らの足元は、きっと泥にまみれていたはずである。

それこそ、感謝の言葉がでるのは当然ではないか。

つまるところ桂三輝が心を揺さぶられた「お足元の悪い中・・・」という長い言葉には、社交辞令ではない、もっと現実に迫った労いと感謝の意味が宿っていたということである。

しかし現代の私たちにとってその言葉は単に、ちょっとフレーズの長い定型句という以上の意味と感動を持たない。

現代の私たちが「お足元の悪い中・・・」と語り掛けるとき、別に本当に相手の濡れた足元を気遣っているわけではない。

排水の利いた舗装道路が網羅されている現代の都市交通システムの環境下であれば、雨天であっても足元が泥でまみれるような不快はまずなく、したがって、雨天の外出に同情するほどの事情はないのである。

だから件の言葉にも、単に本題に入る前の会話のストレッチとして天気の話題に触れた程度の意味合いしかないし、場合によってはそれすらなく、マイクテストと変わらなかったりする。

いま、日本語社会における敬語は、単に字面の整合性や定型としての正誤しかほとんど問題にされておらず、本心や真摯さというものが完全に抜け落ちていて、ハリボテ同然と化している

「世の中全体が、乾いた必要な言葉さえあれば人間なんて生きていけると証明しあっている時代は嫌だ」と作詞家の阿久悠が語ったのは90年代のことだったらしいが、経済的繁栄を通して、日本語社会が合理性と秤にかけた言葉の真摯さを、人間を歯車として経済を回す分には必要ないものとして放棄してきたことがよく分かる。

合理的な軍人言語が社会に浸透しきったのもそうで、商人や町人の長たらしい気遣いのある言葉を忌避した軍人たちは、もっと切り詰めた合理的な言語空間を作り出して、「~であります」的な、相手に対する気遣いが存在しなくても成り立つ言語体系を作り上げた。

どうやらその言語体系は戦時中の大量徴兵によって一般社会にも浸透し、戦後は軍隊的風土を引き継いだ企業や学校の体育会系社会に根を下ろしたように見受けられる(企業や役人や政治家が記者会見で口にする敬語などはまさにその典型でなかろうか)

言葉から真摯さや切実さが骨抜きにされた結果、私たちは、本当に死ねと思っていなくても気軽に「死ね」と言えてしまえる社会に生きている。

そういった、言葉の人間としての基礎が抜け落ちたというか、液状化したというか、とにもかくにも「なんでもあり」な状態になってしまったとき、社会はどうなるかというと、言葉はただ単に耳障りの良い表面的なキャッチーさだけを追求したり、ひたすら刺激だけに流れていったり、あるいは言葉の実態が失われたことにかこつけて、言葉の表面だけを摘まみ上げて揚げ足取りに汲々としていくこととなる。

*********

敬語が本来の使われ方をしなくなった時点で、日本語は次第に死んでいっているのでなかろうか。

その結果、カカシのような新語が百円均一めいて大量生産され、そして生まれたそばからつぎつぎと死んでいく。それについていくので人々は精一杯である。

自分が若いころは「日本語の乱れ」というものが盛んに言われていたが、昨今はあんまり聞かれなくなった。

もしかしたら、日本語ってのはあっさりと死んでしまったのかもしれないね。

<了>

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ネットスラングに当てはまってて耳が痛いと思った(小並)
1ヶ月前
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星リン兄貴オッスオッス!

兄貴の文章読んでいたら思い出したんですけど、都立中高一貫校の入試に個性をみるため作文が用いられだしたのに、同じ型の作文だらけになっていたんですけど、自分の言葉はどこ…ここ? 都立中高一貫校は社会リーダーをつくるのが目的らしいですけど、量産型ばっかじゃねえかよお前ん家ィ!

そういえば、人類の言葉の発明って共感能力の発達によって脳が増大化したから可能だったらしいですよ。そう考えると、共感力は大樹の根であり、言葉はそこから芽吹いたものなんすね。
だとしたら芽が腐った時に疑うべきものに根がありますけど、これって星リン兄貴が書いていた「言論の塹壕戦」も繋がってるんだと思うんですけど(迷推理)

まあ、語録使ってる自分がツラツラここまで言えたことじゃないって、それ一番言われてるから。
1ヶ月前
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言語は生き物であるという観点からすると死ぬことはないと思う。
別の形態に変化するのみで、それを死とみなすこと自体が「正しい日本語」とか「美しい日本語」という主観による誤謬だと思う。
一方で例に挙げられている日本語から変化する(した)ということを「日本語の死」と定義するのであればその通りだとは感じるところはある。
ただ自分としては「美しい日本語」等というのはとどのつまり主観の中にしか存在せず、現状の日本語を憂うのは前者の日本語のほうが優れているという立場の意見であり、ある種の傲慢さも感じる。
長々と書いてきたが最後に自分は日本語が死んだと感じたことは一度もなく、もしそう感じるのであればそれは青春時代への憧憬に近いものだろうと考えている。
1ヶ月前
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日本語が生きていたころを知らなければ死んだことには気づかないと思う。

自分も死んだ日本語しか知らなかったけど、今回みたいにふとしたとこから日本語が生きていたころの残り香的なものに出会ってそのことにようやく気付いただけなんだよね。

まぁ、「時代によって変化して当たり前」ってのはなんにでも応用できる楽な言い訳と合理化で、なんでもかんでもそうやって正当化してきた結果こうなっちゃったのがいまの時代だなって話だな?
1ヶ月前
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>「時代によって変化して当たり前」ってのはなんにでも応用できる楽な言い訳と合理化
「時代によって変化して当たり前」は事実である以上、言い訳でも合理化でもないのではないだろうか。
社会について論ずるならば、むしろ自分は「時代によって変化して当たり前」ということから目をそらし続けてきた結果がいまの日本ではないかと考えている。
産業では時代がハードからソフトへ移行しているにもかかわらず、日本式経営を続けた結果国際競争力を落とし、政治では旧時代的な価値観を持つ自民党が長期政権を握っている。
そしていまだに新卒一括採用や文系理系の給与テーブルが同じなど、改善しようとする気配もない。
もはや日本は経済大国ではなくなりつつある(すでにないのかもしれない)。
このような現状を鑑みるに、変化して当たり前であるといったことすら理解しようとしない、つまり現実を直視しないということ、これこそがいまの時代を作ったのではないだろうか。

>日本語が生きていたころを知らなければ死んだことには気づかないと思う。
これはその通りで、言語の中で主観的に生きていると言語の変化には気づくことは難しいだろう。
4週間前
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Syamuさんの誕生日に記事をアップする俺オナ民の鑑
4週間前
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>つまるところ桂三輝が心を揺さぶられた「お足元の悪い中・・・」という長い言葉には、社交辞令ではない、もっと現実に迫った労いと感謝の意味が宿っていたということである。

星りんは本来であれば切実な想いが込められた言葉が形骸化して、単なる社交辞令と化していることを嘆いているけど、果たして「お足元の悪い中・・・」という言葉が社交辞令にすぎないこと"正確に"認識している日本人はどれだけ存在するんだろう
多分一定以上の日本人は「お足元の悪い中・・・」を桂三輝と同じように「この言葉は日本人にしかない繊細な感性が~」のような民族主義的な文脈で理解してるんじゃないだろうか
彼ら彼女らが共有するその文脈の中では「お足元の悪い中・・・」という言葉は、紛れもなく"生きている言葉"として認識されている

俺的には言葉が死んだことよりも、もう既に死んだ言葉を生きているかのように神聖視する日本人の方が気持ち悪いと思う(コナミ)
それならいっそ軍人言葉みたいな誰か見ても無機質とわかる言葉の方が素直な分好感が持てる
4週間前
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「お足元の悪い中~」って雪積もってたら普通に言う・・・普通に言わない?
みんなのところ冬でも雪そんなに積もらない?あっ、そっかぁ・・・(落胆)
4週間前
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増え続ける移民を考えれば日本語が使いやすく分かりやすく変化していくのは良いことでしょう
言葉使いで叱られる外国人を見ると、敬語も滅んじまった方がみんなにやさしい社会になるんじゃないかと思うんすよ
美しさが無くなるのはそりゃあ嫌だけど、ほとんどの人にとっては言葉は生きていくためのツールでしかないわけですからね…
2週間前
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